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2013年8月に作成された記事

2013/08/25

2013・8・25 小林彰太郎さんのこと篇

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小林彰太郎の日本自動車社会史

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小林彰太郎の世界



 お盆の蒸し暑さでへばっている時期にカーグラTV(BS朝日 151チャンネル)でブガッティ特集を2週連続でやった。
ブガッティと聴くと放っておけない。
嬉しいことに声と映像で小林彰太郎さんが出演していた。

 小林彰太郎さんのことはこの日記でもあまり書いて来なかったように思う。
書き始めると話が長くなり過ぎるのでよしていたのである。
何しろふうてんが29歳のときダットサン・フェアレディ、つまりはロシナンテを手に入れた当たりからの付き合いなので、どうしても長い話になってしまう。

 小林彰太郎さんは1929年の生まれだと聴くから、今は83、4歳になられるのだろうか。
ふうてんが1946年生れだから15歳ほど年上の先輩ということになる。
池波正太郎とか開高健とか梅原猛とか、作品を残している人は呼び捨てにするのが礼儀だと思っている。
しかし小林彰太郎さんだけは(さん)と呼びたい。
理由は分からないのだけれど、それだけ身近な存在と感じているのかもしれない。

 小林彰太郎と聞いても分からない人が多いと思うので少し紹介しておこう。
1962年(昭和37年)に自動車専門誌のカーグラフィックを二玄社から創刊した。
彰太郎さん33歳のときである。
彼はライオン歯磨きで我々にも馴染が深かった会社の一族の出であったらしい。
戦争で焼け野が原になった東京で、戦後アメリカから来たいろんな車に出会った。
ウィキペディアでは当時の様子を以下のように報告している。
東京大学経済学部在学中には、アメリカ大使館付随の語学学校で大使館員に日本語教育をするアルバイト1年間行なった。その給料は当時の学生のアルバイトとしては破格だったといい、イギリス製の乗用車である1932オースチン75万円で購入することによって、本格的に車の世界へ入り込んだ。)

 終戦直後の東京でアメリカ人に日本語を教えるアルバイトをやっていた。
一度やってみたかった、と思いませんか?
日本語だったらこちらでも教えられまっせ。
それにしても学生時代にアルバイトで5万円も稼いでイギリス製の中古車を買う。
そういう才覚が彼にはあったということになる。
当時のサラリーマンの給料は月に5000円もなかったのではなかろうか。

 彼がそんなことをしていた時代にこちらは四国の田舎で生れた。
伊予から京都に流れ東京に流れて出来たばかりの多摩ニュータウンで新婚の所帯を持った。
近くの酒屋のボクチンがカッコイイ車に乗っていた。
それがダットサン・フェアレディ2000だった。
学生時代自動車部というアホなクラブで過ごして、スボーツ・カーなんかバカにしていたふうてんも毎日の会社の行き帰りにそれを見るうち、そのフォルムに惹かれてしまった。

 大阪の中古車屋の広告で見つけたロシナンテを大阪から陸送して多摩ニュータウンで一緒に過ごし始めた。
団地だから青空駐車場でシートを掛けて雨露を凌ぐしかなかった。
大阪から東京まで走ったときの印象はまだ覚えている。
運転席の前がやたらと長く前が見えにくかったこと。
5速に入れると2000回転くらいで100Km/hをキープできたこと。

 大阪から東京にたどり着いた翌朝、ふとんから起き上がろうとした。
どういうわけか起き上がれない。
アレッ?どうしたんだろう??
しばらく狐につままれた様な気分だった。
しかし物事には必ず原因がある、はず。
ああ、そうだったんだ、フェアレディの野郎やたらとクラッチが重かった。
ブレーキも重い、ハンドルも重い。
特に左足で踏むクラッチは重たかった。
それのせいに違いない!!

 ロシナンテことダットサン・フェアレディ2000を買うときに、この車はスパルタンな車であるとは聴いていた。
ハンドルもブレーキも重たいから運転するには体力がいる、と。
しかしクラッチを切るにも力がいるとは知らなかった。
大阪から東京まで運転して起き上がれなくなった。
確かにスパルタンな車であることはよく分かった。
当時29歳だったふうてんは、まあ50歳過ぎまで、体力が持つ間は乗りたいなと思った。

 それが今67歳になってまだ乗っている。
50歳までと思っていたのにもう15年以上もオーバーしている。
ロシナンテは1968年生れなので今年45歳のオールド・レイディである。
こちらは1946年生まれなのでしっかりとオールド・ボーイになっている。
お互いフェア・レイディとハンサム・ボーイの時代もあったよなあと慰め合っている。

 ロシナンテは買った当時もう製造中止になっていた。
現役の車ではなかったので写真を見ることも出来ない。
現役当時、レースなどにもいろいろ出て活躍していたと聴いた。
その現役時代の写真を見たくなった。
それで神田の神保町の古本屋街を訪ねる様になった。

 30歳ころのふうてんはまだ会社で仕事をしていなかった。
結婚はしていたけれど子供もいなくて嫁さんも暇だから働いていた。
お互いの給料の半分くらいは(おこずかい)だった。
毎週のように日曜日は多摩ニュータウンから京王線で新宿へ向かう。
あちらは(鈴や)とかのファッションのお店、こちらは神田神保町の古本屋。
何時ころ、と待ち合わせを決めて後は自由行動。
ダブル・インカム・ウィズ・ノーキッズ。
一番豊かな時代でありました。

 その神保町の古本屋さんで、今は無くなったけれど、自動車雑誌の古いのを揃えているお店があった。
モーターマガジンとかいろんな自動車雑誌を漁ったものだった。
ひたすらフェアレディの現役当時の姿を追い求めていたのだと思う。
いろいろありましたね。
あんな車で冬のモンテカルロ・ラリーで頑張っていたりする写真も出てくる。
氷道で後輪を滑らせながらいかに逆ハンドルで切り抜けたか、なんて記事も出てくる。
やがて(カーグラフィック)という雑誌を知ることになった。

 カーグラフィック誌は他の自動車誌とは違うな、と最初から感じた。
時流に乗ったニュース記事だけではなく、何となく自動車そのものを語るという風格があった。
マイナーな出版社の二玄社という会社で、編集長は小林彰太郎。
このカーグラフィックという自動車専門誌で取り上げる車の中にブガッティがあった。
何年かに一度特集を組んでいる。
その写真を見、記事を読んでいるうちにフェエレディのことはともかくブガッティのことに見入られてしまった。
自動車部でいろんな車に乗ってえらそうなことを言っていたのだけれど、車のことな~んも知らなかったなあ。

 車の歴史、特にスポーツカーの歴史においてブガッティがいかに重要であったか。
それをカーグラフィック誌の小林彰太郎さんから学ぶことになる。

 やはり(小林彰太郎さんのこと)は長くなり過ぎる。
今日はこのへんでやめておこう。
ブガッティとか小林彰太郎とグーグルに聴くと山ほど写真や映像が出てきますよ。

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2013/08/18

2013・8・18 お盆も終わって篇

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コナラのドングリが大きくなった

 お盆という風習は日本独特のものなのだろうか。
昔から(盆と正月)という言い方がある。
このときだけは奉公人にも休みが与えられたと聴く。
よほど日本人にとって重要な意味を持っていたと思われる。

 正月は新しい年を迎える区切り。
海外生活の長かったJOさんに言わせると初日の出を喜ぶのは日本人だけらしい。

お盆は先祖の霊を迎え、そして再び送る行事。
どちらも日本の自然信仰とか死生観に関係しているのだろう。
キリスト教や仏教だと、死後は天国(極楽浄土)とか地獄とかへ行ってしまう。
どちらもこの世とは全くの別世界。
先祖たちの霊は再びこの世に戻ってくることはなさそうに思える。

 一方、日本人の(あの世)というのは天国でも地獄でもなさそうだという説がある。
梅原猛の(日本人のあの世観)によると、先祖たちの霊はそこいらの山の上にいるらしい。
そしてこの世の衆生のありようを見守っているという。
だから日本ではお盆に先祖たちの霊をお迎えし来てもらうことができる。
古来そう信じられてたと梅原猛はいう。
いまの科学的研究を通じてもそれには根拠があるというのが梅原説であった。

 梅原猛は、先祖とは実は肉体的に繋がっているとおっしゃる。
遺伝子(DNA)は親から子へ、子から孫へと引き継がれていくじゃないか。
言われてハッと気がついた。
遺伝子のことはよく知らないけれど、確かに親から子へ物理的、肉体的に伝わる。
つまりは我々の肉体にはまだ先祖たちの末裔が存在しているのである。
言い方を変えると先祖たちと共に生きていると言えるのではなかろうか。

 いくら肉体的に繋がっていても普段そんなことを意識しつつ生活するわけではない。
ただお盆などの行事をすることにより先祖のことを思い出させてくれる。
今自分がここにいるのはご先祖様がいたからだよと教えてくれる。
まだ科学的知識もなかった時代から先人たちは無意識のうちに先祖たちが遠くへ行ったままではないことを信じていたのだろうか。

 京都での学生時代、一度だけ夏休みに伊予へ帰らずに京都で過ごしたことがあった。
祇園祭も大文字焼きも大したイベントであった。
大文字焼きは京都の盆地を五山の送り火が取り囲むように輝く。
あんな大きな舞台装置はめったにはありますまい。
市バスに乗って浴衣掛けの幼いお嬢ちゃんたちと全部を観て廻った。
ふ~む、これを考案したお人は大した演出家だなあと感心したものだった

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2013/08/11

2013・8・11 零戦のことなど篇

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夏の花 ムクゲ(木槿)

 今年の暑さはどうしたことだろう。
日本全国で35℃、38℃、さらには40℃という日が続く。
隠宅のある国立でも今日は37℃くらいあったのではなかろうか。
体温を超える気温というのはどういうことなのだろう。
そんな地域に古来多くの人間が住み着いてきたはずはないのに。
今はもう民族大移動で涼しい地域へ移動するわけにもいかないし・・・。

 暑さにフウフウいう季節、テレビでは毎年戦争ものがよく登場する。
NHKでは零戦の搭乗員だった人たちの特集をやった。
またテレビコマーシャルで宮崎駿の(風立ちぬ)や水谷豊の(少年H)やトミー・リー・ジョーンズがマッカーサーに扮した映画などの宣伝が連日流された。

 中でブロッグ仲間のJOさんは(風立ちぬ)を観てきた記事を書かれている。
その中でJOさんは(『風立ちぬ』では『零戦』の設計にかんする秘話や苦労話が殆ど触れられていませんでしたので、私は少し物足りない気持ちでした)と語られている。
まだ観ていないけれど、そうかテレビで出てくる予告編(?)の映像でも零戦は殆ど登場しないものなあと思った。
零戦の設計秘話となると、いささか軍事的なこと、政治的なことにも関わりが出てくるのでアニメーション映画としては扱いにくかったのではなかろうかと想像する。

 宮崎駿が(風立ちぬ)を作ったと聴いたとき、ふうてんは二つのイメージが浮かんだ。
一つはわが町、国立(くにたち)のことである。
越してきた30年ちょっと前から(くにたち)と発音する度に堀辰雄の(風立ちぬ)がイメージに浮かんだ。
ひょっとして国立と書いて(くにたち)と読ませた人は(かぜたちぬ)のファンではなかったのだろうか?などと。

 もう一つは零戦の主任設計者だった堀越二郎のことだった。
風の谷のナウシカからずっと(飛びもの)を描き続けた宮崎駿がついに零戦を扱ったなと思った。
宮崎駿は東京で航空機の部品を製造していた一族の中で育ったと聴く。
零戦の部品も作っていたのではなかろうか。

 その零戦の主任設計者だった堀越二郎の著作をふうてんは5、6年前に初めて読んだ。
前から気になっていたのだけれど、なかなか本屋さんで見つからなかった。
エンジニアリグの領域で仕事をしている人で零戦の設計者の意見を聴いてみたいと思わない人はいないだろう。
本を読んでみて、まるで詩人のような人だなあという印象が記憶に残っている。
零戦のどこまでが堀越二郎のオリジナルだったかは分からない。
それでもあの性能とあの形。
それの全責任は彼にあったはずである。
実行責任者としてあのような形に仕上げた。

 性能と形は無縁ではないとふうてんなどは思う。
究極の性能を追求したとき、そのマシンは必ず美しい形となる。
自動車でいうとポルシェ911がそうである。
どうしてそうなるのか?ふうてんには説明できない。
説明できないけれど確かに零戦は当時の最高の性能であり最高に美しい戦闘機だった。
角張ったところが一つもないあのデザイン。
性能を追求した挙げ句がそうなったのだろうか?
或いは少しは堀越二郎の美学もはいっていたのだろうか?
一度聴いてみたかった。

 堀越二郎は1982年に亡くなった。
戦後長く生きることになった。
彼は著書の中で、やはり零戦が沢山の人に災厄をもたらし、沢山の操縦士を死に至らしめたことに心が塞いでいるようであった。
零戦は1万台製造されて4500人の操縦士が死んだと、NHKの番組で知った。
これがエンジニアとして全知全能、全身全霊をかけて設計したマシンの結果である。
戦時中から戦後、死ぬるまで彼の心中は穏やかじゃなかっただろぅなあ。
 
・・・
エンジニアの端くれとしてふうてんはそう思う。

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2013/08/05

2013・8・4 Muさんが死んじゃった篇

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夏草や つわものどもが 夢のあと

 この日記を休んでいるうちにブロッグ連歌師仲間のMuさんが亡くなった。

 先週の土日に富士山の裾野にある小川別邸で愉快な時間を過ごし、帰りに南武線沿いにある、かっての我々の戦場だった工場の跡地を訪ねた。
南武線からいつも見えるので気になっていたのである。

 駅で降りて、どういう様子か見てみた。
仕切りがあって中へは入れないようになっている。
今は近くにあるお寺さんの管理下に置かれているようであった。
そのお寺さんにはいって写したのが掲記の写真である。
(つわものどもが夢のあと)
芭蕉って、憎いセリフを吐くなあと、ブロッグ・ネタの積もりで写した。

 富士山裾野へ行ったあと、火曜日は東京の赤坂へ出向いた。
いつもは自宅から半径2Km以内をうろうろしているふうてんにとっては大変な移動距離である。
疲れてしまってボンヤリとしていると木曜日に電話があった。
(たにぐち)とあったので、回復したのかなと携帯電話のスイッチを押した。

お嬢ちゃんのルリさんからだった。

 家族に見守られて静かに息を引き取りました。

 Muさんは芭蕉の俳句が好きだった。
(夏草や つわものどもが 夢のあと)
(旅に病んで 夢は枯れ野を 駆けめぐる)

 いつも夢を追い続けていたのだろうか。
そうだよね、Muさん、野郎なんて夢を見るしかないよね。
そちらへ行って夢を見るのか知らないけれど、俺はこちらであとしばらく夢を追いかけ続ける積もりさ。

 そのうちそちらで会って話すこと山ほどあるなあ。
いろいろ仕込んでいくからね。
待ってろよ。

(ふうてんアーカイブス)

2013・7・29 Muさんを偲んで

MuさんはJoさんとふうてん合わせて三人組を(風雪梅安一家)と呼んでいた。
Muさんが彦さんでJoさんが小杉さんでこちらが梅安だった。

彦さんは作家の水上勉を思わせるハンサムボーイだった。

 

Futari

Kyo

Omikuji

 

 

 

  
Sampai_2

 

京都の上賀茂神社

 

Matsu

Omlett_2

法隆寺と奈良ホテルのプレーン・オムレツ

 

Shashin

Torisei

伏見の鳥せい

 

Hiko_1

Hiko_2

六本木のワインガーデン

 

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