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2012年11月に作成された記事

2012/11/26

2012・11・25 もう長いことはないような気がする篇

桜通りの紅葉

Koyo 

 もうすぐ67歳になる人間はやはり時間のことを考えさせられる。
 
両親はもういなくなり、同時代を過ごした人たちの訃報が毎日のようにメディアで届く。
 
ふうてんなどの世代では(明治は遠くなりにけり)という言い方があった。
 
今は(昭和は遠くなっちゃった)という時代になっている。
 
今年は平成24年。
 
昭和は戦争と平和の64年間だった。
 
後の人は平成をどう語るのだろうか。

 今週は同世代の人たちとの会合が二つあった。
 
一つは子供のころ隣同士だった友だちとの40年振りの顔合わせ。
 
大学生のときに会って以来だった。
 
六本木のワインガーデンで会ったのだけれど、何から話してよいのやら・・・。
 
お互いに(様子見)の時間がしばらく続いた。

 それでも小学、中学、高校の時代を共に過ごしたということは有り難い話で、40年という空白はあまり感じられなかった。
 
ただその後二人がどう過ごしたかはお互いに知らないので、へぇ~ッ?そうだったの、の連続ではあった。
 
彼は今でもお茶の水近くの大学でフランス文学の研究室で教鞭をとっている。
 
これを機会に次は吉田健一の通った神保町のランチョンでやろうよと別れた。

 もう一つは大相撲11月場所篇で、これは地元の谷保のもつ焼き(しんう)でトヨダさん、ラガーマンとのいつもの会合だった。
 
(いつも別れたあと、時間が足りなかったなあと思うんです)
 
(もうちょっと話したかったと思うことがありますねぇ)
 
(もうちょっと話を伺いたかったということがよくあります)
 
(それで深夜に電話をしたり、ね)

 結局この日も大相撲の話はそっちのけで、文学や映画や政治の話に耽った。
 
徒歩で帰る人、チャリで帰る人、電車で帰る人。
 
いずれにせよ5分か10分か15分の距離。
 
血液型はO型とB型とA型。
 
2カ月に一回のこの会合はふうてんにとってまことに貴重な時間になっている。
 
 
 
 自分の残り時間のことを考えるとき、いつも(仕掛人・藤枝梅安)のことを思い出す。
 
このシリーズの第2作(殺しの四人)の中でそのセリフは出てくる。
 
この日記でも何度か取り上げてきたけれど、余りにも見事なやりとりなのでまた書きたくなった。
 
今回は会話の少しだけ前から紹介しておく。

 彦次郎が、袱紗ごと金をふところへしまいこんだとき、女中が酒と、卵そうめんと、鰹の刺身をはこんで来た。
 
 女中が去ってから、梅安は鰹の刺身を口へ入れ、あぶらの浮いたふとい鼻を小指でなでつつ、
 
(ねぇ、彦さん、私も、もう長いことはないような気がするよ)
 
と、いった。
 
(俺もさ、梅安さん)
 
(仕掛人で長生きをしたやつがいただろうかね?)
 
(先ず、いめぇね)
 
(そうだろうな・・・)

 このハードボイルド・タッチの会話は見事だと思う。
 
ご婦人方にはあまりお勧めのシーンではないけれど、我々野郎どもにとっては堪えられないシーンなのですな。
 
逢坂剛が池波正太郎の文体に触れている文章を読んだことがある。
 
彼の説では、逢坂剛が10枚はかかる内容を池波正太郎は1枚で書いている、という。
 
その秘密は?
 
・・・
 
それは逢坂剛の解説(梅安乱れ雲 2001年版講談社文庫)に任せることにしよう。

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2012/11/19

2012・11・18 選挙の季節になった篇

桜が紅葉し 散り始めた

Kareha_1_2Kareha_2_4 

 (近いうち解散)という奇妙な解散劇が行われた。
 
どうも日本の政治制度はやはり借り物だったのではないかという思いを禁じ得ない。

 時を同じくして日本の製造業がピンチに襲われている。
 
電気、自動車という戦後日本の経済を引っ張ってきた製造業である。
 
もう一つ建設業がある。
 
こちらは20年前のバブル崩壊で止まってしまっている。
 
これじゃ景気は良くなるわけないよ、と都々逸でも歌って茶化すしかない惨状である。

 政治制度だけではなく製造業も実は借り物だったのではないか?
 
そういう、ふうてんなどは前から抱いていた疑問が現実のものになってきた感じがする。

 今の日本のこういう状況は夏目漱石の(現代日本の開化)という講演に全て予見されている。
 
グーグルに聴くと、この講演は明治44年(1911年)の8月に和歌山で行われた。
 
(漱石は「西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である」と日本の開化の特色を分析している。)
 
とある。

 この講演が載っている本を紹介しようと思って探っていると、(朗読=三國一朗)というユーチューブの動画が見つかった。
 
漱石の講演を朗読して聴かせてくれる。
 
本では何度も読んだけれど話してくれるのを聴くのは初めてである。

 この間報告した(坊っちゃん ひとり語り)を思い出した。
 
(坊っちゃん)は小説だから読者は書物で読んだ。
 
それを(ひとり語り)という形で演者である高塩景子女史が身振り手振り喋りで表現した。
 
漱石の小説は会話や独白が多いので、文字ではなく喋り言葉で表現されても面白かった。

 対してこの(現代日本の開化)は漱石がしゃべった講演を本にしたものである。
 
もともとは(しゃべり言葉)で漱石が表現したもの。
 
それは本で読むより、このユーチューブの(朗読)で聴く方が少しは漱石の雰囲気に近いのかもしれない。
 
和歌山方面で漱石の講演を聴いてみたかったなあと思う。
 
信じられないくらい難しげな話を、面白おかしく、聴衆の気持ちも忖度しながら、100年後に聴いても(その通りだ)と思える論を展開している。

 漱石は中学校時代だったかの数学の試験の答案が残っていて、両国の大江戸博物館で見たことをこの日記で前に報告した。
 
大体数学は100点満点だったそうである。
 
問題も解答も全部英語だったので中学ではなく高校時代だったのだろうか。
 
(漱石はどうも理科系らしい)
 
とそれを見て思った。

 ユーチューブで三國一朗の朗読する漱石の(現代日本の開化)を聴いて、ついでに出てきた(私の個人主義)も聴いた。
 
やはり理科系としか言いようがない、まことに理屈っぽい話の展開をしている。
 
理屈っぽいけれど語り口は漱石の大好きだった落語のスタイルになっている。
 
話のマクラがありサゲがあり、きついことを言っているようで何となく可笑しい。

 漱石は49歳で死んだ。
 
これらの講演で漱石の本音を聴けたような気がする。
 
明治維新の前夜に生れ大正5年に死んだ。
 
日本が日清、日露の戦争をやり朝鮮、中国へ進出しようという時代だった。
 
その50年は漱石の自己発見、自己発露であったと同時に当時の日本という国家にとっても自己の再発見、自己発露の時代であった。
 
テーマは自分とは何か?他人とどう付き合うべきか?ではなかったろうか。

 それから100年ほどたって今また日本、日本人は悩んでいる。
 
私はだ~れ?どこから来てどこへ行くの?
 
と。

 こういう時、漱石先生のお話を聴いてみるのも悪くない。

(ふうてんアーカイブス)

 
ユーチューブはいつ消えるか分からないのであまり紹介しないのだけれど、面白いので三國一朗の朗読を紹介しておく。

(現代日本の開化)明治44年(1911年)8月 和歌山
夏目漱石 - 現代日本の開化 15 [1517] YouTube
夏目漱石 - 現代日本の開化 25 [1652] YouTube
夏目漱石 - 現代日本の開化 35 [1551] YouTube
夏目漱石 - 現代日本の開化 45 [1644] YouTube
夏目漱石 - 現代日本の開化 55 [0944] YouTube

(私の個人主義)大正3年(1914年)11月25日 学習院
夏目漱石 - 私の個人主義 16 [1214] YouTube
夏目漱石 - 私の個人主義 26 [1652] YouTube
夏目漱石 - 私の個人主義 36 [1204] YouTube
夏目漱石 - 私の個人主義 46 [1613] YouTube
夏目漱石 - 私の個人主義 56 [1414] YouTube
夏目漱石 - 私の個人主義 66 [1704] YouTube
 

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2012/11/11

2012・11・11 山口夫人の思い出篇

コナラのドングリは今年はとりわけ豊作でベランダにも庭にも容赦なく落ちた。

Beranda_1_6Beranda_2_2




 

Niwa_1Niwa_2

 急に冬のようになった。
 
確かにこの一週間ほどに(立冬)があり(木枯らし一号)が吹いた。
 
いくら地球の温暖化が進んでも太陽との位置関係は変わっていないようである。
 
北側にあるふうてんの部屋に今は殆ど太陽が差さなくなった。
 
一日中、照明(白熱電球の間接照明)が必要となった。
 
間接照明・・・要はスタンドを天井に向けているということ。
 
白熱電球が去年から製造中止になったので、そのうちLEDに変えないといけないのだろうか。
 
LEDで今の白熱電球のような温かくて柔らかくて優しい光が得られるのだろうか。

 10月末に山口瞳さんと治子夫人のお子さんである山口正介さんの新しい本が出版された。
 
題名は(江分利満家の崩壊)という。
 
(江分利満氏の優雅な生活)で世に出た山口瞳さんご一家のその後の様子がよく分かるように書かれている。
 
親しくお付き合い願った者としては、去年亡くなった治子夫人の最期の様子を知るのは辛いものがあったけれど、正介さんはご自身も含めて(江分利満家)の三人衆の在りようを赤裸々に語ってくれている。

 治子夫人のことはこの日記にもずいぶん書かせて貰ったなあと4年ほどの分を振り返ったみた。
 
正介さんのこの本には去年夫人が亡くなるまでの治療の経過が日時と共に書かれている。
 
その治療の経過とふうてん老人日記の記事とはどう対応しているのだろう?

 4年前まで振り返ってみた。
 
山口夫人が登場する記事は20ほどあった。
 
去年の3月に亡くなったので2年半くらいの間に20回ほどお会いしたことになる。
 
殆どが繁寿司での会話で、あとはいろんな催し物(絵画展とか)でお会いしたときの記録であった。
 
続くときは毎週のように書いていて、数カ月それが途切れていることもある。
 
繁寿司にお姿が見られないとき、正介さんの本に描かれているような病魔との闘いを夫人はされていたのだなぁ・・・。
 
我々の前にお姿を現すときにはそんな様子は微塵も感じさせなかったのに。

 亡くなる一年前くらいから、部屋を片づけていたらこんなのが出て来たのよ、といろんな写真を見せてくれることが多くなった。
 
そのことをこの日記ではその都度報告している。
 
若いころの伊丹一三の写真が素晴らしいのでコピーを貰ったりした。
 
(じゃあ正介に頼んでみるわ)
 
とコピーを戴いたのであった。

 繁寿司でお会いできる機会が少なくなってから、何度かお家を訪ねた。
 
池波正太郎を特集した雑誌を20冊ほど借りに行ったりお返しに行ったり。
 
最期は2010年の10月だった。
 
(たまにはうちで食事をしません?繁さんにお寿司をお願いして。但し繁さんには内緒よ)
 
(そうですよねぇ、僕たちが繁さんちに行かないで出前を頼んで・・・というのは繁さんに悪いですよねぇ)
 
・・・
女房と二人でチャリで山口家に着いたとき、ちょうど繁さんが寿司を届けに来て、この目論見はあっけなく露顕したのであった。

 この日は結局夕刻4時から夜の10時までお邪魔することになってしまった。
6時間にもなるのだけれど、話は尽きなくて、夫人はいろいろ話してくれるので面白くてついこちらも質問したりする。
それに夫人がまた応えてくれていろんな話が始まる。

 この年当たりから女房が、時々夕飯づくりとかお手伝いしたいなあ、けどお邪魔かもねぇ、などと言っていた。
主婦というのは家事の大変さを知っているからそういう感覚になったのだろうと思う。
そういうお手伝いを申し込もうか、などと相談しているうちに、この10月の会合が夫人にお会いする最期の機会となり半年後に夫人は亡くなった。

 66歳まで生きてきていろんな人と出会った。
魅力的な人と出会えた人は幸せだと思う。
その点では、ふうてんなども幸せな方なのかもしれない。
有り難いことである。

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2012/11/05

2012・11・4 天下市のころ篇

ブラスバンド
Band2 Band1





夜の屋台と昼間のパレード

YataiTenkaichi
 11月3日の文化の日をはさんで、金土日の三日間、今年も国立の天下市が行われた。
 
大学通りに屋台が並び、地元の小さな店が沢山出店する。
 
通りの東西にある一橋大学のキャンパスでは学生さんたちの屋台といろんな催し物が繰り広げられる。
 
最終日の日曜(今年は11月4日)には大学通りが朝から夕方まで(歩行者天国)となり、午前中は各種のパレードが続く。

 屋台の食べ物も小さな店で売っているものも、特別なものはない。
 
それでも沢山の人が集まる。
 
7万人の国立市民の何分の一かは集まったのではないかと思われるほどの人出である。
 
歩道も車道もキャンパスの中も人で溢れ、前へ進むのが容易ではなくなる。
 
年に一度の秋の学園祭であり市民祭りなのである。

 今年は11月3日の土曜日の夜と4日の午前中、チラッと冷やかしてみた。
 
最終日の4日は大学通りが歩行者天国になり様々のパレードやイベントが繰り広げられる。
 
今年はどういう訳か、うちの女房どのが(ウグイス嬢)に駆り出されたらしい。
 
(次は~中学のブラスバンド部の行進です・・・)というやつ。
 
聴けば、一応シナリオ(しゃべる内容をメモしたもの)はあり、行進の進み具合で傍に控える係の人が、アッ次の~が来たからここから、とか指示をしてくれるという。

 それで午前中の1時間ほどウグイス嬢の役目を終え、後は毎年出店している(ちぢみ)の店でちぢみを完売したと夕方に帰って来た。
 
(さっそく、クレームがいくつか来た)
 
という。
 
係員の指示にしたがって、しゃべりのメモの途中で、はしょらざるを得ないことが2、3度あったらしい。
 
長々しい文句はお終いまでしゃべっていると次のグループが来る。
 
(あの最期のセリフを放送して欲しかったのに・・・)
 
というクレームだった・・・。

 クレームに来た~団体の人に係員が(何しろ今年は新人でしたので・・・至らない点があってすみません)と女房も一緒に頭を下げたらしい。
 
(係員の人が、ここまで、ハイ次と言うのでその通り放送したのにねぇ)
 
・・・・

 女房どののウグイス嬢振りは最期の5分間くらい間に合った。
 
国立第三中学校のブラスバンド部の行進が終わるころであった。
 
出入りの杉田屋酒店の若旦那と偶然顔が合った。
 
(アレ女房がしゃべっているんです)
 
(ええっ?そうですか、何だか聞き覚えのある声だなあと思っていました、でもどうして?)
 
(どうもよう分からんのですわ)
 
・・・・

 早春の梅祭り(谷保天神)で始まって11月の天下市で国立の一年は終わる。
 
今年は暑さが長引いたせいか大学通りの木々の紅葉はまだ進んでいなかった。

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