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2014年7月に作成された記事

2014/07/28

2014・7・27 ハモの季節やでぇとMuさんは言った篇

29_2祇園祭の山鉾
タペストリーで飾られているとか
JoBlogより
 (2回クリックすると絵がクッキリ見えます)

 今年の夏もまた異常な気候となった、ように思う。
今日7月27日の天気予報だと東京より西、或いは南の地方は軒並み35℃以上だとか。
人間の平均体温は36℃~37℃であるらしい。
つまりは今年の夏も体温に近い温度で過ごさねばならない。
温度が同じだということは・・・服は必要なくなる。
男も女も裸で、一糸まとわずに過ごせ、ということなのだろうか?
今は文明社会ゆえ、そういう訳にも・・・。

 この7月のクソ暑い季節になるといつも京都の祇園祭を思い出す。
JOさんが今年祇園祭に出向いたようで、素晴らしい写真をJoBlogに載っけている。
京都 祇園祭(前祭 2014717日 山鉾巡行)
http://indiehistory.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/2014717-8d17.html

 ついでにこの日記でも一度祇園祭(宵山)の記事を書いた。
2005年7月17日 寄る年波には勝てず?篇 ふうてん老人日記http://futen.cocolog-nifty.com/futen/2005/07/post_3bbb.html
これの(ふうてんアーカイブス)に1997年のJOさんが登場する。

 祇園祭となるといろんな記憶がよみがえる。
ふうてんは学生時代を京都で過ごした。
大学時代の5年間だった(一年留年、つまり落第したので5年となった)。
京都の夏は蒸し暑い。
だから夏休みは故郷の伊予へ帰ることにしていた。

 何年生のころか忘れたけれど一回だけ夏休みに伊予へ帰らず京都で過ごしたことがある。
その時に7月の祇園祭、8月の大文字焼きに付き合った。
両方とも、大したものだなあ、これは千年の都じゃないと出来ないなあと感心した。

 江戸へ流れてからも、祇園祭のころになるといつもMuさんから電話があった。
(ハモの季節やでぇ)
というのが決まり文句だった。
Muさんは一年前、去年の7月に我々よりも先にあの世へ行った。
去年は(ハモの季節やでぇ)は聴こえなかったのかもしれない。

 それでちょくちょくと祇園祭の季節に京都へ出向いた。
酒の肴はハモである。
三条小橋上がるの(めなみ)へ行く。
ハモの代表は何というのか、茹でた真っ白のやつ。
(ハモのおとし)とか言われる。
これは梅肉をつけて食べる。
その食べ方の情景が谷崎潤一郎の(瘋癲老人日記)に書かれていた。
何故か息子の嫁さんがハモはお代わりしたのに梅肉はお代わりしなかった。
梅肉は谷崎も嫁さんも共用するのである。
谷崎の魔界に引き込まれてしまった。

 Muさんとそんな話をしながら祇園祭の季節も京都を楽しんだ。
春夏秋冬、年に4回くらいは京都を訪ねたいと今でも思っている。
JOさんのように世界を経巡ることはふうてんには出来ない。
せめて日本の中くらいは、と思うのだけれど。
その行動半径が隠宅から2キロメートル以内になったことはこの日記に書きつけた通り。

 JOさんのブロッグ記事を拝見した数日後、NHKで(中継 京都 祇園祭 千年の謎)という番組をやった。
この番組を観て祇園祭の鉾(ほこ)の由来にビックラこいた。
どうして祇園祭の山鉾の回りを飾る織物のような絨毯のようなものは外国風なのだろう?
それは昔から謎だったらしい。
由来を知らないまま、何百年も町内の人はその鉾を担いで練り歩いてきたとも言える。

 今から50年近く前の昭和41年(1966年)ころに鉾の織物を修復する機会があった。
周辺の飾り、絵とは関係ないところ、を引き剥がすと(BB)という文字が現れたという。
この発見から、京都の祇園祭の山鉾を飾る織物の由来が解明されたらしい。
日本人としてはまことに感動的な物語であった。

 アメリカやらオランダの有名な美術館やら博物館の学芸員たちが異口同音に語っている。
祇園祭の(鉾)は奇跡です。
現物は世界のどこにも残っていません。
それを惜しげもなく、みんなの前に出して観てもらっている。
これは(動く美術館です)。

 このNHKの番組では、その鉾の(動く美術展)を演出した主役にも迫っている。
BBという文字からブリュッセルにたどり着く。
それが鎖国時代にどうして伝わったのか?
やはり権力者にしか出来ない。
その権力者(信長、秀吉、家康、その末裔たち)を支えたのは商人なのですなあ。
つまりは(お金の工面)です。
 
 それをやった代表格が京都にいたらしい。
三井の先祖とか松阪屋の先祖とか
そういうことが番組で紹介されて、最後にその末裔の人も登場した。
(どうして今まで由来が伝わっていないのでしょうね)
(そうでんなあ)
(わざと由来を消したのでしょうかねぇ)
(お金工面してもお客さんに迷惑かけたらあきまへん)
(なるほど、で、どうしてみんなに見せたのでしょうね、通りを練り歩いて)
(はるばる外国からたどり着いた貴重品でおます。隠しておくのは勿体ない)
(それで?)
(祇園祭という年に一回のハレの日にみなさんにお見せする・・・)
(そうすると祇園祭の値打ちも高まりますねぇ)
(入場料いりまへん、ただで観てもらうところに値打ちがある)
 
・・・・
 確かにアメリカやオランダの美術館の学芸員が言っていたように奇跡的なお話。
やはり京都は一筋縄ではいかない文化を持っている。
(お上がりやす、ぶぶでもどうどす)
と言われてすぐに上がってお茶をいただいてはマジイ土地柄のようである。

 京都に5年ほど住んで江戸へ流れてきた。
江戸、東京はもう少しシンプルなようである。
(まあ一杯)
と言われてすぐにご馳走になっても間違ったことはない。
京都で生き抜くのは大変だと時々冷や汗が出る。
伊予の田舎丸出しだったのだろうなあ。
江戸へ流れてホッとしたような気分になったことを今でも覚えている。

 我が東京は田舎者ばかりの集まる土地柄。

江戸時代からそうだった。
まことに気楽な居心地のよい土地柄である。

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2014/07/20

2014・7・20 花咲く旅路という歌に救われた篇

P31606983月までシロはこんなに元気だったのに

 どうもシロがいなくなって心の落ち着き所を決めかねている。

 人間という生き物は、毎日ちょっとしたことでもいいからホッとする時間が欲しい。
ちょっとした楽しい会話でもいい。
ちょっとした笑顔でもいい。
親しい友だちからの連絡でもいい。
何かそういうちょっとした楽しみが一つもない一日は悲しい。

 池波正太郎は(一杯の味噌汁でも人生の幸せを感じることがある)と書いている。
小川の流れを見ながら明日何を喰おうかなと考えることが一番の幸せだった。
とも。

 去年と今年に死んだクロとシロはふうてんにとっての楽しみだったのだろうか。
毎日のちょっとした楽しみを提供してくれたようにも思う。
彼女たちは飼い猫ではなかった。
野良猫であった。
クロちゃんなどは最後まで威厳を保って近寄ろうとしなかった。
決してこちらの手を触れさせることを許さなかった。
子供のシロが少しこちらに馴染んできてもクロは違った。

 そのクロが死ぬる一ヶ月くらい前から妙に、なついてきた。
それまで家の中には一歩も足を踏み入れなかったのに、はいってくるようになった。
絶対に触らせなかったのに体をすり寄せて来るようになった。
喉や腹や背中を撫でるといつまでも出て行かないで、こちらに体を委ねているのだった。
(もう長くはないのかもしれないな)
と、ふうてんは思った。

 その予想は当たり、あまり時を経ずに死んだ。
一年後のシロもそんな気配があったのかもしれない。
クロと違って家の中を探索する趣味はあった。
時には階段を登って二階まで行き家人を驚かせたこともあった。
しかし基本的には家の中に居つくことはしなかった。
寝る場所はロシナンテかその近くに限られていた。

 そのシロが衰えて疲れているようだったので家の中に寝床を用意した。
その場所はシロが若いころカーテンにじゃれて喜んでいた場所であった。
このカーテンで覆われると妙に静かになる。
ときどき、そのカーテンの下で眠るようになった。
しかし我が家にはネコ・アレルギーの家人が二人いる。
いつまでも家の中にシロにいてもらう訳にはいかない。

 それで夕刻、静かに眠っているシロをロシナンテまで運んだのであった。
運転席に寝かせると、ウン、ここも落ち着くねという安心した顔をした。
翌朝、恐る恐るロシナンテの運転席に近寄った。
やはりもうシロは動かなかった。
その姿はクロが死んだ時と同じようだった。
クロもシロもロシナンテの運転席で死んだ。

 こういう時に慰めてくれる歌を思い出した。
(原由子 花咲く旅路 作詞・作曲:桑田佳祐)

 1990年ころに流行った曲だった。
ディスカバー・ジャパンとかいって、(いい日旅立ち)の百恵ちゃんの歌も大ヒットした。
20年以上前になるけれど当時の歌は(日本とは何か?)を真面目に追求していたような気がする。
あるいは(日本はいいよね)という思いだったのかもしれない。

 日本はいい国に違いないのにねぇ。
どうしてお隣さんの国々からは嫌われるのだろう?
その理由はハッキリしているし、嫌われないためにやることは分かっているのにねぇ。
鉄砲持って攻め込んじゃあいけないよ。
このディスカバー・ジャパンの20年前は、日本は平和国家だった。

 それから20年たって、どうやら日本は戦争したがっていると外国に疑われている。
こういう時代の(ディスカバー・ジャパン)にはどういう歌が登場するのだろうか?
その曲の作詞者は(アベ・シンゾウ)という名前なのだろうか。
作曲者は?

(花咲く旅路)のセリフを一部紹介しておきたい。

鈴なりの花を摘み
吹く風に夏を知る
おだやかに ああおだやかに
 ぼんやり遠くをながめてる

世の中は ああ世の中は
なぜこんなに急いてと流れてく

道無きぞ この旅だけど
でもこんなに上手に歩いてる

稲穂の先が いつしか垂れコウベ
咲く紫は旅路を彩どる

 桑田佳祐、ただ者じゃぁ、ありませんなあ。
(愛しのエリー)だけではではなかったようで。
・・・

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2014/07/14

2014・7・14 やはり寂しい篇

P7080498_3シロここに眠る
クロの隣に

 シロが死んで一日たって、家族三人で埋葬した。
雨模様だったので迷ったけれど季節柄そんなには待てない。
雨の隙間を狙うように、庭師が穴を掘った。

 ロシナンテの運転席から庭までシロを運んだ。
途中で我が家のクンが名残を惜しんだ。
彼はネコちゃんたちが好きだったのだけれどネコ・アレルギーだった。
花粉症の人が花粉に反応するようにネコに反応した。
ひどい時は眼が、気の毒な状態になるのだった。
だから近くに寄ることは出来なかった。

ましてや撫でたり抱き上げたり、触ることは殆ど出来なかった。

 それでもネコが好きで、その振る舞いに癒されることもあったようだった。
ネコちゃんたちもクンのことが好きで、よくすり寄ってきていたらしい。
そのシロを埋葬するのである。
(クンちゃん、まだ生きているようだよ。シッポもまだ柔らかい。)
(そうだね)
シロの顔や体を撫でて、別れを惜しんだ。

 庭の葉っぱを敷いてシロを横たえ、その上を、さるすべりの花で覆った。
そして手で土をパラパラパラとかけて埋葬した。
雨模様だったので、その上をアジサイの葉っぱでカバーして雨対策とした。
その様子が掲記の写真である。

 シロが死んで一週間。
改めて、朝昼晩、一緒に住んでいたのだなあと思う。
家の中からロシナンテの様子を見ることが出来る。
南の縁側も見える。
そこにシロがいるかなあと毎日気になっていた。
近くのスーパーで買い物するときは(小アジ)のいいのあるかなあと気になっていた。
シロがいなくなって、小アジのいいのがあったりすると・・・複雑な思いに駆られる。

 この家に住むようになっていくつかの別れがあった。
おふくろ、オヤジ、クロちゃん、シロちゃん。
短い生命の時を共有できた。
その偶然に感謝したい。

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2014/07/07

2014・7・6 シロが死んじゃった篇

Lion21Shiro_2_21シロは綺麗な猫だった

 今朝、ロシナンテの運転席でシロが死んだ。
母親のクロが死んだのは去年の3月だった。
やはり一人では長く生きられなかった。

 シロとの付き合いは15年ほど前から始まった。
ある日、繁すしから帰ってロシナンテを車庫に入れたときだった。
ミャ~ッというような鳥の声のような音が聴こえた。
車庫の中を探しても何もいなかった。
ロシナンテのシーツを丸めて車庫の隅に置いていたのをいつものようにボンネットの上へ持って行った。
シーツと一緒にその声が移動した。
オヤッ?何だろう?これは??

 丸めたシーツの中に生れたばかりのネコちゃんがいた。
これがシロとの付き合いの始まりだった。

 シロが生れた夜、知り合いのネコ好きに相談すると、親猫用のエサを用意しなさいという。
翌朝行ってみると、エサは綺麗になくなり、シロの姿も消えていた。
それから2カ月ほどたって、庭をボンヤリ見ていると、クロに連れられてシロが威風堂々と登場したのであった。
 

 以来、15年ほど毎日シロと付き合うことになった。

クロとシロはあくまで野良ちゃんであった。
野生動物との対等な付き合いであった。
こちらが支配することもなかった。
向こうが一宿一飯の礼をすることもなかった。

 そのシロが去年の3月に死んだ母親と同じようにロシナンテの運転席で一生を閉じた。
この日記にもちょくちょく登場してもらった。
シロへのレクイエムとして元気なころの写真を載っけておく。
12

 

 

5P4280421_31食事は縁側だった 





 
 

 

一度シロが子猫を連れてきた


Neko1    
  
 
 

 
 
 
 
   
 
 

 
 

 

 
 


 

21Shiro_11_2お隣の物置が好きだった
 
   
 
 

 
 

 

Shiro1_2_2Shiro_331_2Shiro_441_234
何故かロシナンテが好きだった

 

  
 

  

 
  

 

 今の家に引っ越して18年。
平成8年、1996年に今の家を建ててから。
今日の7月6日は引っ越し記念日でもあった。
8、7、6で覚えやすいからこの日にしたと女房どのはいう。
覚え易い日をシロは選んだのだろうか。

P7020499_2P7020516_3シロが死ぬ一週間前

 
 
 
 
  
  
  
 

  
 

 

 
  
 
 
 
 
 
Kikuchiyo1_3  
これは?

赤塚先輩と菊千代でした・・・

 

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