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2014年10月に作成された記事

2014/10/27

2014・10・26 竹本住大夫さんのこと篇

Photo住大夫 半生記
言うて暮らしているうちに)

 このところ世界文化遺産とか世界農業遺産とかユネスコ無形文化遺産とかいう話が多い。
さらには東京オリンピックやノーベル賞や文化勲章。

 我々の日常生活と関係があるのは無形文化遺産の(和食)くらいだろうか。
まあ東京オリンピックとか富士山は近場でもあるし、青色ダイオードはパソコンやテレビで毎日見ているし、住大夫さんは追っかけしたし・・・。
そう無関係でもないかしら・・・。

 竹本住大夫さんが文化勲章をもらった。
何を今更、という感をぬぐえない。
住大夫さんは、明後日の10月28日に90歳になる。
20年以上前に文化勲章でもよかったと思われる。
選考の基準がいつも分からない。

 この住大夫さんの受賞を記念してかNHKが(闘う三味線 人間国宝に挑む 鶴澤清治)という番組を再放送した。
2007年に放送した番組で、当時テレビはアナログだった。
ビデオテープには録画しているけれど、今回デジタル・ハイビジョンで再放送があって、まことに慶賀の至りではある。
非常に鮮明な映像で住大夫さんを観ることができる。
勿論ブルー・レイで(永久保存版)にする。

 この番組で住大夫さんと三味線とのコンビのことが語られている。
ふうてんが追っかけた時期の相棒は最初から最後まで野澤錦糸くんだった。
住大夫-錦糸のコンビは最高だった。
この番組は鶴澤清治がその住大夫さんに挑戦する、という趣向を中心に構成されている。
二人が組むのは18年ぶりというから恐れ入る。

 鶴澤清治が住大夫さんに挑戦したいと思って企画が進んだのだろうか。
彼の希望で、人形抜きの素浄瑠璃だった。
謡いと三味線だけのバトルである。
いつもは横っちょの右端に陣取る謡いと三味線が舞台正面に並んで座り客に向かう。
演目は「素浄瑠璃 壇浦兜軍記 阿古屋琴責の段」といって、三味線にとっては難曲中の難曲だという。
これも敢えて鶴澤清治が選んだのだった。
まことに見応えのある番組だった。

 住大夫さんのことはこの日記で何度も書いている。
あまり知られていないのだけど、彼には非常に面白い半生記がある。
聴き書きで作られたと思われる本なのだけど、本物の大阪弁で生い立ちから今を語っている。
(言うて暮らしているうちに)
最初この題名を観たとき意味が分からなかった。
しかし読むうちに、なるほど、なるほど、と意味がよく分かってくる。

 大阪の、今で言うと(北の新地 梅田の当たり)で生まれ育った。
オヤジさんが6代目の竹本住大夫で今の住大夫さんは養子であった。
実母と養母は姉妹ではなかったかと思う。
生れた当時の大阪の文楽の雰囲気がよく伝わってくる。
昭和の初期の賑やかな時代からやがて戦争になり、焼け野が原になり・・・。
戦後、文楽なんて何の用もない時代から住大夫さんの苦闘は始まる。

 この本で面白いのは嫁はんとの駆け引きの話かもしれない。
住大夫さん、どうも女の人にもてたらしい。
地方講演で親しくなった女人もいますわねぇ。
その女人から郵便物が届くことがある。
さあ、えらいこっちゃ。
嫁はんに見つかったらエライ騒ぎになる。
若い住大夫さん、嫁はんに見つからないように隠れて郵便配達を待ちます。
(ことんッ)
と、届け物が郵便受けに落ちた・・・。
さて、この後どうなったでしょう?
それは本を読んでのお楽しみ・・・。
といっても、残念ながらこの本は今は本屋で売られておりません。

 住大夫さんが文化勲章をもらったニュースと同時に大阪市が文楽への補助金を2015年から中止するというニュースが伝わってきた。
今の市長になってから文楽への補助金は減らされ、ついにゼロになるという。
住大夫さんは文楽協会の責任者として苦しみ、それが脳梗塞で倒れた一因だとも言われている。
国立文楽劇場は大阪市の日本橋にあり、その名の通り国立であるはず。
(人形浄瑠璃・文楽)は去年登録された(和食)と同じユネスコの無形文化遺産に登録されている。
こういう(日本の文化遺産)を守り、育てるという意志を大阪市は持っていないのだろうか。

 過去の遺産をカンバンにして観光客を誘致し、観客を呼び込み、金儲けには熱心のようである。
反面、それを支えている例えば(文楽協会)の苦闘にに対して冷たい、とはどういうことだろう?

 一方では住大夫に勲章を与える。
一方では住大夫さんたちの活動の資金を断つ。
(責任者、出て来い!!)
を売りにした大阪漫才が昔あったなあ。

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2014/10/20

2014・10・19 書簡集マスターどのにつき篇

Pa190469書簡集



 急に寒くなった。
台風の18号と19号が東京へも来て、その後急に気温が下がった。
今年もまた秋がなかったような気がする。
一日で最高気温が10℃以上違ったこともあった。
エアコンも今日冷房(除湿)なのに明日暖房ということがよくある。

 今日は、繁寿司をパスして書簡集へ行った。
女房どのが歯の治療中でタコとかエビとかは無理のようだった。
それで夕刻チャリで書簡集へ向かった。

 書簡集との付き合いは何年くらいになるのだろうか。
30年ほど前に国立に越してきた時から存在は知っていたような気がする。
繁寿司で山口瞳さんなどの常連さんが(じゃあ書簡集でコーヒー飲みますか)なんて、帰っていたのを時々聴いていた。
繁寿司からもほど近く富士見通りに面している。

 毎週のように通うようになったのは10年ほど前からだと思う。
会社生活が峠を越えて、国立の隠宅で過ごす時間が長くなってからだった。
それまでの生活は朝家を出て、帰りは夜中ということがほとんどだった。
従って国立の隠宅の回りのことはあまり知らなかった。
ただ週一の繁寿司通いが、一週間の区切りでもあり国立を知る機会でもあった。

 会社員生活の終わりの頃から、あまり会社へ行かなくなった。
その代わりというか、チャリで国立をいろいろと見て回るようになった。
一橋大学の留学生と付き合う(ホスト・ファミリー)というのも引き受けた。
毎週一度自宅に招待して食事を振る舞う、というのが主な仕事だった。
最初に付き合った北京から来た(リュウコウさん)を書簡集へ連れて行った。
彼女の宿舎であった一橋の国際交流会館から書簡集はほんネキなのである。

 それが機会となって書簡集へ通うようになった。
まことに小さな喫茶店である。
カウンターに6人、一つだけのテーブル席に4人、併せて10人で満杯になる。
マスターの後ろの食器棚も薄くて奥がない。
写真のこちら側に冷蔵庫とか調理場とか洗面所とかはある。
マスターが一人で全部を仕切るために設計したのではないかと思われる。

 客のいろんな注文に応じるマスターのキビキビとした動き。
カウンターに陣取ってそれを観るだけでも書簡集へ行く値打ちはある。
コーヒーを入れ、ジュースを作り、氷を割ってアイス・コーヒーを作る。
自家製のいろんなケーキを切る。
サラダを作り、パスタを作り、カレーを作る。
まことに手際がよい。
客がいないときに、パスタやカレーの具やルーの下ごしらえをする。
調理場なんて、スペースは1メートル四方の小さな場所しかない。

 通い始めてすぐに(これは芸術だ)と思った。
小さいが故に全てにマスターの神経が行き届いている。
ここは小さい店ですからその積もりで振る舞って下さい。
ということを入り口で表現している。
入り口が小さいのである。
背が低いので身を屈める様にしてはいる。
帰るときに客はよく頭をぶつけることになる。
まるで茶室の(にじり口)のような気配。
マスターに聴くと、いやそれは特に意識していません、全体のバランスで。
だとか。

 この頃のふうてんの注文は決まっている。
(コーヒー豆と・・・マティーニできますか)
2年ほど前まではビールとウィスキーを飲んでいた。
この頃はまずマティーニ、そして2杯目からがウィスキーになった。
マティーニというのが良くできた酒だということを再認識させて貰っている。
どうしてイギリス人、例えば007・ジェームス・ボンドの作者であるイアン・フレミングなどがマティーニを愛したのか、などの理由はよく分かる。
味はベルモットの甘さとジンの辛さ、グラスの形など透明の見た目の良さ、最後に齧るオリーブの苦み。
お子さま向けではないようである。

 10年間、毎週、となると一年48回×10=480回となる。
480回も通ってマスターと何を話し合ったのだろうか。
時々政治の話や、日本どうしたらええんやろ、とかの話にもなった。
そういう硬い話になるとよくマスターと議論染みた様相を呈した。
(随分マスターを怒らせて来ましたねぇ)
(いえ、僕は怒っていませんよ、ふうてんさんが勝手に怒っていただけで)
 
・・・・

 言われてみるとその通りなのかもしれない。
書簡集は沢山のお客が来る。
様々な客の言い分を聴く、その能力をマスターはお持ちのようである。
若い女の子を始め様々な老若男女、一人住まい、家族連れ。

 マスターは会社勤めをしたことがない。
大学生の頃、銀座である喫茶店を知り、生涯の仕事を決めたという。
本当は都心で店をやりたかったらしい。
結局は国立でやることになった。
マスターには定年というものはない。
(いいですねぇ、職人は、定年がなくて)
(職人は死ぬるまで働かないといけないのでしょうか)
(繁さんはいつも、女房から死ぬまで働けと言われる、と)
(サラリーマンは定年で仕事やめさせられて、死ぬまで何をすればよろしいのかしら)
 
・・・

 週一の書簡集通いは、繁すし通いと共に、一週間のリズムを作ってくれる。
開高健は、句読点を打たないと次の一行が書けない、と言っていた。
近くに句読点を打てるお店があることはまことに有り難いと思う。

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2014/10/12

2014・10・12 愛媛県のお国自慢ノーベル賞につき篇

Photo大江健三郎と中村修二
 
二人はここで生まれ育った


 

Photo_2松山、伊予、大洲

 
 
 


 中村くんがやっとノーベル賞を受賞した。
ずいぶん前から(ノーベル賞に一番近い男)と言われてきた。
やっと、というか、ついに、というか、at last、というか。
これを機会に愛媛の伊予の(有名人)について、よもやま話をしたくなった。

 愛媛県は歴史上の有名な人が極めて少ない土地柄である。
奈良時代、平安時代、江戸時代には誰も登場していない。
明治になって、日露戦争の頃に秋山兄弟が登場した。
これも司馬遼太郎の(坂の上の雲)を読んだ人以外にはあまり知られていない。

  秋山兄弟の弟、秋山真之(さねゆき)と正岡子規は同年配だった。  
二人は松山で中学校時代を一緒に過ごし、子規は東京に出て夏目漱石と親しくなる。

この真之、子規、漱石は簡単に言うと同級生、といった趣がある。
日本が世界に乗り出そうとした明治末の頃、そろって活躍した面々である。

 漱石は松山中学に赴任した一年余りの経験を(坊っちゃん)という小説にした。
(坊っちゃん)は今でも読まれている。
今読み返しても歯切れのいい江戸弁で、ストーリ展開が速く、いい気分で読むことができる。
松山は名物がないものだから、今でも(坊っちゃんダンゴ)(坊っちゃん列車)を売りにしている。
松山の人、愛媛の人にとって漱石はまるで身近な親戚のような人なのである。

 そんな愛媛県で二人目のノーベル賞受賞者が出た。
中村修二くんである。
青色ダイオードの製品化に寄与した、として受賞した。

 愛媛県の大洲(おおず)で育ち徳島の大学に行き、徳島で就職してその会社で青色ダイオードに挑戦した。
製品化に成功して、その報酬の問題で会社と揉めて裁判沙汰になった。
600億円とか200億円よこせ、と言っていたのが結局8億円で決着した。
本人は勿論不満で会社を辞めてアメリカへ行った。
今はアメリカの市民権を得ている。
こういう会社との裁判沙汰もノーベル賞受賞の遅れに影響していると思う。

 ふうてんなどは、中村くんと同じように会社員として特許を出願した。
その出願のときに会社との契約があった。
おぼろだけれど、特許権は会社に帰属する、ただし発明人は本人の名前とする、というようなものだったような気がする。
出願に対していくら、特許になったらいくら、その特許を使った製品の売り上げに対していくら、ということも決められていた。
どうも中村くんのいた会社ではそういうことが決められていなかったらしい。
それで青色ダイオードが巨額の利益をもたらしたものだから裁判沙汰となった。

 彼は今、カリフォ~ニャの大学で先生をしていると聴く。
望んだ通りの研究環境を手に入れた訳である。
はたして今後どういう研究を成し遂げるのだろうか。
昔、ジョン・フォードや黒沢明が、所属する映画会社への反発のエネルギーで傑作を作ったことを思い出す。
中村くんも(怒りがエネルギーだった)とノーベル賞受賞後の会見で語っている。
今、中村くんの(怒り)はどこへ向かっているのだろうか。

 愛媛県にはもう一人ノーベル賞をもらった御仁がいる。
大江健三郎が1994年に文学賞をもらった。
日本人の文学賞としては川端康成に次ぐ二人目だった。
文学賞ということは小説が翻訳されて世界中で読まれたということになる。
ふうてんなどは、『芽むしり仔撃ち』 (めむしりこうち)しか完読したことがない。
芥川賞をもらった(飼育)なども同じ頃、彼が23歳くらいの時の作品である。
こういう初期の作品は好きだった。

 10年後の(万延元年のフットボール)がノーベル賞受賞の代表作とされている。
ふうてんは大学生のときに本屋で、出版されたばかりのこの本を見た。
題名が面白いし、装丁が立派な分厚い本だった。
フムフムと貧乏学生が無理をしてその高価な本を買った。
下宿に帰って、さて、と読み始めた。
1ページしか読めなかった。
続きを読む気にさせてくれなかった。
以後、大江健三郎の書くものは一切読む気がしなくて読んでいない。

 愛媛出身のノーベル賞の二人は生まれ育ったところが非常に近い。
ふうてんの故郷からも近いところである。
それで掲記の写真2枚を載っけてみた。
大江健三郎の(内子)とか中村くんの(大洲)とかは日常の会話でしょっちゅう出てきた。
どちらも愛媛の首都松山からは(山間の田舎)という風に捉えられていた地区であった。

 愛媛自体が田舎なのに、さらに田舎というのも変な話ではある。
ただ(内子)とか(大洲)とかが松山でも当時話題になっていたのは特徴のある地区だったからではないかと思い出す。
それぞれに独特の文化が発達していたような気がする。
二人とも大学へ行くときに田舎を離れたけれど、だいたい18歳くらいまでに人間は決まる。
18歳までの環境で育まれたもの、それが二人の財産、資源となって各分野でそれを発揮したのではなかろうか。

 ふうてんは二人の共通点は(自分で考える)ということのような気がする。
自分で考えると権威とか組織の力とかは疑わしいものになる。
そのことがこの二人にノーベル賞をもたらしたのではないか、と思う。

 愛媛県、昔は伊予の国、は何しろ奈良、京都、東京などの首都から遠い。
おまけに四国は本州から海で隔てられた島国である。
首都との行き来は極めて稀だった。
従って、首都と比較のしようもなかった。
比較のしようがないから(首都コンプレックス)というのもなく、ただ自分で考えるだけだった、のではなかろうか。

 そういう田舎は全国に山ほどある。
その中で愛媛の特徴は瀬戸内海に面していることだと思われる。
奈良時代から外国へ行く船が行き来していた。
行きや帰りに愛媛にも寄ることになる。
松山の道後温泉はずいぶん古い。
百済へ戦いに行く前にここで、温泉にはいって気合をいれたのだろうか。
戦いからの帰りここの湯で癒されたのだろうか。
 
・・・
首都からは遠いけれど、行き来する連中から結構情報を仕入れていたに違いない。
しかも行き来する連中は外国との付き合いである。
ど田舎の愛媛の連中、案外外国に通じていたのかもしれない。

 中村くんのノーベル賞を機会に愛媛の、伊予のお国自慢をさせてもらった。

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2014/10/06

2014・10・5 新幹線50周年につき篇

P9270580谷保天の秋祭りも終わって

隠宅近くの神輿の詰め所
 

 
 
 



 この10月は新幹線と東京オリンピックの50周年になるらしい。
テレビで記念番組をよくやっている。
今年の前半は第1次世界大戦100周年とかノルマンディ上陸70周年とか戦争ものが多かった。

 50年前は18歳だったからよく覚えている。
新幹線に乗って東京オリンピックを冷やかしに来た。
高校を卒業して伊予から京都へ流れた年だった。
春と夏は奈良、京都を見学し、秋に新幹線で東京オリンピック見物。
ずいぶんと(お上りさん)した、変化の大きい年だったなあ、と思う。

 50年たって新幹線はずいぶんとカバー範囲が広がった。
(東京-大阪)だったのが今は(青森-博多)となった。
1964年に開業し、60年代、70年代、80年代の経済成長の動脈となったと言われる。
その時代に東京在住の会社員として、ふうてんなども随分と新幹線に乗った。
50年の間に新幹線の車両は何代も世代(?)が変わり続けてきた。

 初代の新幹線にはビュッフェと呼ばれた立ち食いの食堂があった。
通路の脇にカウンターがあって軽食を食べたり、ビールやコーヒーを飲むことが出来た。
それまでの特急列車にもあったスタイルだけれど、こちらは初体験で新鮮だった。
何しろ時速200キロで走る列車の中でコーヒーが溢れる事もなく運ばれてくる。
日本の鉄道技術は大したものだなあと田舎出の18歳は驚いた違いない。

 ビュッフェは食堂車の登場と共に徐々に姿を消していく。
こちらの食堂は2階のような場所だった。
窓の外の風景が高速で飛びすぎていく中で飲食するという不思議な経験だった。
ここの席は指定席ではなかったので、自由に出入りできた。
一度など大阪から東京へ帰るときチケット予約が出来ず困っていたら、松下の営業さんが、食堂車という手がありますと言った。

 松下とのミーティングを大阪で行い、続きは東京で、という場面だった。
大阪から東京まで食堂車の一席を占拠して松下の営業さんと飲み食いしながら(ビジネス・ミーティング)に耽ったという次第。
当時は大阪-東京が3時間ほどだった。
こちらは効率よく仕事がはかどったけれど、JR東海さんにはずいぶん迷惑をかけたことだった。

 テレビで新幹線50周年などと聴くとそんなアレ、コレを思い出させられる。
オリンピックの方は開会式の日に代々木陸上競技場の(外)をうろつきながら、ジェット機で描いた(五輪マーク)を見物しただけなので、特に思い出すことはない。

 今でもたまに新幹線に乗ることがある。
たまに友だちに載っけてもらって東名高速を走ることもある。
両方とも、気分がいいのは、途中停車のない時間が長いことのように思う。
高速で移動する席から、移り行く遠くの景色をボンヤリと眺めるのは悪くない。
近くの住民の方々には申し訳ない話だけれど・・・。
 
 

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