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2012年6月に作成された記事

2012/06/25

2012・6・24 地上波デジタル放送一周年につき篇

アジサイ(2009年6月撮影)
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 2011年にそれまでのアナログ地上波のテレビが見られなくなるというのでアンテナやテレビを新しくした。
アンテナは光ファイバーにし、テレビは28インチと40インチにしたことなど、この日記でも取り上げてきた。
今話題の東京スカイツリーは地上波デジタル放送の為だったのだが、アンテナを光ファイバーにしたこちらには直接の関係はない。
一年たって、どうだったのか少し報告しておきたくなった。

 まずこれまではブラウン管だったものがフラットな液晶になった。
ブラウン管には2種類あり、球形のシャドーマスク方式と筒型のものがある。
パナソニック(松下)は球形でソニーは筒型。
筒型の方が少しだけ平面に近い。
ふうてんの家では両方を使っていた。
松下とソニーのテレビの違いは、まさに当時(1970~1990年ころ)の両社の経営方針の違いがあったようで面白かった。
松下のテレビは何しろバランスが命だった。
色合いや明るさなどの調節がバランスを保ったまま行えた。
一方ソニーのトリニトロンはシャープで綺麗なのだけれど、色合い、明るさの調整にピーキング特性があり、ちょうどいい具合に調節するのに苦労した。
またその調節は映像の種類により変えねばならないこともままあった。

 ブラウン管の時代が終わり液晶のフラットな画面の時代になった。
今から50年ほど前の1960年ころ、こんな議論があったらしい。
(人間が月へ行くのはいつごろだろう?)
(壁掛けテレビが出来るのはいつごろだろう?)
(どちらが早いだろう?)

 結局1969年に人間は月に到達し最初の一歩を踏んだ。
壁掛けテレビはそれから20年ほど遅れて1990年ころだった。
月へ行くより壁掛けテレビの方がよほど楽なように思える。
どうして(月へ行く)ほうが(テレビを壁へ掛ける)より早かったのだろうか。

 月へ到達するにはそれまでのハードウェアを使って実現することが出来た。
ハードウェアを使いこなす為のソフトウェアでアメリカが先んじたということになる。
通信とコンピュータの技術。
どちらもソフトウェア勝負という側面がある。
ソフトウェア・・・つまりロジック、論理的思考の世界である。

 一方、壁に掛けるような薄いテレビの世界はハードウェアの進化を待たねばならなかった。
ハードウェア・・・つまりフィジックス、物性の世界である。
10センチほどの薄さで大きな映像を映す。
それまでのブラウン管では無理で、別のハードウェアを必要とした。
それがプラズマであり液晶だった。
ハードウェアは頭で考えただけでは出来ないので時間がかかる。
どちらも日本が世界に先駆けて商品化した。

 地上波デジタル放送の話からややこしい話になってしまった。
コンピュータ・エンジニアの端くれとして、この30年ほど(映像装置)にも関わってきたので、今のデジタル化されたテレビを使うと、今昔の感を禁じ得ない。
テレビがコンピュータ機能を持って、いろんなことをパソコン並にやれるようになった。

 ふうてんは30年前に(ホーム・インフォメーション・システム)という小論文をまとめた。
家庭へいろんな通信手段で情報が注がれるようになる。
その家庭の中にはコンピュータ機能を持ったテレビが鎮座し、電話と放送と光ファイルなどで注がれる情報を処理することになる。
まだワープロも無かった時代に手書きでそういうレポートを書いた。

 66歳になって、眼の黒いうちにそういう時代が来たなあと、ため息をついている。
そのデジタル・テレビでどういう番組を楽しんでいるか、アナログ・テレビの時代と何が違って何が嬉しいかなどは次回以降になってしまった。

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2012/06/17

2012・6・17 我が輩は猫であるを読んでいる篇

シロとクロ
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 我が輩は猫であるを買って読みはじめている。
漱石が処女作でああいうところからスタートしたのだなあと改めて考えさせられる。
猫の立場から人の生きざまをコテンパにやっつけている。
捨て猫のようなところからスタートした漱石自身の出自とそのまんま重なっている。

 それでもこの猫は一種奇妙な大人っぽい視点を持っている。
自分のことも含めて、生き物はかわいそうな存在なのだなあ、という諦観というか覚めた目というか冷やかしの目というか、ある意味客観性を持って語る。
その語り口がまことにユーモラスである。
主人である教師などもボロボロに描きながら何故か毒を感じさせない。
主人はいろんな習い事をするがどれもロクにできない。
胃弱のくせに食いしん坊でしょっちゅう胃薬を飲んでいる。
(ああ自分も一緒だ)
と読者に思わせ、何となくおかしさの中に共感も禁じ得ない。

 考えてみれば以後の作品でも同じような展開なのかもしれない。

三四郎、こころでの先生を尊敬する生徒、お延と清子に翻弄される津田。
みんな世の中を自信を持って生きているものはいない。
目の前で展開されるできごとを驚きの目で観ながら生きている。
漱石にはどうも世の中とは自分の思い通りにはいかないものだ、という考えが根本にあるように思う。

 捨て猫の目で世の中を観る。
これが漱石の創作だった。
作家の処女作にはその作家の全てがあると言われる。

 今回は、あるきっかけがあって読みたくなり新潮社文庫の一冊を近くの本屋さんで買った。
家には何冊かあるけれど、やはり新しい本で読むと老眼でも楽に読める。
一ページ目から中身の濃さに驚いている。
処女作とはいえ、これは漱石38歳ころの作品である。
ロンドン留学から帰り、夏目金之助は気に染まない教師生活を鬱々と過ごしていた。
1905年の日本といえば明治時代の終わり頃、日露戦争に日本中が狂奔していた時代。
そういう公私ともにザワザワとした、落ち着かない日々の生活の中で、漱石先生、家に迷い込んだ(野良猫)にカメラを持たせた。

 我が家の野良ちゃんたちにカメラを持たせるとどういう絵柄になるのだろうか。

シロもクロももう10歳以上になるので、かなり辛辣な目を持っているのではないかと思われる。
こちらの行動様式はかなり読まれているような気がする。
我が老友ロシナンテの運転席に毎日寝泊まりし、ふうてん老人とその相方が気を配ったメシを毎日喰っている。
しかるに一度としてお礼の挨拶、感謝の印などを示す素振りは見せない。
(こんなものじゃないだろう)
と、アクビをしたりノビをしたりするのが関の山である。

 夏目漱石や池波正太郎や吉本隆明は何故かネコが好きだったようである。
このご三方はきっとネコちゃんたちのカメラワークを知っていたに違いない。

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2012/06/11

2012・6・24 FM-8同窓会につき篇

さくら通りのソメイヨシノ

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 さくら通りのソメイヨシノは昭和の初期に植えられたと聴く。
ふうてんたちが越してきた30年ほど前にはまだ(老木)というほどの貫祿はなかったように思う。
植えられてから50年ほどの頃だった。

 それから30年たって、改めてよく見ると幹はこんなになっている。
樹齢は80歳くらいではなかろうか。

 去年の11月の記事で、FM-8開発30周年記念の集い、というのがあった。
これは開発部門だけの集まりだった。
その後、関係したいろんな部門、関係したいろんな会社の人にも声をかけて、大袈裟な会ではなく気楽に集まれる(同窓会)のような形で年に一回集まろうや、という話になった。

 それの第一回目が6月9日に行われた。
去年の会のときに参加した面々もいるし、また営業部門とか管理部門とかいろんな部門の人々が集まった。
さらには当時(ソフトハウス)と呼ばれていたソフトを開発して戴いた会社の懐かしい面々も集まってくれた。
合せて40名ほどになった。

 30年経つと当時20歳だった若者たちも50を過ぎている。
(貫祿がつきましたねぇ、最初分からなかった)
(それでも名残はあるね、フッと思い出したんだけどお名前は?)
などという会話がそこここで聴こえてくる。

 最年長は70歳を超えた人たちだった。
30年前・・・40歳くらいの働き盛り。
だいたい(~部長)と呼ばれていた(つわものたち)である。
営業部門、販推部門、開発部門、管理部門、ソフトハウスの(つわものたち)が集まってくれた。

 また宣伝を担当していた仲間も集まってくれて、当時電通で(タモリのパソコン)のコマーシャルを作ったメンバーもいた。
当時のテレビコマーシャルの映像やカタログのスライドをプロジェクタで映した。

 みんなが異口同音に口にしたのは(あの時代は熱かったなぁ)であった。

 ふうてんはこの会の(幹事団)の一員として、同窓会のご案内を書き、挙げ句に司会役まで引き受けてしまった。
その役をちゃんと果たせたのかどうか・・・いささか自信がない。

 近いうちに幹事団で(反省会)を開いて来年へ向けての(連絡先の分からない面々の探査方法)など相談したいと思っている。

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2012/06/03

2012・6・3 ダヴィンチのほつれ髪の女を観た篇

レオナルド・ダ・ヴィンチ ほつれ髪の女
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 渋谷のBunkamuraを久しぶりに訪れた。
ダヴィンチの(ほつれ髪の女)を展示しているという話を聴いたからである。
渋谷駅に降り立つのは本当に久しぶりだった。
忠犬ハチ公の出口で駅から出てビックラこいた。
何という人の多さ。
それも若いのばかり。
それも女の子ばかり。
こんな街は日本にはほかにないなぁ。

 Bunkamuraは早い話、東急百貨店の一隅にある。
渋谷には百貨店はいろいろあるけれど、駅から一番遠いところにある。
それで否応なくセンター街とかの若者たちの集団をかき分けて行かないとたどり着けないのである。
バブル期に話題になった(109)なんてのもそのまま残っている。
その(109)を左へ行くと道玄坂。
右へ行くと、センター街などの2、3本の道があり、その一つの突き当たりに東急百貨店がある。
もっと右には西武のパルコがあり、スペイン坂とかいう意味不明の名所もある。

 そういえばこのBunkamuraにはオーチャードホールというコンサートホールがあり、女房と一緒に何度かパコ・デ・ルシアのコンサートにも来たのだった。
パコを聴きに来たのはもう何年前になるのだろうか。
渋谷へは国立の隠宅から一時間ほどなので、余り身構えしなくても行くことができる。
これが横浜だと一時間半なので多少身構えしなくてはならない。

 それでダヴィンチの(ほつれ髪の女)へ向かった。
この絵のことは全く知らなかった。
この展覧会のことも全く知らず、先日たまたまテレビ朝日の(相棒)というドラマの再放送を観ていたとき、テロップで流れて知ったのだった。
ダヴィンチの絵となると見逃せるものではない。

 6月の10日までの開催だとかで、もう観客は多くなかった。
会場の真ん中当たりにこの絵はあった。
心を踊らせつつ近づいて行った。
何だかハッキリと見えない。
どうもかなり小さい。
色彩もセピア色のようで鮮やかさは期待できないようだった。

 観賞客はまばらなのだけど、一人二人真ん前で観ている人がいる。
その人たちの邪魔をしないようにしばらく待って、近寄って観た。
50センチ、いや30センチくらいだろうか。
そういう距離に近づいて観た。
ドキッとした。
圧倒された。
そのときの印象を、会場を出た後、センター街にあるKirin City(キリン・シティ キリン・ビールのチェーン店 生ビールが売り)でノートに書きつけた。
それを報告しておく。

 ダヴィンチの(ほつれ髪の女)を観た。
凄い。
まるで生きているようだった。
女の人の最も魅力的なものが凝縮されている。
宝石と呼ばれても不思議ではない。
ちょっと言葉を失った。
タジタジとなった。
絵とは不思議だ。
一瞬の出会い。
ずっと一緒にはいられない。

(ふうてんアーカイブス)

レオナルド・ダ・ヴィンチ


ほつれ髪の女
大きさ(縦25センチ 横21センチ)
Photo 
 
 
 
 


 
 
 
白貂を抱く貴婦人
大きさ(縦55センチ 横40センチ)
Davinci6

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