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2015年1月に作成された記事

2015/01/26

2015・1・25 ラガーマンが死んじゃった篇

Bunraku_1Bunraku_22007年 国立劇場 
文楽9月公演

台風一過の暑い日だった
小劇場入り口で待っていた
ビールで乾杯!

HatRaga_2帽子が好きだった

夏用も


冬用も



FriendKanpai偶然の出会いに

乾杯!!



KantokuKantoku_3ガーマンと府中のラグビー場で
東芝府中とサントリー戦を観た

清宮監督は

カッコよかった


Yamaguchi_2Yamaguchi_61994年 繁すし風景
山口さん、これ見えますよ

どれどれ


 

Yamaguchi_3_3Yamaguchi_4_3 
銀星タクシーさん、まだかなあ


今日は楽しかったわ

どうも、失礼します

 20日に繁さんからメールでラガーマン逝去の連絡があった。

ラガーマンこと市川さんの訃報であった。

 それから数日間、ふわ~っとした気分で過ごしている。
浮遊感というのだろうか。
心の落ち着き場所がなくて、さまよって(彷徨って)いる。

 この二年の間に、Muさんとラガーマン。
30年付き合った同い年の友人を失った。
69歳にもなれば、そういう事なのだろうか。

 (花に嵐のたとえもあるさ、サヨナラだけが人生だ)
という井伏鱒二の漢詩訳を改めて思い出す。

 人の魅力というのは文章や写真ではなかなか伝えにくい。
直接会って、何年も付き合って、じわじわと感じるものではないだろうか。
ラガーマンは繁すしで最初に出会ったときから特別の感じがあった。
 

 同じ1946年(昭和21年)の1月に生れた。

今年70周年を迎えた日本の無条件降伏の翌年の正月明けである。
あちらは大阪の御堂筋をちょいっと、はいったところの呉服屋。
こちらは愛媛の伊予の百姓屋。
共に京都へ流れ東京へ流れて多摩の草深い谷保村こと国立(くにたち)へたどり着いた。
そして国立駅前の繁すしで出会った。
もう35年ほど前になるだろうか。

  繁すしでは(ワサビ巻きを下さい)というのがラガーマンのいつものセリフだった。
最後に必ずそれを注文した。
ふうてんは(ワサビ巻き)というのを喰った事がない。
すし飯とノリとワサビだけ。
すし飯にワサビを具のように一列(?)に塗り付けてノリで巻く。

 ウニだとかトロだとかアワビだとかややこしいことを言わない。
シンプルな生き方の御仁だろうなと思った。
35年ほど付き合って、確かにそういうお人だった。

 20日に繁さんからメールをもらい、21日に村ちゃんから電話でも知らせてくれた。
22日にはラガーマンの奥さんから電話をもらった。
(ご存じでしょうが、14日に亡くなりました)
と意外と元気そうな声が聴こえてきた。
(そうですか、ご家族だけで・・・密葬というやつでしたか)
(本当にお世話になりました)
(お世話になったのはこちらの方です)
(文楽に連れて行ってもらったり、大相撲楽日前に誘って戴いたり・・・)
(この1~2年大変でしたねぇ)
(我がままな人でしたから・・まるで赤ちゃんみたいで)
(赤ちゃんですか・・・赤ん坊のまま69歳までねぇ)
 
・・・・
(ところでその赤ん坊、若いころはエライもてたそうですねぇ)
(主人はそう言ってました。けど確かめる証人はおりません。)
(証人ですか・・・確かにねぇ、市川さんからはお話をずいぶん聴きましたが)
(全部、自分が言うばかりでしょう?ホラ話かも知れませんよねぇ)
(そういえば・・・)
(ホラは吹いた方が勝ちともいいますものねぇ)
(最大の傑作は例のパリでのお話ですかね)
(ああ、誕生日に3カ国から若い女の子が集結して困ったという)
(それそれ、確かフランスとドイツとスイスからネ~チャンたちが、というやつ)
(ホラ話は言った方が勝ちですから)
(僕たちよく話すんですよ、一度でもそういう経験してみたかったなあ、と)

 市川夫人が明るく元気そうな声で話してくれたので、こちらは本当にホッとした。
山口夫人のことですがね)
ああ山口瞳さんの)
(瞳さんが亡くなって一年ほどは毎日泣いて暮らしていた、とおっしゃいました)
(そうでしたか)
(その一年後くらいから毎週の日曜日に繁さんでお会いするようになりましてね)
(はい)
(今は一人で出かけられるようになりました、とすごくお元気になられました)
(どうも野郎の方が先に死んだ方がよろしいようですなあ)
(そうなんでしょうか)
(奥さんもこれからです、そのうち偲ぶ会かなんかでお会いしたいですね)

 と、小一時間ほどの長電話は終わった。
掲記の写真を引っ張りだすために、この10年ほどの老人日記を振り返ってみた。
2006年から2011年の5年間に集中していた。
ラガーマンと一緒に過ごす時間がいかに楽しいものだったかの証拠物件である。
こういう人と同じ時代に生きて共に時間を過ごせたことを感謝したい。

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2015/01/19

2015・1・18 阪神淡路地震から20年たった篇

P1050467P1050473きょうやの餅花

餅花(もちばな)五穀豊穣の祈り?

 今週はテレビで東北ではなく阪神の大地震の映像が沢山流れた。
もうあれから20年になるという。
当時のことを思い出しながら少し書いてみたい。

 掲記の写真はカメラマン助手が撮ったものである。
大地震とは何の関係もない。
(嫁さん、冬らしい写真ないかなあ)
(珍しい花があったよ)
(珍しい花?)
(ダンナさんたちがよく宴会をやっていた(きょうや)さんに咲いていた)

(ああ、谷保の(きょうや)さんね、禁煙になってやめちゃった)
(この花は、もち花って言って、お餅を枝に着けるのよね)
(お餅を枝に着ける?)
(お正月の門松の変形かもね)
 
・・・
(別府の家でもやっていた。枝にお餅か餅菓子を半分に切ったのを張り合わせてね)
(何だか小正月のときのドント焼きでお餅を枝に差して焼くのと似てるなあ)
 
・・・
 稲作を文化のルーツとする日本にはまだこんな風習が残っていることにふうてんは驚いた。
日本には春夏秋冬のお祭りがある。
どのお祭りも(米の豊穣を祈り、収穫の恵みに感謝する)ことに関連している。
そのことは分かっていた積もりだけれど69歳になって初めて(餅花)という冬の祈りを知った。

 阪神淡路大地震の話だった。
あの日、東京でも揺れを感じたのかどうかは記憶にない。
ただ馴染の人も多い土地なので、えらいこっちゃと驚いた。
テレビで神戸の街が焼けている映像が長々と映されていた。
この下で何千人もの人が・・・とナレーションがはいる。
ああ都市型の地震は(人の生命)に直結しているなあと思った。

 数日後、明石の人丸どのと電話で話した。
人丸どのは明石工場に赴任したばかりだった。
リアルな当時の状況を教えてくれた。
(タンスが2~3メートル動きました。死ぬかと思った。)
(タンスがそんなに!! よう死なずに済みましたねぇ)
(寝ていて起こされたのでしょうなあ)
 
・・・
(この工場、来たばかりで様子が分からなくてどうしていいのか分かりませんでした)
(被害は?)
(ご家族のことはまだ分からないけれど、部下たちに死人はありません)
(本社はどう対応するんやろねぇ)
(まだ何も言ってきません、その点、トヨタは素早く動きますなあ)
(というと?)
 
・・・
 それから目の当たりにしたトヨタの動きを人丸どのは話した。
(何しろ地震のあった日の午前中に富士通テンの上空にプルンプルンとヘリコプターが来ました)
(ああ、テンの工場は神戸の街の中にあるよね)
(トヨタがそこで降りて、さっそく工場の被害状況を調べたそうです)
(それで?)
(被害状況の偵察に来た、課長くらいの若い人が電話していました。)
(トヨタ本社へ報告を?)
(いえ、電話の相手はヤマハでした、バイク100台すぐ持って来い、と喚いているんです。)
(バイク?100台?)

 (そうなんですよ、高速道路などが寸断されて四輪は動けない。それでオートバイです。トヨタの若い課長さんが、ヤマハに、100台すぐに持って来い、と命令していたそうです)
(どっちが客なのかわからへんなあ、確かにトヨタは自動車作ってもバイクないもんなあ)
・・・

 
 当時、トヨタ車のカーオーディオは富士通テンが作っていた。
必須な部品がはいらないと車は完成しない。
それでトヨタは大地震の数時間後、ヘリコプターで部品を作る工場の被害状況を確かめに来た。
やはり世界中で車を作っている会社だなあと感心した。
(人丸さん、わが社にはヘリコプターなんてありますかねぇ)
(どうでしょう、あまり聴きませんなあ)
(この地震で、対応ぶりがその会社を表していることよう分かりましたねぇ)
 
・・・

 トヨタはその後20年たっても相変わらず日本一の自動車メーカであり続けている。
(ミライ)とかいう名前の燃料電池車を発売して、石油が無くなっても自動車作りまっせ、という姿勢を明確にした。

 20年前の関西での大地震を思い出してトヨタを誉めてもしようがない。
トヨタに文句を言いたいこともある。
(トヨタさん、あのミライのデザイン何とかなりまへんか。大口開けて人を吸い込むような形したのが町中走るようになると、あなた、風景として困ります。古今亭志ん生じゃないけど(亭主脅かしてどうすんだ)でっせ、ミライのデザインは。
本田宗一郎はんが言うてはりました。
(自分だけの都合で物をいうて欲しくない)
とね。
おあとがよろしいようで。

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2015/01/15

2015・1・15 繁すしで頑亭さんに会った篇

P111044722 
 
 

サインを貰った
 

 

 

P11104472222

頑亭さんのトレードマークの(なまず)



 
 

 

 日曜刊の老人日記がこのところ遅れがちとなっている。

こんな小文、駄文を書くにも気合がいる。
加齢のせいでその気合が落ちてきたのだろうか。

 繁さんへ行くと一組の客がテーブル席に陣取っていた。
見ると関頑亭(せき がんてい)さんのグループだった。
(いやぁ~、お久しぶりです)
(ハゲましておめでとう)
と、さっそく一発かまされてから冗談話の連発となった。

 聴けば今年96歳になるという。
80歳代の後半くらいから絵や書のサインに(90翁)と書いていた。
だからもう90歳は越えているのだろうとは思っていたけれど96歳とは・・・。
ちょっと見た目には白いヤギ髭のお年寄りである。
しかし、眼光は鋭いし、一旦口を開くとジョークの連発でとても老人という感じがしない。
メガネはかけていないし耳も全然遠くない。
今回も(やったとった)のレスポンスの速さにタジタジタジとなった。

 国立へ越して来てから繁すしで時々お会いしてきた。
最初のころよく戦争中の話をしてくれたことを覚えている。
戦争時代に満州へ駆り出されていたらしく、終戦のころ、中国のお寺で修行したらしい。
それで以降(仏師)の仕事をされているという浅い理解しかふうてんにはない。
谷保村の出身でまさに国立の古老、長老といった存在である。
どのように紹介しようかとグーグルに聴いていると、ユーチューブで分かり易いのがあった。
今の市長さん(ガマちゃんこと佐藤さん)がインタビューしたときのものだった。

 7分くらいのビデオが3本の構成になっている。
 
頑亭さん、ガマちゃんを知らない人には話の内容で不明な点もあるかもしれない。
しかし国立の一端を知るにはいい素材なので紹介しておく。
 関頑亭氏インタビュー 第1回(全3回) - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=XSx1Kc4sbxQ

 関頑亭氏インタビュー 第2回(全3回) - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=-_X68xHUlwc

 関頑亭氏インタビュー 第3回(全3回) - YouTube

https://www.youtube.com/watch?v=idrN1pCNbAQ

   話の中でこの日も繁すしに掛けてあった額縁の絵の話になった。
この絵はいつかこの日記に書いたなと過去記事を辿ってみた。

 2008127 子供が小さかった頃篇 ふうてん老人日記http://futen.cocolog-nifty.com/futen/2008/01/2008127_928b.html

  この頃はビデオ・カメラで撮影していたので画質はあまり良くない。
この絵はお店といい繁さんといい、本当にソックリの感じがする。
この日も頑亭さんにこの絵の感想を言わせてもらった。
(この絵本当によく描けていますねぇ、写真より本物みたいで)
とふうてんがいうと、
(この人、繁さんのお父さん?)
(繁さんより男前ねぇ)
などなど女性陣のチャチャがはいった。
(もう20年以上前の繁さんとお店ですからねぇ)

 ふうてんはミーハーなのでサインをして貰おうと思った。
ちょうど始まったばかりの頑亭さんの個展の案内ハガキを貰ったところだったので書いてもらった。
それが掲記の一枚である。
(じゃあ長生きできる絵を描いてあげましょう)
 
と言って名前ではなく仏画を描き始めた。
(先生、これは例のナマズですね)
(ナマズは腹が白いだろう、だからナマズは正直者の象徴ということでね)
(先生、これはサンスクリットですか?)
(そう)
残念ながらこの文字の意味を聴くのを忘れた。

 頑亭さんは以前(心の眼で見るんだよ)とおっしゃったことがある。
それ以外にも掲記の写真のように(耳で観て、眼で聴き、心で描く)ともおっしゃる。
全身全霊で、というくらいしかふうてんには表現できない境地であられるらしい。

 ともかくいつもにこやかで、その場の人を愉快にさせてくれる。
国立にとっては(国宝)級の存在なのであります。

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2015/01/06

2015・1・5 戦後70年こちらは69歳になった篇

P1020448正月2日の谷保天神

 今年は戦後70年になるとかで、テレビではいろんな記念番組をやる。
去年は第一次世界大戦開始の100周年だった。
この30年の間、人類は世界中で殺し合った。
戦争は国家、国民にとって一番重大な問題なので、いろんな角度からの報道があるのは当然かもしれない。

 日本が無条件降伏することで、第二次世界大戦は1945年の8月15日に終わった。
翌1946年の1月5日にふうてんは伊予で生れた。
戦争が終わったとき、既におふくろのお腹の中にいたことになる。
戦中派なのだろうか?戦後派になるのだろうか?
戦争体験をしたと言っていいのだろうか?

 いずれにせよ物心ついたころ、まだ戦争の後遺症は色濃く残っていた。
戦地から引き上げた人たちが何人か家にいたこともある。
いろんな話を聴かせてくれたはずだけれど、こちらは子供だから殆ど覚えていない。
一つだけ鮮明に覚えているエピソードがある。

 中国大陸のどこかの賭博場(?)での出来事。
トランプ(カード)ゲームをやっていた時、一人の男が一枚のカードを手のひらで隠そうとした。
次の瞬間(イカサするな!!)と別の男がその手のひらの甲にナイフを突き立てた。
カードは手のひらごとテーブルに串刺しにされた。
また次の瞬間、男が刺された手のひらをひっくり返した。
みんなで上を見ると天井にカードがナイフに刺された形で張りついていた。
 
・・・・

 子供の間はすごい話だなあと感心していた。
少し頭が働くような歳になって、そんなことは現実にはあり得ないことに気づいた。
とすれば、あのお兄さんの創作だったのだろうか?
創作にしては良く出来ているなあ、まるで映画の一シーンみたいにこちらは息をこらして聴いたものなあ。
ということで、お兄さんの創作だったのかこちらの聴き間違いだったのかは以後詮索しないことにしている。
ただ言えることは、平和な今の日本でこういう風なファンタジーは思い浮かばないということ。
戦争というのがいかに過酷で血なまぐさいものかをこのファンタジーは感じさせてくれる。

 今年はどういう年になるのだろうか。
12月の選挙で絶対的安定多数を得た今の政権は(経済最優先)を繰り返している。
ふうてんは何となく腑に落ちない。
経済なんてのはいつの時代にも大事な話である。
戦後70年という節目にはもっとやりたい事があるはず。
戦後リジュームからの脱却、とか憲法改正とか言っていたはず。

 宮崎駿が2013年に(風立ちぬ)を出した後、長編制作ついての引退宣言をした。
ちょうどその頃、彼はスタジオジブリ出版部の(小冊子『熱風』)で論を張っている。
この(熱風)7月号の特集は(憲法改正)だった。
宮崎駿の論のタイトルが、
(憲法を変えるなどもってのほか)
というものだった。

 彼は1941年生まれで、本当の戦中派である。
お父さんの会社は零戦の部品なども作っていたらしい。
物心つくころにはもう戦争は終わっていて、戦争に負けてどん底だった日本に失望した。
戦争を起こして大敗した日本人にも失望していた。
 
・・・・
そんな彼の経験を振り返りつつ、憲法改正に関してどう思うかを語っている。

 ふうてんなどは同世代のせいもあり、彼の言う事が一から十までその通りだと思う。
戦後、今の憲法に守られて経済に励んで一応喰えるようになった日本である。
経済成長はここまでか、となって余計な事を考えるようになった。
いろんな制度をいじりたがる。
憲法までいじろうとする。
今の自衛隊は立派な軍隊ではないか、戦力を持たないなんてウソではないか。
憲法を変えて防衛のための自国軍を持つ一人前の国になったと宣言したい。
 
・・・・
これに対して宮崎駿は(今までウソついてきたんだから、ウソをつき続けた方がいい)という。
そんなことよりも、衣食住を外国に頼りきっている今の産業構造をどうかしないと。
人口は3500万人くらいでいい。
それくらいだと外国に頼らずに喰っていけることは徳川時代に証明している。
市場至上主義で産業が空洞化する現象は日本には合っていないのではなかろうか。
 
・・・・

 宮崎駿は、人が多すぎるからアニメーションなんて商売が成り立つんですよ、という。
人が減っていくからこれからアニメーション商売も成り立たなくなるかもしれない。
それでいいんですよ、無理をすることはない。
引用させてもらうと、
(いつまでも「巨人軍よ永遠なれ」とか、ちゃんちゃらおかしい。「ジブリよ永遠なれ」もありゃしないです。鈴木さんがこけたら全部死にますよ。鈴木敏夫さんの腰がこけたら全部おわりです(笑)。)

と最後は笑いで締めくくっている。

 日本の首相の年頭所感にあった(日本を、再び、世界の中心で輝く国としていく。)というセリフに不安を覚える。
一度でも世界の中心で輝いた時代があったろうか。

そもそも、世界の中心で輝くとはどういう意味なのだろう?

 今年のNHKの大河ドラマは吉田松陰(の妹?)が主役である。
長州出身の首相がいる今、NHKはこういう番組を作る。
長州藩の彼の弟子たちが明治維新で主要な役割を演じた。
その後の日本の歴史を考えると(拡大主義)というものがあったのではないかと考えざるを得ない。
当時、欧米列強にいつ植民地化されるかという恐怖心があったに違いないけれど、自分たちが他国を植民地化するという矛盾を吉田松陰は予感していたのだろうか?
ふうてんは吉田松陰を単純に讃美してよいのか分からないでいる。

 

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