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2013年1月に作成された記事

2013/01/28

2013・1・27 変わらぬことが目出度いことだ篇

下北沢のメルカ~ト
 

マスターと女優志願のアシスタント

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この間、都内の赤坂で2週間ぶりの定期ミーティングがあった。
 
定年退職後は都内の地下鉄に乗ったりすることはめったにない。
 
有楽町線とか銀座線に乗ったり赤坂見附で乗り換えたりすると、どうしても現役当時の気分を思い出す。

 赤坂でのミーティングの後、仲間と溜池の居酒屋でビールを一杯飲んだ。
 
ふっと下北沢のイタリアンを冷やかしてみたくなった。
 
現役時代にJOさんとずいぶん通った店である。
 
どうしているのだろう?

 長野へ夜のバスで帰る友人と新宿で別れて小田急線に乗った。
 
下北沢で下りたとき、改札口からの出方が分からなかった。
 
一瞬迷って右側の北口へ向かった。
 
この北口の階段を降りたところで何度JOさんと待ち合わせたことだろう。
 
階段を降りながら当時を思い出していた・・・あれは何年前だったっけ・・・。

(めるか~と)というイタリアンのお店への行き方もおぼろであった。
 
ここかいな?と右側の路地を見る。
 
これやったかいな?と次の路地を見る。
 
それでも間違わずにたどり着いた。
 
目印はイタリアの緑、白、赤の国旗である。

 はいってみると何もかも昔のままだった。
 
いつものようにカウンターの一番左の席に陣取る。
 
マスターもアシスタントの女優志願も変わっていない。
 
(ビールですか?)
 
とマスターが聴いた。
 
(ビールはもう飲んだから白ワインお願い、それとペペロンチーノ)
 
(何か作りましょうか?)
 
(この季節は白子が美味しかったよねぇ、あれある?)
 
(今日ははいってないんです)
 
(じゃぁ、キノコの炒めたのは?)
 
(できます、ペペロンチーノの前にしましょうか)
 
(まずはペペロンチーノをね、いつもJOさんとシェアしていたので一人で食べられるかなあ)
 
(平気ですよ、量は多くありません)
 
・・・

 そんないつものような会話で始まった。
 
マスターは還暦を過ぎたという。
 
しかし髪も黒くて染めてないというし、プロ・レスラーのような骨相はちっとも変わっていない。
 
アシスタントの女優志願は結婚をしたという。
 
結婚をしてもまだ女優志願なのだろうか?
 
樋口加奈子にちょっと似た骨相は女優志願にふさわしい。

(女優志願)というのはふうてんが中学生の頃観た映画でヘンリー・フォンダが主演だった。
 
グーグルに聴くと1958年製作で監督はシドニー・ルメットだとか。
 
女優志願役のスーザン・ストラスバーグも魅力的だった。
 
いい映画だった。
 
その映画を観た後、女優になることを夢見る女人(をなごはん)をふうてんは女優志願と呼びたくなった。

 この日はたまたまその女優志願の誕生日だった。
 
彼女の友だちが持ってきてくれた花束で写したのが上の写真である。

(めるか~と)を出ると雨が降っていた。
 
傘を借りて下北沢駅へ向かう。
 
駅の北口周辺にはまだ戦後の名残をとどめる路地が残っている。
 
この一帯には超高層ビルなどが建たないことを祈るばかりである。
 
下北沢には主要な道路が通っていないので大丈夫だとは思うけれど・・・。

 小田急の登戸で降りる。
 
この登戸からJR南武線で帰るのだけれど時刻表を見ると最終電車まで1時間あった。
 
それで(エイプリルフ~ル)を冷やかしてみようと思った。
 
登戸駅から歩いて5~6分のところにこのショット・バーはある。
 
この店も現役時代ずいぶん通った。

登戸のエイプリルフール

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 この店の目印はネオンサインである。
 
写真では白っぽく写っているけれど緑のネオンなのである。
 
この目印の光が見えると、ああやっているなぁということになる。
 
この日、雨がそぼ降る11時過ぎに緑のネオンサインが見えたのだった。

 広くはない階段を2階へ上がる。
 
そぉ~っとドアを開けるとマスターがいた。
 
このお店も1~2年ぶりになる。
 
バーボンがずらりと並んだ棚、壁に所狭しと並べられているマリリン・モンローやジェームス・ディーンの写真。
 
ここはアメリカの1950年代の世界なのである。

 この(えいぷりるふ~る)で注文をする必要はない。
 
黙っていてもIWハーパーのストレート・ダブルが出てくる。
 
それを注いでから(コーヒーもですよね)とマスターが確かめる。
 
この日は手持ちのラッキー・ストライクがなくなったので、いつものハマキを所望した。
 
この浅草出身のチャキチャキの江戸っ子であるマスターは葉巻大好き人間でもある。
 
もう指が熱い、くらいになるまで吸わないで灰皿に押しつけたりすると叱られる。
 
(残したりしちゃあいけません)

 この店には以前トランペッター近藤等則(としのり)とよく一緒に来ていた。
 
マスターとこのトランペッターには随分と長い歴史がある。
 
今でもトランペッターはこの店の2~3軒隣にスタジオを持っている。
 
見ていて羨ましいくらいのオヤジでありやんちゃなガキである。
 
随分前に広島の厳島神社で巨大なイベントを繰り広げ、マスターは料理人として大車輪の働きだったとか。
 
トランペッターは最近オランダのアムステルダムを引き払い日本の大学で講義などもしている、風なことをマスターはいう。

 下北沢の(めるか~と)と登戸の(えいぷりるふ~る)。
 
どちらも、店もスタッフも変わっていなかった。
 
(変わらぬことがめでたいことだ)と40年ほど前の朝日新聞元旦特集で高橋義孝が書いていた。
 
まだ25、6歳のふうてんは結婚したばかりで多摩ニュータウンに住んでいた頃だった。
 
それでもこの一言は強く印象に残った。

 それから数年たって国立へ移り、山口瞳のことも知るようになり、彼が高橋義孝のことを師匠として慕っていることも知った。
 
山口瞳の文の中に、こんなことも教えられたと書いている。
 
(人生は短い、しかし踏み切りで警報器が鳴っているときに掛け出さなくちゃならない程短くはないんだよ)
 
この山口瞳の文章を読んだ後、ふうてんは踏み切りが鳴っているときにいつもこれを思い出して、落ち着いた気持ちで見送ることができるようになった。
 
確かに信号が変わるといって掛け出すのはあまりみっともいいものじゃない。

(変わらぬことがめでたいことだ)
 
今の時代、極めて難しいことかもしれない。
 
むしろ逆に(変わらないと生きていけない)というのが主流になっている。
 
政界、財界、スポーツ界、などなどでそういう発言が目立つ。
 
いわゆる(競争の世界)ではそうなのかもしれない。
 
しかし、我々の普通の生活の中でそう変わってばかりじゃ落ち着かないのではなかろうか。
 
むしろ高橋義孝が言ったように(変わらない)方が快適なのではなかろうか。

 政治や経済の制度は変わってもよろしい。
 
しかし我々の生活には変わらない方が嬉しいという面もある。
 
個人的には(変わらぬことがめでたいことだ)を実感した一週間だった。
 
そして時代に逆らって(変わらぬように)生きていくのも、結構しんどいこっちゃなぁ、と実感させられる今日この頃でもある。

 嫁はんは40年もの、ロシナンテは45歳でハンドルもギアチェンジも全て手動でパワーアシストなしで屋根とかシートベルトなどもない、着ているコートも30年ものでボロボロ。
 
電話機はアナログの丸いダイヤル式でこれも30年もの。
 
スマホ?アイパッド?そんなもんありゃあしません。
 
そう言えば電子レンジとかミキサー(ジューサー)とかいうものも見当たらない。
 
この方が居心地がいいからそうしているに過ぎないのだけれど・・・。

(変わらぬことがめでたいことだ)
 
この高橋義孝先生の一言は名言だと思う。

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2013/01/20

2013・1・20 キーン・ドナルドのこと篇

初雪は大雪になった

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  今年の冬はやたらと寒い。
14日の成人式の日に東京では初雪が降り大雪となった。
先週報告したように女房どのは留学生たちの成人式を手伝いに行った。
着物で雪道は大変だったろう、と聴くと、雪は初めて見るので嬉しいと大ハシャギだったと聴いて一安心した。

 車庫の前にも雪が積もって、雪かきをしなかったので、凍りついたまま解けないでいる。
ロシナンテを引っ張りだすのはいつになることやら・・・。

 寒さのせいでもないのだけれど年末年始ずいぶんテレビを観た。
中で日本に魅せられた二人の外国人の番組は印象的だった。

 一人はロシア人のピアニストだった。
ハイビジョン特集「漂泊のピアニスト アファナシエフ もののあはれを弾く」
という題名で、ワレリー・アファナシエフという初めて聴く名前のピアニスト。
冷戦下のソビエトから26歳の1972年にベルギーへ亡命したという。
日本への興味のきっかけは、冷戦下のモスクワで仲間たちと(能のバック・ミュージックのレコード)に聴き耽っていた時、というから恐れ入る。
その彼の演奏スタイルは(間)と(もののあはれ)であるという番組だった。
音は静寂の中から立ち上がり、そして静寂の中に消える。
彼は日本文化の中にそれがあると、源氏物語や徒然草の大ファンで何度も来日している。
番組の中では京都の嵐山を船で経めぐるシーンもあった。

 もう一人はドナルド・キーンという皆さんご存じのお方。
BSTBSで(ドナルド・キーン 90歳をいきる)というのとNHKで(ドナルド・キーン 100年インタビュー)の再放送があった。
こちらは1940年の学生時代、ニューヨークで源氏物語の英語訳が2冊49セントで売っていたのを見つけて(分厚い本が2冊で49セント・・・安い!!)と嬉しくなって買って読んだという。
それで源氏物語にはまってしまった。

 戦争中、海軍の日本語学校へ通って日本語を学んだ。
ナチス・ドイツが勃興し日本が真珠湾攻撃をしたあの時代にニューヨークには日本語学校があった。
そのことだけでも驚くのだけれど、キーン青年、日本語に痛く魅せられて日本語を学び始めたというのが面白い。
やがて戦争末期、翻訳者として軍の仕事に参加する。
その仕事の中で彼は日本人、日本の文化に深い興味を抱くようになった。
特に日本兵が落っことしたり、戦死者が持っていた(日記)を読んだときが決定的だったらしい。
日本軍は毎年元旦に全兵士に(日記帳)を配ったという。
アメリカでは軍の機密が漏れるといけないから日記を書くことは禁じられていた。

 日本にはよほど日記文化が根強くあるのでしょうねとキーンは語った。
だから兵士たちも日記を書きたいだろうと日記帳を配った。
そこにはアメリカの心配して期待した軍事機密なんて書かれていなかった。
戦争に駆り出されて、南太平洋とかの戦地に行って直面した現実が生々しく表現されていた。
青々とした小島にたどり着いて、やれ嬉しやと思ったとたん、水がない、食べるものがない、マラリヤ蚊は飛んでくる、アメリカの爆撃機は飛んでくる・・・。
そんな状況の中、死んで行った兵士たちの日記であった。
 
(文学としての日記よりも僕は深く感動した)
とキーンは語っている。

 昭和28年にキーンは留学生として初めて日本を訪れ京都に住むことになる。
 
それからもう50年以上も彼は日本文学、日本文化について世界にそして日本人に紹介する仕事を続けてきた。

90歳になる頃、東北大震災をきっかけに日本に帰化して日本人となった。
    
 (大好きな日本人と共に生き、共に死にたい)
日本戸籍での登録名は(キーン・ドナルド)、漢字での表記は(鬼怒鳴門)、これは鬼怒川と鳴門を合わせて人を笑わせるためにつけたという。

 ふうてんなどもアメリカ人だったキーン先生に日本のことをずいぶんと教わった。
この(ふうてん老人日記)などというのも、元々は昔ドナルド・キーンがNHKの教育テレビで谷崎潤一郎のことを語っているのを観たのがきっかけだった。
谷崎という作家との出会い、エピソード、谷崎文学の魅力を語っていた。
 
(僕は瘋癲老人日記が谷崎の最高傑作だと思います)
 
(これには文豪谷崎の軽みとヒューモアがあります)
 
(西洋ではヒューモア、ユーモアのない文学は尊敬されないんです)
 
・・・
この番組を見てふうてんは本屋に走り(瘋癲老人日記)を読んだ。
それまで谷崎作品はろくに読んだことなかったのだった。
薄い文庫本だったけれど頭を殴られるようなショックを受けた。
それ以来、谷崎のたいていの作品は読むことになった。

 日本に魅せられた二人の外国人。
こういう人たちの活躍ぶりはどこか我々を励ましてくれるものがある。
日本の先人たちの魅力を教えてくれるものがある。
日本人も捨てたものやないなあ、と。
 

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2013/01/14

2013・1・13 新しい年が始まった篇

Shige_1_310年前

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  夕刻チャリで繁すしへ出向いた。
今年初めての繁寿司詣でとなった。
車庫からチャリを出すときロシナンテの運転席を見るとシロとクロが仲良く眠っている。
そ~っとお邪魔をしないようにチャリを引き出した。
この二人は女同士の親子なのだけど本当に仲がよい。
ロシナンテには屋根がないので、寒い中、温め合って眠るようである。
もう10年以上になるだろうか。

 チャリで繁すしへ向かいながらこんな会話となった。
(ずいぶん日が延びたなあ)
(そう言えばこの前は暗かったのに)
(夕方5時にこの明るさ、逆に朝は遅くなってるんだよね)
(朝は何時くらいにお日様が出るのかしら?6時頃かしら)
(そんな感じがするよね、昨日天気予報のとき、東京の今日の日の出は6時51分いうてた)
(ええ~っ??ほとんど7時!!それで朝起きるのが遅いんだ、6時頃と思っていたのに)
女房どの妙に納得している。
人間何か言い訳の理由が見つかると嬉しいものらしい。

 繁寿司では明日の成人式の話題になった。
せっかくの成人式なのに東京では雨だとか雪だとかの天気予報。
留学生のお嬢さんたちが日本での成人式に出るために、ふうてんの女房どのはお手伝いに駆り出される。
着物の着付けとか髪結いであるらしい。
朝の7時に国際交流会館に参じるように頼まれている。
雨や雪じゃ大変ですなあという話になった。

(繁さん、外国人の和服姿見たことある?)
(どうなんでしょうねぇ)
(一度驚いたことがあるのよ、留学生たちの歓迎会かなんかで)
(ほぉ~っ)
(立川でその会があったとき和服のお嬢さんの中に飛び切りの別嬪さんがいてね)
(いろんな人が来ていたんでしょうね)
(僕はてっきり日本人だと思ったわけ、でも違っていた)
(ほぉ~っ)
 
・・・
(同じテーブルにいたその別嬪さんの担任の先生に聴いたらウズベキスタンというのよ)
(ウズベキスタンですか)
(その先生に僕は、これほど和服の似合う人は珍しい、日本人以上ですなあ、言ったのよ)
(ほほぉ~っ、それでどうなりました)
(先生、こんな別嬪さんが校内なんか歩いていたら若いのがゾロゾロと後を着いていくでしょう)
(若いのどころじゃない、僕も着いて行きます、と先生がのたもうたので大笑いとなりましてね)
 
 それくらい、そのウズベキスタンから来た留学生は日本人その顔だちで綺麗だった。
それからしばらく別嬪さん議論になった。
(ウズベキスタンも東西の交流地点だったのですよね)
と繁さんの奥さん。
(トルコなんかも亭主一人に行かせたらダメと言われているそうですね)
と繁さん。
どうも東西の交流する地域には別嬪さんが多いらしいという点で意見は一致した。

(繁さん、開高健ていう作家がいましたよね、彼がルーマニアには別嬪さんが多くて、すれ違った後思わず振り返りたくなることが多い、なんて書いていましたねぇ)
(ふうてんさんはどうなんです?振り返ります?)
(僕なんかも・・・ないとは言えませんなあ、繁さんは?)
(築地なんか行っていると見学者が多いんですよ)
(ああ、外国から来た見学の人ね)
(そん中にエライ別嬪もいましてねぇ、黒い髪で青い眼とか)
(やっぱり振り返りますか?)
(ないとは言えませんねぇ)
ふうてんと同じようなお応えだった。

 聴いていた二人の女房どのたちは、
(何をアホらしい)
いうような顔つきをしていた。

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2013/01/06

2013・1・6 チャップリンの映画で寝正月篇

お節

Osechi_1

Osechi_2_2 


Osechi_2


 
 
 

 

谷保天神

Tenjin_1

Tenjin_2


 今年も完全に寝正月だった。
 
チャリでタバコを買いに行ったりはしたけれど、どれも半径500メートル以内。
 
ロシナンテは?
 
奴も寝正月だったに違いない。
 
この5日にご主人様のこちらが67歳になったというのに何の挨拶もなかった。

 500メートルをちょっとだけ超えたのは谷保天神を冷やかした時だった。
 
1月3日にどんな様子なのかビデオにでも写したろかいと出向いた。
その名残が掲記の写真である。
 
沢山の人が参拝をしている風景を写していると、バッタリと我が家の女房どのに出会った。

 別々に家を出たのだけれど嬉しそうな顔をしている。
 
(どうかしたの?)
 
(大吉だったのよ)
 
・・
どうも宝くじよりは当たりが多いのだろうか、神社の御神籤は。
 
そう言えば去年の最後の繁寿司でも福引きで一等賞が当たったような・・・。

 毎年の盆休みと正月休みはサラリーマンにとっては貴重な休みだった。
 
何しろ会社へ行かなくていい。
 
朝の何時とか決められた時間に起きなくていい。
 
通勤電車に乗らなくていい。
 
そうなると不精者のふうてんなどはやることが決まってくる。
 
6年ほど前にサラリーマン生活は卒業したのに習慣は変えようがない。

 朝起きて、まずはビールやな、と冷蔵庫を開ける。
 
テレビのスイッチをつける。
 
そうか世の中はこうなっているのか、などと2本目のビールに移る。
 
ビールは杉田屋の若旦那に届けてもらうエビスの小瓶に限る。
 
世の中の新しい動きをテレビで見ながら、そういえば昔・・・などとHi-8のビデオを引っ張りだしたりする。
 
やっぱり黒澤映画はいいなあ、などとビールからウィスキーに移る。
 
パコ・デ・ルシアのフラメンコもよく動員される。
 
便利なものでパコの曲はパソコンの中に映像入りで何曲もある。

 そんな風に盆休み、正月休みの4~5日は過ぎていくのが習わしだった。
 
(この休み、何をしたのだろう?)
 
(何もしなかったなあ)
 
(なんにもゲインはなかったのかしら?)
 
(唯一のゲインは頭の中が真っ白になったこと、ちゃう?)
 
(そうやね、人間忘れることも必要や)
 
(全部忘れて真っ白な紙に新たに書き始めればよろしい)
 
(そうや、その通りや)

 こんなことを何年繰り返して来ただろうか。
 
真っ白な紙に書き始めて・・・ろくな作品は書けなかった。
 
それでも年末年始にゼロ・クリアするという日本人の習慣は悪くないと思う。
 
大晦日に去年の垢を落として元旦に新しい年の希望、夢を取り戻す。
 
どうせ出来もしないことなのだけれど、毎年そういう気持ちで新しい年に向かう。

 今年の寝正月に付き合ってくれたのはNHKのチャップリン映画だった。
 
放映の日と、制作年は以下のようであった。
 
1月1日 モダン・タイムス(1936年)
 
1月2日 独裁者(1940年)
 
1月3日 街の灯(1931年)
 
1月4日 黄金狂時代(1925年)

 この中では一番最後に作られた(独裁者)でも1940年で戦争の時代。
 
これだけコケにされたら当時のヒットラーは怒ったに違いない。
 
チャップリンは第二次世界大戦後も(殺人狂時代)や(ライムライト)を作った。
 
ドイツのナチズムを批判しアメリカの資本主義を批判し、結局イギリス出身のチャップリンの安住の地はスイスしかなかった。

 どれも、もう70年も前の映画である。
 
上記の作品はハリウッドの(ユナイテッド・アーティスツ)時代の作品。
 
白黒(モノクロ)だけれど画質は極めて良い。
 
さすがハリウッドだと思わせられる。
 
当時の日本の映画も同じくNHK(山田洋次の選ぶ100本)などで紹介されている。
 
こちらはかなり画質で劣る。
 
さらに、映画の文法でいうと天と地の差がある。
 
よくもまあアメリカに戦争を仕掛けたものだと恐れ入る。

 チャップリン、チャールズ・スペンサー・チャップリン・ジュニア、の映画作りは本当に驚いてしまう。
 
何しろ、原作・脚本・音楽・監督・主演を一人でやってしまう。
 
貧しい浮浪児のようなあの姿だけではなく(独裁者)で出てくる壮麗な建物とか何万人ものモブ・シーン。
 
映画で取り扱われる小から大までのあらゆる要素を平気な顔をして処理している。

 今日は(独裁者)の最後のヒンケルに間違われて大演説をぶつ、床屋のシーンを見直した。
 
今の世界の社会状況そのままを彼は語っていることに一驚した。
 
(何を語ればいいの?)
 
(希望を語ればいいのさ)
 
(Hope?)
 
それでチャップリン先生、大演説をやることになる。

 世界中の、ありとあらゆる生き物、仲良くやっていこうよ。
 
それが主題の大演説だったと思う。
 
そんな彼は大戦後の(赤狩り)でアメリカを永久追放された。
 
勿論イギリスなどのヨーロッパ諸国も彼を危険視した。
 
1977年、88歳でスイス、レマン湖のほとりで亡くなったらしい。
 
今、彼の映画を観ると、
 
(そうや、その通りや)
 
と全く古さを感じさせない。

 チャップリンに関しては手塚治虫が昔テレビで語っていたことを思い出す。
 
(チャップリンにはまいりました)
 
(どうして?)
 
(何しろ人間は、食べて、眠って、働く、その本質をこれほど深く描いた人はいないでしょう)

 なるほど、人間は、食べて、眠って、少しだけ働く、か。
 
少し脚色をして、ふうてんは納得するのだった。
 

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