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2012年12月に作成された記事

2012/12/30

2012・12・30 ゴジラ・マツイとイチロー・スズキのこと篇

桜通りも冬枯れ 

Sakura
  2012年ももうすぐ終わる。
個人的には大した変化もない年ではあった。

しかし、まわりの世界は否応なく大きな変化があったように思う。
中国、韓国、日本の首長が代わった。
これはアジアでのこれまでの固定観念的な関係の持ち方に変化をもたらすかも知れない。
或いはそれは期待過剰なのだろうか。
同じ環太平洋でオバマが再選された。
これは歓迎すべきことだと思う。
4年間では短かすぎる。

 書簡集でよくアメリカのメジャーリーグへ行ったゴジラ・松井とイチローの話題になる。
結局、松井くんは引退し、イチローはヤンキースと再契約した。
こういうアスリート達の進退のあり方は、どこか我々の人生の過ごし方と重なる部分があるようで興味深い。

 昨日はNHKでイチロースペシャル2012年という番組を見た。
今年39歳になったイチローくんのマリナーズからヤンキースへの移籍のストーリーだった。
2009年にゴジラ・松井がワールドシリーズに優勝してMVPを獲得したヤンキースである。
ピン・ストライプのユニフォームは阪神タイガースのファンであるこちらにはまことに好ましい。

 
 
 

 何回もこの日記に書くけれど、NHKのドキュメンタリ班は本当によく撮っていると思う。
カメラや取材班の活動も素晴らしいのだけど、それ以前にシナリオがあると思う。
ドキュメンタリというのはただマジメに写し続ければいいというものではない。
リアルタイムの中継番組と違って(一つの作った番組)であるからしてドラマがなければならない。
その為にはやはり優れたシナリオライターが必要だと思う。

 今回のイチロー・スペシャル2012でも、やはりいいシナリオ書きがいるなと思った。
ドキュメンタリだからシナリオを最初に書いてその通り物語りが進むはずはない。
その点は映画とは違う。
ドキュメンタリ班はシナリオとは関係なく何年もイチローを追い続けていたのだろう。
というか、NHKの中に何十組もあると聴くドキュメンタリ班の中に(イチロー組)がいるのではないだろうか。

 この番組で、シアトル・マリナーズ時代のイチローの姿、特に最後の方のチームの中で孤立していく姿をよく捉えている。
何故孤立して行ったのか?
そして何故ヤンキースへの移籍を選択したのか?
それを最後にイチローに語らせる。
何年もイチローを追い続けているドキュメンタリ班イチロー組の素材を使ってシナリオライターがシナリオを書き、そのシナリオを完成させるために新たな取材を試みる。
最後のイチローのインタビューはそういうことだったと思う。

 イチローはコマーシャルではひょうきんな顔をしているけれど、インタビューでは寡黙で言葉数が少ない。
そしてなかなか哲学的なセリフを吐く。
(もう年齢的に限界だと言われます)
(そうかもしれないけれど、そのせいにするのは簡単なのですよね)
(生き物は生れたときから死に向かって歩いていますよね)
(プロ野球選手としての死とは何か、を僕は知りたいのかもしれません)
(それは単純に年齢で決まるものとも思えません)
 
・・・・

 正確ではないけれど、そんな風なことを語る。
番組では自宅の昼飯は弓子夫人の作るカレーしか食べない、というシーンもしっかりと紹介されていた。
(美味しいよ)というイチローの笑顔を見て、こういうワンパターン人間て好きだなあと思った。
白い皿に盛られた、ごく普通のように見えるライス・カレー(カレー・ライス?)。
それをいかにも旨そうに食べる。

 ゴジラ・マツイとイチロー・スズキの進退には考えさせられるものがある。

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2012/12/24

2012・12・23 ランちゃんが来た篇

 卒業した大学のキャンパスで

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 中国からの留学生だったランちゃんが久しぶりに国立へ来た。
 
11月の市民祭(天下市)のときに来たかったけれど来られなかった。
 
何とか今年中に、中国へ帰省する前に、ということで土曜日に来たのだった。

 日本の家庭の主婦は年末、年始は何かと気忙しい。
 
それで(おと~さん、おかぁ~さん)ではなく(おと~さん)一人で国立駅へ迎えに行った。
 
彼女はホスト・ファミリーであった我々をそういう風に呼ぶ。
 
つまりランちゃんにとって我々は日本の(おと~さん、おかぁ~さん)なのである。

 駅の改札口でランちゃんが見えてきたとき、ずいぶん大人になったなあと思った。
 
最初に会ったのは18歳のころだった。
 
まだ少女であった。
 
大学の4年間、修士の2年間、就職して5年近く。
 
大人顔になるのは当然かもしれない。

 駅から大学通りを歩いた。
 
ランちゃんは、懐かしい、変わっていない、と何度も繰り返した。
 
(せっかくだから大学のキャンパス経由で書簡集へ行こう)
 
と、キャンパスへ踏み込んだ。
 
この大学は自由に出入りが出来る。
 国立大学というものは国民全員がスポンサーだから、この態度はよろしいと思う。

 講堂や時計台を過ぎて、森にはいる。

 
この日記でもちょくちょく紹介してきた場所である。
 
建物がヨーロッパ調でクラッシックな雰囲気がある。
 
(修士のとき通った東京の総合大学はこんな雰囲気ではなかった)
 
とランちゃんは言う。
 
(工学部とか医学部の建物はいろんな形をしていて、統一感はなかったです)
 
確かにこの大学はいわゆる文科系の学部しかない。

 大学の森を抜けて書簡集へ向かった。
 
マスターと三人でいろんな話に耽った。
 
ランちゃんは就職して5年近く、会社でのいろんな話を雄弁に語ってくれた。
 
彼女が勤めているのは(宣伝、広告)の会社でふうてんの勤めた(メーカー)ではない。
 
だからいろいろ社風というものが違って、話が面白い。
 
マスターも話に付き合ってくれて愉快な時間が過ぎていった。

 仕事上、海外へもいろいろと行っている風だった。
 
ニューヨーク、パリ、シンガポールなどなど。
 
ニューヨークではジャズ・クラブとかブロードウェイのミュージカルとかも訪ねたらしい。
 
なまいきだなあ、と聴いていたけど、
 
(案内人がいたのよね)
と聴くと、その通りと応える。

 そのうち(グランド・セントラル・ステーション)の(オイスター・バー)にまで行ったという。
 
(この野郎、それはやり過ぎだよ)
 
と、ニューヨークをよく知りもしないふうてんは、どうだった?いろんなカキを食べた?などなど。
 
(ニューヨークに住めるかなあ?)
 
(アートがあって楽しいけど、住めないと思った、パリの方が合っているかも)
 
(中国語とフランス語は発音が近いものねぇ、ランちゃん、前にフランス語習っていたよね)
 
(来年から日仏会館へ通います、今日こんな本買いました)
 
と、フランス語の、CD付きの絵が沢山はいった教則本を見せてくれる。

 ランちゃんは今東京の押上(おしあげ)に住んでいるらしい。
 
スカイツリーから歩いて4、5分の処だという。
 
(じゃあ隅田川の向こう側になるねぇ、スカイツリーも大きく見えるんだ
(はい、浅草から二駅です、スカイツリーは大きく部屋の窓から見えます)
 
・・・・

 中国から17歳のときに日本へ渡り、一年ほど京都の日本語学校へ通った。
 
マスターとランちゃんとふうてんの共通点は(京都)にあるのかもね。
 
などと話しながら、ランちゃんはビールもコーヒーもケーキもチキン・カレーも美味しそうに平らげた。
 
こちらもビールとマティーニとウィスキーとコーヒーを飲んだ。
 
(押上は遠いからそろそろ)
 
と、書簡集を辞して駅まで送った。 

 
書簡集マスターと


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2012/12/17

2012・12・16 彦次郎に会った篇

 松山城

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伊予
から遠望すると

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瀬戸内海は海?池?

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 衆議院選挙が終わった。
 
今場所、じゃない、今回の選挙は誰に入れていいか分からなかった。
 
東京都知事選挙も同時にあったのだけれど、これも誰に入れたらいいのか・・・。
 
それでも(棄権)というのは癪に障るので女房と投票所へ出向いた。
 
その後繁寿司で昨日の山口正介くんの出版記念の話になった。

 今週はまことに目まぐるしい一週間だった。
 
普段、国立にへばりついているふうてんにとって、飛行機で伊予へ帰る、というような出来事はかなり疲れる。
 
余裕を見て早い目に羽田空港にたどり着いた。
 
ところが飛行機の方が故障をしたという。
 
1時間遅れとのアナウンスがある。
 
ま、いいか、伊予での会合は午後の1時だから十分間に合う。

 そのうち、故障が直らないので飛行機を変えます、というアナウンス。
 
何となく不吉な感じに襲われる。
 
何年ぶりかの伊予への帰省なのに、これはよろしくない兆候ではなかろうか。
 
ま、焦ってもしようがないので、タバコのみ場を探して一服する。

 やがて故障が直ったので飛行機を変えずに出発しますとのアナウンス。
 
勝手にしてよと思いながら乗り込んだ。
 
ふうてんは飛行機が苦手である。
 
上ったり下ったりすると耳が痛くなる。
 
一週間ほどたつ今でもまだおかしい。
 
三半規管が弱いのではないかと思う。
 
(もう海外旅行は無理かもしれないな)
 
と思った。

  伊予松山でいろんな人に会った。
 
松山城と伊予から見た松山城や瀬戸内海の写真を掲げておく。
 
風のない瀬戸内海は本当に(チャポン)としか波が音をたてない。
 
同じ四国でも高知のように太平洋に面した土地柄と瀬戸内海側では育つ人柄が全く違う。
 
瀬戸内海の(チャポン)の環境で坂本龍馬を望んでも、それは無理というもの。
 
瀬戸内気候というのはあくまでも穏やかな気候であり、瀬戸内海はまるで溜池のように静かであった。

 2泊3日で伊予へのセンチメンタル・ジャーニーは終わり、次は八王子エコ・サミットだった。
 
年に何回か集まる会合なのだけれど、やはり選挙の話になった。
 
自民党の圧勝は見えているけれど、昔病気で引退した総理が復活するというのはどういうことだろうね?
 
尖閣諸島なんて中国が欲しいというならあげればいいじゃないの、ただし条件付きでね、などとサミットの藤井画伯と話が合った。
 
中国と戦争する、なんてことは非現実的なお話。
 
朝貢貿易に戻ればよろしい、なんてふうてんは持論を展開した。
 
(相手のアキレス腱を見て付き合うべし)
というのがふうてんの考え方なのである。

 そして昨日の土曜日に山口正介くんの出版記念会があった。
 
今年出版された(江分利満家の崩壊)という本の出版記念の会だった。
 
題名は穏やかじゃないけれど、結構売れているらしい。
 
嵐山さんとか何人かが挨拶をした。

 大村彦次郎さんという方にお会いした。
 
(ひょっとして、あの方、池波正太郎が名前を借りたよと書いている彦次郎さん?)
とブンシュンのトヨダさんに聴いた。
 
その通り、日本橋生まれのチャキチャキの江戸っ子ですよ。
 
とのお答え。

 この彦次郎さんの挨拶を聴いて、池波正太郎は名前だけ借りたのじゃないなあと思った。
 
そのたたずまい、喋り方、全部(仕掛人・藤枝海安)に出てくる彦次郎そのものであった。
 
伊予方面から流れてきたこちらにはない(粋)の世界。
 
スッとした姿形。
 
本当にカッコ良かった。

 山口正介くんの出版記念会に出てみたおかげでいろんな人に会うことができた。
 
還暦も過ぎた人に(正介くん)というのは失礼かもしれない。
 
しかしふうてんにとってはまだ子供子供していたような正介くんの印象が残っている。
 
しょうちゃん、という程親しくはないし、正介さんと呼ぶと他人行儀すぎる。

 出版記念会は盛況だった。
 
次回作が楽しみだね、という声が聴こえてきた。
 

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2012/12/09

2012・12・9 四季の会で真善美の話になった篇

夕日?と聴いたら朝日だとか

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今年はかなり寒い冬になるのだろうか

  恒例の四季の会(秋冬篇)を府中本町でやった。
 
今回は四騎の会ではなく五騎の会となった。
 
以前も一度参加してもらった、やはりかっての同僚だった男に声をかけたのだった。

 この男のことをブロッグを始めたころに書いていることを思い出した。
 
2005年6月19日 梅雨のころ篇 ふうてん老人日記
 http://futen.cocolog-nifty.com/futen/2005/06/post_f392.html

 上に掲げた夕日か朝日か分からない絵は彼の描いたものである。
 
こちらが企画とかロジック回路とかの担当で彼は実装・構造設計、そしてデザインの担当だった。
 
こちらがこんなパソコンを作りたいなあと考える。
 
それを手下どもがプロトタイプで動かしてくれる。
 
それを商品として姿形あるものにし世の中に押し出してくれるのが彼の役割だった。

 一緒にやったのはたった2機種だったけれど、どちらも飛んでもハップンのしろもので大騒ぎになり会社やら工場やらユーザーのみなさまに多大なる迷惑をかけた。
 
それだけに記憶に残る仕事ではあって、今から考えるとまことに愉快な出来事だった。
 
その彼に参加してもらって2012年の秋冬篇は始まった。

 話はどうしても景気とか選挙とかの話になる。
 
ものづくり日本と言われた日本のメーカーも大変だねぇ。
 
政治家が小粒になりましたなあ。
 
明治の半ば以降、まともな政治家はいたのかしら?
 
などなど、昨日今日明日の話が始まる。

 日本の企業とか政治とか、これからどうしよう?と悩んでいる。
 
それにはやはり日本という国がどういう国で従って諸外国とはどう付き合って行くべきだろうと定義してかからないことには話にならない。
 
そういう話を企業人からも政治家からもこのところトンと聴かない。

 比較のような話はよく聴く。
 
大抵は(外国に負けてはならない)というような話である。
 
それも金銭を価値基準とした話が多い。
 
国民総生産高、平均年収、消費税率、為替、株価、貿易赤字、国の借金、などなど。
 
どうも外国と比較する、それも金額で比較する。
 
比較するとしても金額以外に寄って立つ尺度はないのだろうか?

(ルネッサンス期に宗教からの開放を目指して人間復興がなされたのじゃなかったっけ)
 
(その人間がまた何かに囚われていやしないだろうか)
 
(それって、お金と違うかしら)
 
(宗教から開放されて、やれ嬉しやと喜んでいたのに今度はマネーですか)
 
(何か他にないのかしらねぇ)
 
(お金やない、ギリシャ哲学のたどり着いた真善美いう概念やいうたら笑われました)

 そんなことで、日本はユーラシア大陸の東の辺境で、離れ小島でいいじゃないの。
 
経済大国なんてのぼせ上がるのが可笑しいよね。
 
中国と武力で対抗するなんてねぇ・・・アメリカや中国と戦争はしたくないなあ。
 
また朝貢貿易に戻ればいいかもねぇ、褒め殺しちゅう言い方もあるし。
 
中国のアキレス腱て何やろねぇ。
 
それはハッキリしてるわ。
 
大きすぎる?
 
多民族すぎる?
 
うんにゃ、それとはちゃう。
 
・・・・??

 かくして五騎の会(秋冬篇)の夜は更けて行った。
 
デザインを担当してもらった男は、次回は(絵)の話もしたいですねぇと言った。

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2012/12/02

2012・12・2 鴨川のセント・ルイス・ブルース篇

多摩川の夕日

Tamagawa_2
 
 
 秋が深まり冬のように寒くなった。
 
メランコリーな気分、といっても今の人には分からないと思う。
 
何となくもの悲しい気分といえば分かってもらえるだろうか。
 
暑い夏が過ぎて涼しくなり、いよいよ寒くて辛い冬がやってくる。
 
木々は葉を落とし、太陽の光は弱々しくなる。

 こういう時にピッタリの曲の一つが(セント・ルイス・ブルース)かもしれない。
 
このあいだNHKのBSプレミアムでこの曲を取りあげていた。
 
この曲にまつわる第二次世界大戦前後のアメリカやヨーロッパや日本のエピソードを中心とした番組だった。

 ふうてんが(セント・ルイス・ブルース)を初めて聴いたのは、18歳のときに流れて行った京都だった。
 
1964年(昭和39年)のころ。
今から考えると18歳というのは大人振っていても半分子供だったのではないだろうか。
 
京都の大学へ通うようになって最初の一ヶ月ほどは奈良の知人の家に居候させてもらった。
 
お母さんと娘さん二人の家庭にお邪魔したので、それまでの家庭生活とあまり変わらなかった。

 5月になって京都の下鴨神社近くに下宿した。
 
下鴨神社と鴨川の真ん中辺のところだった。
 
(これから京都で、一人で過ごすことになる)と最初の晩、近くの喫茶店へ行って一人で乾杯した。
 
まだ飲めもしないウィスキーを注文したことを覚えている。
 
ギザギザのカットのショット・グラスにはいったウィスキーだった。
 
(俺の人生に乾杯!)とでも、(チボー家の人々)のジャックのように言ったのだろうか。
 
一人も知り合いのいない京都で知らない人の家に下宿させてもらっている。
 
初めて家族と離れた一人の生活が始まった。
 
そんなセンチメンタルな気分でウィスキーを飲んだ。

 そんな時に(セント・ルイス・ブルース)が忍び込んできた。
 
もの悲しいメロディーで始まる。
 
I hate to see that evening sun go down.)
(夕日が沈むのを見るのは嫌いだ)
 
・・・
 聴けば、作曲者のWCハンディはセントルイスのミシシッピィ川の思い出を歌にしたという。
彼は若くて貧しかったころ、ミシシッピィ川の橋の下に寝泊まりしていたらしい。
こちらは鴨川の夕日を見て、メランコリーな気分になっていたのだった。
18歳にもなってホームシックか、よう?と少しだけ情けなかった。

 そんなこともあったのだろうか、そのころからジャズのレコードや本を漁るようになった。
当時聴いたセント・ルイス・ブルースはサッチモことルイ・アームストロング。
彼のトランペットとボーカルはジャズの王道だということは分かった。
しかし、そんなことで満たされる18歳ではない。
世の中にはどれほどの素晴らしい音楽があるのだろう?
中学、高校と一緒だった宇和島出身の友だちと(レコード漁りの旅)が始まった。

 レコードを漁ると同時に実演もずいぶん漁った。
当時はジャズが流行っていて京都にも沢山のジャズ喫茶があったし、いろんなジャズ・ジャイアンツの公演があった。
来日したジャズマンたちは必ず京都でも公演した。
その宇和島出身の友だちに誘われてフラメンコ・ギターを習い始めたので教室の先生から公演のチケットを勧められる。
ジャズとフラメンコなのだけれど、どれも内容が良く、いい席だったのは今から考えると信じられないくらいだった。

 一度など大阪の梅田近くの四橋(よつはし)にあったタブラオ(フラメンコ酒場)へフラメンコを見に行ったこともある。
この時のギター奏者はレコードも残していて、ふうてんの貴重な一枚となっている。
その時の小柄な引き締まった体つきの男性舞踏家が素晴らしかった。
(ファルーカ)という曲目で、闘牛士のふるまいを踊りにして見せるのである。
闘牛士と猛牛の闘い・・・男だけの世界。
ギターと踊りと歌(カンテ)の三位一体。
フラメンコの本質を深く味わうことが出来た。

 大学を卒業して社会に出た。
当時は(28歳の卒業現象)という言い方があった。
学生時代、散々レコードに入れ揚げていた連中が就職し、家庭を持ち、子供ができる。
そうなるともうレコードどころではない。
金も時間もレコードなどに使う暇はなくなる。
それで28歳でレコード世界からは卒業する、というのである。
当時の、結婚して子供ができる平均年齢は28歳当たりだったのだろうか。

 ふうてんのバヤイは少し遅れて30歳過ぎのころからレコードを聴く暇がなくなった。
それが40歳過ぎまで続いたような気がする。
しかしその間も(いつかまたレコードや音楽に救われるときが来るだろうな)という予感はあった。
その予感は当たっていた。
仕事だ、子育てだと言ってもいずれピークは過ぎる。
仕事で占められていた心の中にもまた隙間ができてくる。
そうするとまた(セント・ルイス・ブルース)が忍び込んでくるのである。
40歳代半ばからこの20年以上、音楽を聴くことでずいぶん救われたと思う。
若いときとの違いは歌謡曲やクラシック音楽がメニューに加わったことだった。

 ふうてんが住んでいる国立市の南端に多摩川がある。
ミシシッピィ川に沈む夕日を見る人。
鴨川に沈む夕日を見る人。
多摩川に沈む夕日を見る人。
みんな、
I hate to see that evening sun go down.)
と唱えているに違いない。
 

 
 

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