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2011年11月に作成された記事

2011/11/28

2011・11・27 お風呂のありがたさ篇

白いハナミズキの紅葉

Hanamizuki_2

 年の瀬ですねぇ、などと挨拶されてドキッとする季節になった。

確かに夕刻4時を過ぎると薄暗くなってくる。

気温も10℃以下のことも多くなってきた。

つまりは冬が近づいてきた。

 わが隠宅では今日、この秋2回目の風呂を沸かした。

沸かすといったって単にガスのスイッチを入れ水道の蛇口をひねるだけのことなのだけど。

これまではずっとシャワーですんでいた。

しかし寒風にからだが冷やされるとやはり湯船で温められたお風呂にはいりたくなる。

風呂というよりも(お風呂)と言いたくなる。

何となく有り難いと思うからである。

 今日も、そのお風呂にはいるとき、風呂桶でお湯をかき混ぜた。

かき混ぜながら、子供のころのことを思い出していた。

おふくろと一緒にお風呂にはいるとき、いつもおふくろは、はいる前にかき混ぜた。

かき混ぜるのは下の方と上の方とで温度が違うからである。

それを均一化しようという直感がそうさせるに違いない。

 ふうてんは(おふくろっ子)だった。

母親にベタベタとまとわりつく子供だった。

台所で料理をするおふくろに(今日の晩御飯はな~に?)とまとわりつく。

おふくろの真似をして刺身包丁で何かを切ろうとして自分の左の人指し指を切った。

ほとんど皮しか残らないような深手だった。

その左の人差指は今でも真っ直ぐには伸びない。

ギターを弾くには致命的で、セーハー(左の人差指で全部の弦を押さえて音の高さを変える)がうまく出来ない。

 そんな子供時代、小学校のころの記憶としておふくろとはいったお風呂の記憶がある。

小学校の6年生までは一緒にはいったのを覚えている。

何故一緒にはいったのだろう?

 ふうてんの小学校のころ、村には電気だけは来ていた。

しかしガスも水道も電話もなかった。

よく言われる(ライフラインのインフラ)というのは、水道・電気・ガス、それに電話だと思う。

電気だけしかなかった、伊予の小さな村では、水道の代りに(井戸)、ガスの代りに(薪 まき)、電話の代りに(手紙)でやっていた。

 こういう時代はお風呂を沸かすのも一苦労となるのだった。

・水は井戸からくみ上げる

・沸かす為には火が必要である

・その火は薪に頼らざるを得ない

・その薪は近くの山へ行って木を切って調達するしかない

・これらを全部自分たちだけでやって、やっとお風呂が沸く

 こういう有り様だから、一人だけのためにお風呂を沸かす、ということはあり得ない。

一家の、みんなの為にお風呂を沸かすのであった。

誰と誰が一緒にはいるのか、一人だけではいるのか、などはどうでもよろしい。

ともかくせっかく沸かしたお風呂に、必要な人が必要なときにはいればよい。

最後の火の始末や、お湯の始末は最後にはいった人の責任である。

 時代は変わったけれど、やはり今でも冬の寒い季節になると風呂は有り難い。

夏のシャワーの有り難さと合せて考えると、水に体を委ねることが有り難いことなのかも知れないと思う。
 

 昔、グァム島(ガム島?)で発見された生き残り兵士の横井庄一さんという人がいた。

毎日のように小川で体を洗っていたという。

それに関して映画監督の大島渚が言った一言をまだ覚えている。

(横井さんは体を洗うと同時に心を癒されていたのではないでしょうか)

の一言であった。

 シャワー、お風呂、そういうものを使うたびに、ふうてんはこの大島渚の一言を思い出してしまうのである。

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2011/11/21

2011・11・20 ブータン国王ご夫妻来日につき篇

お向かいの家のミカン

Mikan

 今年ほど国立の紅葉が不作な年は記憶にない。

国立に多い桜の大木の紅葉も例年なら結構楽しませてくれる。

団地や公園に多いケヤキの紅葉も毎年楽しみにしている。

それがことごとくサッパリ、ダメなのである。

 モミジでなくてもこれらの木々は結構鮮やかな黄色、赤に紅葉する。

しかるに今年は最初からくすんだような茶色になって散っていく。

どうしたことだろう?と今年の気候を素人考えで振り返ってみた。

梅雨が例年より早く明けて7月末ころ真夏の太陽が照った。

ところが8月になって長雨が続いた。

(戻り梅雨)という言葉を今年初めて聴いた。

きっとそれに違いないと一人で納得している。

 陰宅のコナラもこの例に漏れず紅葉ははかばかしくない。

ただ不思議なのはドングリはまことに豊作で一カ月以上ドシン、バシン、コロコロコロと落ち続けた。

お隣の家のアプローチにも遠慮なく落ちて、家を出るとグシャグシャとドングリを踏まないと外へ出ていけないのはまことに申し訳なかった。

何度も掃除をしたりお詫びを言ったりした。

 巨大になりすぎたコナラはそろそろ手を打たないといけないと思い、知り合いの植木屋さんに聴いてみた。

(コナラは庭木の品種じゃないのよねぇ。)

とのお答え。

(あれは野山の木なのでねぇ、それに枝を切っても後からグングン伸びてくるでしょう、新しい芽が)

・・・・

結局、去年にひき続いて冬枯れのころ少しずつ(散髪)するしかないのだろうか。

 ブータンの国王ご夫妻が来日され一週間ほど滞在された。

ふうてんは昔からブータンに一種の親近感を持ってきた。

行ったことはないけれど、何となく風俗習慣で共通点を感じるし、風貌も似ている。

気候が日本と似ていて、ウィキペディアに聴くと(モンスーン気候に代表される照葉樹林帯(ヒマラヤ山麓-雲南-江南-台湾-日本)に属しているため)とある。

植生も似ていて、農作物も似たようなものが採れると見えて、納豆、蕎麦、焼酎、さらには漆などもあるらしい。

 着物の元祖みたいなドテラのようなものを国王ご夫妻が着ていたのは、やはりうわさに聴いていたとおりだと思った。

ただし、日本の着物、和服のルーツには諸説あるらしい。

 今回の来日を報じるいろんなテレビ番組の中で西岡京治(けいじ)さんという人のことが紹介されていた。

ブータンの農業の発展に大いに貢献し(最高の人)を意味する(ダショー)の称号(爵位)を与えられたという。

1964年、まだ日本との国交もなかった時代に海外技術協力事業団の一員としてブータンに渡り1992年、59歳で亡くなるまで農業の振興に勤めたという。

 工業がまだあまり発達していない国にとって農業は昔から主力産業だったと思われる。

日本の栽培方法、品種改良、開墾技術、灌漑技術などなどを持ち込み、農業を産業として拡大、安定させたという。

だからブータンでは(ダショー・ニシオカ)と呼ばれ尊敬され親しまれる日本人であるらしい。

グーグルに聴くと西岡さんの画像や映像が大量に出てくる。

 アフガニスタンでの中村医師や中国の黄土高原で植林を続けている高見邦雄さんのような人たちもいる。

普段めったに報道されることはないけれど、こういう(隠れた偉人たち)とでも呼びたくなる人々が日本人にもいることを聴くと何となく嬉しくなり誇らしい気持ちになる。

 書簡集マスターと話したのだけれど、19世紀まではヨーロッパ、20世紀はアメリカの時代だった。

21世紀になっていよいよアジアの世紀が始まったのだなあということが、このところのいろんなニュースを聴いていて実感されるようになった。

欧米流の近代工業、資本主義、金融システムがいろいろとほころびを見せてきているように思われる。

 これから日本はどうしていくのだろうか?

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2011/11/13

2011・11・13 昔、映画音楽というものがあった篇

ハナミズキの紅葉

Hanamizuki_3

 先週、BSプレミアムで(戦場にかける橋)があった。

夜の10時から12時40分まで思わず観てしまった。

1957年に公開された映画である。

 2011-1957=54年前の映画である。

ふうてんは今65歳なので11歳のときに封切られた映画ということになる。

小学校の6年生くらいだったのだろうか。

映画好きだった7歳上の兄貴はきっとこの映画を観に行ったに違いない。

 そういう次第で、この映画を映画館で観たかどうかの記憶は曖昧である。

ずいぶんたって、NHKで放映されたので以後ビデオでは何回も観ている。

ただその映像の迫力が結構生々しいので、どこかの映画館で観たこともあるのではないかと思う。

 BSプレミアムでの再々放映(?)を40インチの液晶テレビで観た。

よくもまあ、こんな映画を作れたなあ、という驚き・感心の連続のうちにラストの橋の爆破シーンになった。

早川雪舟扮する日本の将校もアレック・ギネス扮するイギリスの将校も死ぬ。

勿論、主役といっていいウィリアム・ホールデンも(Kill him!!)と叫びながら河の中で撃たれる。

橋の竣工を祝う列車が日本の旗をつけて近づいてくる。

橋の爆破を命じられたイギリスの工作員たちの爆薬の導火線が、枯れて水の引いた川面にクッキリと浮かんでくる。

それにアレック・ギネスと早川雪舟が気付く。

そして、撃ち合いの中で結局橋は爆破され、列車は突っ込んで落ちる。

・・・

カメラが段々とズームアウトし、無残な橋の残骸と枯れた流れが小さく見え、周りの熱帯のジャングルが画面を覆い尽くして(THE END)。

 監督はディビッド・リーン。

(アラビアのロレンス)と(旅情)を作った男である。

(ベン・ハー)(大いなる西部)(ローマの休日)を作ったウィリアム・ワイラーとこのディビッド・リーンが1950年代~1960年代のハリウッド映画の双璧だとふうてんは思っている。

同じころ日本には小津安ニ郎と黒澤明がいた。

 数日後、長野からきた友人と東京駅近くで会ったとき、この映画の話をした。

彼はすぐに(ああ(クワイ河マーチ)の映画ですね)と言った。

そういえば捕虜になったイギリス兵たちが口笛でその曲を一斉に吹いていた。

この長野の友人は音楽家なのである。

国立音大を卒業し、四ツ谷の音楽出版社に勤め、独立してパソコンのソフト会社を起こした。

以前この日記で(ラウンド・アバウト・ミッドナイト)という記事で紹介した、元トランペッターである。

 その彼が(ああクワイ河マーチですね)と言ったことから映画音楽の話になった。

(当時の映画はテーマ曲というのがありましたねぇ)

(戦場にかける橋=クワイ河マーチという風にね)

(エデンの東、なんてのもありました、甘酸っぱいような名曲でしたなあ)

(同じジェームス・ディーンのジャイアンツなんてのは勇壮な曲でね)

(ともかく映画とテーマ曲がセットになって記憶に残っている)

(どうしてだろう?)

・・・

(考えてみると当時まだテレビはなかったなあ)

(そういえば、ラジオで今週の映画音楽ベスト・テンとかあったなあ)

(それで(エデンの東)覚えたような気がする、小学校の5年くらいやったかなあ)

(ラジオでしたか)

(CDもなかったし、レコードやったねぇ)

(サウンド・トラック版とかいうて、いろんな映画の実況中継みたいなのがあった)

(そうそう、テーマ曲だけじゃなくて、セリフやらがはいっている奴)

(中学生のころだったけど、アラモいう映画のジョン・ウェインのセリフなんて結構聴かせたなあ)

(ジョン・ウェイの喋り?あれは英語の勉強には邪魔になったんとちゃいます?)

(いや、そういうものでもないのよ、確かにイギリス風のクィーンズ・イングリッシュとは対極の、押しつぶされて、柔らかすぎる発音なんやけど、それがいかにもアメリカなのやねぇ、アメリカが東に上陸して西へ向かった、そういう歴史を感じさせてくれるんやねぇ、ジョン・ウェインの話振りは)

(そういうものですか)

・・・

 映画館での映像と、ラジオから流れてくる音と、本屋で買う本と、レコード屋で買うレコードと。

それしか映像や音楽や文学に触れる機会のなかった時代。

触れる機会が少なかっただけに厳選しようとしていた時代。

映画も音楽も文学もその(厳選)に耐えねば生き残れなかった。

だから数々の名作が誕生したのではないか、とふうてんは思う。

 いつでもiTuneで試聴できて、良かったら一曲100円で、という今の時代に、歴史に残る名曲というのを期待してはいけないのかもしれない。

否応なく時代はそういう時代になってしまった。

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2011/11/07

2011・11・6・FM-8開発30周年記念の集い篇

天下市のころTenkaichi_4

 11月5日に(FM-8 開発30周年の集い)があった。


 富士通のパソコンFMシリーズの初代がFM-8で1981年に発売されたのだった。

 (Fujitsu Micro 8 略してFM-8)

なかなかいいネーミングだったと思う。

今はFMのあとにVがついて、FMVシリーズと呼ばれている。

このVの意味がどういう由来なのかは誰も知らない。

 30年振りに当時FM-8の開発に係わったピープルが50人以上も集まった。

当時の行動隊長がいる、大番頭がいる、脇を固めた面々がいる。

勿論、ハード、ソフトのスーパーなエンジニアたちがいる。

もうお子さんやお孫さんのいるご婦人方も10人くらい参加してくれた。

 昼の12時に始まり、3時ころに会は終わり、そのあと別室であれやらこれやらの雑談となった。

30年の時の重みはやはりあまりにも重たかった。

会って1~2分すると当時の面影を思い出す。

生々しい当時の記憶がよみがえる。

 50人近くのピープルといろいろと昔の話をしているうちにボ~ッとなってしまった。

会の終わりのころ(歴史を語り継ぐ)というテーマで話をさせられた。

ふうてんは、今もFMVの開発に携わっている二人の後輩と一緒に話をさせてもらった。

 FM-8は30年前に開発された。

1981年、IBMがパソコンを発売した年だった。

アップルやNECなどのメーカもいろいろと独自のパソコンをやっていた。

1995年に(Windows 95)が登場して、パソコンの世界標準が決まった。

それ以降は(標準の中での差別化)のバトルとなり、それが今でも続いている。

 アップルだけは今でも独自の路線を続けているけれど、他のパソコンはどれもWindowsマシンになり個性を主張する余地は殆どなくなった。

同じようなものなら安い方が売れる、という一般的な原理で、IBMはいち早く撤退し、NECも実質的にはパソコンの開発・製造を中国の会社に任せることになった。

 そんな中で、富士通だけはまだやっているらしい。

テレビ・コマーシャルでも(Made in Japan)だとか(出雲モデル)だとかいって突っ張っている。

富士通のノート・パソコンは島根富士通という会社で、現実に(出雲方面)で作られているのである。

あるアメリカ人から(これは現代のパソコン業界の奇蹟です)と言われたことがある。

アップルだってデルだって自国ではパソコンを製造していない時代である。

 FM-8開発30周年の集いで懐かしい面々と歓談しながら、ふうてんは、もう卒業した富士通のことを考えていた。

池田敏雄という先輩がいた。

IBMに追いつき、追い越すんだ、という強い意志を持った人だった。

ふうてんが入社して5年後の1974年に51歳で亡くなった。

 この池田先輩は、ふうてんの新人教育のときに、コンピュータはこれから2極化するという話をされた。

細胞のように小さなコンピュータと巨大なコンピュータと。

その話を聴いたのは入社した1969年だった。

1969年ころはまだマイコンもない時代だった。

1955年生まれのスティーブン・ジョブスはまだ14歳だった。

 富士通はこの池田敏雄という人が作った会社だといってもいい。

日本が壊滅した太平洋戦争のあと松下とかソニーとか本田とかのメーカが立ち上がって日本の面目を果たしていた。

コンピュータでもそれをやりたいなと池田さんは考えたに違いない。

1974年に亡くなった池田さんにはその時間がなかった。

彼がもう少し生きていれば世界のパソコンの歴史は変わったと思う。

 そういう池田敏雄という人の薫陶を受けた富士通は今二つのことを続けている。

一つは(細胞のような)と彼が言ったパソコンであり携帯電話である。

一つは(巨大な)と言ったスーパー・コンピュータである。

 パソコンFMシリーズは今でも続いているし、携帯電話らくらくホンは単独機種としては日本でナンバー・ワンの売り上げらしい。

スーパー・コンピュータ(京 けい)は今年断トツの世界一になった。

 何だかFM-8開発30周年記念のせいで、富士通というコンピュータ・メーカの宣伝のような記事になってしまった。

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