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2013年11月に作成された記事

2013/11/25

2013・11・24 ケネディが暗殺されて50年になる篇

Pb230470コナラの紅葉

 この季節、夕刻5時にはかなり暗くなる。
繁さんに電話をして外へ出ると西の空にかすかな残照が残っていた。
この季節、隠宅方面から見る太陽は富士山の山頂近くに沈む。

 穏やかな一日だったけれど天気予報によると10℃以下になるというので手袋を出した。
おかげで女房と繁すしへチャリで向うとき少しも寒さを感じなかった。
ふうてんの防寒用具は手袋とスカーフとコートである。
その第一弾目の手袋を今日使った。

 今年の11月はアメリカの大統領だったジョン・F・ケネディの番組がテレビで沢山流れた。
ケネディがダラスで暗殺されてちょうど50年になる。
NHKのドキュメンタリ番組などをいろいろ観ていて当時のことを思い出した。

 1963年11月22日の午後0時30分、日本時間では23日(土)午前3時30分に、事件は起こった。
アメリカのテキサス州ダラスで46歳の若い大統領がオープンカーでパレード中に狙撃された。
日本の11月23日は勤労感謝の祝日で土曜日だけれど休日だった。
この日、ふうてんは高校3年生で翌年の大学受験の為の(模擬試験)というのを受けに松山に行っていた。

 松山の模擬試験会場から伊予の家へ帰るには当時は国鉄の松山駅から一駅の北伊予駅だった。
試験が終わって松山駅へ行くと駅のテレビでケネディの暗殺事件が報じられていた。
後で知ったのだけれど、これは日米での初めての(宇宙放送)の実験だったという。
今は衛星放送というものが当時は(宇宙放送)と呼んでいたらしい。
宇宙を飛んでいる人工衛星を経由して電波が届くからそう言っていたに違いない。
それの初めての実験放送だった。

 当時17歳だったふうてんには衝撃的な報道だった。
テレビはまだ我が家にはなかったので新聞や雑誌の報道を通じてしかケネディのことは知らなかったけれど、トルーマンとかアイゼンハワーとかと違う若いケネディに変わったことで日本でも大変な話題になっていた。
彗星のように登場した若い大統領が活動をしている姿が写真で沢山報道された。

 そういうケネディのようなスターを産むアメリカ、そしてそのスターを銃で殺してしまうアメリカ。
17歳のふうてんはアメリカのことは映画でしか知らなかった。
アメリカというのはどういう国なのだろう?

 1969年になって京都から東京へ流れた。
夏になって、実験室でテレビを観ていると、アポロ11号が月に到着した。
(この小さな一歩は人類にとっては大きな一歩です)
という風なセリフが同時通訳でリアルタイムに聴こえてきた。
アポロ計画はケネディが大統領になった1961年に言い始めたプロジェクトだった、はず。
それを10年足らずで実現して映像で世界中に見せる。
アメリカってどういう国なのだろう?

 1986年の夏にテキサス州ダラスを訪問する機会があった。
この頃ふうてんは仕事の都合上ちょくちょくアメリカへ行っていた。
ダラスでコンピュータ・グラフィックスに関するイベントがあったのである。
ダラスというとケネディ事件くらいしか知らなかった。
そんなことをタクシーの運転手さんに話すと、じゃあ現場を見せてやると、例の通りを案内された。

 イベント会場からホテルに帰るとき、バスに乗ってみようと思った。
バス乗り場を探すうちバス・ターミナルのようなところに行き着いた。
どれに乗ればホテルへたどり着くのか探すうちに一つのことに気づいた。
かなりの群衆だったけれど色の黒い人ばかりなのである。
いわゆる白人と思える人は一人もいない。
これはどういうことなのだろう?

 ホテルへたどり着いて同行の若いのと、どこか雰囲気のいい店があれば一杯やろうやと外に出た。
歩いているうちに、店の外にも席があり何組もの客が寛いでいる店があった。

(ここ、いいじゃない、入ってみようよ)
と近づくと、店の外の席にいた客たちが一斉にコチラの二人を見た。
(僕たち目立つのかなあ?ともかく店にはいって注文をしてみよう)
店の中へはいった。
店の中でも客たちがコチラをジッと見つめる。
鈍いふうてんでもその時やっと気づいた。
(ああそうか、この店はカラード・ピープルお断りの店なんだ)

 それまでの5、6年、何度もアメリカへ出張し、東西南北のいろんなところを訪ねた。
しかしこういう経験はダラスが初めてだった。
バス・ターミナルでの光景とこの店での経験で、ダラスというのがどういう土地柄なのか、ほのかに分かったような気がした。
ケネディ暗殺から20年以上たっていたけれど、人間の風俗習慣は短時間で変わるものではないなあと考えさせられた。

 それからさらに30年ほど経って、50周年ということでケネディのドキュメンタリ番組をいろいろと観た。
(Together.Let us begin.)
と唱えた彼の大統領就任演説に彼の全てが表現されていたのかもしれない。
(この世は困難なことや分からないことばかり。それを諦めずにみんなで一緒になって解決したり解明したりしようよ)
という主旨だったと思う。

 オバマ大統領はこれを引き継いだのか(Change.Yes we can.)と語った。
何がchangeで何がyesで何がcanなのかよく分からなかった。
ケネディは本当の平和主義者だったと思う。
人種や宗教やイデオロギーの違う人間が一緒にやっていけると唱えた。
その為には大変な努力が必要だとも唱えた。
今まで出来なかったこともみんなで一緒に努力すれば出来る。
そうアメリカ国民だけではなく世界中の人々に訴えた。

 このケネディの理想は普遍的なもののような気がする。
理想的であるが故になかなか実現は難しい。
実現はできない夢を彼は語ったのかもしれない。
しかし彼の死後、たった50年と言えるようにも思う。
人類が戦いをやめ、自然の動植物とも仲良くやっていくには時間が必要だと歴史は語っている。
しかし、それでもそうしなければこんな小さな地球に住んでいる生き物は滅びてしまうよ。
ケネディのいろんな演説にはそういう思いが表れていた。

 たった一人の人間が世界を動かすこともある。
ケネディの唱えた理想は世界の今の現実とはほど遠いかもしれない。
しかしやがて人類はその理想に近づいていくしかないに違いない。
他のいい方法が見つからないからである。
スティーブン・ジョブスは人間とコンピュータの付き合い方を変えてしまった。
彼は死んだけれど、彼の思い通りに全世界で彼の構想した端末が使われている。
ジョブスの端末が普及したようにケネディの理想が世界中に普及すればいいのになあ。
戦争なんてやめようよ、核爆弾なんて捨てようよ、小さな地球でいがみ合わずに仲良くやっていこうよ。

 そう思わなかった連中が彼を殺したのでしょうなあ。

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2013/11/18

2013・11・17 昭和は遠くなりにけり篇

Pb160508桜通りの秋

 今年も秋がなかった、と何度も書いたような気がする。
今日も書簡集マスターとそんな話になった。
以前は春夏秋冬のうち春と秋が一番過ごしやすかった、はず。
春は寒さから温かさへの変化のとき。
 
秋は暑さから寒さへの変化のとき。
それぞれに(衣替え)などという優雅な風習があった。
その春と秋がずいぶん長く続いたような印象が残っている。
春と秋は温度調節器のエアコンなんて必要なかった。
しかしこの頃は・・・昨日までのエアコンの(除湿)を今日(暖房)に変えたりする。
つまりは一年中エアコンの必要な季節変化となったらしい。

 そういえば、最近シロが妙に太ってきたように見える。
女房どのが(シロちゃん、冬用の毛に変わったね)と言った。
なるほど、そういうことだったんだ。
気づけばエアコンはしっかりと暖房にしているし、外へ出るときはポロシャツではなく長袖になっている。
10月半ばまでポロシャツで十分だったのに・・・。
 
 季節変化が以前と変わってきたなあと思う。
以前・・・ふうてんの世代にとっては昭和時代となるだろうか。
昭和21年に生れたふうてんが昭和から平成に変わったとき・・・43歳ころだった。
その時のことはよく覚えている。
Townsというパソコンを作っていて、そのお披露目を1988年の秋に行う予定だった。
それで、ある会場(出来たばかりの東京ドーム)を予約して準備していた。

 ところが昭和天皇の体調が芳しくないという状況となった。
天皇陛下の具合がお悪いのに、新作パソコンのお披露目で馬鹿騒ぎをするのは申し訳ない。
それで次の年まで見送ることになった。

 
 翌年(1989年)の1月7日に陛下は亡くなられて平成と元号が改められた。

ふうてん達の開発していたパソコンはこの年の3月にお披露目をすることになった。
Townsというパソコンは昭和時代に開発され、平成の初年に発売されたということになる。
1989年・・・今から考えるとずいぶん世の中も変化した節目の年だったなあと思う。

 日本では美空ひばりが亡くなった。
中国では天安門事件があった。
ヨーロッパではベルリンの壁が破壊された。
第二次世界大戦後の冷戦時代が終わった。
 
・・・
日本はバブルが弾けてその後20年以上経済的な低迷を続けることになった。
中国を始め、それまで低開発国といわれていた国々が経済的に台頭することになる。
日本の昭和時代・・・64年のうち20年は戦争、残り40年は敗戦から復活してバブルに至る。
そんな風に総括できるだろうか。

 敗戦から40年かけて復活し昭和時代は終わり、それから平成となって20年以上経つ。
平和で、ある程度豊かな時代を20年も過ごすといけませんねぇ。
人々の心が緩んじゃった。
戦争時代の苦しさを忘れて憲法を好戦的なものに変えようとしている。
あの悪夢のような、同胞であるアジアを侵略した戦争なんてなかったことにしたい。
それが見え見えのいろんな法律を多数で押し通そうとしている。
民主主義の時代だから選挙で選ばれた多数が決めるのだから何をやってもいいでしょう?
どんな悪法でもねじれのない国会で通ってしまう。

 昭和が終わって25年になる。
昭和は遠くなってしまった。
昭和時代に活躍したいろんな人の訃報が毎週のように報じられる。
平成の天皇は葬儀の方法を最近表明された。
昭和時代、皇太子と美智子さんと我々はお呼びしていた。

 やはり時間というのは容赦なく経っていきますなあ。
昭和の残照が消えて、やがて平成も残照となるに違いない。
日本は700年ころから天皇をいだいて奈良、京都、東の京と首都を移した。
民主主義を標榜しているけれど天皇という存在はそのまんま残っている。
イギリスがモデルなのだろうか。

 元号や政治制度はいろいろ変わるけれど我々国民の生活は急には変わらない。
こちらには世代交代があるだけである。
ガキだったのが親になりそしてジイさんバアさんになる。
昭和時代は遠くなったけれど、子供が平成だったとして、孫はどうなるのだろうか?
平成時代はあんまり楽しいことはなかったので、孫の時代に期待するしかないかと、ふうてんなどは思っている。

 つまりは今20歳以下の若い人たちである。
ふうてんなどの世代に見ることは出来ないだろうけれど、今の20歳以下の人たちの時代にはきっと日本らしさを取り戻しているのではないか。

 ペシミスティックなオプチュニストであるふうてんは、そういう風に期待している。
 

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2013/11/11

2013・11・10 食品偽装とはどういうことなのだろう?篇

Pa280482

ビワの花(今から来年6月への準備)

 今年も秋がなかった。
猛暑が終わったかな、と思ったら台風が連発して急に寒くなった。
ご近所との挨拶も決まっている。
(急に寒くなりましたねぇ)

 季節だけではなく、このところ寒いニュースが続く。
 
一つは食品などの偽装事件の連発。
 
一つはストーカーとか家族内での弱いもの殺し。
 
一つは国の借金が1000兆円、一人当たり800万円を超えたこと。
 

 これらは独立でそれぞれが関係のないニュースなのだろうか。
そうでもないような気がする。
根っこに共通のものがあるようで不気味である。
 

 食品偽装事件にそれが象徴的に表れているようにふうてんには思える。

高級食材を使っている特別な料理だとメニューに表示して高い金を取る。
お客も、高い金を払っているという見栄もあって満足して帰る。
作る方も食べる方も実質は何か?の疑念を持たない。
(だました男が悪いのか?だまされた女が悪いのか?)
のマンガのような話が蔓延している。

 どうしてこういうことになっているのだろう?
そもそも食べ物の旨いかまずいかは自分の舌でしか判断できないはず。
誰かに(これは旨いから喰え)と言われても旨いかどうかはそれでは決まらない。
食べることくらい、他人の価値判断ではなく自分に任せてよ。
・・・・
どうも今の日本人はそうでもないらしい。
むしろ逆の傾向にあるようだ。

 今日のTBSのサンデー・モーニングでこの偽装問題が取り上げられた。
パネリストとして登場した寺島実郎はこういった。
(食品偽装というよりも日本は偽装国家になったのではないか)
(国の首長がオリンピックを招致するために原発事故は完全にコントロール下にある、と世界的な場で演説をする。ところが現実には今も汚染水問題、廃炉問題はメドすらたっていない)

 カメラマンの浅井慎平はこういった。
(今度の食品偽装事件で僕はナチスの宣伝大臣として力を振るったゲッペルスを思い出しました。彼は(嘘はバレるまでは嘘じゃない)と言ったのだけれど、これは日本人の感覚には合わない)
(日本人は行動をするときに自分の心に常に問い合わせている民族だと思っています)
(でもそれが失われつつあるようで、残念です)
(例えばお・も・て・な・し、なんて言ったけれどおもてなしというのは言葉でいうものじゃないでしょう。黙って、人に分からないように、相手を心地よくする。それがおもてなしということであって、これがお・も・て・な・しですと言ってしまっちゃあ元も子もないんです)
・・・・

 戦後、日本人の真面目で勤勉な努力により、世界一の平和で豊かな国になった、積もりだった。
日本製品は世界一信頼性が高い、と言われて、テレビもカメラも自動車も売れた。
その世界からの信頼は今大きく揺らいでいる、とサンデー・モーニングは報じていた。

 どうしてこうなっちゃったのだろう?
タイガーエビを車エビといって高く売る。
女子供年寄りの弱いものを殺す。
全国民一人当たり800万円の借金を背負う。
自国の原発事故を処理もできないのに外国に原発技術を売る。
・・・・

 どうも今の日本人は(真善美)という大昔ギリシャ人がたどり着いた(人間とは何か?)に関する概念をすっかり忘れてしまったのではないかと思う。
(人生いかに生きるべきか?)

なんて悩んで屋根裏部屋に閉じこもっていると、あれは引きこもりだ、の一言でバカにされる。

 結局は世の中のせいだとか、政治が悪いとかいうよりも、我々一人一人が賢くならないとやっていけない時代になったような気がする。
平和が70年も続いた今の日本は江戸時代初期に似ているかもしれない。
お上の取り締まりに庶民はいろんな形で抵抗していたらしい。
(贅沢禁止だ)
と言われると着物の裏地に工夫をこらしてオシャレを楽しんだ。
個人個人が(真善美)のことを考えていた・・・のではなかろうか??

 我々庶民の生きざまとしては明治維新以降よりも江戸時代以前の方が参考になるかもしれない。
そんな風に思うことが多い今日この頃である。

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2013/11/04

2013・11・3 一橋祭で加古隆を聴いた篇

Pb030485天下市の夜店

 天下市のころになった。
今年は11月2日(土)、3日(日)、4日(月)だった。
天下市は昭和40年から行われ、今年は47回目だとか。
11月の文化の日を挟んで行われる国立の代表的な秋祭りである。
商工会の主催する天下市と一橋大学の学園祭である一橋祭(いっきょうさい)と国立市の市民祭が同時並行的に大学通りと一橋大学キャンパスで繰り広げられる。

 各種のイベントが開催され、屋台や学生さんの模擬店が沢山参加する。
今年は初日の加古隆のコンサートを聴きにいった。
 
(加古隆演奏会~ピアノとお話の夕べ~)
というタイトルで一橋祭(いっきょうさい)の学生さんたちが企画したものだった。

 会場は大学キャンパスにある兼松講堂だった。
講堂前には長蛇の列が出来ている。
係の学生さんらしい若者に聴いた。
(どうして指定席のチケット持ってるのに列を作って並ぶの?)
(入り口が狭くて、僕たちも慣れないもので受け付けに時間がかかるんです)
・・・・
たどたどしい説明振りについ、聴きたくなった。
(あなた何年生?)
(ハイ、2年生です)
それじゃ無理もない。
まだハタチくらいだとこんな催し物は初体験に違いない。

 タイトルにあるとおり(ピアノとお話)のコンサートだった。
加古隆の一人のしゃべりと演奏を堪能させてくれた。
(話すということは普通のコンサートではないんですが、学生さんに頼まれまして)
から始まった。
第一部は音楽との出会いを話したあと(パリは燃えているか)で始まる3曲。
第二部は映画音楽を作ったきっかけの話のあと(黄昏のワルツ)で終わる3曲。

 言うことなかった。
NHKの(映像の世紀)で初めて彼の曲を聴いていかれてしまったふうてんはずっとドキドキしながら聴いていた。
あの曲を書いて演奏したご本人が目の前10メートルほどのところでお喋りをし、ピアノを弾いている。
夢のようだった。
素晴らしい芸術は人を沈黙させる、という誰かの言葉を思い出していた。

 ピアノの魔術師だなと思った。
ちょうど真ん中当たりの席だったので彼の指の動きもよく見える。
左手と右手であんな小宇宙を作るんだ・・・・。
たった一台のピアノだけで。
マイク・スピーカーを使わない音が兼松講堂の中で心地よく響いた。

 最後の(お話)の中で彼はこんな風に語っていた。
(僕はピアノの音は木の音だと思うんです)
(きれいな土があって、きれいな水があって、きれいな空気があって、きれいな木は育ちます)
(その木から作ったピアノで美しい音楽を奏でること)
(それで少しは、きれいな土、きれいな水、きれいな空気に思いを馳せてくれるのではないかと願っています)

 彼の姿、彼の語り、彼の音楽が一つとなって伝わってきた。
いままでいろいろと聴いてきたけれどこんなことはめったにない。
帰りに係の若い人に、
(一生もののコンサートでした、ありがとう)
とお礼を言って兼松講堂を辞した。

 コンサートを聴きにいったのは今年なくなったMuさんと加古隆の姿形がソックリであるせいだったのかもしれない。
加古隆ご本人を目の前にしながら、隣の席にMuさんがいたらどんなに愉快だろう、と思った。

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