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2015年4月に作成された記事

2015/04/27

2015・4・26 アップル・ウォッチにつき篇

Konara_1Konara_3方丈の森

 この季節の植物の活発な活動ぶりには毎年ビックリする。
2週間前にこの日記で報告したコナラの新芽がこんなに大きくなった。
見ている間にもモゾモゾと伸びてくるような気配があった。

 最近のアップル・ウォッチの発売を聴いて考えさせられることが多い。
こちらは2週間の変化ではなくて、50年ほどの間の変化のお話。
コンピュータ・メーカで仕事を始めたころからもう半世紀になるのかと思わされる。
というのは入社した当時、コンピュータはやがて腕時計サイズになるだろう、という本を読んだのであった。
衛星を通じて通信もそれでやるようになる。
そんなことがアメリカ人の書いたこの本で語られていた。
内容はともかく語り口が分かりやすくて印象に残る本だった。

 アップル・ウォッチの宣伝を見るとなかなか上手く仕上げたなあと思う。
iPodから始まってiPhone、iPadそしてこの腕時計まで来た。
敵ながら天晴れと全てのメーカは思っているのではないだろうか。
どうしてアップルだけが先を行くのだろう?

 アップル社の躍進は1977年に発売したアップルⅡから始まった。
1975年ころからワンチップ・マイコンという半導体が作られるようになった。
それを使ってコンピュータ・システムに組み上げたものがパソコンと呼ばれるようになった。
いろんなメーカが参入した。
その中でもアップルⅡが一番の人気で、世界中でファンが増えた。
アップルⅡはパソコンの代名詞のような存在だった。

 その動きをコンピュータの盟主IBMも座視できず1981年に本格的なコンピュータとしてのアーキテクチャを持ったパソコンを投入した。
それをきっかけに(アップル、IBM)がパソコンの普及をリードしていくことになった。

 アップルは個人用の情報端末の先駆けをなしたと言えるのではないだろうか。
ウィンドウといわれる操作環境も1984年にアップルが発売したMacintoshが先陣を切った。
それの10年後の1995年になってようやく他社のパソコンもウィンドウ環境を搭載する。
つまりパソコンもウィンドウもアップルが先行したのであった。
それの延長線上にiPod以降の(情報通信端末)もある。

 3年ほど前に亡くなった創業者スティーブ・ジョブスは徹底的に個人の使い方にこだわった人だったと思う。
個人のための道具としてコンピュータを捉えていたと思う。
個人の使い方、のみにこだわったと言うべきかもしれない。
同時に、個人にとって本当に使い勝手のよい端末が出来ればいろんな商売に繋がる。
ジョブスはその商売のやり方にも長けた人だったように思う。

(やっとここまで来たね)と彼は今天国でアップル・ウォッチを指で触りながらつぶやいているに違いない。
 

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2015/04/20

2015・4・19 昭和時代に美空ひばりという歌手がいた篇

43隠宅のハナミズキ

南にある白いのと北にあるピンクのと

 戦後70周年の今年はテレビで懐古的な番組を沢山やる。
戦後、の定義は曖昧だけれど日本では昭和20年8月15日を起点とするのが一般的である。
第二次世界大戦は世界中が戦争に加わったり、嫌でも巻き込まれたりした。

 ではその第2次世界大戦はいつ終わったのだろう?
戦勝国と敗戦国では事情がいささか違うようなので、グーグルに聴いてみた。
ウィキペディアには以下の様に出てくる。
どれも1945年(昭和20年)のことだけれど微妙に日にちが違う。
1)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
2)8月15日玉音放送昭和天皇の終戦放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
3)9月 2日:日本政府が、ポツダム宣言の降伏文書休戦協定)に調印した日。

 ポツダム宣言とか連合国とか、第2次世界大戦の構図について知っている日本人はもう少なくなったに違いない。
何しろ日本では明治維新以降の近代史を教科書で教えない。

 20世紀に世界では第一次世界大戦、第二次世界大戦と戦争に明け暮れた。
その二大世界大戦に日本はどういう立場で参加したり参加しなかったりしたか。
その始まりと結果はどうだったか。

 そういう歴史の最も重要な(戦争への参加のしかた)を教科書で教える。
そうなって初めて世界の中の一人前の国と言えるのではないかと、ふうてんは思う。

 安倍政権になって中国と韓国という第二次世界大戦中の一番近い国との関係が最悪となっている。
明治時代の日清、日露の戦争で日本はアジアへの進出を意識し始めたようだった。
というか、西洋列強が南アジア、東アジア、北アジアにまで触手を伸ばして日本はその緊張感の中にあったのかも知れない。

 日本は軍事的に攻め込んで植民地化する道を選んだ。
朝鮮を植民地化し、満州で傀儡政権(満州国)を作った。
欧米の列強国が嬉しいはずがない。
やがてドイツと日本が世界中の(連合国)と戦争をするという形の第二次世界大戦になった。
結果は、勿論、ドイツも日本も大敗して無条件降伏となった。

 それから70年、日本はどうしていたかは皆さんご存じの通り。
戦後いろいろあったなあ、という番組がテレビで沢山流れる。
先週の木曜日にNHKが(伝説の不死鳥コンサート 美空ひばり)というのをやった。
1988年の4月に行われた東京ドームでのコンサートである。
翌年の1989年の3月に同じ東京ドームでパソコンFM-Townsのお披露目をやった、ふうてんたちにとっては無関心ではいられない話であった。

 この番組はなかなかよく出来ていた。
美空ひばりという昭和を代表する歌手の最後をよく捉えている。
東京ドームで大コンサートをやった翌年の1989年の6月に亡くなった。
52歳だった。
1989年は昭和の最後の年で昭和64年、平成元年である。
美空ひばりはまさに昭和と人生を共にした歌手、であった。

 この番組で最後に登場する元ブルー・コメッツの三原綱木のセリフが印象的だった。
(真っ赤な太陽を録ったとき、ひばりさんとの共演で僕たちは緊張していたんです。)
(驚きましたねぇ、僕がギターを弾いているとひばりさんがはいってきて、そのまま録音です)
(一発ですよ。リハーサルも何もない、一発っきり。それでレコード完成でした。)
(もう一つ思うのはひばりさんの日本語はきれいでしたよね)
(あんなに綺麗で正確な日本語で唄う人を僕は知りません)
 
・・・・

 昔、吉本隆明が美空ひばりのことを書いていたのを思い出した。
(彼女は言葉とその音には特別な感覚があったねぇ)
(ジャズを唄わせたら英語だってサマになっているし)
(何しろ彼女は(てにをは)の3つもあれば歌にしちゃうものなあ)

 まこと美空ひばりとはそういう大歌手でありました。
ふうてんなどは若いころ日本の歌謡曲は一切聴いてなかったので美空ひばりもパスしていましたね。
50歳を過ぎたころから、(悲しい酒)とか(乱れ髪)とかが心に食い込んでくるようになった。
日本の歌謡曲もバカにしちゃあいけない、とその頃からやっと分かったという次第。

 ところで、1989年、昭和から平成への転換点の年はエライ年でした。
1月7日 昭和天皇崩御、昭和から平成になる。
6月には北京で天安門事件。
11月にベルリンの壁崩壊、戦後続いた冷戦が終わった。
日本人ではこの年、美空ひばり以外にも、
手塚治虫、開高健、古関裕而などが亡くなっている。
第二次世界大戦のあと44年ほどたって、世界はまた新しい変化の時代になった。

 冷戦が終わって世界は平和になったのだろうか。
東西の接点、ウクライナやらイスラム圏やら太平洋周辺で小競り合いが続いている。
戦後のアメリカ支配から中国支配の時代になるのだろうか。
デカイ国でいえばそうなるだろう。
こういう時代に小さな国、日本などはどうするのだろう。

 グローバル時代なんて言われる今日、家康はんの知恵を思い出してもいいような気もする。
あの人は鎖国して余計な他国からの文物を遮断した。
そのくせちゃっかりと出島などで外国の(情報)は手に入れて世界の動きを把握していた。
後継者たちの250年の間に江戸文化やら浮世絵やら、今いかにも(日本)と言われる文化を醸成せしめた。

 書簡集で、今の時代信長型なのか秀吉型なのか家康型なのか、どちらがいいのでしょうなあ。
マスターが言った。
(信長は超短期決戦型、秀吉は短期決戦方、家康は長期決戦方ですねぇ)
それから短期的観方、長期的観方、特に外交に関する政権のタイプの話になった。

(秀吉は朝鮮へ攻め込んだけれど家康は反対だったとか)
(信長はもう当時いなかったけど、もし居たら自分で朝鮮や中国へ攻めて行ったやろねぇ)
(秀吉は自分では行かなかった、家康は行くどころか国家の損になると反対していた)
(家康って長期的展望があったのですかねぇ)
(今から考えると、そういうことになりそうやね)
(今の日本の政権の方々は信長?秀吉?家康?どれでしょうなあ・・・)

 やはり歴史に学ぶということは大切だと思う。
そんな話をマスターや客人たちと話せる書簡集通いは欠かせない。
  
 

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2015/04/12

2015・4・12 新芽狂騒曲が始まった篇

P4120456P4120453 

隠宅のコナラとハナミズキ

 5月の新緑の前に新芽の季節がある。
ふうてんは、この新芽の季節が大好きである。
先週だかに書いた桜狂騒曲のあとは新芽狂騒曲に決まっている。
植物の一年間の変化はまことに素晴らしい。

 植物の中で何が一番お好きですか?
と聴かれると、ふうてんは迷わずに、それは木です、と応える。
草花も悪くはない。
一年で種から育ち、子孫を残して死んでいく。
そういう草花たち。
一方では何百年も姿を晒して生き続ける樹木もある。
その樹木が一年の春夏秋冬で姿を変える様がふうてんは一番好きなようである。

 長生きする木にも二種類あって、
一つは一年で葉を伸ばして散らせるタイプ。
もう一つは一年中葉を散らせないでいるタイプ。
この二つを我々のような植物の素人は(広葉樹と針葉樹)などと呼んでいる。
葉っぱが広いのはやはり散る。
葉っぱが細く鋭いのはなかなか散らない。
針葉樹は見た目には春夏秋冬で変化がない。
針葉樹の葉っぱはどうなっているのだろうか?

 この樹木の二つの生きざまにつくづくと生き物の奥深さを感じる。
毎年、花を咲かせて子孫を残して死んでいくのもいる。
そういう風に見えて、実は何百年も御本尊は生きている。
逆に何も変わらないよ、てな顔をして何百年も生きているのもいる。
外目には枯れ葉なんて見せないし、新芽も見せない。
しかし手の内でしっかりと葉を枯らせて落とし、新芽を育んでいる。

 何だか人間という動物にもそんな二種類がいるような・・・気がするなあ。
今日の日曜日、嫁はんとチャリで繁すしへ行って昔話に耽った。
帰りに、女房どのは買い物に行き、ふうてんは書簡集へ寄った。
コーヒーの焙煎の真っ最中で店は煙だらけだった。
この匂いはすごく嬉しくてコーヒーを飲まなくてもコーヒーを味わえる。

 いつものように(ラストソング)をかけて貰いながら家路についた。
二つの句が浮かんだ。

花咲いて 初めて知った 嬉しさよ
花散って 初めて知った 悲しさよ

 お後がよろしいようで。

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2015/04/06

2015・4・5 松山東高校につき篇

P33104483さくら通り




 国立の桜狂騒曲も終わった。

桜はこの一週間で、咲いて、散っていった。
毎年のことだけれど、見事というほかはない。
昨日あたりから花吹雪が始まった。
ロシナンテのいるところにも飛んできた桜の花びらが集まっている。
(花に嵐の たとえもあるさ サヨナラだけが人生だ)
井伏鱒二先輩、上手に訳しましたねぇ。

 今年の春の甲子園の選抜大会で松山東高校という聴き慣れない名前が出た。
愛媛県勢としてもう一校(今治西高校)というのも出ていた。
どうして愛媛県から2高も出ているのだろう?
不思議だった。

 松山東も今治西も早々と姿を消した。
まあ春の選抜大会はどうということはない。
本番は夏の大会さ、とあっさり諦める。
そんなとき、もう15年前にあの世へ行ったオヤジ宛の封書が見つかった。
差出人の欄に(松山東高等学校後援会)とある。
オヤオヤと思って中味を読んでみた。

 (野球部甲子園出場支援のご寄付のお願い)
2015年2月7日
松山中学・松山東高同窓会関東支部
支部長・・・事務局長・・・
とある。

 文面は以下のように始まる。
拝啓 この度、松山東高野球部が第87回春の選抜甲子園大会に21世紀枠で選出されました。
 
・・・

(後援会)を結成し、募金を集めようという主旨であった。
最後にこう結んでいる。
 82年ぶりの春の甲子園出場というこの栄えある偉業に対し、皆様からのご芳志賜りたく、何とぞ宜しくお願い申し上げます。

 ちょっと驚いてしまった。
我がオヤジどのがこの学校を卒業したのはいつごろだったのだろう?
オヤジは明治43年生れだから、大正か昭和の始めだったか。
それからもう90年以上になる。
どうして松山中学改め松山東高校の案内状がふうてんの国立の隠宅に届くのだろう?

 松山中学というと確か夏目漱石が赴任した学校だったはず。
その一年の経験をもとに漱石は(坊っちゃん)を書いて国民作家と言われる存在になった。
松山東高校になって、そこに通っていた大江健三郎はノーベル賞作家となった。
同級生だった伊丹一三は伊丹万作の後を継ぎ映画の世界で活躍した。
その一三くんが学区制で松山南高校に移ったときふうてんのオヤジはそこで教師をしていた。
(オヤジ、伊丹一三ってどういう生徒だった?)
(うん、あいまいな奴だったな)
それがオヤジと交わした伊丹一三(後に伊丹十三)に関する会話の全てだった。
(あいまいな奴)にオヤジには見えたに違いない。
それを聴いてふうてんは何となく嬉しかったことを覚えている。

 どうして、ふうてんの隠宅にオヤジの松山中学時代の記憶が残っているのだろう?
オヤジは筆まめな人だった。
オヤジを引き取ってから隠宅の郵便受けは本来の活動を始めたようだった。
つまりいろんな郵便が届くようになった。
ふうてんなどは誰にも手紙を書かないので、返事の来るはずもなかったのに。
 
・・・・

 松山東高校甲子園出場でこんなことを思い出してしまった。

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