« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »

2013年2月に作成された記事

2013/02/25

2013・2・24 クロが死んだ篇

クロ

Kuro_2_5

Kuro_2_21_6
 先週の水曜日にクロが死んだ。

 月曜日、食事に来なかったので気になっていた。
ときどき数日間姿を見ないことはあった。
しかし、この寒い時期に、どこで食事をしているのだろう?

 火曜日の夕方、チャリを引き出すときにロシナンテの運転席を確かめると、シロとクロがいた。
いつものように二人でうずくまって寝ていて、シロはすぐに反応してこちらを見た。
クロはうずくまったまま、振り返らなかった。
それが気になった。


 水曜日、まだ明るいうちにチャリを引き出そうとした。
ロシナンテの運転席を見ると、シロがクロを守るように添い寝をしていた。
クロはやはり振り返らず、もう息をしていないことが分かった。
ふうてんは思わずシロに語りかけた。
(お母さん死んじゃったね、これからは一人で生きるんだよ)

 木曜日、シロがお母さんのクロとの別れの時間を過ごすのを待って、三人で家の庭に埋葬した。
埋める場所は庭師に任せた。
用意ができたというので、ロシナンテの後ろの方に置いておいた、バスタオルにくるんだクロを抱えた。
ガキのクンが屋根裏部屋から降りてきた。
(見せてくれる)
という。
見せたくないからバスタオルに包んでおいたのである。
(いいよ、でも見ない方がいいかもよ)
(僕これまでアレルギーでクロちゃんに触れなかった、触ってもいい?)
(いいよ、まだつやつやして滑らかだよ、しっぽもまだ柔らかいよ)

 庭師がバスタオルは脱がして、代わりにコナラの落ち葉を敷くという。
コナラの枯れ葉を敷きつめた上にクロを横たえ、庭師は花飾りを添えた。
ふうてんは、道中お腹がすくといけないからとキャットフードを少し添えた。
そしてクロの上をコナラの落ち葉で覆って土を庭師とふうてん、二人でかけた。
窓の中からガキがそれを見守っていた。
土で覆い終わるころ、やはり込み上げるものがあった。

 この家を建てた15、6年前からクロの姿を見かけていたと家人はいう。
近隣の人に聴くと、どの家のネコでもなかった。
つまりは野良猫ちゃんであった。
数年後そのクロがロシナンテのいるガレージでシロを産んだ。
ロシナンテで繁寿司へ行っている間にロシナンテのカバーシートを丸めた中でシロは生れた。
シロはミャ~ミャ~泣くばかりで母親の姿は見えなかった。
こちらは訳が分からず、知人の勧めで一皿の食べ物を用意して置いておいた。
翌日、おそるおそる見るとシロは姿を消していた。

 2カ月後、何気なく庭を見るとクロが子猫だったシロをつれて登場した。
それを見てクロがシロの母親だと初めて分かったのだった。
どこで子育てをしていたのだろう?
それはいまだに謎である。
野良猫は母乳で育てる間は決して母子共に人前に姿を現さない。

 クロちゃんが威風堂々と子猫のシロを連れて庭に登場してから我々の付き合いは始まった。
薄いチーズを投げ与えると食べることが分かった。
それからもう10年以上の付き合いとなった。
こちらはもっぱら(食事係)。
そして(寝床)の提供。
(寝床)とは即ちロシナンテの運転席であった。
ガレージに屋根はあるけれどオープンだしロシナンテには屋根がない。
この定宿は勿論向こうさまのご指定である。
一宿一飯の恩義。
それを10年以上続けて一言のお礼も聴いたことはない。

 その代わりというか、クロとシロはまことにかっこ良かった。
真っ黒と真っ白。
長い尾っぽ。
しなやかな体のこなし。
その姿に惚れ惚れした。
シロが付き合ってくれた夏の真夜中の散歩などは忘れがたい。

 もう、このコンビの姿を見ることはできない。
ふうてん曰く(夏休みだって終わりは来るんだよ)
高橋義孝曰く(変わらぬことがめでたいことだ)
井伏鱒二曰く(花に嵐のたとえもあるさ、サヨナラだけが人生だ)

(ふうてんアーカイブス)

2013年2月 クロが死んだ
これまでにこの日記に登場してくれた姿の一部を再録しておく。


クロとシロ

21_222_22_7


1_4

23_3

4_2

3_2

24_4

5_2

6_2












クロとシロとロシナンテ

31_3

32_2

33_2

34_2

 

24_3

| | コメント (0)

2013/02/17

2013・2・17 バレンタイン・デイのこと篇

Fuji_1_3

 

国立から見る富士山の夕暮れ

 

Fuji_2_4

 

 

 当たり前だけれど毎年バレンタイン・デイ(日本語ではバレンタイン・デー)が来る。
デパートはおろかスーパーでもコンビニでもチョコレートの特設売り場を設ける。
チョコレート好きのふうてんにとっては悪い風景ではない。
甘いもの、特に砂糖のはいったものが食べられなくなったのは何年前だったろうか。
それでもチョコレートだけは今でも時々口にする。

 2月14日はふうてんのガキの誕生日でもある。
今から30年ほど前に彼は生れた。
この日記に何度か書いたかもしれない。
いずれにせよ、バレンタイン・デイとなるといつもその日のことを思い出す。

 結婚して11年目だったか12年目だったか、初めての子供が生れることになった。
国立へ越してきて3年目くらいだったろうか。
女房どのが、いよいよと言うので確かタクシーでドクター宮元のところへ連れていった。

その日が2月14日だった。

(今日中に生れてくれると誕生日がバレンタイン・デイで覚えやすくていいなあ)
などと、家に帰って酒ばかり飲んでいた。

 なかなか電話がかかって来ない。
やがて2月14日の夜の12時を過ぎた。
(残念ながらバレンタイン・デイではなかったなあ)
などと、さらにウィスキーを飲むうちに12時半ごろ電話が鳴った。
(おめでとうございます、男のお子さんです、母子ともにお元気です)
(ありがとうございます。でも残念ながらバレンタイン・デイは過ぎたようですねぇ)
(いえ、生れたのは2月14日、夕べの11時半でした。ただ出産が大変だったので救急車呼んで輸血したり、一騒ぎがありましてね、それでご連絡が遅れたという次第でして)
・・・。

 そんなことで、バレンタイン・デイとガキの誕生日は一緒なのである。
(クンちゃん、チョコレート貰っても勘違いしないようにね)
などと子供のころから教えてきた。
そのガキも今年30歳になったという。
ふうてんもそうであったように(父親と男の子)の間で会話などというものはない。
(誕生日おめでとう。いくつだったっけ?)
(うん・・・)
(親孝行なんて考えなくていいからね、もう3歳までで終わっているから)
(そういう話、お父さん以外から聴いたことないのよね)
・・・

 子供は3歳までに親孝行の全てを終える。
これは昔、会社の先輩から教わったセリフだったような気がする。
実際に自分たちで体験してその意味するところがよく分かった。
家を建ててもらったりする必要はない。
それは親の問題なのである。
子供が出世したからといって親が偉くなる訳ではない。
赤子がしゃべり始めて歩き始めて無邪気に振る舞う。
その姿を身近に見せてもらっただけで十分だと思う。

 バレンタイン・デイが誕生日。
2月13日や2月15日生まれだと、そうはいかなかったろう。
たまたま2月14日にガキが生れたので毎年こういうことを考えさせられる。
今の世の中、男の子も女の子も晩婚だといわれる。
男の子も女の子も一人だけで気楽に過ごせる世の中になったらしい。
衣食住、24時間、365日、困ることがないようである。
そやけどなあ、それだけやとつまらんのとちゃうやろか?

 はよう、好きな男の子にチョコレートでも贈って結婚せんかい。
そして子供の一人も作ってみんかい。
3歳までの子供・・・おもろいでぇ。

 そう言いたいのだけれど、うまく伝えられない。
人間、まあ自然体でやるしかないわなあ。
結婚しろとか子供作れとか言われてもなあ。
こちらも言われてそうした訳ではなかった。
今の若い男の子も女の子も、まあ好きなようにやるしかないやろなあ。
何のこっちゃ?
説教の一つでもやったろか、思うていたのに・・・。

| | コメント (0)

2013/02/11

2013・2・10 ふるさとは遠きにありて想うもの篇

松山城の伊予柑ソフトはいかが?  

Shiroyama_5_3



 所用で、また伊予松山へ帰って来た。
前の日から天気予報は最悪だった。
1月14日の成人式の日と同じくらいの大雪になるというのである。

 夜半から確かに雪になった。
当日の朝起きると、かなり積もっている。
テレビで羽田空港への電車便はJR南武線も京浜急行も70%の運行だという。
これじゃあ飛行機は飛ばないな、と半ば諦めつつ早い目に家を出た。

 川崎駅で南武線からに京浜急行に乗り換える。
多摩地区から川崎に近づくにつれて雪が消えていった。
羽田空港にたどり着くと雪なんてどこにも見当たらない。
 
(今回は定刻に飛び立てそうだな)
と安心してタバコのみ場で一服していると妙なアナウンス。
 
(羽田空港では天候不良のため全便で遅れが出ています)
おいおい、またかよ・・・。
外を見ると空港は濃霧に覆われている。

 前回の12月は今話題の787の故障、今回は767だったけれど天候不良。
前回は1時間半、今回は1時間待たされた。
出発の1時間くらい前には空港にたどり着いて搭乗手続をして下さいと案内されている。
そのとおり、言われたよりも前に空港へ行ったから2時間半も2時間も待たされた。
羽田から松山への飛行時間は1時間半ほどである。
飛行機で飛ぶ時間よりも待たされる時間の方が長い、というのは愉快な話ではない。

 松山で2泊した。
今回は所用を済ませた後、いろんな人に会うよりも、少し松山を歩いてみたいと思った。
前回でレンタカーは懲りたのでバスと市電と徒歩にした。
2泊3日で3万歩ほど歩いた。

 松山は何といっても松山城である。
市街地のほぼ中央に小高い山があってその上に天守閣が見える。
今の東京の皇居、昔の江戸のお城のようなもの。
松山ではその城山の周辺に官公庁、放送局、新聞社、銀行、などなどが集中している。
城山を取り囲むように伊予鉄道の路面電車が今でも走っている。
夏目漱石はそれを(汽車)と呼んでいる。
その漱石が乗っていた(坊っちゃん列車)が数年前に復活した。
今見ると汽車と呼ぶには余りにも小さく、オモチャのような大きさなので電線まで背が届かない。

 坊っちゃん列車は走っているかなぁ?と待っていると走ってきた。
漱石の時代はいわゆるSLで石炭をくべて蒸気機関車で走っていたのだろう。
今の(坊っちゃん列車)は姿形はそっくりなのだけれど、残念ながらディーゼル・エンジンである。
今どき、石炭くべて黒い煙を吐きながら町中をシュッシュッ・ポッポと走ったら・・・。
MuBlogの盟友Muさんなどは嬉しさのあまり、松山に引っ越したいといわはるかもしれへん。

 松山城に登ったり、伊予鉄道のチンチン電車に乗って城山を一周したりした。
昔の本屋さんなどあるかなあと、大街道と銀天街というアーケード街を歩いてみた。
昔のままだった・・・とはいかなかった。

 ふうてんなどが松山で中学、高校時代を過ごしたころは、もう少し文化の香りがあった。
映画館、レコード屋、古本屋、骨董屋、喫茶店・・・。
これらが何軒づつもあり、それぞれが特徴を持っていて、それを売りにした店が沢山あった。
しかも松山は古来、瀬戸内海に面した外国との行き来の要衝であった。
朝鮮へ向かう額田王が道後温泉で(潮もかないぬ、今は漕ぎいでな)と詠んだとか・・・。
おかげで、我々は文化的には今の首都である東京に対して何のコンプレックスも持つことがなかった。
 
(東京の方が田舎じゃわい)
などと、伊予弁でうそぶいていたものだった。

 時は移り、世は変わる。
松山もそれから逃れることはできない。
戦争で松山もアメリカの空爆を受けて焼け野が原になった。
1945年の終戦、その後の復興と高度成長。
1990年ころバブルが弾けてもう20年。
次々と巨大なビルが建って拡張した空間に今は人影もまばら。
今回松山へ帰ってその歴史を見る思いだった。

 こういう大きな変化の時代に、あまりにも長く故郷を離れすぎたなあ。
18歳で京都へ流れて・・・。
それ以来、松山の変化とは時間を共にしなかった。
居ないでいて、変わってしまったなんて言えるのだろうか?
どの町も変わってしまっているじゃないか。

(ふるさとは遠きにありて想うもの)
この室生犀星の名句を思い出した。
この名句はふるさとから離れて生活している人間の幻想なのかもしれない。
ふるさとは昔のままに違いない、と夢見る人は、ふるさとから遠くにいないといけない。
ふるさとに帰ったり、現実を確かめたりしちゃあいけない。

 ですよね、室生犀星の旦那さん。
(ですよね、はテレビドラマ(相棒)の寺脇という俳優のセリフで、妙に気に入っている)


(ふうてんアーカイブス)


松山点描 2013年2月

松山城を電車から見ると

Matsuyama_1_3

 






坊っちゃん列車
 
(グーグル画像より)

Imgp39601_3




 
お城全景

Shiroyama_1_2

 






松山城・・・石垣がすごい
奈良の大仏さんには260万人駆り出されたらしいけど、こちらも数万人は・・・。

Shiroyama_3_2 

Shiroyama_4_3







野球と正岡子規

正岡(のぼる)

 
のぼる・・・noboru・・・野ボール・・・野球
それでNOBALL
伊予の(よもだ)つまり(諧謔精神)
ちなみに数年前に松山近郊に(坊っちゃんスタジアム)という立派な球場ができた。

Matsuyama_3_3 
Matsuyama_4_7




 

 松山には、
夏目漱石の坊っちゃん
正岡子規の俳句と野球
それと日露戦争の秋山兄弟。


この三つしか名物はございませぬ。


| | コメント (0)

2013/02/03

2013・2・3 テレビ放送60周年だとか篇

ご近所の日産フィガロ(FIGARO 1991年型)
いい形をしているなあと見るたびに思う
Figaro_1

 1953年2月1日にテレビ放送が開始されたとNHKは伝えている。
放送は今から60年前で、メーカにとってはその一年前の1952年がテレビ元年だったと昔、松下電器の営業さんに聴いた記憶がある。

 妙にその時の松下の営業さんの言ったことを印象深く覚えている。
(ふうてんさん、映像の世界は50年に一度大きく変わるようですね)
(ほぉ~っ、50年に一度ねぇ、どういうことです?)
(まずは1900年のパリ万博ですよ)
(何が起こったんです?)
(映画ですよ、映画についてこんな話があります。
 1895年にリュミエール兄弟がパリに作った映画館は、世界初としてヨーロッパでは知られていました。
当然、1900年のパリ万博においても、彼らが上映した映画は大きな話題となり、映画の魅力が世界中に発信されてゆくことになりました。)
(つまり1900年のパリ万博で世界中に映画が知られることになった)
(そういうことなんです。次が50年後の1950年でして、テレビが登場しました)
(ああそれは僕も聴いています、日本では1952年~1953年だったとか)
(そこで質問です、1950年から50年後の2000年における映像の革命とは?)
(??!!)
・・・

 どうもこれは松下の営業さんの謎掛けであったようだった。
この会話は1990年ころ、ふうてんがパソコンの仕事をやっていて、表示装置やCD-ROMという記録媒体を松下やソニーから調達していた時代であった。
この営業さんは映像の新しい表示装置について何か言いたいらしい。
当時ふうてんなどが作ったパソコンではもう動画も扱えるようになっていた。

(2000年にシドニーでオリンピックがあるんですよね)
と営業さんが言う。
(そういえば今度のアテネの次はシドニーでしたかねぇ)
(スポーツ競技はクリアな大きな画面で観たいでしょう?)
(はは~ぁ)
(出来れば場所を取らない、壁に掛けられるような薄いやつ)
 
・・・
松下の営業さんの謎掛けはすぐに分かった。
(例の松下さんお得意の50インチ、プラズマ・ディスプレイという訳ですか)
(液晶もあるんですが、今はまだプラズマの方が映像が綺麗でしてねぇ)

 松下の営業さんから映像文化の歴史の講釈を聴こうとは予想していなかった。
大阪で松下電器の研究所と工場を見た後の東京への帰りの昼間の会話だった。
新幹線の新大阪駅にある(うどんスキのみみゅ~)でひとしきりそんな話に耽った。
(うどんすき)の店でビールの一杯も飲まないわけにはいかなかった、と思う。
念のためにグーグルに聴くと(うどんすきの美々卯 新大阪店)は今も健在のようである。
 

  現役時代、いろんな会社の営業さんと付き合った。

中で松下の人は朝昼晩と隙がなかった。
ソニーの営業マンとは肌合いが違って・・・それぞれ魅力的だったなあと懐かしく思い出す。
ソニーと松下は技術者も含めて全く社風が違うのだった。

 この会話からもう20年以上経つ。
確かに松下の営業さんの言った通り大型の平面テレビが主流となった。
松下、シャープ、ソニーが先陣を切って(平面テレビ、液晶の開発)に入れ揚げた挙げ句に、この20年でその市場を韓国のメーカに乗っ取られてしまって松下、シャープ、ソニーは大赤字になった。
もう日本の電機産業はダメだという声も大きくなっている。

 そんなものかなあ、とふうてんは思う。
テレビ60周年を迎えた今年、テレビ放送は全部ハイビジョンになっている。
この規格を作ったのはNHKだった。
それまではアメリカの作ったNTSCという規格が世界の主流だった。
ハイビジョンはNTSCの4倍以上の解像度であり、4対3から16対9の横縦比になった。
テレビの画面の規格を決めた一番手はアメリカ、二番手は日本ということになる。

  今NHKはスーパー・ハイビジョンを提案して、いろんな機会にそれを見せ始めている。

縦横4倍ずつで画素数としては16倍である。
それがいいのかどうか知らないけれど、10年ほど前にNHK技研でこれを観てビックラこいた。

映画館の大型スクリーンで観ても十分な解像度だった。

 テレビ放送60周年・・・ある意味こちらの一生の年月と重なっている。
生れたころテレビ放送が始まり・・・死ぬるころテレビはどうなるのだろうか?
テレ・ビジョン・・・遠くのものを、通信を通じて・目に見せる。
そのことで世界戦争を防ぐのに役立った、という説がある。
しかし局地戦争では、戦争に手を貸したのではないか、という説もある。
 
 
 
 ふうてんは、今のところ人間の五感はまだテクノロジーに負けていないと思う。
テレビを始め、車とかスマホとか、あらゆるテクノロジー。
テクノロジーというのは所詮人間の考えつくもの。
自然の作り・・・人間も含めて、は、人間の考えたり作ったりするものを超えたものがある。

   
植物が春になると芽を吹き花を咲かせて、やがて枯れ落ちる前に次の世代の実を用意する。
これを人間のテクノロジーで真似することはできない。
いくらiPS細胞の山中くんが頑張っても無理である。
それでいいと彼も思っているに違いないし、それ以上人間がやっちゃあダメだと彼は思っているとふうてんは信じている。
生き物の可能性と限界・・・当たり前のことを、テレビ放送60周年で改めて考えさせられた。

(ふうてんアーカイブス)
日産 フィガロ ウィキペディアより
開発コンセプトは(日常の中の非日常)だとか。

800pxnissan_figaro_rear 

レトロの手法を用いてデザインされた2ドアの小型オープンカーであり、手動で開閉するトップや、本革シート[1]を備えていた。
 型式はFK10型で、乗車定員4名、初代マーチK10型)をベースとしたパイクカーシリーズのなかでは唯一、ターボエンジン[2]を搭載していた。コンセプト
は、「日常の中の非日常」であった。
 
1991214、限定20,000台で発売され、同年8月末までに3回に分けて抽選するという販売方式がとられた。
 新車販売は日本国内でのみ行われたが、諸外国[3]、特にイギリスでは広い人気を得、セレブリティー[4]のオーナーも現れた[5]

 日本と同じ右ハンドルということもあり多くの中古車が輸入され、ロンドンにはフィガロ専門の中古車店もあったという。

  モーツァルトの歌劇「フィガロの結婚」に登場する、機知に富んだ主人公の男性の名前にちなむ。 

| | コメント (0)

« 2013年1月 | トップページ | 2013年3月 »