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2015年10月に作成された記事

2015/10/26

2015・10・25 ジョン・フォードのMy Darling Clementineを観た篇

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 ジョン・フォードの映画は1コマ1コマが絵になっている

と、JOさんは言っていた。
映画からコマ取りしたショットを見ると・・・。
その通り、 JOさんの言う通り。

 中学生のころ松山の映画館へ(荒野の決闘)を観に行った。
当時ふうてんの通っていた学校では映画館と喫茶店は出入り禁止だった。
映画については(十戒)とか(ベン・ハー)とかキリスト教に都合のよろしい映画だけはお許しが出た、というより(観に行きなさい)と半ば強制されて観に行った。
 

(荒野の決闘)は推奨映画ではなかったはず。

内緒で観に行ったに違いない。
映画館とか喫茶店とか禁止されると妙に行きたくなるのであった。
(禁止する学校の方が間違っている)
それで我々は平気で出入りしたのでありました。

(荒野の決闘)という題名は中学生のボクちんたちを刺激する題名だった。
西部の荒野で銃撃戦が展開されるに違いない。
そんな淡い期待で映画館のイスに座った。
上映が始まった。
タイトル・バックに(ジョン・フォードのマイ・ダーリン・クレメンタイン)と出た。
(荒野の決闘)のはずが(愛しのクレメンタイン)・・・。
映画を間違ったのかと思った。

 それでも、出だしからまことに調子が良く、アッという間にラスト・シーンになった。
ジョン・フォードって凄いなと思った。
クレメンタインを演じた女優さんにいかれてしまって、ファンレターを出した。
習いたての英語だから文章になっていなかったと思う。
しかしそこはエンターテインメントの王国アメリカ。
ちゃんとサイン入りの返信が来た。

 それから50年以上もたってビデオでこの映画をまた観た。
ジョン・フォードの映画は(駅馬車)と(荒野の決闘)に尽きると思うのだけれど、ふうてんはこの(荒野の決闘)の方が見直す回数が多い。
何度も何度もどうしてこの映画を観たくなるのだろう?

 結論を急ぐと登場人物の魅力とストーリーの流れ、雰囲気ということになるだろうか。
ドラマには必然性(池波正太郎言うところのドラマツルギー)が必要。
それがこの映画では二重にしっかりと用意されている。
一つはヘンリー・フォンダ演じるワイアット・アープ兄弟のカウボーイたちの死活の問題。
一つはクレメンタインをはさんだ二人の男の敵対するもの同士の友情の問題。
それぞれの役割の役者たちがまことにふさわしい骨相で登場してくれる。
クレメンタインとドク・ホリデイを争うチワワ役の女優さんもよかった。
酒場のバーテンダー役のオヤジさんもいい味を出していた。

 そういうドラマとしての必須な要素をこの映画は過不足なく備えている。
1時間半ほどの時間でそれを味わうことができる。
確かに最後にはカウボーイたちが苦労して運んできた牛たちを奪い、兄弟を殺したクラントン一家との決闘になる。
この10分ほどの闘いの場面だけは確かに(荒野の決闘)だった。
しかしその前後はドラマツルギーに基づいた悲しくもあり嬉しくもある時間がゆったりと流れる。
特にふうてんの好きなのはワイアット・アープとクレメンタインのダンスのシーンなのである。

 クラントン一家に弟を殺されてワイアット・アープが居ついた町は出来たばかりだった。
町に初めての教会を作るのでセレモニーが開かれる。
そのセレモニーとはダンス・パーティであった。
カ~ン、カ~ンと作りかけの教会の鐘の音が聴こえてくる。
その音に誘われてみんなソワソワしながら集まってくる。
その一人がクレメンタインでありワイアット・アープであった。

 みんなが踊る姿を観て、踊りたいのだけれど二人は口に出せない。
映画を観ているこちらがジリジリしていると、やがてヘンリー・フォンダ扮するアープが帽子をポ~ンと投げ捨てる。
腕を出すとクレメンタインが上着を脱いだのを束ねてその腕に任せる。
それからユックリと二人は腕を組んでダンス会場へ向かう。
 
・・・・

 この一連のシークェンスは見事という他ない。
会場へ着くと、新任保安官さま!!どうぞ、と、踊ってい人たちは退き二人が踊り始める。
この時の、足をピョコピョコ上げるだけのヘンリー・フォンダがまことに素晴らしい。
踊りなんてしたことないのだけどなあ・・・ミス・クレメンタインが踊りたがっているから・・。
そんな風情がわざとらしく伝わってくる、このわざとらしさもジョン・フォードのセンス。

 しかしそのユーモアの中に二人の真情も表現されている。
男は殺された弟の仇討ちの真っ最中。
女は元医者の婚約者(ドク・ホリデイ)がヤクザの世界で酔どれて今は不治の病で明日はない。

 こういうもろもろの背景の元に最後の(荒野の決闘)があり、ワイアット・アープは再会を約してクレメンタインから去っていく。
このラストシーンは当時まことに有名になった。
(オーマイダーリン、オーマイダーリン、オーマイダーリン クレメンタイン)
の歌が重なる。
後に日本でダークダックスという歌唱グループが、
(雪よ 岩よ 我らが宿り・・・)
という歌詞で流行らせた歌である。

 ウィキペディアに聴くとこの映画は1946年の12月に公開されたらしい。
ふうてんは1946年の1月に生れた。
日本が無条件降伏した戦争が終わった1945年の少しだけ後。
戦争中にアメリカでジョン・フォードはこんな映画を作っていた。
日本が原爆やら東京空襲で何十万人も殺されている時に。
のびやかな音楽でワイアット・アープとクレメイタインはダンスを踊っている。

 そんなもろもろを思い出させてくれる映画でもありますという次第。

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2015/10/18

2015・10・18 書簡集で気分転換を篇

Shokanshu_hitimisan山口瞳さんの自画像ポスター
10年以上前から書簡集の冷蔵庫に

 書簡集のことはこの日記で何度も書いてきた。
昨日の土曜日、どうにもこちらの気分が定まらないので書簡集へ出向いた。
(嫁さん、明日は繁さんの日じゃないよね、気分転換に書簡集へ行ってくる)
(一日に一度は外へ出た方がいいよ、三沢ポークが無くなったし、ちょうどいいわ)
(三沢ポークのバラ肉は我が家の必需品やもんなあ、あれば買ってくる)
書簡集近くの(スーパー・さえき)と(三沢ポーク・しゃぶしゃぶ用バラ肉)はリンクしている。

(明日は繁さんの日じゃないんですか?)
と、マスターが聴いた。
(そうなのよ、どう過ごそうかと気分が定まらないので書簡集に行こう、とね)
と、話し始めたとき、背の高い客がはいってきた。
チキンカレーと野菜サラダという注文だった。

 マスターは器の用意をして、食材を取り出し、料理を始める。
食材は掲記の山口瞳さんの自画像の大きなポスターを貼っている冷蔵庫の中。
お客さん優先だからこちらの注文は一呼吸置いてからにする。
といっても、注文は毎回決まっているのだけれど・・・。

 背の高い客がおいしそうに料理を平らげて帰ったあと、マスターといろんな話をした。
(いつものように、コーヒー豆とマティーニをお願い)
(昨日、久しぶりに歯医者へ行きました、20年振りくらいかなあ)
(えっ?20年振りに?羨ましい人生ですなあ、僕なんか歯医者通いの人生ですよ)
(その前は・・・そのまた30年くらい前でしたかねぇ、子供のころでした)
・・・?!

 こういう歯の丈夫な人もいるのだなあとため息が出た。
(それでも歯が痛くってしようがないので自分で抜いたことは何度かありましたよ)
(エッ?歯を自分で抜く??)
(ええ、痛くってしようがないからペンチだったか何かで)
(マスター、信じられんなあ、痛かったでしょう)
(ええ、でもその前の痛みがひどいから・・・抜くというより砕いたという感じでしょうか)
(それで?)
(その歯を取っちゃったら痛みはなくなりましたよ)
・・・
世の中には恐ろしい人がいるものである。

(昔と今とでは歯医者さんの技術もずいぶん変わったよねぇ)
(回数は行かなかったけど、確かに昔の歯医者さんは原始的でした)
(技術はいろいろ進むのだけど、僕は技術屋の端くれとして、生き物相手の技術は避けました)
(それはまたどうして?)
(自然はあまり人間が手を加えてはいけないのではないか、なんてね)
(そういえば、ふうてんさん、ペットは飼わないと言ってましたね)
(そう、たまたま野良ちゃん、白と黒のネコちゃんとは10年ほど付き合ったけどね)
・・・
(野生というのは自然に逆らわないという原理原則を貫いているよね)
(人間みたいにいろんな技術や道具を使って自然に抵抗することはしませんねぇ)
(病気になったら無抵抗に死んでいく)
(その代わり余計な殺生はしない)
(マスター、考えてみたら人間も一つの生き物に過ぎないとも言えますよね)
(そうなんですよ、今世界で70億人と言われるけど生物としては絶滅危惧種です)
(生物としては、ですか、バクテリアとかプランクトンなどの数に比べると・・・)
(原子爆弾で人間が死に絶えても、どっこい生き物は地球に残っていますよ)
・・・

 マスターは、たまに哲学的なことをおっしゃる。
人間が、この地球上で、はびこり過ぎた人間が(絶滅危惧種)だとは知らなかった。
しかし考えてみると同じ種類で殺し合うのは人間だけのような気もする。
野生の動植物はそういうことはしない。
野生たちは自分の種に与えられた宿命だけを掟として忠実に守る。
一瞬、一瞬、その掟を守るためだけに生きている。

 だから美しい。

 書簡集からチャリで帰った。
気分転換が出来たらしく夕べはよく眠れた。

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2015/10/13

2015・10・13 ドナルド・キーン再び篇

P9190305P9200306ある日の晩飯
旦那用と料理人用

我が家の料理人は盛りつけを楽しむらしい
ワン・プレイト・ダイエット
これでこの一年で5キロ減量したとか

 秋も深まって寒くなってきた。
蒸し暑いような気がしてエアコンを点けるのだけれど動いているのかどうか。
止めるとリモコンに電気代が表示される。
(今日 0円 昨日 0円)
とある。

 エアコンの設定は夏場の(除湿 27℃)のままである。
いくら鈍いふうてんでもやっと気づいた。
外気が25℃以下なのにエアコンで(除湿 27℃)に設定していたらどうなるか?
エアコンちゃん、とまどってしまうに違いない。
(25℃から27℃に上げる?除湿モードで?)
(私、知りません!!)
それで指示されても動きがとれず昨日も今日も電気代ゼロ。
春と秋はエアコンなどいらなかったはず。
昔のそういういい時代を思い出した。

 昨日だったか、テレビでドナルド・キーンのいい番組を観た。
彼のことはこの日記でも何度か書いたように思う。
それでもこの番組を観てまた書きたくなった。

 今回の番組では、日本とは何か?日本人とは?に集中してインタビューされていた。
その質問に対してキーン先生、丁寧に応えている。
彼は今年93歳になるはず。
日本との出会いは20歳のころ(1940年)ニューヨークの古本屋の源氏物語だった。
その顛末はこのふうてん老人日記の(2013・1・20)に書いている。

 今回の番組で面白かったのは日本人のノーベル文学賞の話だった。
ふうてんの記憶では日本人としてこの賞を受けたのは川端康成と大江健三郎だったはず。
その一人目の川端康成のときにドナルド・キーンが絡んでいたというお話。
1963年にノーベル文学賞選考委員会(スウェーデンアカデミー)からキーンに質問状が届いた。
(日本人だと誰がよろしいか?専門家の意見を聴きたいので報告書を出して下さい。)
キーン先生はこう応えた。
(第一位 谷崎潤一郎 第二位 川端康成 第三位 三島由紀夫)
このとき、この3人は77歳、64歳、38歳だった。
日本人の年功序列を重んじる国民性にも配慮した報告書だったという。

 谷崎潤一郎が一番相応しいとキーン先生は考えていたけれど、谷崎は1965年に死んじゃったので川端康成となった。
キーン先生はやはり谷崎がノーベル賞に相応しかった、若いときから老年(77歳)まで書き続けて、谷崎文学という山脈を築いた、と最高のほめ言葉で語っている。

 この谷崎に関する話の中で、戦時中の過ごし方の話になった。
(疎開日記)というのを谷崎は残している。
ドナルド・キーンは日本人の(日記)に特別の思いがある。
(日記文学)という文学領域は日本独特である、とも言っている。
西洋人の文学者の日記などは、たいてい(天気の話)と(誰に会った)くらいしか書いていないらしい。

 1941年に日本は太平洋戦争に突入した。
1942年ころから谷崎は熱海とか京都に居を何度か移している。
その間に書いたのが(疎開日記)という次第。
戦争真っ盛り、空襲もたびたびあった。
その時代の谷崎の日記には、毎日のように(細雪)という文言が記されている。
これにキーンは驚いた。

 1943年の1月に(細雪)は中央公論社の月刊誌に連載が始まった。
しかし半年後に連載中止となる。
(細雪は決戦段階たる現下の諸要請からみて、好ましからぬ影響を与える・・・)
という中央公論社の自主規制だった。

 それでも谷崎は毎日(細雪)を書き続けた。
中央公論社が出さないのなら自費出版でと仲間にくばったらしい。
(細雪)は大阪の船場(せんば)の四姉妹の物語。
ゆったりとした日本情緒豊かな世界が描かれている。
ピークは四姉妹での平安神宮でのしだれ桜見物のシーンだろうか。

 ドナルド・キーンはこの(疎開日記)を読んで、これが谷崎の抵抗だったという。
反戦を声高に叫ぶのではなく、戦争で舞い上がっていた日本人に対して、日本文化にはいいものがあったということを書き続けた。
この戦争でその日本文化は滅びてしまうかもしれない。
今のうちに書き残しておきたい。
そんな谷崎の思いがこの日記から伝わってくる。
当時としてはずいぶん勇気がいったのではなかろうか。
 
・・・・

 ドナルド・キーンから学ぶことは多い。
彼はアメリカ人だけれど、結局何人とかは問題ではないと思わされる。
日本のこと、日本人のこと、その良さも弱点も世界を観てきた眼で語ってくれる。
及ばずながらこちらもそういう眼で世界の人々の営為を見たいものだと思う。

 恥ずかしながら(谷崎の瘋癲老人日記)も(近松の曽根崎心中)もドナルド・キーンがNHKの教育テレビで語っていたのを観て、初めてその魅力を知り、本屋へ走って谷崎作品を読み、国立劇場で竹本住大夫の追っかけが始まったのだった。
アメリカ出身のドナルド・キーンに日本文化の奥深いところを教えてもらったことになる。

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2015/10/05

2015・10・4 自動車にも美しい時代があった篇

100_3オースティン・ヒーレー100
隠宅の近くで同じ形のを見かけた

 秋になって爽やかな天気が続く。
といっても日替わりメニューのように大雨が夜中中降り続いたりもする。
夏のころと確実に違うのは湿度が低くなったことだろうか。
この頃妙に背中が痒いなあと思っていた。
天気予報を聴いていて、その理由がハッキリと分かった。
(東京の湿度は35%でした)
夏場のひどい時は湿度95%という日もあった。
老人の乾いた皮膚にはどちらの方がよろしいのだろうか?

 皮膚にどっちゃがいいのかは分からないけれど湿度が低い方が気分は爽やかとなる。
爽やかさに釣られて、昨日、タバコを買いにチャリで外へ出た。
間もなく、先の通りを白のカッコいいオープンカーが横切った。
(アッ、あれはオースティン・ヒーレーだ)
追っかけたけれど、もう影も形もなかった。

 その姿を観て、20年~30年くらい前の記憶が強烈に蘇って来た。
あの頃はこのような美しい車が走っていたよなあ。
古い、もう作られてはいないけれど、昔の車が現役で走っていた。
古いからいいというのではない。
何しろ姿形が美しかった。
「技術的問題を解決するためには美的観点からも納得のいくものでなければならない」
と言ったのはドイツのポルシェの産みの親(フェルディナント・ポルシェ)だった。
(その通り)と言いたくなる車が2、30年前までは結構走っていた。

 今の車はどうだろう。
ふうてんなどは今の車には全く興味が湧かなくなった。
昔の形のまんま製造を続けている車も世界の中にはある。
それはごく一部であって、我が国立の道路を走っているお姿を拝見できることは、まず、ない。
昔は(美しさを競う)という要素が車の比較の中にあった。
今の車は、燃費、排気ガス対策、室内の広さ、などで評価される。
初期コストが安くて、維持費もかからなければもっといい。
そこには(美しさ)という項目はないようである。

 ふうてんの同居人ロシナンテが生れたのは1968年である。
その頃はまだ自動車はメーカが作りたいものを作ることができる時代だった。
産業革命は木や石炭を燃やして蒸気を作って動力に変えることから始まった。
自動車は蒸気という間接的なものを使わずに化石燃料のガスを空気と混ぜて爆発させる動力機械だった。
一人や二人でそういう乗り物を使えるようになった。
同じ乗るなら形がいい方がいいじゃないか。
速く走るにはどうも流線型の方がいいようだ、空気抵抗が少ないから。
空気抵抗が少なくて見た目にも美しい。
そんな姿をロシナンテが生れたころまでは追求していた。

 変化が起こったのは1970年ころだった。
まずは(安全規制)→車が普及して交通事故が多くなったから。
次に(公害対策)→車の排気ガスが空気を汚している、喘息などで死者が増えている。
そして(省エネルギー)→燃費をいかにして良くするか、地球の資源には限りがあるし。

 導き出された結論は、

(安全で、公害を出さず、コストのかからない車、姿形はどうでもよろしい)
であった。

 車がこうも多い時代にはこれらの規制は正しいとふうてんも思う。
1970年代のころは東京の都心へ行くとタバコの味が変わった。
それだけ空気が排気ガスで汚れていたし匂いが違っていた。
帰りに中央線に乗り、三鷹を過ぎる当たりから空気の匂いがしなくなった。
東京23区の住民の方々には(お疲れさまでした)という他ない。

 安全性や無公害や省エネを実現することは出来た。
しかしその代わりに(美しさ)というものは失ってしまった。
一つのものを得ると一つのものを失う、二つ同時には得られない。
そんな言葉もあったなあ・・・。

 今は沢山の車が流れ行く通りを観ていてちっとも嬉しくない。
これだけ多量になった車が走る道路・・・それは一種の景観でもある。
今は道路を見るのが辛い時代になってしまった。
車というのは乗っている人は気づかないのだけれど実は人に観られる存在でもある。
一度自動車メーカの人と話してみたいような気もする。

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