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2013年10月に作成された記事

2013/10/28

2013・10・27 都は奈良から京都へそして東京へ移った篇

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台風27号で落ちたドングリ

 この2週間ほど、台風のせいか雨ばかりだった。
10月の始めまでは猛暑だったのに後半になって台風が続いた。
台風が過ぎ去ると急に寒くなってもうすぐ11月。
今日の夕刻、チャリで繁すしへ向かうとき、暗くなったねぇと女房が言った。

 台風のせいではないけれど、このところ日本はどういう国だったっけ?をよく考える。
これからどうしたらいいのだろう?から来るのかもしれない。
日本はこういう国だから、これからもそれでやっていけばよろしい。
という風な漠然とした安心感を求めているのだろうか。

 10月のNHK(BS歴史館)で(日本の転換点1、2)があった。
第1回目は応仁の乱、第2回目が東京遷都だった。
まことに面白く興味深く観た。
応仁の乱 1467-1477
東京遷都 1868-1869
いずれも当時都だった京都を舞台に繰り広げられた(日本の転換点)だった。

 いつの時代も都(首都)にはすべてのものが集まる。
人も物も金も。
その都をめぐる物語として一番大きかったのが上の二つであったと番組は語る。

 応仁の乱は10年も続いた。
20万人以上もの武士たちが全国から集まり、訳の分からない戦いを繰り返した。
室町幕府時代の最末期。
京都には公家、僧侶、武士という三つの支配勢力が濃密に同居していた。
奈良から京都へ都が移ってから700年近くたっていた。
いろんなものが熟し過ぎていたのではなかろうか。
それでハチャメチャな戦乱となり京都は焼き尽くされたらしい。
結果として残ったのは(下克上)という気風と(東山文化)だったと番組は解説する。
下克上の結果1600年ころ徳川家康が天下を取り江戸城に政府を作った。
東山文化はその後の日本の文化(侘び寂び わびさび)の基本となった

 東京遷都はある意味この流れの延長線にあったような気がする。
徳川時代、政府は江戸にあったけれど権威の象徴である天皇は京都にいた。
徳川政府を倒した維新の連中は(都 首都)をどこにしようかと悩んだらしい。
徳川の江戸城を乗っ取って新しい政府だといっただけでは冴えない。
何か新しい要素(サムシング・ニュー)が欲しい。
そうだ 京都 行こう。
それで15歳くらいだった明治天皇を大阪見物やら江戸見物やらに連れ出した。
それまで京都御所を一歩も出たことのなかった少年はかなり興奮したようだった。
大坂城見学のあと、
(ちょっと江戸城も観てみませんか?)
(悪くないね)
(江戸という名前も古いし、居心地が悪いでしょうから東の京としたらいかが?)
(うん、悪くないね)
(では、ちょっと京都から東の京へ行ってくるというような塩梅で)

 だから東京遷都はなかったと盟友の歴史学者JOさんはいう。
今でも京都が都であるという説である。
確かにこの番組でも(東京遷都)という正式発表は一度もなかったと言っていた。
密かに、秘密裏に天皇を東京へ移したのである。
そういうことを前提に西郷隆盛-勝海舟の無血江戸城開城は行われたのだろうか。
 
 京都にしろ東京にしろ日本の首都の話になるとキリがない。
ふうてんなどは都から遠く離れた四国の伊予で生まれ育った。
四国という小さな島で育った。
海を渡って本州という大きな島に住むようになったのは18歳のときだった。
京都の大学へ通うためだったけれど、要領が悪く京都で下宿先を見つけられなかった。
それで奈良の知人の家に下宿することから(本州)での生活が始まった。
 
 しばらくその奈良のお家にお邪魔してから京都へ移った。
京都へ住み始めて初めての印象は下鴨神社の葵祭だった。
下鴨神社の近くに下宿できたらしい。
それから5年ほどたって東京へ流れた。
考えてみれば本州でふうてんが住んだところは奈良→京都→東京ということになる。
いずれも日本の都であったところで、順番もこのようであった。
旅で訪れるのとそこに住むのではその土地に対する認識が決定的に違う。
奈良は香りを嗅いだだけだったけれど、京都と東京は住んだものとしてかなり分かる。
 
 逆に、都でないところに住んだ経験が18歳以降ないので、地方の活性化という風な言葉の実感を持てないようになってしまっているのかもしれない。
たまに伊予に帰ることがある。

 その度に思う。
小さいなあ、と。
同時に、都に集まった人たちも本当の等身大の自分はこの小さなところにあるんだよ。
都は大きくて何でもあることを自分の写像と勘違いしないでね。
とも。

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2013/10/21

2013・10・20 隣で地鎮祭があった篇

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ここで地鎮祭(じちんさい)が行われた

 きのうの土曜日に隣で何か儀式めいたものが始まる気配がした。
女房が、お隣へ越してくる人が分かったという。
すぐ近くのマンションに住んでいる一家で、前から女房とは知り合いだったらしい。
 
気が合うお人らしく、女房は喜んでいる。

 昔のことを思い出して女房とこんな会話になった。
 
(嫁さん、僕らは地鎮祭て、やったかなあ)
 
・・・
 女房はその時の顛末を覚えていた。
 
(佐藤さんが(地鎮祭やりますか?)と旦那さんに聴いたのよ)
 
(そしたら旦那さんが(やったら何かいいことありますか?)と聞き返してね)
 
(佐藤さんがすぐに(何もありません)と応えて、お終い)
 
・・・
 
 それでやらずに終わったらしい。
この佐藤さんというのは今の隠宅をお願いした人である。
この会話でも分かるようにまことに素直で愉快な人物であった。

 残念ながら今はこの御仁との付き合いはない。
隠宅に住むようになって2、3年後に忽然と姿を消した。
連絡先も分からない。
当時、既にずいぶんと家を建てたのでもう疲れましたよ、とかは聴いていた。

 家を一軒好きなように建てるという作業があれほど複雑なものとは知らなかった。
注文主のこちら側の主任は女房だった。
受ける建築業者側は社長の佐藤さんだった。
この二人で話は進んでいった。

 ふうてんも一応ものづくりの仕事をしていたので、設計の責任者は一人でないとうまくいかないことを知っていた。
こちらが余計な口出しをするとロクなことにならない。
それで家で一番時間を過ごす女房どのに設計を任せた。
ただ、一つ二つ注文はつけた。
一つ、ロシナンテの雨に濡れない駐車場所が欲しい。
一つ、狭くて北側でもよいから自分の部屋が欲しい。
それに従って女房どのが設計図を書いたようだった。

 一階、二階の間取り図から始まって、明かりの取り方、水の流し方、人の動き方・・・。
階段のつけ方、廊下の作り方、窓のカーテンやらブラインドやら・・・キリがない。
毎日のように佐藤さんが分厚いカタログを持ってくる。
分厚いというよりも百科事典の20冊分くらいのカタログである。
それで水道の蛇口を決めたり照明のランプを決める。
どういう訳か我が設計者の好みは外国産ばかりのようであった。

 そう言えばガスコンロも冷蔵庫も外国産であった。
女房に言わせると日本産はデザインがよろしくないということらしい。
パソコンまでアップルのMacノートである。
亭主が日本で不細工なパソコンを作っていたことなどお構いなし。
こちらも、性能を究極的に追求すると形が美しくなるんだよね。
なぞと言っていた手前あまり文句も言えない。

 いずれにせよ、地鎮祭を行って11月から4カ月ほどかけて一軒の家が建つことになった。
そのお隣さんが女房の知り合いで、愉快な家族であるらしい。
向こう三軒両隣。
仲良く付き合える仲間が増えることは嬉しいことだと思う。
 

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2013/10/14

2013・10・13 久しぶりに五輪真弓を聴いた篇

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庭に落ちたドングリ

 
 



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ベランダに落ちたドングリ

 10月の10日を過ぎて東京での真夏日は珍しいらしい。
12日の土曜日には31℃を超えて明治8年からの気象観測史上初だという。
人間はエアコンなどのいろんな道具を使えるけれど動植物たちはどうしているのだろう。 

 芸術の秋のせいかテレビでもそれ風のが多い。

きのうはNHKのSONGSという番組で五輪真弓が登場した。
彼女のデビュー40周年ということで企画された番組だと聴いた。
30分の短い番組だけれど、それだけに彼女の魅力が凝縮されたいい番組だった。
彼女の(恋人よ)は傑作だと思う。
 

 この歌は1980年に発表された。
この年、彼女のデビュー・アルバム(少女)の編曲を手がけた木田高介が交通事故で死ぬ。
この頃彼女は(究極の別れの歌)を作りたいと思っていたと語る。

そんなときに彼女を支えてくれて家族ぐるみで付き合っていた人に死なれた。
それで大きなショックを受けて作ったのがこの曲であるらしい。

葬儀のあと、帰り道で思いついた曲だという。

(枯れ葉散る夕暮れは 来る日の寒さをものがたり)
(雨に壊れたベンチには 愛をささやく歌もない)
(恋人よ そばにいて こごえる私のそばにいてよ)
(そしてひとこと この別ればなしが)
(冗談だよと 笑ってほしい)
 

 究極の別れの歌。
彼女は番組で次のように語っている。

(やっぱり別れというのは本当に嫌なもので)
(昨日までいた人がね、突然いなくなってしまうというこの現実)
(やっぱり、冗談だよと笑ってほしいというような)
(それはもう心底出てきたようなフレーズですね)

(冗談だよと 笑ってほしい)
こんなセリフをそれまでの歌で聴いたことはなかった。
だから前から好きな曲だったのだけれど・・・。
Muさんを失った今、こんなにも別れにピッタリのセリフだったとは。
 
・・・・

 
 番組では彼女のお父さんの故郷が紹介され、彼女が久しぶりに訪問する。
長崎の五島列島の一つの島(久賀島 ひさかじま)の(五輪地区 ごりんちく)である。
終戦前まで彼女の父親はここに住んでいたらしい。
音楽好きだったらしく自宅ではバイオリンやギターを弾き、近くの五輪教会(ごりんきょうかい)で請われるとオルガンを弾いていたというから恐れ入る。

 五輪教会というからには近くにキリスト教の教徒が多くいたに違いない。
その通り、長崎で迫害された隠れキリシタン達が集まった島でもあったという。
お父さんもカソリックの敬虔な信徒であったらしい。
五輪真弓という名前はこの五輪地区からとったという。
 
 彼女が番組の最後に語っていた。
(自分に受け継がれているものは愛の精神なのではなかろうか)
(愛を信仰するという遺伝子が自分の中にも受け継がれていると感じる)
 
・・・
まいりましたね。
さすがシンガー・ソング・ライター。
穏やかな声の語りには全く無駄がなく見事なメロディーを奏でていた。

 もう一人、ふうてんの好きなシンガー・ソング・ライターに井上陽水というのがいる。
彼の(心もよう)は(恋人よ)と共に日本の歌謡曲の双璧だとふうてんは思っている。
彼は福岡の出身である。
長崎や福岡は歌い手や芸人の出身地としてよく名前が出てくる。
やはり外洋に通じていて、古来外国から、西洋人、東洋人が頻繁に出入りしていたことと関係があるのだろうか。

 五輪真弓に2020年の東京オリンピックの(五輪マーチ)を作曲してもらうのは??
 
・・・・
お後がよろしいようで。

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2013/10/07

2013・10・6 10年ほど前の京都への旅篇

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白貂を抱く貴婦人
 
(グーグル画像より)

 やっと秋らしい気温に落ち着いてきた。
東京でも20℃以下の日が続く。
毎年のことだけれど、あれだけ夏の暑さを恨んでいたのに涼しくなると懐かしくなる。

 最近はあまり聴かないけれど、昔は(芸術の秋)とか(食欲の秋)とか言っていた。
(天高く馬肥ゆる秋)
日本では暑い夏に衰えていた食欲が秋になって復活する譬えとして使われていた。
ただし開高健に言わせると、これはそんな平和な話ではないという。
20年ほど前に読んだ彼のエッセイを思い出してグーグルに聴いてみた。
(「天高く馬肥ゆ」は中国北西部の農民の諺で、秋になると馬に乗って略奪にくる蒙古人を恐れていた。夏の間放牧していた馬が、たっぷり草を食べて肥ってくる秋のころになると、農民たちは蒙古の襲来に対する警戒心を呼び起こすために、(馬肥ゆ)を引用したと伝えられている。)
とあった。

(芸術の秋)というのは日本独特の言い方なのだろうか。
秋になって、昼間が短くなって夜が長くなる。
しゃあないから、本でも読もうかい。

と、夏の暑さで外へ開放されていた心が内へ向かう。

 小倉百人一首の中に秋を読み込んだ柿本人麿の名句もあった。
これが日本人に染み込んだ秋の風情になったのかもしれない。
小学校、中学校の義務教育時代に小倉百人一首を学ばない日本人はいない。
 
(あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
 
         長々し夜を 独りかも寝む)
奈良時代の、電気もなくて暗かった夜の生活が直に伝わってくる。
秋になると人の心は遠くへ飛翔し、思いは深まったのかもしれない。

 芸術の秋、という訳でもないだろうけれど、このところNHKでも民放でも芸術番組が多い。
フィレンツェの三巨人とか源氏物語とか。
ふうてんは(世界の名画)とか(BS歴史館)とかは録画することにしている。
絵画ではルノワールとダヴィンチのファンなのだけれど、ダヴィンチの(白貂を抱く貴婦人)がテレビで取り上げられるのは観たことがない。
こういうときに助かるのはインターネットである。
ダヴィンチの絵を観たくなってグーグルに聴くとすぐに出てきたのが掲記の一枚である。

 (白貂を抱く貴婦人)といえば昔京都へ観に行ったなあと思い出した。
ひょっとして、この日記にも書いたような・・・。
たどってみたら出てきた。
2001.10.01
 仲秋の名月篇 ふうてん老人日記

 2001年の秋だった。
この年は4月にオヤジが死んで、9月にニューヨークのテロ事件(9・11)があった。
大変な年だったはずなのに、この日記を読むとフワフワした気分で京都、奈良を訪ねている。
おふくろが死んだ6年後のこの年、両親ともいなくなって重石がとれたのだろうか。

 読み返すと長々しくて、嫌になる。
要約しておくと、京都で仲間の四人が集まったらしい。
明石の君、人丸どの。
京都のMuさん。
関東勢のJOさんとふうてん。
この年は中秋の名月が10月1日のこの日であったらしい。
 
それで(月見)を口実に京都に集まったとある。

 京都の美術館でダヴィンチの傑作を観て、夜は(めなみ)で会食。
ホテルフジタに一泊して翌日は奈良の橿原考古学研究所を訪ねて奈良ホテルに泊まった。
四人で交わした会話や起こった出来事が長々しく書きつらねてある。

 2001年は今から12年前だからふうてん55歳。
よくもまあヒョイヒョイと気軽に関西方面へ(出張)していたものだと思う。
男たるもの50歳を過ぎるともう少し(重み)を感じさせてもいいはずなのに。

 この時のMuさんとの会話で印象に残っているのは二つある。
(このダヴィンチの絵、女の人の肩の線がおかしいんちゃうか?)
(絵は構造がないから嫌いなんや)

 Muさんの頭の中にあった(構造)という概念はいかなるものであったのだろうか。
Muさん、いつか教えて下さいな。

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