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2016年4月に作成された記事

2016/04/24

2016・4・24 新芽から新緑になった篇

P4190328コナラの新緑

一本の木の森
 
 毎年4月になると一つの行事に付き合っている。
OBとなった会社の新人教育である。
この日記でも何度か書いてきたけれど、今年も4月18日に出かけた。

 沼津に工場があって新人教育の一環が行われる。
ふうてんなどが駆り出されるのは(OBとの対話)というカリキュラム。
(DNA館)というコーナーがあり、10個以上のブースにこれまでの製品を展示している。

 そのブースで製品やパネルを観ながら新人諸君と製品開発の歴史を語り合うのである。
ふうてんの担当は(パソコン・コーナー)。
パソコンをやった仲間たちと分担して一人一日、4日間受け持っている。
5~6人の新人相手に話し合うこと40分ほど。
これを2ラウンドやる。

 国立の隠宅から沼津工場までは片道3時間。
JR南武線、東急東横線、JR横浜線、JR東日本新幹線、シャトルバスと乗り継いで3時間。
往復すると6時間。
これだけでも十分に疲れる。

 40分ほどの間、諸君の名前を聴いて、配属先を聴いて、自己紹介して、語り始める。
あんなことがあった、こんなことがあったというお話。
一通り説明した後、質問はないですか?何でも聴いてね。

 質問は大体3つに絞られる。
1.どうしてこの会社に就職したのですか?
2.どうしてこの製品を作ろうと思ったのですか?
3.この会社はこれから何をやればよろしいとお思いですか?

 まことに新人としては尤もな質問だといつも思う。
22、3歳の若い人たちである。
この会社でよかったのかなあ、これから仕事どうしよう、この会社どうなるだろう?
分からないことばかり。

 こちらはありのまま応えることにしている。
1.コンピュータは言葉を処理できる機械だ、に新鮮な感じを持ったから。
2.こんなパソコンが欲しいと思っただけ。
3.コンピュータによる情報処理の一点に集中すればよろしい。

 そして最後にいつも後輩たちにエールを送る。
(いい会社にはいったねぇ)
(情報処理産業はまだこれからで、当分続くよ)
(この会社にはいろんな仕事があってね)
(会社のためなんて考えずに、自分の一生の仕事を見つけて下さい)

 新人たちの眼は輝いている。
40分、2ラウンド、若い人たちのためになればと一生懸命に話す。
往復6時間の移動、2時間足らずの対話。
後で疲れがドッと出て、70歳になると一週間くらい疲れが残る。
しかし、こちらにも若いときがあったなあと思い出させてくれる行事でもある。

 (OBとの対話)というカリキュラムなのに55歳のころ、まだOBになる前から駆り出された。
というのはパソコンという事業は、今は当たり前になって、撤退する会社も多いのだけれど、始めたのもそんなに前ではない。
ふうてんなどの世代が最長老の事業なのである。

 今はパソコンは手のひらに乗るスマホになってしまった。
電車の中で観ると10人に8人くらいスマホを使っている。
(どうも最近の日本人はうつむき加減になっている)
などと、寺島実郎さんは冷やかしている。
スマホを使うとき、大抵の人はうつむきますわね。

 サイバー・テロを代表格として情報処理による犯罪も多発している。
詐欺、暴力、殺人などなどの犯罪に情報端末が大きな役割を果たす時代になった。
コンピュータという文明もこれまでの他の文明と同じ宿命を持っている。
楽あれば苦ありと古人は言った。
便利になった分、何かを失うのである。

 ペシミスティックなオポチュニストふうてんはあんまり心配しないことにしている。
その都度、対処法を考えるしかないじゃないの。
情報処理の問題点よりもギリシャ人がたどり着いた(真善美)の話でもしようよ。

 軍隊がどうだとか老人社会になって社会保障費をどうすんだとか。
そういう話しも無駄とは思わないけど、やっぱりねぇ。
その前に、
(人間は他の動物とどう違うのか)
(人間も他の動植物と同じ命を持った生き物ではないか)
(じゃあその人間にとっての真善美とは何だろう?)
なんて話に時間をかけたいなあ。

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2016/04/17

2015・4・17 フェアレディがパトカーになった篇

3フェアレディZ NISMO

パトカーになったと報じられた



Photoダットサン・フェアレディ
SR311
ロシナンテと同じ形


ZフェアレディZ

ロシナンテの後継車


Z_nismoそしてパトカーになった

  桜の花が終わったころ熊本で大地震が起こった。
NHKはずっとそれのニュースを続けている。
震度7というのは神戸大地震、東北大地震以来、3度目の大揺れらしい。
九州全域でみなさん大変な生活を強いられることになった。

 大分の別府には嫁はんの姉夫婦が住んでいる。
電話したところ、棚の上の置物が落っこちたくらいであるらしい。
そう女房どのから聴いて少しだけホッとした。
テレビの報道だと大分も大変だと聴いていたので。

 季節や世事とは全く関係ないのだけれど、フェアレディがパトカーになったらしい。
一ヶ月ほど前にそういうニュースが伝わってきた。
 

 パトカーと聴くと耳がピッと立つ。

これは16歳のときからバイクに乗り始めた記憶がもたらす生活習慣なのだろうか。

 パトカーとか白バイとかは道路を走っている乗り物(衆生)を監視する。
悪いこと(道路交通法違反)をしていないか常に眼を光らせている。
バイクや車で道路を走るこちらの監視役である。

 バイクにしろ四輪車にしろ、こちらも(模範的)とばかりは言えないバヤイもある。
例えば、夏の暑いときには突っ掛けでバイクに乗りたくなる。
これは禁止であるらしい。
ちゃんと(足)を保護する(靴)を履かねばならない。

 例えば、一口でもアルコール(酒)を口に含んで車を運転するといけない。
運転能力が大丈夫かどうかは関係ない。
アルコールを一滴でも体に入れて、吐く息から成分が検出されればアウト。
飲んでも時間がたって検出器をスルーできればセーフ。
判定はお巡りさんに任せるしかない。

 そういうことがいろいろと積もり重なってパトカーに、いい印象はない。
パトカーはお巡りさんの乗った(敵)である。
一般のドライバーはそう思っているに違いない。
人々から好かれない気の毒な職業ではある。
(お巡りさんすみません、敵にしちゃいました)

 16歳のときにバイクの免許をとって以来、いろんなのに乗ってきた。
白バイやパトカーにどういう車種が使われているか、には興味があった。
道路交通法違反を取り締まるのが役目だからヤワな車ではない。
その時々の日本の最高のオートバイ、最高の車が採用されてきたハズである。
最高というのは値段ではない。
運動性能と言ったらいいだろうか。
一番速く走れる。
一番速く方向転換できる。
一番速く止まれる。
エンジンもハンドルもブレーキも性能的には一番でなければならない。
そうでないと悪い奴らを取り締まることができない。
白バイやパトカーには(Police)だったか(Patrol)だったかの表記がどこかにある。
市販車ではなく特別な装備があり、チューンアップされているに違いない。

 白バイやパトカーとの(お付き合い)を話し始めるとキリがない。
代表例だけを紹介しておきたい。
まず、最初に白バイのサイレンが鳴ったのは大学一年の夏休みだった。
夏休み、伊予へ帰り、家庭教師のバイトをしていた。
バイクに教え子のお嬢さんを乗せて近くの道を走り始めた。
ウィ~ンというサイレンの音が後ろから追っかけてきた。

(横乗りは交通違反です)
と白バイの若者は言った。
教え子のお嬢さんはバイクの後ろの席に跨がらずに横乗りしていたのだった。
これが白バイやパトカーとの初めてのお付き合いとなった。
教え子のお母さんがビックリして、前科が残るとマジイと、もみ消しに奔走してくれた。

 京都でも一度パトカーに取っちめられたことがあった。
四条烏丸の近くの脇道から烏丸通りへ出るところだった。
坂道を登って大通りへ出る、というバヤイだった。
坂道発進は嫌だなと思って、止まらずに信号が赤のうちに出始めた。
ウィ~ンとサイレンが鳴ったかどうかは覚えていない。
若いお巡りさんが来て、ここは一旦停止です、違反です。
と言った。
隣に乗っていた京都生まれの、運転の上手な女の子が、
(私は一度も言われたことあらへん。男の人は損やね。)
と言った。
彼女は今回と同じように何度も止まらずに坂を通過していたらしい。
(どうもお巡りさんたちも若い別嬪さんには弱いらしいね)
と、お巡りさんに見逃して貰ったあと話し合ったように思う。

 最後にこういう例も紹介しておきたい。
結婚して多摩ニュータウンに住んでいたころのお話。
町田だったか、盛り場で一杯飲んで車で帰ろうとしていた。
小田急の踏み切りで職務尋問じゃないけどお巡りさんに止められた。
こちらは飲んでいるので有利な立場ではない。
(すみません、免許証を見せて下さい)
と若いお巡りさんが聴いた。
(あなた、おいくつ?)
と、ふうてんは応じた。
若者は疑わずに、
(はい、23歳です)
と答えた。

(そうですか、20(はたち)代なんや、これからやねぇ)
(若い人には分からんやろけど、人生いろいろあってね、簡単にはいかんのよ)
(あなた、どうしてこの職業選んだの?)
 
・・・・
などと話しているうちに若いお巡りさん面倒くさくなってどうぞと通してくれた。
多摩ニュータウンへ帰りながら、年の功て、あるんやなあ、とふうてんは思った。

 フェアレディがパトカーになったという話でいろんなことを思い出した。
70歳の老人にも思い出だけはあるらしい。
ヘミングウェイのセリフにもこういうのがある。
(ヘミングウェイさん、あなたはいつも恋人をお持ちのようですね?)
(そうだよ、僕にはいつも恋人がいるよ、ノスタルジィという恋人がね)
 
・・・・
ヘミングウェイは60歳のときに猟銃くわえて死んだなあ。

 ヘミングウェイのことは忘れて、日々生きよ、と日記に書きつけておこう。

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2016/04/10

2016・4・10 花に嵐のたとえもあるさ篇

Konara新芽狂想曲が始まった

 国立の桜狂想曲は終わりを迎えた。
満開になって翌日あたりから風雨が続いた。
今は桜通りも花吹雪が舞い、葉桜が始まっている。

 葉桜と競うように新芽狂想曲が始まる。
この季節がふうてんの最も好きなときなのかもしれない。

(花に嵐のたとえもあるさ・・・)は名句だし名訳だと思う。
唐時代の于武陵(うぶりょう)の五言絶句であり井伏鱒二の名訳である。

勘酒
 

勧君金屈巵

満酌不須辞
花發多風雨
人生足別離

これを井伏鱒二は以下のように訳した。

この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ

 この名訳に太宰治や寺山修司がまいってしまった。
太宰治は井伏鱒二の弟子、寺山修司は演劇界の鬼才。
二人が何度も引き合いに出したのでこの和訳は有名になったらしい。
漢詩のタイトルは(勘酒)だから(一杯やってくれ)だろうか。

満開の桜
この金杯の酒を飲んでくれ
一滴残さず飲み干してくれ
桜花もやがて散る
短い命の出会いに乾杯!

 花(池波正太郎は桜花と書いて(はな)と読ませた)が散って新芽が出る。
ありがたい事に桜花と新芽は毎年繰り返してくれる。
(桜はいいわねぇ)
(そうよねぇ、毎年咲けて)
は、ご婦人たちだけのセリフではないのかもしれない。

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2016/04/04

2016・4・3 入学式の日に満開となった篇

P4020313_2大学通りの桜





P4020328_2




P4020315入学式の日だった





P4020314_2
グラウンドで一休み




 昨日の土曜日、4月2日に桜の咲き具合を確かめに行った。

久しぶりに大学の森を冷やかしたくなった。
国立の桜狂想曲真っ盛りであった。

 桜通り、大学通りをチャリで流す。
どちらもこの2日ほどで一気に満開となっていた。

 大学の森の桜はどうなっているだろう?
いつもの西門から進入する。
この季節だとウグイスの声がうるさいくらいに聴こえるはず。
今年は隠宅の近くでウグイスの声が聴こえないので心配していた。
しかし、さすが大学の森となると、かすかにウグイスの声も聴こえてきた。

 何だか兼松講堂の方から賑やかな音が聴こえてきた。
誘われるまま近寄ってみると入学式をやっているのだった。
入学式といっても、ふうてんの時代とは違う。
おごそかな雰囲気、なんてものはどこにもない。
体育会系とか女子系とかでワ~ワ~キャ~キャ~の雰囲気だった。
秋の大学祭のときのお祭騒ぎと変わらなかった。
こういう入学式も悪くないなと思った。

 ふうてんが京都で入学式を迎えたのはもう50年以上前になる。
一つだけ印象に残っていることがある。
大学のオーケストラ部が一曲、短い曲を演奏してくれた。
校歌だったのだろうか?
チェロとコントラバスの響きがまことに良くて、やるな、と思った。
部活の勧誘の意味もあったのだろうけれど、新入生を迎える正しい方法だと思った。
オーディオではない生のオーケストラのサウンドが心に残った。

 兼松講堂の入学式の喧騒から離れて大学の森の片隅で一休みした。
この数年レポートしていないけれど大学の森はいつ行っても落ち着く。
体育会系の一橋の学生がたまに走っているくらい。
人気(ひとけ)は全くない。
小鳥たちが寄ってくるはずである。

 この空間を大正大震災のあとに作ったのは後藤新平と堤康次郎だと聴く。
後藤新平が東京市長を辞めたばかりの時、大震災が起こった。
帝都東京が大混乱となった。

 神田の一橋にあった学校を国立に移すのに西武グループの創始者堤康次郎が協力したらしい。
西武というくらいで東京の西部を支配するのは西武グループだった。
東の方は東急、真ん中は京王という鉄道が東京にはある。
小田急なんてのもあって、なかなかややこしい。
(小田原急行、略して小田急、飲んだあと最終便で寝ちゃって小田原泊まり)

 1923年(大正12年)の関東大震災は10万人の犠牲者だったという。
2011年の東北大震災は約2万人の犠牲者。
規模からしてもかなり大きな震災だった。
その結果の一つとして今の国立市は生れた。

 国立へ越してくるとき、何となく(くにたち)という音の響きに惹かれたような気がする。
堀辰雄の(風立ちぬ)という小説と名前が似ている。
くにたち・・・何となくロマンチックな感じがした。

 来てみてガッカリした。
国立とは国分寺と立川の中間地点。
国鉄が大震災を機会に谷保村を開拓して一橋大学を迎えるに当たって駅を作った。
国分寺と立川の間に駅を新設した。
それを(国立)と名付けた。
読み方を(くにたち)とした。
 
・・・・
堀辰雄の(風立ちぬ)とは縁もゆかりもないお話。

 そういう次第で1923年の震災のあと1927年に一橋大学は愛でたく移転してきたらしい。
たった4年で谷保村の雑木林を切り開き、住宅地を作り、大学を作り、道路を整備した。
(へそ)の部分に国立駅を配置し、真ん中に大学通りを作った。
その大学通りの左右に一橋大学のキャンパスを作った。
その時にキャンパスの中に武蔵野の林をそのまんま残した。

 100年近く前の後藤新平と堤康次郎の構想力に感心する。
昭和初期の戦争時代、大学通りは滑走路にも使えるというウワサが立った。
実際に零戦の一機が一橋大学のどこかに隠されていたというウワサもある。

 ときどき大学の森を訪ねてボ~ッとしているといい気分になる。
そういう時この二人の先人のことを考えさせられる。
二人のおかげで国立市民は(我々の町は素晴らしい)と安心している。
大学があるから(文教地区)と名乗って、パチンコ店やら風俗のお店は作らせない。
そういう(文教地区)の一角にふうてんの隠宅もある。

 やはり明治時代までは政治家も行政の人も気宇壮大だったなあと思う。
何もないところに人間が住む町を作るのだから当然かもしれない。
東京なんてのも1600年ころに家康が秀吉に追いやられた土地である。
何にもない湿地帯だったらしい。
 
・・・
それから500年ほどたった。
東京は高層ビルの乱立する埋立地になったけれど、関東大震災が再び来れば、
元の湿地帯に戻るかもしれない。

 我らが国立(くにたち)は標高が高い故、生き残るかもしれない。
その時は近くの空の上の(あの世)から見守ることにしよう。
日本人の(あの世)は近くの空の上にある、とか。
天国でもない地獄でもない。
そんな遠いところじゃない。
だからお盆に呼ぶと先祖たちが帰ってくるそうな。
そう梅原猛せんせ~ぇはおっしゃっていた。
第一、DNAで肉体的にも我々は先祖とつながっている・・・。
そう梅原猛から聴いた時、眼からウロコが・・・。

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