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2014年12月に作成された記事

2014/12/29

2014・12・28 今年の総括をとマスター云い篇

Pc050446今年のコナラの紅葉

 書簡集へ年末の挨拶に寄った。
スカGのお兄さんも来て今年の〆の会談となった。
(ヤンキースの黒田が広島に戻るのはカッコいいね)
(何倍もの年俸を振ってねぇ)
(ジータのヤンキース・スタジアムの最終戦でも投げたよね)
 
・・・・
 帰ろうとしたらマスターが、
(今日は今年の総括篇を書かないといけませんね)
(えっ?あっそうだ今日は日曜日だった)

 今年も隠宅では全くの無風であった。
総括をするほどの出来事は何もなかった。
小さな変化としては韓流ドラマを観たことくらいだろうか。

 NHKが(奇皇后)というドラマの宣伝をよく流していたので観始めた。
なかなか面白く、続けて観るようになった。
中国に支配されていたころの朝鮮のある国での物語。
もう一つは(ホ・ジュン)という同じく歴史物で、こちらは医者の物語。
これは女房どののお勧めで観始めたのだけど、やはり観続けることになった。
物語というのは一旦観始めると、次は、次はとなり、つい最後まで観てしまいたくなる。

 女房どのは毎日のように韓流ドラマを観ている。
例の(冬のソナタ)でファンになった訳ではない。
留学生との付き合いから韓国語に興味を持って独学で学び始めた。
その延長線上に韓流ドラマがあるという次第。
言語としては文法が日本語にそっくりだそうですぐに慣れたとか。

 隠宅はかくの如く無風であったけれど世の中はずいぶん騒がしい一年だった。
日本では安倍内閣の(独裁体制)が固まった。
12月14日の総選挙で有権者の20%ほどの票を獲得し衆議院の60%の議席を取った。
今の日本は民主主義のはずだけれど、これで選挙は民意を反映していると言えるだろうか。
どうも(選挙で選ばれた人が政治をするのだから民主的な政治のはずだ)といっても、選挙制度次第で良くも悪くもなる。

 投票率50%ということをどう考えればいいのだろうか。
これだと過半数で25%。
有権者の1/4の支持で国会の立法が決まることになる。
今の日本人は政治から離れてしまった。
というより、元々政治には無関心な国民性なのかもしれない。

 世界に眼を向けても、どこも大変ですなあ。
イスラム圏、ウクライナ方面、中国の台頭著しいアジア、相変わらず奴隷制の後遺症が根強く残っているアメリカ、EUという統合に挑戦中のヨーロッパ。

 東洋の小さな島国で日本は良かったなあと、ふうてんなどはつくづくと思う。
陸続きだったらややこしくてしようがない。
この離れ小島という利点を活かして小さな国としての在り方を考えればいい。
成長だとか拡大だとか世界一だとか、の掛け声はもうそろそろよろしいのではないだろうか。
(神は小さきものに宿る)
あっ、これは別の意味だったかなあ。

 少なくとも長い歴史のある日本、もう十分に成長もしたし拡大もしたし世界一も取ってきた。
そろそろ(落ち着いた成熟社会)を狙う資格があるのではないだろうか。

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2014/12/22

2014・12・21 忘年会の季節になった篇

Pb300451銀杏の紅葉も鮮やかだと気づく
 

大学の国際交流会館入り口の大木






Pb300448さくら通りも今は銀杏通り



  寒い日が続く。
 
もう冬至だという。
 
チャリで繁すしへ向かおうとするとまだ明るい。
 
(嫁さん、日が延びてきたなあ)
 
(明日は冬至だというのに・・・その分朝が遅いのよねぇ)
 
(どうもそうらしいなあ、地球と太陽の関係とか軸が傾いているとか、そんな偶然で何もかも決まったいうのオモロイなあ)
 
(天文学者なんてどうしていろいろと考え始めたのかしらね)
 
(昔の、道具がない時代・・・ボ~ッと空でも見とったんやろねぇ)
 
・・・
 
 繁すしでビールを一杯飲んだとき、村ちゃんが登場した。
 
(いいとこへ来たねぇ、僕たちも今来たばかりなのよ)
 
(この間文楽を観に行きましてね)
 
(ああ、言ってたやつね、国立劇場でしょう)
 
(一番後ろの席だったのだけど、始まってから近くの席に二人はいってきましてね)
 
(文楽に遅れて来るとはけしからんなあ)
 
(それで見ると住大夫さんなんですよ、奥さんと二人でね)
 
(ほ~っ、珍しいねぇ、どうしたんやろ)
 
(弟子たちの演技を観に来たんでしょうねぇ、一幕終わると帰っちゃいました)
 
(現役引退しても・・・まだ・・・やっぱりなあ)
 
(幕間に握手してもらおうと席に戻るのを待ってたのに帰っちゃいました)
 
(おしいことしたねぇ)
 
・・・・
 
ふうてんは10年くらい前の松山空港待合室での住大夫んとの15分ほどの会話を思い出していた。

 期せずして村ちゃん、繁さんご夫妻との忘年会のような雰囲気になった。
 
来年は連休のときですねと女将さんが言った。
 
1月11日の日曜日。
 
成人の日とからめて、土日月と3連休になるらしい。

 この日で、2014年の繁すし通いは終わった。

 

 

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2014/12/15

2014・12・14 谷保天満宮で恒例の旧車祭があった篇

Pc070449Pc070453 
 
 
 


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レーシング・ブガッティ



Photo_3106周年だとか







Pc070446
Pc070447天満宮と自動車の不思議な組み合わせ






Photo_2日本一キレイでかわいい御朱印帳!東京「谷保天満宮」

Pc070461Pc070462梅園では発動機愛好会の展示

 

 

 先週の12月7日に谷保天満宮で旧車祭があった。
ACJ(オートモビル・クラブ・ジャパン)の主催で毎年この頃行われる。
この日記でも何度か報告してきたけれど、今年も寒い中冷やかしに行った。
この(谷保天満宮旧車祭)の発祥についてACJは以下のように説明している。

(有栖川宮様の御先導によりわが国初の遠乗会が国立の鎮守谷保天満宮を目的地として催されました。
谷保天満宮は、わが国自動車文化発祥の聖地であり、交通安全祈願も、この日 明治四十一年八月一日に始まりました。
日本最古の自動車倶楽部、オートモビル・クラブ・ジャパンが設立されたのも明治四十一年八月一日になります。)

 どうも有栖川という宮様は車がお好きだったようで、明治40年に日本初のガソリン車が製造されたことをきっかけに、明治41年から日比谷公園から谷保天満宮まで車を連ねて遠乗りをされたらしい。
それを(ラリー)と称していたとも聴く。
ラリーというのは今でも行われている自動車競技の一種で、ふうてんなども学生時代に参加して、本州の広島から東京まではいろいろと走り廻ったものだった。

 ラリーの語源についてウィキペディアは以下のように教えてくれる。
(ラリー (: Rally) とは、指定されたコースを一定の条件のもとで長時間走る、自動車競技の一種
(ラリーを直訳すると「再び集まる」という意味であり、各地を出発してから一箇所に集うのがイベントの原型である)

 明治41年ころは、国産車はほとんどなくて(国産第一号が掲記の写真らしい)、外国から取り寄せた車に打ち跨がって日比谷から谷保まで甲州街道を走ったのだろうか。
途中にガソリンスタンドなんてなかったろうに・・・ガス欠やエンコも続出しただろうなあ・・・。
その催し物が106年も続いた・・・よほど(ラリー)は楽しいものなのだろうか??

 今年の祭りで一番嬉しかったのはレーシング・ブガッティの一台が出展していたことだった。
1920年代の製造と思われるこのタイプのブガッティが車の中では一番カッコいい。
去年亡くなったカーグラフィックの小林彰太郎さんの記事でブガッティの魅力を知った。
ロシナンテと付き合い始めたころで、それまでスポーツカーというのはバカにしていた。
1960年代の、まだ日本で車が普及していない時代にスポーツカーに乗るのは金持ちの坊っちゃんで浮ついた野郎どもだと、バカにしていたのであった。

 しかし小林彰太郎さんのブガッティの話を聴くに連れ、待てよと思いなおした。
自動車の歴史のことを考えるようになった。
自動車はものを運んだり、人間が移動する為の道具として発明され進化をした。
その中で、(速く走る)ということを追求した車種が後にスポーツカーと呼ばれるようになった。
それの究極の形が当時は(レーシング・ブガッティ)であったと教えられた。
(機能を究極まで追求すると、その形は美しくなる)
それを実証したのもこのブガッティだとふうてんは納得した。

 小林彰太郎さんの話を聴いた後40年ほど経つけど、ブガッティは気になる存在となった。
最初はカーグラフィックのバックナンバーの(ブガッティ特集)を神保町で漁った。
次は青山や銀座の洋書店でブガッティの写真入りの本を漁った。
初めてブガッティの走る姿を観たのは外国の映画だった。
文楽の竹本住大夫さんやフラメンコのパコ・デ・ルシアを追っかけるのと同じようにブガッティを追っかけていた。
 

 そのブガッティの本物が目の前にある。
そりゃあファンとしては興奮しまっせ。
それで前から後ろから、左から右から、写真を10枚ほど撮った。
いつかこれのオーナーに乗せてもらいたいものだと思った。

 谷保天満宮の社務所を冷やかすと今(御朱印帳)が大人気だと宣伝していた。
神社仏閣を訪ねて(朱印)を押して貰う手帳である。
こういうものが最近の(女子)に流行っていると社務所の人に教えてもらった。

 梅園では、これも恒例の(発動機愛好会)の展示が行われていた。
発動機というのは農業でも使われていたエンジン付きの動力機械で、農村で育ったふうてんなどは、まことに懐かしい存在なのである。
その姿形と、エンジンの低い、スローテンポの音。燃料の灯油の焦げる匂い。
もう50年以上も前のこういうレトロな機械を愛好する会もあるのですなあ。
山梨とかいろんな方面から集まっていた。

 谷保天満宮はウィキペディアに聴くと、
903年(延喜3年)2月に菅原道真が薨去したとき、子息の道武は自ら像を刻み、廟を建てて祀ったのが谷保天満宮の創建だとされる)とある。
今の国立市民は(谷保天 やぼてん)とか(谷保天神)とかと呼んで(谷保天満宮)とは呼ばない。
拝観料もいらず、門もなく、一年中、24時間、出入り自由である。
ここで春夏秋冬いろんな催物が行われる。
会社員生活が終わったこの10年ほど、不精なふうてんもちょくちょくとお邪魔するようになった。

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2014/12/01

2014・11・30 サントリーとニッカのこと篇

3_2サントリー山崎蒸溜所

JR東海道本線がすぐ傍を走る(京都-大阪の間)


 
 
 

 

2013山崎シングルモルト・シェリーカスク2013
英ウイスキーガイドブック「ワールド・ウイスキー・バイブル2015で歴代の最高点
「重厚でドライ、まろやか」と評価し、100点中97.5点を与えた

 もう今年もあと一ヶ月を残すだけになった。
一歳の子供の一年と比べると七十歳の老人の一年は70分の1の時間で過ぎるらしい。
なるほど一年が短いはずだと納得する。
10歳のころと比べても7倍の速度だから、恐ろしく速い。
逆に言うと10歳のころの一年、一ヶ月はずいぶん長かったとも言える。
12歳の中学一年のとき、夏休みに身長が3センチほど伸びた記憶がある。
12歳にとっては一ヶ月はそれだけ伸びるに十分な時間だったということになる。

 このところNHKの朝のドラマでニッカ・ウィスキーの創業者のことをやっている。
(マッサン)という題名だったと思う。
普段はNHKの(朝ドラ)と(大河ドラマ)は一切観ない方である。
毎日、毎週、(学芸会)のようなドラマを観るのは耐えがたい。
半年とか一年の長丁場で毎回面白いドラマを作れと言っても無理な話。
NHKのドラマだって10回くらいで完結するものには結構見応えがあるのもある。
何年か前にやった(蝉しぐれ)なんかは最高だった。

 しかし、この(マッサン)というのは気になるので土曜日にBSプレミアムでまとめてやる再放送を録画して一週間分をチェックすることにしている。
何故気になるかというと理由は二つある。
一つは日本の国産ウィスキーの第一号を作った男の物語であること。
一つは(まさはる、まさはる)という声が聴こえてくること。

 ふうてんの名前は(正治)と書いて(まさはる)と読む。
(マッサン)は(政春)と書いて(まさはる)と読む。

ついでに言うと、福山雅治は(雅治)と書いて(まさはる)と読む。
これも気になってNHKの大河ドラマ(龍馬伝)は結構観た。
何気なくテレビを観ていて(まさはる)と呼ばれるとハッとしてしまう。
相手が親であれ女の人であれ先生であれ上司であれ(まさはる、まさはるさん)と呼ばれるとドキッとする。
何となく冗談事では済まないような緊張感を覚える。
親なんかも普段は(まさちゃん)と呼んでいたのに(まさはる)と呼ばれたときにはロクな話ではなかった。
まこと(名前の音声での呼びかけ)は恐ろしい。

 ニッカの創業者は(竹鶴 政孝 たけつる まさたか)という名前であるらしい。
今でも(竹鶴)というブランド名は残っていて、なかなか旨いウィスキーである。
ふうてんはサントリーのウィスキーを飲んでいる。
ウィスキーにもいろいろあって、どのメーカのものでも旨いものは旨い。
全部の品種がニッカよりサントリーの方が旨い、という話はない。
やはり値段に上中下があり味にもそれが言えるのである。

(マッサン)を観ていて面白いのはウィスキーというそれまで日本人に馴染のなかった酒をどのようにして日本人が飲むようになったかのストーリーである。
それをニッカとサントリーが開拓した。
1929年に発売された(サントリー白札 サントリーホワイト)が国産初だとグーグルは教えてくれる。
ウィスキーを日本の庶民が飲むようになってまだ100年も経っていないのである。

 ふうてんがウィスキーを最初に口にしたのは中学生のころだった。
オヤジが酒は一滴も飲まない方だったので家には酒の類は置いてなかった。
北伊予駅から松山駅の一駅の電車通学だったので、松山駅の売店で買ったのだろうか。
サントリーの(トリス)のポケット瓶だった。
まあ、一口、口に含んでビックラこいた。
大人はこんなものを飲んで嬉しがっているのか?と不思議だった。
ヒリヒリと舌にしみるだけで旨いどころの騒ぎじゃなかった。

 大学生になって(サントリーホワイト)というのを買って飲んでみた。
これはトリスよりもソフトというかマイルドでヒリヒリも少なく悪くなかった。
ふうてんは酒は飲めない方だったので、(チボー家の人々)の弟ジャックのように(俺の人生に乾杯)と一人で気取ってみただけのお話であった。
下鴨神社近くで初めての下宿が決まったときには神社の傍の喫茶店でやはりウィスキーを飲んだ。
その時は(サントリー角瓶)だった。
飲めもしないのに、ショットグラスに注がれた角瓶を(俺の人生に乾杯)と一人で楽しんだ。

 25歳で結婚したころは、何故か酒が飲めるようになっていた。
ビール一杯ですぐ顔が真っ赤になり、やがて心臓がドキドキし始める、典型的な下戸だった。
大学時代はコンパ(飲み会)で無理に飲まされ、下宿に帰ってフトンに横たわると天井がグルグル回ったりしていたものだった。
ところが卒業して会社にはいって寮生活を過ごした頃から変ってきた。
何故かふうてんの部屋がみんなのたまり場みたいになって、それぞれ酒を持ち込むのであった。
付き合っているうちに(酔う)ということを初めて経験した。
酒を飲むことが必ずしも苦痛ではないことが分かるようになった。

 それから(68-25=43年)ほどウィスキーを飲み続けてきた。
炭酸水で割ったハイボールとか水割りとかいろいろ試したけれど、ウィスキーはストレートに限る。
そのことを(マッサン)で別の(まさはる)くんが主張するので、思わずクスッとなる。

 ウィスキーの話、サントリーとニッカの話を書く積もりだった。
しかしどうも長すぎるので、今回はふうてんとウィスキーとの出会いで終わってしまった。
近いうちにサントリーとニッカ、アサヒビールとサッポロビールなどなどの付き合い。
あるいはサントリーの宣伝部長だった開高健や一時その部下だった山口瞳さん。
そんな話を書いてみたい。
吉田健一なんていう物書きもいて、大酒飲みだったけれどウィスキーのことも書いている。
外交官だったオヤジさんの吉田茂に連れられてイギリスにも長く住んだお人である。
(スコットランドは川の水までウィスキー色をしている)
なんてのたまう。

 ウィスキーの話になると長くなりますなあ。

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