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2012年10月に作成された記事

2012/10/29

2012・10・28 坊ちゃんを聴いて観た篇

坊ちゃん ひとり語り

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 10月の末になってやっと本当に涼しくなった。
 
このところ晩飯を喰って、ちょいと一眠りと宵寝の積もりで床につき目覚めると朝の3時だったりすることがある。
 
嫁はんとこんな会話になった。
 
(このごろ宵寝の積もりが本寝になってしまうねぇ)
 
(わたしもよく眠れる、夏までは細切れにしか眠れなかったのに)
 
(今の気候、気温が一番眠りやすいのかなぁ)
 
(クンちゃんも同じこと言ってる)
 
(池波正太郎の鬼平犯科帳でしょっちゅう出てくるけど、秋口が盗賊にとっては狙い目なんだって)
 
(夏の疲れもあるしねぇ・・・)

 昨日の土曜日、書簡集で飲んでいると、入ってきたお客さんとマスターがいろいろ話し始めた。
 
聴くともなく聴いていると、店に置いてあるチラシと関係のある話のようだった。
 
チラシを手にとって、
 
(これ関係のお話ですか?)
 
(そうなんです、明日もやるので来られませんか?)
 
・・・・
 
チラシを見ると(坊ちゃん ひとり語り)とあって開演場所はほんネキであった。
 
(坊ちゃん)は好きな小説なのだけれど、ひとり語りとは一体いかなるものなのだろうか?
 
いずれにせよ夏目漱石の坊ちゃんとくると放ってはおけない。

 頭の中にいくつかの(??)を持ちながらチャリで出向いてみた。
 
古本屋さんの片隅に小さな舞台と20人ほどの席が用意されていて満員だった。
 
舞台も壁も黒一色で演じる人も黒い服。
 
少しばかりの照明の中で(坊ちゃん)が語り始められた。

 出だしからなかなか快調に進んでいった。
 
坊ちゃんのべらんめぇ調のセリフがポンポンと飛び出しドラマを進行させていく。
 
演者は身振り手振りを交え、舞台の中を右へ左へと動き回り、たまに小さなランプの点いたテーブルでしんみりと語ったりする。
 
(オヤッ?なかなかいけるなあ)
 
と目を(耳を?)離せなくなった。

 休憩時間10分を挟んだ2時間で演じきった。
 
この会場は近くに(松の湯)という銭湯があり、(さえき)という酒屋さんがあり、富士見通りの国立音楽高校の近くでもある。
 
30年ほど前に国立へ越してきた時からの馴染みの一角なのである。
 
休憩時間にタバコを吸いに外へ出、ウィスキーを飲みたくなったので(さえき酒店)でサントリー角のポケット瓶を仕入れる。

 赤シャツが登場し、のだいこが登場し、ヤマアラシが登場し、マドンナが登場する。
 
(きよ)が坊ちゃんを説教する手紙で坊ちゃんの手紙はあまりにも短かすぎる、せめてこの手紙の半分くらいの長さは書いてほしい・・・もう笑いが止まらなかった。
 
釣りをする場面でも、坊ちゃんがどうして船に釣り竿がないのだろう?と不思議に思っていると、沖釣りはこうやるんでげすと指で直接釣り糸を持ってちょいちょいとしゃくる。
 
これはふうてんなども子供のころ伝馬船で漕ぎだしてよくやった手法である。
 
(これはバッタとちがう、イナゴぞなもし)
 
などなどの伊予弁も肝心のディーテールをうまくとらえているのに改めて感心した。
 
読むのではなく聴くのでなおさらよく分かる。

 改めて漱石の(坊ちゃん)がよくできた小説だなあと驚いた。
 
具体的な言葉しか使わない。
 
誰でもが分かる、すぐにイメージが湧く言葉ですべてが語られている。
 
ソバを喰った、ダンゴを喰った、湯にはいった、汽車に乗った、一銭五厘突き返した・・・。
 
聴いていて、これはハードボイルド・スタイルだなと思った。
 
伊予松山の風俗習慣もまことに的確にとらまえて表現している。

 まるで落語を聴くような気持ちになった。
 
そうか、それで(ひとり語り)か、と気づいた。
 
さらにこの日記で何度も書いた漱石のカメラワーク、主人公にしかカメラを持たさない手法は落語から来ているんだと思った。
 
主人公にしかカメラを持たさないことで読者を自分が主人公になった気分にさせる。
 
その手法を漱石は意識してか無意識のうちにか落語から学んだに違いない。

 考えてみると文楽もひとり語りである。
 
太夫がすべての人物のセリフ、さらには物語の進行を説明する(地)まで語る。
 
そうか、なるほど。
 
物語りはその名の通り(語り)だったんだ。
 
紙もなく写真もなく映画もない時代、人の声で物語りを伝えるしかなかった。
 
人の声だけで活き活きとした世界を伝えるには大変な工夫がいる。
 
それを落語でもやり文楽でもやっている。
 
(文楽は人形と三味線との三位一体だけれど進行役は太夫なのですな)
 
だからこそ、あのように昇華された世界ができたのではなかろうか。

 (坊ちゃん ひとり語り)を聴かせて貰ったおかげでいろんなことを学ぶことができた。
 
公演が終わって帰ってチラシを見直すと連絡先の電話番号が目にはいった。
夜になって電話がつながり、演者の高塩景子女史と話をすることができた。

(一つの作品ですね、素晴らしかったです)
 
とお礼の言葉を述べた。
 
一つだけ質問したのは、どこまでが漱石のオリジナルですか?だった。
 
はしょった部分はあるけれど追加したものは一つもない、との明快なお答え。
 
漱石もすごいし、うまく(ひとり語り)にしましたねぇ。

 聴けば、住んでいるのはふうてんのいる場所からもほど近いところだという。
 
(またそのうち書簡集でお会いしましょう)
 
と再会を約して電話を終わった。

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2012/10/22

2012・10・21 21世紀はアジアの時代なのだろうか篇

(ふうてんアーカイブス 2012年9月9日 裾野小川別邸)

鎌倉大明神はギターを弾いて帰っていった
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富士山裾野小川別邸は木々に包まれている
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 21世紀は2001年の9・11、ニューヨークでのテロ事件から始まった。

何気なしに見ていたテレビで報じられたあの映像は忘れ難い。
高層ビルに左側から飛行機のようなものが突っ込んで爆発した。
映画の一シーンかと思った。

 あのテロ事件の決着は着いたのかどうかふうてんは知らない。
一応首謀者とされるビン・ラディンは去年アメリカによってパキスタンで殺害されたと聴く。
2001年の9・11から後、アメリカはアフガニスタンを攻め、イラク戦争までやった。
9・11に対するアメリカ人の支持を受けての戦争だった。
しかしその戦争の間に首謀者とみなされたビン・ラディンはどこでどうしていたのだろう?

 アフガン・イラクの戦争が終わってアメリカはいよいよアジアでの軍事拠点を整備しようと動き始めているらしい。
アメリカのアジアでの軍事戦略とは一体何なのだろうか?
冷戦時代は共産国である中国、ロシアに対してという緊張感があった。
朝鮮戦争で大変な犠牲をアジア人は強いられた。
挙げ句に朝鮮はいまだに南北に分断されたままである。
1960年ころからは舞台を朝鮮からベトナムへ移して共産勢力とアメリカは戦争をした。
ベトナムを支援したのは中国だったに違いない。

1989年にベルリンの壁が崩壊して、その後は東欧で冷戦後の血みどろの民族紛争が起こった。

 冷戦が終わって20年余り。
2001年の9・11から10年と少し。
ヨーロッパではEUの成否が問われ、アメリカではリーマンショックの後の行方が問われている。
そんな間に中国とインドなどのアジア勢が経済力を大きくしてきた。
人口比から言ってもやがて中国とインドがGDPで世界の一位、二位になるだろう。
格差とか政治制度の問題を抱えながらアジアに強国が誕生していく。
核軍備をし空母を持ち潜水艦を持つ軍事的にも強い国が。

 日本は太平洋戦争をしかけ、ゼロ・クリアされた後、経済的復興で世界の注目を浴びた。
そして今、ジャパン・パッシングを過ぎてジャパン・ナッシングの時代に移りつつある。
日本は世界で目立たない国になりつつある。
というよりも目立たない国に戻りつつある。
ふうてんなどは、もともと小さな島国なのだからそれでいいのじゃないかと思っている。
小国が大国の振りをする必要はない。
GDPすなわち国民生産量がアメリカに次いで二位だった、なんてことに何の意味があるのだろう。
量的なことよりも(iPS細胞で医療に貢献するんだ)という風な質的なテーマにこれからの日本の可能性を探った方がよいのではないだろうか。

 繁すしの帰りに書簡集へ寄ってマスターといろいろ話をした。
(日本人てやっぱり脳天気なのかなあ、マスター?)
(国の安全保障と言われる三つ。軍事、食糧、エネルギーこの三つねぇ)
(全部外国に頼ってますねぇ)
(これで独立国と言えるのかしら)
(まぁ、客観的に見ると独立国とは言えないでしょう)
(じゃあ、日本てどういう国なのかしらねぇ)
(そう言えば6年前に亡くなった漢字の白川静さんは沖縄の基地問題に触れたとき、こういうのは独立国ではなく保護国と言う、いうてはったなあ)
(軍事だけじゃなく食糧もエネルギーも(外国に保護されている)、なるほど保護国かもしれませんねぇ)
・・・・

(外国が(日本保護するん、もう嫌や)いうたらどないしょう?)
(日本人てほんま脳天気やねぇ)
(昔からこれでやって来られたの不思議ですねぇ)
・・・・

  国立の深まった秋の涼しい夜はこうして更けていった。

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2012/10/15

2012・10・14 ノーベル賞のこと篇

 今年のノーベル賞もなかなか面白かった。
日本は山中教授が受賞し、村上春樹が受賞を逃した。
ブロッグ連歌師であるMuさんもJOさんもノーベル賞について一言書いている。
仲間としてこちらも一言書きたくなった。

 一番違和感を覚えたのは平和賞だった。
どうしてノーベルという一個人の基金で出身地のヨーロッパの連合を(表彰)したり出来るのだろう?
上下が逆ではないのだろうか?
一個人がその属している組織を表彰する?
何だかおかしい。

 もしノーベル賞を与える国がEUに加盟しているなら全くおかしな話である。
それでグーグルにいろいろと聴いた。

 アレコレ聴いた結果をこちらが知りたかったことに訳すと以下のようになる。
・ノーベル賞を決定する国はノーベルの生まれたスウェーデンと隣国のノルウェーの二国。
・「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」「医学生理学賞」「文学賞」はスウェーデン。スウェーデンはEUに加盟している。
・「平和賞」はノルウェー。ノルウェーはEUに加盟していない。
どうしてこういう仕儀に至ったかも解説されているが面倒くさいのでそれは省略する。
スウェーデンのノーベルの好みで種目を決め、同盟国だったノルウェーが平和賞を作ることに参加したということらしい。

 EUに加盟していないノルウェーがEUに対して(平和賞)を与える、というのなら全くおかしくはない。

ノルウェーの選定委員長がEU参加派である、とか取り沙汰されている。
それもいいじゃないかとふうてんなどは思う。

 ノーベル賞は芸術分野でどうして文学だけなのか?何故数学賞がないのか?何故経済学賞があるのか?

これらは全て(ノーベルの好み)で決まったというから恐れ入る。
ノーベル個人の基金に基づいているのだからそれで結構だと思う。
(余談ながら、もし「文学賞」もノルウェーが決めるのだったら村上春樹はとっくにノーベル・文学賞を受賞していたに違いない・・・)

 EUというチャレンジをふうてんは非常に評価している。
通貨も同じでいい、関税もいらない、パスポートも必要ない。
それが人類の目指すべき方向だと思うからである。
EUにはこれまでさんざん戦争をやって殺し合ってきた歴史を改めようという目的がある。
本当に戦争をやめようと思えばこういうやり方しかないのではないのだろうか。

 一方、日本の受賞者(山中せんせぇ~)も大したもんだと思う。
日本のこれまでの受賞者の中では一番、颯爽としている。
まだ50歳と若いし、常に本質の可能性と限界をユーモアというオブラートに包んで分かり易く語る。

 誰もが(そうだよね、そうすればいいよね)という納得性を持って聴くことができる。
大阪で生まれて奈良、大阪、神戸、京都、アメリカの各地を経巡ってきたと聴く。
やはり話術は関西のものなのだろうか?
彼は口を開くと必ずオチをつけるし、笑いをとる、そうしようと心がけているように思う。
これは関西人にありがちな習性なのである。

 iPS細胞というのはまことに恐ろしい発明、発見のような気がする。
MuBlogのMu大兄が(原子核操作)と(遺伝子操作)にだけにはついていけない、怖い。
という風なことを以前書いていた。
ふうてんも同感なのである。
しかし同時に科学技術はどうしてもそこまで行かざるを得ないということもまた真実だと思う。

(どうして1位じゃないとダメなんですか?どうして2位じゃダメなんですか?)
と聴いた女代議士がいた。
彼女は科学技術というものの本質が分かっていない。
科学技術はスポーツとは違う。
順番が大切なのではない。
本質を究める(極める?)かどうかが大切な世界なのだと思う。
そこには一位も二位もなくて(極められたか、まだなのか?)だけが大切なのである。

 山中教授の研究は究極的には(生命とは何か?)というテーマを孕んでいる。
生命は神の領域だと言われてきた。
だから人間ごときが安直に手を出してよい世界ではない、と。

 原子核の研究も似たような側面がある。
物質を研究し尽くして、自然にあるがままの物質ではない姿の物質の研究が進んだ。
実際には太陽などの惑星や地球の奥深くで(自然に)行われている原子核の現象を地球上で人工的に起こそうと試みているのが(原子核の研究)だと思われる。
こちらも本来は神の手に委ねるべきテーマなのかも知れない。
しかし自然科学の進化は(人間のやれることはやってみたい)という誘惑には勝てなかった。

(人間の役に立つことで人間のやれること)はやってみたい、というのが科学技術者のモチベーションではないかと思う。
しかし同時に(やっていいのかどうか?)という冷静な評価が必要だと思う。
その冷静な評価、判断はやっている科学技術者に任せることはできないし任せるべきではない。
その判断基準は(人間はどうあるべきか?)という倫理的な見方から決まることになる。
それは一体どこのどなた様にやれることなのだろうか?

 ドイツが原発全面廃止の方向を決めたけれど、それは原子力関係の人を一人も入れない(倫理委員会)でいろいろ議論しての結果だという。
ドイツには原子力発電に関する(安全委員会)というのもあり、そちらは勿論、原発は安全だと言い続けているらしい。

(人間はどうあるべきか?)というテーマは難しい。
科学技術を使ってなるべく豊かな生活を実現したい。
しかしその技術が弊害をもたらすこともあるから実運用はしない方がいい。
これまでのあらゆる科学技術はこの両方の主張の狭間に置かれている。
やれることが分かったとして、やっていいのかどうか。

 去年の福島原発事故の一年半後に山中教授のiPS細胞でのノーベル賞受賞があった。
(原子核)と(遺伝子)にまつわる出来事であった。
両方とも現在進行形で(どうあるべきか)の議論は続いている。
人間の科学技術も大変なところに来たなあと思う。
(自動車)で好きな所へ好きな時に行ける、うれしいなあ。
(予防ワクチン)で天然痘も心配ない、よかったねぇ。
そういう単純で幸せな時代はもう終わった・・・のだろうか。

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2012/10/08

2012・10・7 ショパンはやっぱりワインセンベルクがいい篇

台風17号で落ちたコナラのドングリ
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 2、3日前に急にワイセンベルグのノクターン一番を聴きたくなった。
ショパンのノクターンNO.1である。
数年前に嫁さんからCDを借りてパソコンにコピーしたような記憶はある。
しかしどのパソコンだったのか、どこへファイルしたのか考えるだけでも面倒くさい。

(嫁さん、ワイセンベルグのショパンある?)
(え~っと、あれは・・・)
と戸棚の中を探し始めた。
すぐに見つかるとは思っていなかったのに3分ほどで出てきた。

 何年ぶりかでワイセンベルグのノクターン第一番を聴いた。
どうしてこの演奏をときどき思い出すのだろうか?
グーグルに聴くと、彼は今年の1月に亡くなったという。

(アレクシス・ワイセンベルク 1929年7月26日-2012年1月8日)はブルガリアのソフィア出身のユダヤ人ピアニスト。
今年の1月に82歳で亡くなったことは知らなかった。

 ショパンは1810年-1849年のポーランドのお人。
ブルガリアとポーランドの間にはハンガリー、ルーマニア、ウクライナ、チェコ等々があって、東欧の歴史の複雑さを教えてくれる。
ふうてんはヨーロッパへ行ったことがない。
ヨーロッパどころか隣の中国や朝鮮すなわちユーラシア大陸へ足を踏み入れたことがない。
従って(地続きの国境)の実感は全くない。
東欧の、しょっちゅう国境線が変わってきた国々の人たちはどういう感覚なのだろうか。
ひょっとしたら自国も外国もそんなに違いはない、という感覚なのだろうか?

 ブルガリア人のワイセンベルクがポーランド人のショパンの曲を弾く。
中国にもベトナムにも日本にも有名なショパン弾きはいる。
それぞれ良さがあるに違いない。
そんな中で何故かふうてんにはこのワイセンベルクが一番ピッタリくる。

 嫁さんが探してくれたCDは2枚組だった。
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枚目にノクターンNO.1があり、2枚目にNO.19とNO.20がはいっている。
19番と20番は10年ほど前の映画(戦場のピアニスト)で主調音として用いられ、日本でも大流行した。
第二次世界大戦中ナチスの過酷な追求をくぐり抜けたユダヤ系ポーランド人ピアニストの記録だったと思う。

 CDを借りて聴くのはいいのだけれど、これをコピーするのはどうしようか?
この歳になると5年も6年も前にやったことを思い出すのは骨が折れる。
面倒くさいなあと思いながら、そういえば(Windows Media Player)にCDをコピーするというメニューがあったことを思い出した。
やってみるといとも簡単にコピーできる。
但し、コピー先のファイルは?とかの注意書きが出て来ない。
ハテ?どこへコピーされたのだろう?
分からないので改めてWindows Media Playerを立ち上げると、ちゃっかりと(アルバム)の中に登録されていて、CDのカバー写真と全ての曲名が表示される。
どうもお節介なのは日本人だけではないなあと思わず苦笑してしまった。

 WindowsパソコンのアブリはWordにしても日付を入れると何年何月とか余計な表示が出てきたり、勝手に次の章付けが出てきたり、それらを全部排除するのに手間がかかる。
想像するにWordの開発主力部隊は日本人ではないのだろうか。
イギリス人とかアメリカ人の感性ではないと思われる
連中は余り他人のことに踏み込まないと聴く。

 ワイセンベルクのショパンの話だった。
1番や19番、20番を繰り返し聴くうちに、大学1年生のときに読んだ本を思い出していた。
それはジャズを聴き始めて曲名も演奏者もカタカナばかりなのでサッパリ分からず、どのレコードを買えばいいのか悩んでいた時である。
少しはジャズのことを勉強しないといけないと思ったのだろうか。
それでめぐり合ったのがベーレント著、由井正一訳の(ジャズの歴史)という本だった。
この本には実に多くのことを学んだし、ふうてんのジャズ好みの歴史の出発点となった。

 記憶に刻まれていることの一つに次のような一節があった。
(音楽は普通メロディ、リズム、ハーモニーの3要素で成り立つと言われる。しかしジャズにおいてはもう一つサウンドというのが大切なのである)
サウンドか・・・どういう意味なのだろう?
サウンド、sound・・・(音)やないか。
音がないと音楽にならへん・・・何のこっちゃ・・・。
まあそんな疑問を抱きつつジャズをアレコレ聴いた。
そのうちベーレント先生ののたまうサウンドの意味が朧げながら分かるようになった。
簡単な話で、一音一音の(音)の質は演奏者によって全部違うのですな。

 今の音楽は(音符)で書き表されるようになっている。
その同じ音符で演奏者が変わると別の音楽になる。
メロディ、リズム、ハーモニーの基本形は同じはずなのに・・・。
違うものは何か?それをベーレントはまとめて(サウンド)と表現したように思われる。
実はそこに音楽の演奏者の個性の全てが表れると言ってもいいくらいだと今は思う。

 ワイセンベルクのピアノは一音一音彼のコントロールが行き届いている。
音の長さ、強さ、次の音への引き継ぎ方・・・。
感情のままに情熱的に・・・というタイプではない。
聴く方はどこまでが彼の抑制、制御でどこからが彼の熱い思いなのかの見極めが着かなくなる。
それで結局は一曲全体が(これがワイセンベルクだ)という世界に引きずり込まれる。
彼は1980年ころ日本へも何度か来てテレビにも登場した。
なかなかの男前で優しい雰囲気の人だった。
演奏と同じような雰囲気を持っていた。

 こういう人の弾くショパンをいつでも聴くことができる。
CDやパソコンの発達には罪な部分もあるけれど、良い面もあるなあと感謝している。

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2012/10/01

2012・9・30 周恩来「十九歳の東京日記」につき篇

ご近所に咲いた芙蓉
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 今年は日中国交回復40周年となる記念すべき年である。
それがあってか、8月と9月にNHKでいくつかの記念番組をやった。
いくつか観た中に周恩来の登場する番組があった。

 一つは1962年から1972年の間の日中国交回復の準備期間。
日本側は岡崎さんという人、中国側は周恩来であったらしい。
この二人の交流なくしては1972年の国交回復はずいぶん遅れたのではないかと思わせられる。

 念の為にウィキペディアに聴くと以下のように教えてくれる。
岡崎 嘉平太(おかざき かへいた)
 1897年(明治30年)-1989年(平成元年) 日本の実業家。
恩来(しゅう おんらい、ヂョウ・オンライ)
 1898年(明治31年)-1976年(昭和51年) 中華人民共和国の政治家。

 NHKのドキュメンタリー番組を観て、二人とも偉い人だったなあと感心する。
1900年当時、アジアで植民地化されていないのはタイと日本だけだった。
つまりは1800年前後の産業革命で力を蓄えた西洋列強が世界へ乗り出し支配しようとしていた。
アフリカ、アジア、南米がその標的となった。

 日本は小さな島国だったので攻める方も迷ったに違いない。
苦労して日本を植民地化しても大したゲインは期待できない。
資源がない、豊かで広大な農地もない、牧場なんて想像もできない。
対して中国はユーラシア大陸の東の果てにあり、広大で、資源もありそうだし・・・。

 中国は古い歴史を持つけれどいつも王様が君臨していて安定した国家としての強さはなかった。

 その日本と中国が1900年ころから1945年までそれぞれの歴史をたどった。
島国で鎖国を決め込んでいた日本は黒船で目を覚まされて嫌々鎖国をやめざるを得なくなった。
鎖国をやめたのはいいのだけれど、そこは世間知らずの悲しさ、世界を相手に戦争をしかけちゃった。
そしてボロボロに負けて、無条件降伏をした。

 一方の中国は1900年ころから1945年ころまで、外国の勢力に翻弄され続けた。
日本が無条件降伏をしたあと、中国では内戦が始まった。
そして中国は台湾とユーラシア大陸の2国が並立した。
やがて1950年に朝鮮戦争。
そして世界は冷戦時代が本格化した。

 1989年にベルリンの壁が壊れて冷戦時代は終わった。
しかしアジアでは未だに台湾と中国はややこしいし、朝鮮は南と北に分断されたままである。
南アジアの国々でも政情不安は尽きない。
日本にしても経済的には復興したとはいえ、まだどういう方向に向かえばいいのか分からないでいる。

 こういう悩ましい時代に周恩来のような人がいたらなあと、無い物ねだりをしたくなる。
彼は本当の平和主義者だったと思う。
国家の体制、システムはそれぞれの国で違う。
しかし人々はみんな一緒だ、という強い信念を持っていたように思う。
戦争だけは避けなければならない。
相手の言い分を聴いて、相手のことを慮って付き合うこと。
こちらの原則は曲げないけれど、それ以外は妥協する。

 1972年の国交回復で田中使節団を迎えるときの周恩来の配慮が涙ぐましい。
軍楽隊に(佐渡おけさ)と(金比羅船々)と(おはら節)を演奏させたという。
新潟の田中首相、香川の大平外相、鹿児島の二階堂官房長官のために。
それを事前に自分自身でも聴いて確かめたというから驚く。
さらに調査報告によると田中さんにはいろいろ女性問題がある、と週刊誌を集めて報告したのがいた。
(中国と日本が歴史的な和解をしようとしているんだ。そういう話は何の関係もない)
と叱りつけたという。

 ふうてんが2年前まで2年間ほど通った神田の神保町に(漢陽楼 かんようろう)という中華の店がある。
(周恩来ゆかりの店)などとの触れ込みであった。
若いころからその店の存在は知っていた。
お茶の水駅で降りて坂道を下って神保町の書店やミロンガを訪ねるとき、道路の右側にある店であった。
4年ほど前に近くのオフィスへ通うようになって初めてはいってみた。
なかなか味がよろしい。
中華の店はベースになる味があって、それが良ければ何でも旨い。
この店の売りは、季節によるけれど上海ガニもショウロンポウもいける。

 初めてはいったとき、周恩来ゆかりの店というのが気になった。
壁には彼が日本へ留学する前に作ったという詩が漢字で大書され、額に飾ってある。
店の入り口に(周恩来「十九歳の東京日記」 小学館文庫)というのが横積みにされている。
買わない訳にはいかない。
それをチラチラと読んで、大正7年ころに18歳か19歳の周恩来が東京へ来て、受験勉強をしながらいろんなことを考えていたことが分かった。
神保町には当時数千人の中国からの留学生が出入りしていたらしい。
書店も飲食店もそういう中国からの留学生を迎える備えをしていた。
周恩来はこの(漢陽楼)を贔屓にしていたという。

 あれからン十年、と、綾小路キミマロ風になる。
周恩来は日本のあとイギリスやドイツなどなどへも留学した。
世界を知ったのだと思う。
そして人間は同じなのだ、国家体制や政権は違っても。
その信念を得たように思われる。

毛沢東のナンバーツーとして血みどろの戦闘をやりながら世界の平和を考えていた。

 日中国交回復の日本側の立役者岡崎さんと周恩来の共通点は(人々の交流が大切だ)ということだった。
お互いが人間同士として知り合うこと。
政府の号令とか煽動家のアジテーションに惑わされないこと。
それに尽きるのではないだろうか。
周恩来は文化大革命の末期、四人組との闘いの中1976年に死ぬ。
最後の望みをかけて中国の将来を託したのが鄧小平だった。
鄧小平は周恩来の思いを引き継ぎ、今の中国の礎を築いた。

 戦争をやっていた1945年から70年近くたった。
中国も日本も当時のボロボロの状態ではなくなった。
で、思い違いをするといけないと思う。
ボロホロでなくなっただけなんだ。
どうにか喰えるようになったというだけなんだ。
中国も日本も世界の中ではまだ後進国なんだ。

 アメリカ人の考えたパソコンやグーグルを毎日使いながら、少し悔しいな、とふうてんは苦虫を噛みつぶしている。
周恩来さん、どないしますかねぇ、お国には五言絶句、こちらには俳句や和歌がありますけれど・・・。

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