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2013年12月に作成された記事

2013/12/30

2013・12・29 This is Japan 篇

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桜通りも冬枯れ

 テレビは年末の番組編成となっている。
今年のニュース、話題の総集編である。
27日が年貢の納め時、じゃない仕事おさめの日で28日(土)からは休みの会社も多いらしい。

そういう会社では来年1月5日までの9連休だとか。
サラリーマンにとって連休というのは嬉しいものだ。
会社人間(?)だったふうてんにはよく分かる。

 さて、こちらは今年をどう振り返ろうか?
個人的には全く変化はないのに世の中いろいろと変わってきたように感じる。
今年はさしずめ(This is Japan)だったなあと思う。

 圧倒的多数の議席を得た自民党政権。
富士山や和食の世界文化遺産登録。
東京オリンピックの招致。
伊勢神宮と出雲大社の20年振り60年振りの遷宮。
これぞ日本。
This is Japan

愛でたし、愛でたし。
 
・・・

 しかし、ふうてんのいう(This is Japan)はそういう美しい話ではない。
これが日本なんだ、どうしようもないなあ、という意味がこめられた感想なのである。

 まずは高級ホテルでの食品偽装問題から始まった。
あの時は、騙した方が悪いのか、騙された方が悪いのか、くらいに考えていた。
しかしその後、続々と(偽装事件)が続いた。
偽装とは表向きに言うことと実質の中身が違うことをいう。

 オリンピック招致に成功したのは日本の首相と東京都知事のプリゼンだと言われた。
その直後の民放の番組(サンデー・モーニング)で寺島実郎がこう語った。
(食品偽装どころではない,今や日本は国家偽装の時代になりました)
と。

 確かに福島原発の汚染水問題は未だに解決していない。
にも関わらず日本の首相は(完全にコントロールされている)と世界に向かって言った。
当時の東京都知事は5000万円の使途不明金の罪で東京都知事を追われた。
どうも表向きに言うことと内実は一致していないようであった。

 This is Japanという言葉が浮かんだのは特定秘密保護法に関する議論のときだった。
政府、野党、メディアの論調を聴いていて(ああこれが日本なのだなあ)とため息が出た。
秘密保護ということはずいぶん前から言われている。
インターネットなど通信の技術が進んだことから皮肉なことに秘密情報が漏洩する可能性も大きくなったからである。

 数年前、ふうてんはある会社の情報セキュリティ・システムの構築を手伝ったことがある。
一番参考になったのは取引相手であるNTTのその会社への要求事項であった。
秘密情報の定義、秘密情報に触れることのできる人間のリストアップ、秘密情報の保管場所などなど極めて具体的、実質的に秘密が洩れないようにいかに管理するかが問われていた。

 今回の(特定秘密保護法案)の内容を見てビックリした。
何が特定秘密なのかの定義が極めて曖昧である。
こういう法律は危険だと感じた。
行政の長が秘密かどうか決めることが出来る。
行政とは昔の言葉で言えば(お上)である。
ああ、日本なのだなあとため息が出た。

 国家機密というのはあるだろうとは思う。
それをいかに守るか、ということは法律の問題ではなく、実質的に秘密を守れるようなシステムの構築をいかに実現するか、という問題のような気がする。
何が秘密か?については最大限民意が反映されなければおかしい。
行政の長がそれを決めるとなると、その時々の内閣が決めることになる。
去年だったら民主党内閣で、今年は自民党内閣である。
民主党と自民党では(秘密情報)の定義は大きく違うかもしれない。

 政党の都合で秘密情報を定義されたらたまったものじゃない。
選挙で選ばれた議員たちが構成している内閣だから民意を代表している、という理屈なのかもしれない。
しかし今の安部政権の成り立ちを考えてみても、投票率50%の選挙で過半数、つまりは投票権のある日本人の1/4の支持しか得ていないのである。
1/4の得票数で議席の2/3以上を取れる今の選挙制度もどこか間違っているのだろう。

 考えてみれば明治維新で日本は開国して150年ほど経つ。
いろんな文明を、技術や政治制度を先進国から学んできた。
向こうの方が進んでいる面もあって、殆ど真似をしてきたのではなかろうか。
この(特定秘密保護法案)の議論のとき、つくづくとその事を考えさせられた。
完全に真似をすればまだよろしい。
しかし、うわべだけの真似をして、秘密情報を誰が定義するのか、というような本質的なところは完全に欠落している。

 やっぱりThis is Japan、政治的にはまだまだ後進国のようである。
自分だけの都合で他国が嫌がる靖国参拝を首相が行う。
秘密保護法と同じように、靖国神社の定義をハッキリさせないまま参拝をする。
自国のために戦場で散った英霊を弔う・・・どこで何をしに行って死んだのだろう?
殺される側だった中国や朝鮮の人たちの立場から見ると・・・??

 昭和時代に子供のような戦争をしたときに戻ったようで非常に不愉快な年であった。

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2013/12/22

2013・12・22 冬至を迎えて今年も終わる篇

Pc080553_2谷保天満宮の旧車祭

 12月になって5回ほど忘年会らしき会合があった。
この歳になると、数時間の会合の翌日は疲れが残っているのだろうか。
愉快な仲間たちとの飲み会だから楽しく時間を過ごす。
 
いろいろ話をして酒も何杯も飲む。
 
そのせいか、翌朝は何となくノドが乾く。
 
それで、まずはエビスの小瓶ということになる。
 
エビスの小瓶一本では終わらない。
 
結局、ある日会合があると次の日も含めて二日は飲むことになる。

 そんな仲間たちとの会合もおとついのFM-8同窓会の来年の相談で終わった。
この同窓会を来年からは毎年5月の最終土曜日に開催しよう。
会場となるホテルに電話して、毎年の予約をした。
幹事役も15歳ほど若い次の世代に引導を渡すことができた。

 いろんな会合予定が終わって冬至を迎えてあとは正月を待つばかり。
あと一週間ほどは全くこちらのペースで過ごせるなあ。
何となく悪い気分じゃない。

 終わってみると今年はずいぶんと沢山の親しかった人たちがお亡くなりになった。
盟友だったMuさんは特例だけれど、この間、あのアラビアのロレンスのピーター・オトゥールまで亡くなったと聴いたときはまいった。
81歳というから大往生である。
高校2年生のときにアラビアのロレンスを松山の映画館で観た。
こちらが16、7歳であちらが30歳過ぎのころだった。
27、8歳のときにピーター・オトゥールはこの役のオーディションに合格したと聴いていた。

 それからもう半世紀、50年も経つのだけれど、今でもアラビアのロレンスはハイビジョンでクッキリとした映像で観ることができる。
30歳前後のピーター・オトゥールがオートバイで登場する冒頭のシーンを何度も繰り返し見続けている。
何度見てもこのシークェンスは素晴らしい。
イギリスの映画監督デイヴィッド・リーン。
硬派な監督だったという印象がある。
アラビアのロレンスでは、女性は一人も登場しなかった。

 この12月の初めに谷保天神で恒例の旧車祭があった。
以前のような本当のクラッシック・カーは少なくなったように感じた。
これまでは4、5台は参加していたロシナンテの仲間、ダットサン・フェアレディも今年は1台も見当たらなかった。
それでも、何の役にもたたない古い車が谷保天神に集結して、見物の人であふれる。
悪くはないじゃないか、と思う。

 今年気づいたのだけれど、車ばかりではなく、谷保天神の梅園で昔の(発動機)が煙を立てながら動いていた。
この発動機というのは昔の農村にあった初めての石油エンジンの動力だった。
ディーゼル・エンジンだったと思うのだけれど、このエンジンで回す回転軸にベルトを掛けて脱穀機を回して、稲穂から米殻を落としたのであった。
我々農家では脱穀して籾殻付きの米を用意する。
その籾殻を取って(白米)とするには精米という工程が必要になる。
精米所が村に一つあった。
 
・・・・

 67歳、もうすぐ68歳という年齢になった。
日本はどういう国なのだろう?なんて考えてきた。
自分はどういう人間なのだろう?なんてことも考えてきた。
やっぱり日本のことが気にかかる。
日本が真善美のことを大切に考える国であって欲しいと思う。

(ふうてんアーカイブス)
2013年12月 谷保天神の旧車祭

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フェラーリ
 

 

 

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ホンダS800

 

 

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トライアンフTR4





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谷保天神





Pc080565発動機

 

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2013/12/16

2013・12・15 Muさん追悼号につき篇

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京都ミステリィツァー

 このところ東京も寒い日が続く。
12月になって、師走なんて昔は言っていたなあと思っていたらもう2週間もたった。
光の加減でまわりの風景は完全に年の瀬となった。
国立の大学通りのイルミネーションも始まった。
駅前の8本ほどの銀杏の木が大きなクリスマスツリーになる。

 今年はどういう年だったろう?
ふうてんにとって大きかったのは7月にMuさん、10月に小林彰太郎さんが亡くなったことだった。
30年~40年もの間親しく付き合ってきた人をなくするという経験はめったにない。
同じ年に二人続いてそれを迎えるとは・・・。

 小林彰太郎さんのことは先週書いた。
今週はMuさんの追悼号にしようと思う。
CG一月号と同じように(ささやかな追悼号)ではあるけれど。

 掲記の写真(京都ミステリィツァー)はMuBlogの2008年ころの記事から拝借した。
Muさんとの付き合いはこの日記でも何度か書いてきた。
それが始まったのは1982年ころで、きっかけはこの(京都ミステリィツァー)と(幻の古代王朝)という2本のゲームソフトだった。
今からいうともう30年ほど前になるだろうか。

 30年前というとこちらは37、8歳(当たり前!?)。
たった30年前なのだけれど当時日本でもパソコンという小さなコンピュータが話題になり始めていた。 
今でいうとスマホのようなもの。

その小さなコンピュータでゲームを楽しむということが流行っていた。

 同い年のMuせんせぇ~、こちらと同じようにサラリーマン生活が面白くなかったのだろうか、ゲームソフトで一旗揚げたいと考えたらしい。
東京の(マイコンショー)か何かのイベントで、当時ソフトハウス廻りが仕事だったふうてんがいろんなブースを見ていると、妙なパンフレットが眼にはいった。
(幻の古代王朝、京都ミステリーツァー ルナ企画)
とあった。

 この日記で何度か書いたように思うけれど、このパンフレットのことは今でも忘れない。
いかにも怪しげである。
タイトルが人の心をそそる。
会社名がルナ企画と来たものである。
ルナティックという言葉がある。
お月さまに魅せられた、いささかおかしな生き方とでも訳しておこうか。

 月夜に吠える、という風な狂的な熱情と寂寥感が同居したお方たちのことをいう。
このソフトの作者もそういう類の衆生に違いないとふうてんは直感した。

 当時パソコンを始めていた面々は多かれ少なかれルナティックな要素を持っていた。
逆にいうと、まともではない狂的な面を持っている人にしかパソコンのような妙なものは縁がなかったともいえる。
アメリカの西海岸のスティーブン・ジョブスなんてのがその筆頭格だった。
そんな時代だったから、イベントから帰って、さっそくルナ企画に電話した。
そして翌日の新幹線に飛び乗って京都の宇治は木幡のルナ企画を表敬訪問したのだった。

 行ってみて初見からすっかり仲良くなってしまった。
結局その日はお家に泊めてもらったような気がする。
小学校の5年生くらいのお嬢ちゃんがいて、この娘っ子が仕切り屋だった。
翌朝の食事のときトーストしたパンにバターを塗ろうとしていると(おっちゃん、その塗り方アカン、こうするんや)と仕切られた。
このお嬢ちゃんにはMuさん、亡くなるまで何かと仕切られていた気配がある。

 それからの30年ほどの交友ぶりに関してはMuBlogとJoBlogに様々な形で記録されている。
ふうてんも入れて三人のことをMuさんは(風雪梅安一家)と呼んだ。
Muさんは池波正太郎の愛読者でもあったようだった。
もうこの一家で奈良や京都を俳諧(徘徊?)することはできなくなった。

 
京都へ行ってもミステリィツァーではなくてミゼラブルツァーになるのだろうか。
その土地の魅力はそこに魅力的な親しい人がいるかどうかで決まる。
そう、昔からふうてんは思っている。
困りましたなぁ、Muの旦那・・・。

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2013/12/09

2013・12・8 小林彰太郎さんの追悼号が出た篇

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1962年4月創刊号 230円









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一の線の男前だった




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2014年1月追悼号 1200円



  師走のころとなって急に冷え込んできた。
国立でも5℃を下回ることがあるようになった。
気温の変化は空気が動くところでよく分かるような気がする。
天気予報でも(風が強いですから体感温度は5℃低くなります)などと言う。

 ロシナンテでしばらく走るとそのことがまことによく分かる。
10℃くらいまでは完全武装で身を固めていればそんなに寒くはない。
しかし気温が5℃を超えて低くなると、う~ん、この野郎、と腹にこたえる。

 そんな寒くなった先週、カーグラTVをいつものように録画して観ていた。
小林彰太郎さんのカーグラフィック追悼特集号が発刊されたという。
来年(2014年)の1月号。
もう12月だから本屋さんに並んでいるはず。
翌日、近くの本屋さんへ走った。
これを買わないと末代までの恥である。

 行ってみると、その小さな本屋さんには案の定見当たらなかった。
店の人に聴くと、カーグラフィックは人気なので売り切れでしょうか、とノンキなお応え。
これまでも、この小さなお店は時々冷やかしていたのだけれど、カーグラフィックを見つけたことはなかった・・・。
元々置いてなかったのでは、と疑いの念が生じたけれど、そんなことよりも手に入れることが先決。

 それで近くの南武線に乗って立川へ。
駅ビル内にあるオリオン書房へ行った。
駅の改札を出てエスカレータで8階まで。
エスカレータは時間がかかる。
この時間は一体どういう意味があるのだろう?と毎回思う。

 ジリジリしながらエスカレータを降りてオリオン書房の雑誌コーナーでCG小林彰太郎追悼号を見つけたときは嬉しかった。
これで末期、じゃなかった末代に恥を残さなくて済む?

 10月28日に突然亡くなった小林彰太郎さんの追悼号だから、そんなに内容が豊富であることは期待しちゃあいけない。
予想通り、数ページの、編集者に言わせると(ささやかな)追悼号だった。
それでも彼の生い立ちから亡くなるまでの重要なシーンがこちらに伝わってきた。

 追悼号の一部を引用させてもらうと、彼は(ジャーナリストは死ぬまで現役だよ)と言っていたらしい。
10月の26、27日に愛知県のトヨタ博物館で(昭和の日本 自動車見聞録)の出版記念のイベントがあった。
それに同行したCGの記者が次のように書いている。
 
 
 26日、27日とイベントの行事をこなして27日に帰京した。
27日は日曜日で渋滞をやり過ごす為に途中の御殿場で降りて、いつもCGの箱根テストの時よく使うレストランへはいった。
小林彰太郎先生、ステーキをペロリ、さすがにお疲れのご様子だったけれど、その晩はいつもと変わらぬご様子で就寝されたという。
 
 だからこそ、翌朝、小林さんの訃報に接した時の驚きをお察しいただきたい。
 
・・・・

 一度お会いしてみたい人だった。
ミーハー族のふうてんも押しかけることまではしなかった。
それでもロシナンテが来てからの数年間、神田神保町の古本屋街に通っていたころ、水道橋の近くにある二玄社を冷やかしたことはある。
カーグラフィック誌は小林彰太郎さんが二玄社に入社してから作った雑誌なので、どういう会社なのか見てみたいと思ったからだった。
新潮社とか文藝春秋社とかのメジャーな会社は冷やかしてみる気もしなかったけれど。

 確かに小さなたたずまいだったような印象は残っている。
今の二玄社はもうこの場所にはいない。

 ロシナンテの現役時代の姿を知りたくて神保町の古書店へ通った。
そのうちにカーグラフィック誌を知り主宰者の小林彰太郎さんを知った。
神保町で通った東京泰文堂はずいぶん前になくなった。
二玄社も以前の場所にはいなくなった。
そして今年の10月、小林彰太郎さんもいなくなった。

 自動車との付き合いおいて小林彰太郎さんは我々にとって大きな存在だった。
自動車という文明の利器は一体何物なのか。
それの魅力はどこにあるのか。
それの問題はどこにあるのか。
自動車を造る人、使う人はどうあるべきか。
などなどをいろんな視点から語ってくれた。

 もうお会いすることはできなくなったけれど、その精神は我々の中に生き続けていくと思う。

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2013/12/02

2013・12・1 今年はテレビ放送60周年だとか篇

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 師走となった。
東京では毎日のように(明日は今年の最低気温です)という天気予報が流れる。
確かにずいぶん寒くなって木々はようやく紅葉を終えつつある。

 師走と聴いて、よくMuさんを冷やかしていたことを思い出す。
(せんせぇ~、忙しい季節になったねぇ、走ってはります?)
そのMuさんも今はもういない。

 今年は何故か(~周年記念)という話をよく聴く。
1945年に世界大戦が終わって、それから68年になる。
その間日本は一応平和だったので、いろんな活動が長く続いたからかもしれない。
テレビ放送は1953年に始まった。
だから今年はそれの60周年の年になる。

 
 日本では1953年にNHKのテレビがスタートし、同じ年に日本テレビも始まった。
民放はそれ以降1964年の東京12チャンネル(今はテレビ東京)まで次々と放送を開始した。
今はデジタルになってチャンネル数がどうなっているのか分からないけれど、この間までは東京ではNHKが1で、4、6、8、10、12が民放のチャンネルだった。

 それぞれが今年から60周年記念の時を迎える。
こちらは今年67歳だから、それらに付き合ってきた世代である。
テレビと共に育ってきた世代なのだろうか?
ちょうど明治元年のころ生れて大正5年に死んだ漱石が明治と共に過ごしたように。

 ふうてんは25歳で結婚するまでは殆どテレビを観なかった。
自宅とか自室とかにテレビがある経験が少なかったからである。
テレビの歴史60年のうち、最初の20年は観なかったけれど、後半の40年は結構観てきたことになる。

 30年前くらいからビデオ録画を個人でもできるようになった。
テレビ放送をリアルタイムでテレビの前に座って観るだけではなく、録画して観ることもできるようになった。
この録画機能というやつがテレビの意味合いをずいぶん変えたのではなかろうか。
放送というのはラジオにせよテレビにせよ、リアルタイムで聴いたり観たりして消えていく。
そういうものだった、はず。

 アナログ・テレビの時代、録画はテレビ以外のVTRなどの機器を必要とした。
デジタル・テレビになって今はテレビそのもので録画をできるようになった。
リアルタイムで観られないときは録画しておいて観る。
デジタルになって、録画して再生しても画質が劣化しない。
録画したものを保存するメディアもブルー・レイとかになってビデオ・テープとは一変した。

 テレビの受信機などハードウェアの仕組みはずいぶん良くなった。
しかしそれと反比例するように番組の中身は悪くなるばかりではなかろうか?
第一、コマーシャルがとんでもなく長くなった。
以前は15秒、30秒というのが普通だったのに今は1分以上、ひどい時は4分くらいのコマーシャルがドラマや映画の中にはいる。
これではドラマも映画も台無しである。
デジタル・テレビになって録画しておいてコマーシャルをカットしてから観ることが楽に出来るようになった。
テレビ・コマーシャルは全く意味がないものになっている。
 
 とまあ、テレビについて話し始めると長くなる。
師走になって、大晦日もすぐにやってくるだろう。
以前は年末年始に(名画)の数々がテレビで放映されるのが楽しみで録画用のデビオ・テープを買い込んだりしていたものだった。
今は、特にデジタルになった2011年当たりから(名画)がNHKでも民放でも年中放映されるようになった。
年末年始のテレビの楽しみは・・・あまり期待しないでおこう。

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