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2014年3月に作成された記事

2014/03/31

2014・3・30 桜が咲いた篇

Sakura2014_2

近くの公園で

 今年の桜は突然咲いた。
25、6日ころに東京では靖国神社の開花宣言があった。
しかし多摩地区は少し遅いようで一輪も咲いていなかった。

 28日の金曜日に(四季の会 冬春篇)を府中でやった。
 
南武線の矢川駅へ向かうとき、桜通りの様子を観た。
 
まだ全く咲いていなかった。
 
そして昨日の土曜日と今日の日曜日は朝から雨、風だった。
 
これじゃ桜も咲かないだろうなと思っていた。

 今日の夕刻、急に空が晴れて風がやんだ。
ひょっとして、と思ってデジカメを持って家を出て書簡集へ向かった。
途中まずいつもの撮影スポットである桜通りの様子を観る。
雨が上がったばかりで咲き始めてはいるのだけれどみんなクシュンとしている。

 それで近くの公園で写したのが掲記の一枚である。
雨風に襲われていたので花は開ききっていない。
それでもボンボリのような花の塊が一生懸命花を開こうとしている。
この形はソメイヨシノ独特の形だと思う。

 書簡集マスターに桜が咲いたことを報告する。
マスターが(桜通りの桜は植え替えるそうですね)と言った。
(いよいよ始まりますか)
(桜を植え替えて、歩道を広くして車道を狭くする、そうですよ)
(市長のガマちゃんかなあ言い出しっぺは)
(もう市議会は通ったと聴きました)
 
・・・・
(やっと桜のトンネルになっていい調子だったのにねぇ)
(だから危険も増えたということらしいです)
(ソメイヨシノの寿命は70年から80年くらいと聴くものねぇ)
(大正の大地震で東京が壊滅したとき国立は出来て、桜の植樹を)
(昭和初期に、今の天皇陛下の誕生を祝って国立に桜を植えた、とか)
(それからもう・・・70年は過ぎてますよね)

 花に嵐のたとえもあるさ
 
  サヨナラだけが人生だ

 
 こう、中国の名句を日本語に訳したのは井伏鱒二だったろうか。
雨風で散る桜花とのお別れは毎年のこと。
しかしその桜の樹たちとのお別れもやがてやってくる。
35年ほど前に国立へ越してきたとき、桜通りの木々はまだ若かった。
桜のトンネルは出来ていなかった。

 なるほどいつかは別れがくるか。
 
井伏鱒二の訳した原詩は以下のようだという。
(勧君金屈巵 満酌不須辞 花発多風雨 人生足別離)
まあ一杯飲んでくれ、溢れるまで注がせておくれ、また会えるかなあ・・・。

 花という短い命を人生にたとえたものでありましょうか。
花は死ぬることで美しく輝く、といった東山魁夷の言葉をまた思い出してしまった。
短い命を共に生きたという無意識の思いが美しく感じさせる、と。

 

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2014/03/24

2014・3・23 大相撲も面白い篇

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桜はまだかいな
 

谷保天神の梅 最後の輝き


  

 

 大相撲春場所で鶴竜が優勝し横綱昇進を決めた。
 
繁すしへ行って、テレビをつけて貰うとちょうど優勝決定の大一番だった。
それで鶴竜(かくりゅう)が勝って横綱を自分のものとした。

 昨日の(大相撲春場所 楽日前の会)でもこの話題になった。
(大相撲改めモンゴル相撲ですか)
 
とブンシュンのトヨダさんが言った。
 
それからしばらく民族問題、人種差別問題の話になった。

 三人三様、それぞれのこれまでの経験を語り合った。
ラガーマンは若いころ留学していたパリでの出来事を話した。
パリ祭といわれるお祭りのときだった。
ある有名な広場に沢山の人が押し寄せた。
交通整理じゃないけれど、ラガーマン、これは危ないと思い一人のご婦人に言った。
(こんなに人が集まっているから押さないで下さい)
そのフランス人の老夫人は応えた。
(あなたベトナムの人ね)
 
・・・
 
これを聴いてラガーマン、それまでヨーロッパに行って最下層の労働、皿洗いなどをして人種差別を受けてきたけれど自分は差別をしていないと思っていた。
その自分が(お前はベトナム人だな)と言われてカッとなった。
(俺は日本人だ、というナショナリズムが僕にもあったのでしょうかねぇ)
 
・・・

 ラガーマンにふうてんも昔の話を紹介した。
ふうてんもニューヨークで(アーユー フロム ヴィエトナム?)と聴かれた。
大抵の日本人は(アーユー フロム チャイナ?)とか(アーユー フロム トウキョウ?)
と聴かれるらしい。
 
どうして自分は(ヴィエトナム)なのだろう?

 ふうてんには思い当たるフシがあった。
まず骨相が前後に長い西洋人と違って左右に広い平板な形をしている。
鼻だって細くて高い、というのではなくて、広くて低い形ではないか。
ああ、ニューヨークのアメリカ人にはベトナム人と見えるのだろうなあ。
(アーユー フロム ヴィエトナム?)
と聴かれて不快感はなかった。

 むしろ、自分のルーツはベトナムに違いない、と思うようになった。
何しろベトナムと四国愛媛の伊予は海で繋がっている。
大昔、先祖たちがボートピープルとして小さな船に乗ってドンブラコッコ、ドンブラコッコと流れてきたのではなかろうか。
黒潮に乗って日本に流れ着いてやがて一部は瀬戸内海に紛れ込んだ。
その連中が伊予の海岸の波の静かなところに着陸する。
島の人は穏やかな連中ばかりで、疲れ切った漂流民たちを暖かく看護した。
 
・・・
そんな空想を抱くようになった。

(アーユー フロム ヴィエトナム?)と聴かれて20年後くらいにNHKの映像の世紀という番組があった。
2000年ころの番組で、20世紀は1900年ころ映画が発明されて数々の映像が残っています、どういう世紀だったのでしょう?という主旨だった。
簡単に言うと20世紀は戦争の世紀だった。
植民地時代の名残が残っていた。
インドや中国での人が人を痛める過酷な映像も紹介された。
そういう植民地を世界中に持っていた連中が戦争に突入した。
第一次、第二次の世界大戦である。

 このシリーズ番組の中でふうてんが一番気に入っているのは(民族の独立の旗の下に)という第二次世界大戦後のアジアの動きであった。
第二次世界大戦後、欧米の列強の綱引きが始まると同時にアジアでの独立運動が始まった。
遅れていたアジアの諸国で独立国家としての動きが始まった。
最初はインドのガンジーだった。
二番目は中国の毛沢東だった。
そして三番目に登場するのがベトナムのホー・チミンだった。
ガンジー、毛沢東、ホー・チミンの中ではホー・チミンが一番カッコいい。
外国の力を借りずに独立した唯一のアジアの国であった。
・・・・


 大相撲春場所で新しい横綱が誕生した、ということから長話になってしまった。
ンゴル相撲という言い方から民族論になって、考えてみれば俺たちモンゴリアンだよな、北欧から南米まで蒙古斑のある赤ん坊が生れているよね、なんて話になった。
隣近所でいがみ合っているバヤイじゃないのにねぇ・・・。

 次回大相撲5月場所のときもよろしく、と三人は家路に着いた。


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2014/03/17

2014・3・17 春がやってきた篇

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お隣の家が完成した
2013年8月と2014年3月

 雪が降ったりして寒い寒いと思っていたら急に春がきた。
2、3日前に終日雨が降り、そのうち風が強くなって暴風雨となった。
どうもその前日あたりの風が(春一番)だったのではないかと思う。
春一番の後は必ず雨が降るそうで、今年もその通りに進行した。

 お隣の家が完成して新しい隣人が住むようになった。
すぐ近くから引っ越してきたので顔なじみのご一家である。
いくら近くても一家の所帯道具を運ぶのは大きなトラックとなる。
女房どの同士で(近くても引っ越し屋さんに頼むのよねぇ)と笑いあったらしい。
ふうてん夫婦が結婚してから3度の(引っ越し)を思い出してしまった。

 最初の引っ越しはよく覚えている。
東急の田園都市線にある自由が丘のアパートから多摩ニュータウンへの引っ越しだった。
就職して2年目、結婚したのはいいのだけれど住居の用意は出来ていなかった。
やむを得ず(?)それまで住んでいた自由が丘の寿司屋の2階の一部屋のアパートで新婚生活を始めた。

 引っ越し先の多摩ニュータウンの部屋は、会社の仕事仲間たちが用意してくれたのだった。
資金も住居も何の当てもなく結婚を決めて松山で結婚式を挙げた。
披露宴のとき、仕事仲間からの電報が披露された。
(多摩ニュータウンに入居決定。安心サレタシ・・・)
全く予想もしていない成り行きだった。

 それで自由が丘から多摩ニュータウンへ引っ越しをした。
家財道具といったって大したものはない。
それでも電車やタクシーという訳にはいかないのでレンタカーのトラックを借りた。
会社の若い人一人が付き合ってくれた。
トラックの運転は自動車部出身だから慣れたものである。

 その道中、若いのと話した。
(これがトラック一杯の幸せ言うんやろねぇ)
(トラック一杯の幸せですか)
(所帯を持った二人が全部積み込んだ一台のトラックでね、未知の世界へ向かう、希望に胸を膨らませながら、とね。)
(言われてみれば・・・その通りですが・・・)
(ドンブリ一杯の幸せ、というのもあるよね)
(ハァ~?・・・)
(例えばラーメンて、あるじゃない。スープがあって麺があって具がある。おいしい一杯のラーメンに出会うと、ほかの面倒くさい、例えば会席料理なんかより、よっぽど幸せだなぁと思うこと、君ない?)
 
・・・・
当時は加山雄三の(幸せだなぁ、僕は君といるときが一番幸せなんだ)という歌のセリフが流行っていた。

 トラック一杯の幸せ。
ドンブリ一杯の幸せ。
それでいいじゃないか、と68歳になっても時に思うことがある。

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2014/03/10

2014・3・9 天野祐吉とよもだ精神のこと篇

Photo

広告批評(1979年~2009年)
創刊号表紙

 NHK(あの人に会いたい)で天野祐吉が取り上げられた。
この番組はたった10分の放送なのだけれど、人物のエッセンスが手短かに表現されていて気に入っている。
(あの人に会いたい)というくらいだから勿論故人ばかりを扱っている。
はて?天野祐吉さんも去年だったのか、と改めて去年は多くの親しい人を失くしたなあと思う。

 彼が我々の前に登場したのは何と言っても雑誌(広告批評)だった。
1979年に創刊し2009年に終わったとウィキペディアは教えてくれる。
どうして(広告批評)が印象に残っているのだろう?
思い出してみると当時ふうてんは入社10年で、まだフラフラとしていた。
つまりは仕事に身が入ってなかった。

 ふうてんが勤めていた会社ではこういうタイプは製品にはタッチさせない。
その代わり、次に何を作れば良いか、会社のイメージは世の中にどう受け止められているかなどを考えさせる。
従って所属部署は企画とか調査とかの名前のところばかりだった。

 (広告批評)に出会ったのは会社のCI(Corporate Identity)を考えていたときだった。
1980年ころというのは日本の高度成長がピークに達してバブルの雰囲気が漂い始めたころだったかもしれない。
当然テレビコマーシャルを筆頭として企業の宣伝活動も真っ盛りの時代だった。
車やテレビやカメラや酒類のCMには印象的なものが数多くあった。
そこに眼をつけて(広告批評)という雑誌を始めたと天野さんは自身で語っている。
広告の大切な一つに(自社をどう売り込むか)というテーマがあった。
それでCI(シーアイ)というそれまで聞き慣れなかった言葉が流行った。

 SONYとかKodakとかは会社名をロゴマークのように使っていた。
そのロゴマークを観て消費者は一瞬でその会社のイメージや製品を想像できた。
コンピュータや通信でライバルだったNECはC&Cというのを打ち出してきた。
NECは(computer and communication)という社業をC&Cという標語を使って表現して当時話題となり始めていた。
わが社はどうすればいいのだろう?
そんな時には本屋通いもするし、国会図書館にも足を運ぶし、いろんな銀行の研究所の門を叩いたりもする。
つまりは調査活動であった。
本屋の雑誌コーナーで(広告批評)を知り、天野祐吉という人はおもろい人物だと思った。

 1980年代から彼はいろんなテレビ番組に登場するようになった。
いろんな人と対談したりインタビューを受けるという形で。
本もずいぶん出している。
その活動の中で彼は単なる雑誌の主宰者ではなく、一種の(文明批評家)のような活動をするようになったとふうてんは理解している。

 この数年は(成長とか大きくなるとか金儲けとかより大切なものがあるはず)という論調が目立ったように思う。
日本は小さな島国で資源もない国だけれど、これまで培ってきた(文化力)はまだ残っているよ、小さくてもいいという考え方も必要だと思う。
正確には再現できないけれどそんなことを言っていたのが印象に残っている。
2008年に発表した(広告批評)休刊の弁は以下のようだった。
2009年に30周年を迎えるけれど、広告がテレビなどマスメディア経由からインターネット経由へ変化していることを理由として・・・)

やはり彼は時代を見るに敏な人だったと思う。

(あの人に会いたい)という番組の最後に彼は語っている。
彼は東京で生れて、戦争で焼け野が原になったあと父親に連れられて愛媛の松山へ移った。
松山は父親の故郷だったという。
中学校2年生の時だった。
そこで出会った(よもだの精神)が彼の原点になったらしい。

(“よもだ”というのはどういう語源なのか わからないけどね)
(なんかこう 物事を 肩ひじ張って真っ正面から大真面目に捉えないということですね)
(全身の力を抜いて そんな力んでたってしようがないよなという風に見る精神ですよ)

・・・
(天野さんの下地になっているのですね?)
(そうなんですよ これが僕の養分になっている)

 天野祐吉と伊丹一三と大江健三郎は同時期に松山の高校で過ごした。
夏目漱石が松山中学に赴任して、その経験を(坊っちゃん)に書いた土地柄である。
今の松山の高校は明治時代の松山中学の後継ぎみたいなものである。
そこには(よもだ精神)が流れているのだろうか。
漱石の(坊っちゃん)の中にバッタ事件というのがある。
暑い夏に蚊帳の中に50匹ほどのバッタが入れられていて坊っちゃんが怒りまくる。
少し長いけれど、これが伊予松山の(よもだ精神)の発露の典型例だと思うので引用させてもらおう。

「なんでバッタなんか、おれの床の中へ入れた」
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。
やに落ち付いて居やがる。此学校ぢゃ校長ばかりぢゃない、生徒迄曲りくねった言葉を使ふんだらう。
「バッタを知らないのか、知らなけりゃ見せてやらう」と云ったが、生憎(あいにく)掃き出して仕舞って一匹も居ない。

 又小使を呼んで、「さっきのバッタを持ってこい」と云ったら
「もう掃溜(はきだめ)へ棄ててしまひましたが、拾って参りませうか」と聞いた。

「うんすぐ拾って来い」と云ふと小使は急いで馳け出したが、やがて半紙の上へ十匹許り載せて来て「どうも御気の毒ですが、生憎夜で是丈(これだけ)しか見当りません。あしたになりましたらもっと拾って参ります」と云ふ。
小使迄馬鹿だ。

 おれはバッタの一つを生徒に見せて「バッタた是れだ、大きなずう体をして、バッタを知らないた、何の事だ」と云ふと、一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣(や)り込めた。
「篦棒(べらぼう)め、イナゴもバッタも同じもんだ。第一先生を捕まへてなもした何だ。菜飯(なめし)は田楽(でんがく)の時より外に食ふもんぢゃない」とあべこべに遣り込めてやったら「なもしと菜飯とは違ふぞな、もし」と云った。
いつ迄行ってもなもしを使ふ奴だ。
 
・・・・

 漱石は(坊っちゃん)で松山の風土に生きる人々をぼろくそにけなしている。
その割には松山名物は漱石と子規くらいしかないので松山の人たちには今でも愛されている。
(坊っちゃん)をよく読むと漱石の観察眼に驚かされる。
(な、もし)は今でもよく使われる典型的な伊予弁の一つである。
それを小説の中でまことに的確に使っている。
そしてこの悪がきどもが(よもだ精神)そのものであることを漱石は見抜いていたらしい。 
伊予ではふうてんの子供のころもバッタとイナゴの違いを子供たちはよく知っていた。

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2014/03/03

2014・3・2 パコ・デ・ルシアが死んじゃった篇

Paco_1

Paco_8パコ得意のポーズ





Paco_3_2 演奏会の雰囲気

 


 楽しみにしていた谷保天神の梅まつりの演し物は雨で中止となった。

今年もまた梅まつりでの天神太鼓を聴くことができなかった。

 雨模様の中、書簡集へ行くとマスターが言った。
 
(パコが亡くなりましたね)
 
(えっ?知らなかった。マスターどうして知ったの?)
 
(新聞に出てましたよ)
 
・・・・

 読売新聞でも報じられるくらいパコは有名になっていたらしい。
帰ってグーグルに聴くと2月26日滞在先のメキシコで心臓発作で亡くなった、とあった。
ウィキペディアによると(19471221 2014226)とあるから66歳。
1946年1月生まれのふうてんの二歳年下だった。

 書簡集から帰って、ウィスキーを飲みながらパコのビデオをあれこれと観た。
ビデオに録りためたものを引っ張り出すよりユーチューブの方が手っとり早い。
パコ・デ・ルシアは本当に大したギタリストだった。

パコを初めて知ったのは京都で学生のころだった。
通っていたフラメンコ・ギター教室の先生から聴いた。
フラメンコには楽譜がないので、我々が使う楽譜は先生がレコードを聴いて採譜したものだった。
(パコ・デ・ルシアという若いのが出てきて凄いのよ。これがスピードは速いし弾き方も新しいので採譜できひん。曲もええし演奏もええんやけどなあ・・・)
と、先生嘆いてはった。

 東京へ流れて初めてパコの演奏を聴いたのは1980年ころだったろうか。
東京の田園調布にある(田園コロシアム)という野外のスタジアムみたいなところだった。
円形の小さなスタジアムで階段席が舞台の回りを取り囲んでいる。
野外だからして、そよそよと風が吹いている。
(うん、なかなか雰囲気いいじゃない)
などとまだ子供もいない気楽な我々夫婦は楽しんでいた。

 ところがやがて雷鳴が鳴り、土砂降りの雨となった。

そういうこともあろうかと、持参したビニールのカッパを着る。
舞台では音合わせをし始めたばかりだった。
舞台の片隅にテントのようなものを張っていて、その中でやっている風だった。
雨はだんだん強くなり、やがて殆どの観客がどこかへ消えてしまった。
 
・・・・
こちらは別にすることもないのでただずっと待っていた。
やがて雨がやんだ。
これじゃあコンサートは中止だろうと思った。
すると、意外や意外、テントの中に隠れていたパコたちが姿を現した。
 懲りずに残っていた少数の聴衆のために連中は予定通りの全曲をやってくれた。
これがパコのコンサートを聴く初体験となった。

 それからパコは2年に一回くらいなペースで来日した。
ふうてん夫婦の追っかけが始まった。
東京都内のいろんなコンサート会場、遠くでは横浜まで追っかけたことがある。
横浜のときはフラメンコではなく横浜のオーケストラと一緒にロドリゴの(アランフェス協奏曲)をやった。
来るたびにメンバーは変わっていたような印象がある。
3人から10人くらいの少数の編成だった。
女の踊り子は観た記憶がない。

 いつも最初の一曲をパコが弾く。
2~3分の短い曲を一人で弾く。
その冒頭の一曲で我々聴衆はパコ・デ・ルシアの世界に引き込まれてしまうのだった。
そうして演奏会の終盤になって、馴染の一曲が始まる。
ラ~ッラ、ラ~ラ、ララララ,とそのサウンドが響き始めると会場はワ~ッとなる。
パコの出世作である名曲(二筋の川)が始まるのである。

 パコのコンサートにはいつも女房どのに付き合ってもらった。
彼女はジャズとかフラメンコとか、ふうてんが最も好む音楽は好まない。
我々夫婦で音楽の好みが合うのはせいぜいショパンくらいなもの。
その女房どのがパコのことは好きになってくれた。
一度など、新宿かどっかのコンサートのとき、花束を渡したい、なぞと言ってふうてんを困らせたこともあった。

 その女房どのに今日、パコの死を知らせた。
残念だけど同じ時代に生きて聴くことができたのは良かった。
でも、もう聴くことは出来なかったけれど、どこかで生きていてくれている、というだけでも良かったのにねぇ。
とも言った。

 田園調布の田園コロシアムから通い始め、最後のコンサートは2005年だった。
たまたまこの老人日記に記録されていた。
2005年7月24日 久しぶりのパコ・デ・ルシア篇 ふうてん老人日記

 1980年ころから2005年まで。
25年ほど追っかけさせてもらった。
レコードやらCDやらDVDやらブルーレイやらでこれからも追っかけるに違いない。
ユーチューブもあるし。

 パコ・デ・ルシア。
我々は君の魅力を忘れない。

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