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2012年3月に作成された記事

2012/03/25

2012・3・25 菜の花のおひたしは旨い篇

桜通り
桜花はまだ一つも開いていない
Sakuratori

 春分の日を過ぎて春らしくなった。
と言いたいところだけれど、どうも今年はそういう気分になれない。
確かに太陽の光は高くなり、夕暮れは遅くなり、気温は上がってきた。
しかしどうも(春)という気配が乏しいのである。

 3月21日は41回目の結婚記念日だった。
25+41=66、なるほど66歳になるはずである。
あと9年続くと金婚式を迎えられる。
66+9=75歳
それまでもつかどうか・・・。

 今年は珍しく春分の日が3月20日だった。
我々が結婚したころは3月21日と決まったものだったような気がする。
結婚式の相談をしていたころ、さて何日がよかろうかとなった。
嫁はんは当時大学生で卒業式が3月16日だった。
3月16日以降でなければならない。

 ふうてんがフト思ったのは、結婚記念日は覚えやすい日にちがいいのではなかろうか。
1月23日とか2月22日とか。
そう言えば3月21日は春分の日で休日ではないか。
321と覚えやすくしかも毎年休日である。
どうも理科系というのは理屈っぽくていけない。
ロマンチックさの微塵もない結婚日の決め方であった。

 3月に結婚したのはふうてんが春が好きだったからかもしれない。
この老人日記に以前書いたような気がするけれど、昔、英会話の先生からどの季節が好きですか?と聴かれたことがある。
(先生は?)
(私は秋が好き)
(どうしてですか?)
(クリーンだから、空気が澄みきっていて)
(僕は春が好きなんです)
(どうして?秋は素晴らしいのに)
(because,autumn is too sad)
と答えたら、ニュージャージーから来たユダヤ人のミス・ウォーマンがにやりと笑った。
ミス・ウォーマン28歳、ふうてん35歳のころの会話である。
二人がいる教室はいつも英会話教室ではなく漫才教室になるのだった。
ええ歳こいた二人は当時まだ責任ある社会人になりきれず、ふらふらと世の中をさまよう(大人子供)だった。

 ふうてんが春が好きなのは生まれ育ちのせいだと思われる。
四国の伊予の山間の部落で育った。
温暖化などという言葉はまだない時代で冬は結構寒かった。
雪も結構積もったし、暖房設備としてはコタツと火鉢くらいであった。
シモヤケ(霜焼け)とかアカギレとか言って手足の指の皮膚がひび割れたりしていた。
そういう寒い冬にアンカも入れずにフトンにはいる。
最初は寒いのだけれどジッと我慢してフトンにくるまっているとそのうち温かくなってきてやがて眠りにつける。
農村出身は結構我慢強い風に育つものらしい。

 そういう農村にも春はやってくる。
水がぬるんで冷たくなくなってくる。
何となく閉じ込められていたものの束縛が解かれ始める。
この時の感覚はまだ忘れられない。
梅が咲き、やがて桜が咲く。
続いて木々は芽を吹きはじめる。
2月末から3月と4月。
それがふうてんの春で、一番好きな季節だった。

 新芽のころまではよかった。
これが新緑となって勢いを増す5月となるともういけない。
毎年このころになると体調を崩すのである。
気分も憂鬱になる。
どうしてなのだろう?
それはまたアナザー・ストーリーとなる。
今回は春に終始した話題で終わりたい。

 旬の食べ物の中で菜の花というのは春の代表格ではないだろうか。
(菜の花)と(筍)がふうてんにとっては春の両横綱である。
菜の花は2月ころからスーパーで売っていて、よく女房がおひたしにする。
九州当たりで産したものだとかいう。
この2、3日に出た菜の花がやたらと旨い。
おひたしで、チラッと削り節をまぶし醤油をかけている。
(嫁さん、この菜の花旨いなあ、この2、3日同じやねぇ)
(この菜の花近くでとれているのよ、オバさんがやさしい人でね)
(エッ?これ国立(くにたち)産?茎が細くて柔らかくていい味してるよ)
(この花の部分が多いのがいいのかしら)
・・・

 もう少しすると国立産の筍も見かけるかもしれない。

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2012/03/19

2012・3・18 吉本隆明が死んじゃった篇

レクイエム
谷保天神の梅
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 3月16日に吉本隆明がなくなった。
3月15日に谷保天神で写した梅の写真を供えることにした。

 16日にニュースを聴いて女房とこんな話をした。
(ニュース、ニュース、悪いニュース)
(・・・??)
(吉本隆明が死んじゃった。最後の巨人がいなくなっちゃった)
(おいくつ?)
(87歳、あと10年はと期待してたんやけどなあ)
(糸井さんと出たのが最後だったのねぇ)
(そやなあ、みんなの前に出るのはあれが最後やったかもしれんなあ)
(男の人がなくなって、いくつだったらまわりは納得できるのかしらねぇ)
(70前だと早すぎると思われるし・・・75くらいとちゃう?)
(87歳だとそれからいうと・・・)
(ほんと、長く頑張ってくれたよ)

 87歳でなくなった吉本隆明との付き合いの話なので、かなり古い話になるけれどまあ聴いていただきたい。

 吉本隆明を読みはじめたのは1970年ころだった。
1969年に京都から東京へ流れて、いわゆる社会人となった。
会社が寮を用意していて、そこへはいった。
これがとんでもない寮であった。
1969年当時はまだ高度成長真っ盛りであった。
その年、ふうてんが入社した会社は大学卒を400人くらい採用した。
400人に快適な住居を提供する余裕はなかったと思われる。

 それでも22、3の若者ばかりの集団だったから結構愉快な日々ではあった。
しかし6畳の部屋に野郎が二人、という鳥小屋のようなところで我慢できるはずがない。
会社にはいろんな寮があり、それらの中には条件がいいところもあった。
どうしてその年に入社した我々はその鳥小屋に押し込められねばならないのだろう?
そういうことに目覚めた男がいた。
こちらが大卒なのに対してその男は大学院卒で2歳上だった。
この男が、こんな寮から別の寮に移らせろと運動を始めた。

 この男が寮長で、何故かふうてんは副寮長に任じられていた。
50人ほどの寮だったように思う。
やがて会社の(厚生課)との(団交)が始まった。
厚生課長を寮に呼びつけてつるし上げるのである。
今では話すことを憚られるようなレベルの低い(条件闘争)であった。
その寮長の手腕には感心した。
・・・
結局、団交何回かのあと、その寮にいた者は全員、他の好きな寮へ移ってよろしいという会社の裁決が出た。

 この寮にJoBlogのJOさんもいた。
ふうてんは他の寮へ移る気にもなれず自由が丘のアパートへ引っ越した。
気ままな独り暮らしを選んだのだった。
後で聴くとその時の(厚生課長)どのは長野方面に飛ばされたらしい。
(悪いことをしたなあ)と闘士だった寮長と二人で話し合った。
二人とも笑いをかみしめている様な顔をしていたようだった。

 1970年というのはまだ70年安保の雰囲気が残っていたのだろうか。
1960年の激しかった60年安保の学生運動。
それの余韻が少しばかり残っていて、ふうてんなどが大学にいた68年、69年は京都方面の学校にもその運動の余波が押し寄せていて、学園封鎖とか穏やかではない日々が続いていた。
機動隊とやり合ったりして、ふうてんのようなノンポリもつい巻き込まれて、石を投げたりしたことがなかったとは言い切れない。
誰かが投げた鉄の棒が火の粉を吹きながらコンクリートの地面を滑っていったときはマジに怖いと思った。

 1970年に自由が丘のアパートに引っ越したあと、気がつけば吉本隆明の全集を買っていたのだった。
吉本隆明が60年安保の闘士だったということが影響していたのだろうか。
彼は1970年ころは、一種学生運動のカリスマの一人だったという印象がある。
2012年に87歳だというから1970年には45歳くらいだったことになる。
野郎がもっとも元気で仕事をする45歳である。

 それで彼の代表的な作品は全部読んだように思う。
(言語にとって美とはなにか)
(高村光太郎)
(心的現象論序説)
(共同幻想論)
(擬制の終焉)
(源実朝)
後になって夏目漱石や宮沢賢治や西行に関する評論も楽しんで読んだ。

 1970年、吉本隆明45歳のときにこちらは24歳だった。
東京に流れてきて、何をすればいいのか、これからどうなるのか全く分からない時代だった。
寿司屋の2階のその部屋で一年近く過ごした。
トイレは共同、風呂は勿論近くの銭湯へ行った。
ごく小さなキッチンみたいなのがあり時々料理をした。
向かいが八百屋さんで、ニンジン一本とかキュウリ一本とか言うと、分かってくれていて、お代はいいよ、なんてこともよくあった。
銭湯に通ったのは生涯この一年たらずのときだけだった。
それでも通ったおかげで(神田川)という流行歌の雰囲気はよく分かる。

 そういう生活をしているこちらの心に吉本隆明の作品は当然のような顔をして忍び込んできた。
なるほど、なるほどと次々と読んでいった。
左手で小林秀雄、右手で吉本隆明という案配だった。
当時ふうてんの前にまだ池波正太郎は登場していなかった。

 24歳くらいから読みはじめて吉本隆明にはずいぶんお世話になった。
彼から何を学んだの?と問われるとどう答えればいいのだろうか。
彼は詩人になりたかったようだった。
詩を書くだけでは終わらずいろんなことに口出しをするようになった。
小説は書かなかったように思う。
哲学者なのだろうか。
思想家なのだろうか。

 詩人でも哲学者でも思想家でもなんでもよろしい。
彼の存在と発言がふうてんには救いとなってきた。
彼が藤田まことの訃報に接したとき、こんな言い方をしていたことを以前この日記に書いたかもしれない。
(藤田まことは自分のことを恥ずかしながら役者でおますと言ったけどその言い方はいいですねぇ)
(僕なんかその真似をさせてもらって恥ずかしながら物書きしておりますといっておきましょうか)
(これしかできないから恥ずかしいんです、藤田まこともそれを言っていると僕は思うなあ)

 吉本隆明から人間は三つの関係しか持てないんだということを教わった。
一人の関係。
二人の関係。
三人以上の関係。
一人はつまり自分との関係。
二人はつまりペアの関係、家族。
三人は社会と自分。

 こういう原理的な当たり前のことを言葉で聴いたのは彼からだった。
小林秀雄や吉本隆明の書いていることはす~っとは読めない。
一行を読んですぐ次の行へ移る、というわけにはいかない。
一行を読んで、フムフムと分かった積もりになっても、読点がきて、ハテ?何のことかしらとその今読んだ一行を振り返らないと理解しずらい。
それで一行を何度も読むことになる。

 こういうことを繰り返すことでずいぶん(読解力)を養われたように思う。
普通の文章は当たり前、おちゃのこさいさいとなった。
人が文章で何を表現しているか・・・それを深く読み取る訓練になった。
そんなことは小林秀雄も吉本隆明も期待はしていなかっただろうけれど。

 小林秀雄や夏目漱石や池波正太郎や吉本隆明。
日本人にも結構いたんや。
GDPで中国に抜かれたとかいうてるバヤイやない。
日本は日本でええやないの。
ご本人は巨人なんて言われたくないかもしれないけれど吉本隆明はふうてんにとっては巨人でした。
人間がここまで考えることができるのかを示してくれた巨人でありました。

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2012/03/11

2012・3・11 オルセー美術館が新しくなった篇

ルノアール
ムーラン・ド・ラ・ギャレット
(ウィキペディアより)

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 東北大震災から一年がたった。
昨日、書簡集のマスターが(去年は震災後のことをあまり覚えていない)と言った。
初夏の新緑がどうだったのか、夏の暑さがどうだったのか、そういうことが記憶にないというのである。
確かにそんな一年だったような気がする。

 連日のように津波の映像がテレビで流され、原発事故対応の顛末が議論され、夏になっても秋になっても意識が常に3・11の時点に引き戻されたように思う。
それから一年が過ぎ、今年からはまた春夏秋冬の時間が普通の過ぎかたをしていくのだろうか。

 このところNHKテレビをよく観る。
特にBSプレミアムでアカデミー受賞映画特集とか絵画に関する番組とか見逃せないのが多く、録画しておいてはブルー・レイにダビングしたりしている。
隠宅の(ふうてん小劇場)もなかなかに忙しい。
なかで(新装なったオルセー美術館)に関するものがあった。
(天海祐希 パリと女と・・・)と(極上美の饗宴 シリーズ新オルセーの輝き)
である。

 パリには行ったことがないのでルーブルもオルセーも現場は知らない。
ただ所蔵の作品群は来日したものもずいぶんあって、この二つの美術館に日本人はかなりお世話になってきたことは確かである。
子供のころから絵が好きだったふうてんなども中学3年生のときに京都でルーブル美術展があり、連日朝日新聞が写真入りで報道し続けるものだからどうしても観に行きたくなった。

 それで松山の高浜港から関西汽船に乗り、初めて本州へ渡った。
これが四国の伊予生まれ初の(海外旅行)となった。
その時京都の美術館で観たルノアールの色彩は素晴らしくすっかり彼のファンになってしまったのだった。

 NHKのこれら二つの番組では新装なったオルセー美術館の特徴を説明するのにルノアールの(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)が何度も登場する。
ルノアールは印象派の代表選手の一人で印象派は(光の芸術)と言われる。
何故あの時期パリで印象派が登場したのだろう?
という疑問にもこのテレビ番組は応えてくれる。

 1850年ころ、それまで道が狭く、木を植えるスペースもなく、生活の場に光が乏しかったパリの大改造が行われたという。
大胆に家々を取っ払い、通りを広くし、住居をある程度の高さの集合住宅にし、家の間に広い中庭を作り木を植えるという改造であったという。
人々は光の素晴らしさを再認識し画家たちもその影響を受けた。
ルノワールが生まれたのは1841年だから、物心のつくころパリには光があふれていたことになる。
オルセー美術館の改装も、まさにその(光)に関する改装なのであった。

 色彩は光によって変化する。
透過光と反射光によって我々は物を見ることができる。
絵画の場合は反射光であって、光は回りから絵画に当たりそれを視角の中で眼にとどめて我々は絵画を見ている。
絵画の背景とか当たる光は絵画の色合いに大きく影響する。
そのことをパリの絵や色の専門家たちは考えたらしい。

 それで一年以上の研究の結果、展示室の壁の色や床の色、天窓からの自然の光の具合や照明による光の当て方を工夫した。
その結果、驚くべき効果を得ることができた。
番組で昔の展示室での写真と現在の絵画の見え方を比較して紹介する。
一目瞭然にその違いが分かる。

 我々がこれまで絵画の写真集で見ていた(ムーラン・ド・ラ・ギャレット)は概ね、このウィキペディアの写真のような色調だった。
この写真は以前のオルセー美術館で写されたものと思われる。
NHKテレビで観た絵は色が鮮やかで本当にビックリした。
不透明なフィルターを取り去って本物のルノアールの絵が出てきたような感じがした。

 イタリアには歌がありドイツには音楽がありフランスには絵がある。
ヨーロッパにはまだ足を踏み入れたことがないけれど、やっぱりパリへ行ったら美術館なのかなあと感心した。

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2012/03/05

2012・3・4 友あり遠方より来る篇

隠宅の雪
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 友あり遠方より来る(きたる)また楽しからずや、という言い方がある。

グーグルに聴くと、
原文は「有朋自遠方来 不亦楽 
読みは「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。」
などと教えてくれる。

 誰にとっても日々の生活はそんなに楽しいことだけではない。
そういう日常に、ふっと訪ねてくれる友達がいると、楽しい。
そういう言葉だと思う。

 今日の昼前に珍しく携帯電話が鳴った。
出ると、中学のころからの友人であるキンちゃんだった。
佐川きみたか(漢字が出て来ない)という友人で何故かキンちゃんと呼んでいる。
(急なんやけど、今東京なんや、今日、国立で会えるかなあ、日曜日は繁寿司なのかしら?)
(繁寿司?キンちゃん行ったことあったっけ?)
(あるよ、一度だけ、昔の店やったけど)
(そんなら場所は分かるよね、前の店と同じところなのよ)
・・・・
 いつもの時間より少しだけ遅れて繁ずしへ行くとキンちゃんはもう席についていた。
彼は医者なので、関連の学会がこの2、3日つづいて明日もあるというので今日も東京に泊まることにしたという。
彼は九州の久留米が主戦場なのである。

 キンちゃんとは松山の中学、高校、京都の大学の14年~16年くらい学校が一緒だった。
これまで何度かこの老人日記で彼のことは書いたかもしれない。
彼は我々の世代で珍しくなかったお父さんのいない子供だった。
戦争でなくなったのだろうか。
それで松山で銭湯をやっていたおばあちゃんに育てられたらしい。

 一度彼の松山の家に行ったことがある。
銭湯なのだけど、居室も同じところにある。
座敷のような部屋でふと見ると大きな鏡があった。
記憶間違いかも知れないけれど、その鏡からは女風呂の風景が丸見えだった。
女風呂のお客さんが嬉しそうに自分の姿を鏡に写すのである。
そんなはずはないので、これは記憶間違いに違いない。
それにしては、そのご婦人たちの姿形やしぐさを今でもハッキリと覚えているのはどういうことなのだろう?

 そのキンちゃんも去年現役を退いたという。
理科系の大学の先生はだいたい64、5歳で定年退職となる。
今は別の職場で、それでもまだ働いているらしい。
(キンちゃん、野郎は死ぬまで働く宿命にあるようやねぇ)
(その方がええんとちゃうやろか、僕なんかこの間女房に言われてねぇ)
(なんて言われたん?)
(あんたの生きかたは中途半端や、言われたのよ)
(どういうことそれ?一応責任ある社会人として立派にお医者さん勤め上げたやないの)
(そうなんよ、よう分からんのやけど、本当にしたい思うこと、やったら、言われたんやろかなあ)
(お医者さんいう商売は人のためやもんねぇ)
(それで僕はこれから中途半端ではない人生を生きたい、残り少ないかもしれんけど、なんて思うとるんよ)
(しかし嫁はん、凄いこといわはるなあ、中途半端やって?)
(残り少ない僕の人生を励ましてくれているんかなあ)
・・・・

 考えてみれば繁さんは我々よりも10歳上なのだけれど現役バリバリである。
毎日のように国立の始発電車に乗って築地まで買い出しに行く。
帰って、午前中にいろんな下ごしらえを済ませて午後から客を迎える。
お父さんの代からいうともう60年になるという。
お父さんが引退して今の繁さんに店を任せるころからふうてん達は通っている。
もう30年と少し。
その間、繁さんが病気で休んだ、という記憶はない。
大したものだなあと思う。
足が痛いとか皮膚がかぶれて、とか病院通いのネタはしょっちゅうである。
しかし(店を休む)ということはこの30年以上、一度もない。

 その繁すしを出て、キンちゃんを書簡集へ誘った。
(このキンちゃんは繁さんのケンカ仲間だった肉屋のキンちゃんではない)
キンちゃんは書簡集は初めてだという。
キンちゃんのために、ここは一ついい曲を聴いてもらおうと思った。
それでレニー・トリスターノのCDをリクェストした。
(キンちゃん、トリスターノというのはビル・エバンスのお師匠さんでね)
(僕、この間ビル・エバンスのワルツ・フォー・デビー買いました)
(ほ~っ、凄い、よく分かったねぇ)
(いやジャズの名曲、名演はこの10曲、というのにワルツ・フォー・デビーのビル・エバンスがあったのよ)
(そうですか、そうやったんや、ところでこの曲、ベースのスコット・ラファロが凄いのよ)
・・・

 小雨が降り始めた。
名残惜しかったけれど夜中の10時を過ぎたのでキンちゃんと書簡集を出て別れた。
彼は明日の会議が終わると久留米へ帰るのだろう。
(中途半端な人生)を払拭しなければ嫁はんのお許しが出ない。
お互い、ええ勝負やなあ。
行けるとこまで行ったろうやないか。
なあ、キンちゃん。

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