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2011年10月に作成された記事

2011/10/30

2011・10・30 原発事故やTPPで騒がしい篇

キクとムシ

Kikumushi_3

 夕刻、雨模様の中、繁寿司へ向かった。

チャリに乗って傘をさす事は難しかった女房どのも最近は動けるようになったらしい。

 繁さんでも、その後の書簡集でも(原発事故)と(TPP問題)が話題になった。

両方ともまことにややこしい話で単純明快な解はないようにも思われる。

エネルギーと食料がないと人間は、いや生き物は生きていけない。

それをどのように確保していくか、という生き物にとっての根本的な問題だから、そう簡単に結論が出せるものではない。

 だからと言っていつまでも、それはですねぇ、と口を濁していてもどうなるものでもない。

ふうてんなどは専門的な知識はないので物事を単純に考えている。

エネルギー源として原子力を使うのはまだ早いと思う。

何故かというとその原理がまだ人間にはよく分かっていないからである。

原材料をどこから求め、どのようにエネルギーを引き出し、使ったあとの後始末をどうするか?

分かっていたのは(どのようにエネルギーを引き出すか)だけではなかったろうか。

原材料がどこから来ているのか、とか使ったあとどうするの?などは未だにメディアは報道しようとしない。

 TPPについても専門的な知識はない。

しかし単純に考えて、関税とは何なのだろう?という疑問はある。

米の輸入には800%近い関税がかかっていると聴く。

これは要するに米は輸入しないよ、という意思表明だと思う。

米は輸入しない、しかし車は買ってね。

と大農業国のアメリカに言って、そうですか分かりました、という相手ではないと思う。

 素人のゴルフには(ハンディ)というものがあるらしい。

ハンディ10以下は(シングル・ゴルファー)と言われて尊重されるらしい。

しかしプロのゴルファーたちの戦いに(ハンディ)という言葉はない。

関税というのはこの(ハンディ)みたいなものではないだろうか。

 ふうてんは(産業)というのはプロの世界ではないだろうかと思っている。

(産業)にハンディがあっちゃあいけない。

プロの世界の戦いは紙一重の戦いなのだと思う。

ゴルフだと18ホールを4日間やって一打差で勝負は決まる。

1ホール、パー4くらいを標準とすると、

18×4×4=300打くらい打って1打差で勝負が決まる。

 戦争をしてやっつけられてヘロヘロになっている相手国に手を差し伸べる(ハンディを与える)のはいい。

日本も無謀な戦争をしかけてボロボロになった時、戦勝国のアメリカにずいぶん助けられて復活する事ができた。

世界の経済大国日本、などと標榜するまで復活した。

その日本が、貿易におけるいろんな制約を保とうとするのは不思議な感じがする。

 TPPに参加すると日本の農業は壊滅する、医療も大変になる、金融もサービス業も大変になる。

そういう話が連日報道される。

いつまで日本は負け犬根性に閉じこもっているんだ、と思う。

TPPはアメリカの植民地化戦略だ、とかいうセリフも聴こえてきた。

農業・・・確かにアメリカでは広大な土地で穀物や果物を作っている。

しかし敵にも弱点はないのだろうか?

例えば(水)の問題がある。

広大な農地にふんだんに(水)を供給するのは楽ではない。

それに日本ほど四季がハッキリとしている国は珍しい。

温度や日照の変化は作物に大きな影響を与える。

 広大で四季の変化の少ないアメリカの農作物は概して(大味)ではないだろうか。

日本のミカンは甘さと共に微妙な酸味があるところに値打ちがある。

カリフォ~ニャ方面産のオレンジにその風味はない。

 書簡集マスターと話したのだけど、結局その国の最大のリソースはその国があるロケーションではないだろうか。

日本という辺境の地。

ユーラシア大陸の一番東の、大陸からは海で隔てられている小さな島国。

西はシルクロード経由でヨーロッパまで通じている。

東は太平洋でだ~れもいない。

北は北海道で流氷が押し寄せる。

南は琉球、沖縄で熱帯魚や珊瑚礁。

 こんな豊かな恵まれた国土を持っていて(TPPに参加すると日本の産業は滅びます)??

冗談じゃない。

国土の最大活用ということを忘れて、今までの安逸な産業のあり方に甘えているピープルの寝言に過ぎないと思う。

世界だってバカじゃない。

アレコレ工夫をしてくる。

日本人もバカじゃない。

しかも、絶対的なアドバンティッジ・・・北から南へ長く、雨が多く海に囲まれた国土に恵まれている。

 どうも原発事故やらTPPの話をすると熱くなってしまうのは何故だろうか?

日本はどうするの?と問われているようで他人事ではない話だからだろうか。

65歳になって余命いくばくもないから、と逃げられる話ではないからだろうか。

経済が低迷しスマートフォンが流行り政治も経済も教育も映画も文学も何もかも分かりにくいややこしい時代になったなぁ。

 

 秋の夜長にそんなことを考えさせられている。

 

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2011/10/24

2011・10・23 本田宗一郎さんの(私の手が語る)を読んだ篇

完熟ドングリ

ドシーン、コロコロコロとベランダに落ちる

Kanjuku

 リビアのカダフィ大佐(我々の世代はこの呼び方の印象が強い)が殺害されたらしい。

今年はビン・ラディンも殺害され、アラブで名を馳せたフセイン、ビン・ラディン、カダフィが亡くなったことになる。

(ジャスミン革命)というと何となく美しく響くけれど、いろんな映像を見ると決して単純に(よかったね)という気分にはなれない。

 報道のたびに驚くのは海をはさんだ対岸のギリシャやイタリアが近いことである。

我々の馴染んでいる、というか聴いているヨーロッパとアラブ、アフリカは地図で見る限り極端に近い。

ただそれを海が、エーゲ海やら地中海やらが隔てている。

行ったことがないので分からないけれど、よく晴れた日には向うが見えるのではないかと思えるくらい近い。

 その近い国々で人種が違い政治制度の違う中で人々が生活している。

不思議なような不可解なような感慨に襲われる。

ソクラテスを生んだギリシャ、シーザーを生んだローマ。

こちらは哲学の大先輩であり、政治制度の大先輩であった。

やはり2000年とか3000年とかは長いのだろうか。

それとも、いやぁ2000年前と大して変わりゃあしないさ、なのだろうか。

アラブではジャスミン革命、ギリシャでは財政破綻でデモやらストライキの嵐。

 東洋の小さな島国である日本はどうなのだろうねぇ、などと女房と話すことが多いこの一週間だった。

日本だってすぐ近くに中国やら韓国、北朝鮮がある。

すぐ近くなのに(海)に隔てられているせいか、お互いに殆どのことを知らないまま2000年、3000年と過ごしてきた。

知っている積りのことはほんの表面の一端だけではなかろうか。

 本田宗一郎さんの(私の手が語る)が見つかったので読み直した。

最初は講談社の文庫本で読んだのだけれど、今回読んだのは6年前に買った単行本の方だった。

この単行本には奥さんの本田さちさんの(十年先の真実 わが良人(おっと)・宗一郎のプロフィール)という小文が巻頭に追加されている。

この(私の手が語る)はふうてんの好きな本のベスト・テンにはいっている。

 この本の初版は1982年に発刊されている。

1973年にホンダの社長を藤沢武夫と同時に退き、その後の10年近くの間にあれこれ考えたことをまとめている。

1906年生まれだからアバウトにいうと65歳~75歳の間の(我思う)のエッセイ集である。

ご本人は随想集と呼んでいる。

 

 冒頭に本田宗一郎さんが描いた左手が出てくる。

5本の指と手のひらにある20個ほどのキズの説明がある。

・機械にはさまれたキズ

・カッターで削った

・ハンマーでつぶした

・バイトがここからはいりここへ突き抜けた

・・・・

(このほかに小さなキズは3倍ほどある)

という注釈がある。

 宗一郎さんに言わせると右手は仕事をする手、左手はそれを支える手だという。

左手の人指し指と親指は右手より今でも1センチは短い、とも。

 彼はこのように徹底した(手の人)であった。

と同時に徹底した(合理精神の人)でもあったと思う。

一番物理的な(手)と一番抽象的な(合理精神)。

それが同居していた人のように思えてならない。

 合理精神というのはいたるところで発揮した。

会社は株主のものだから、子供はホンダに入れない、妙な派閥みたいなのができるから、と最初から藤沢武夫さんと合意していた。

 ある時、若い技術者がエンジン作りに失敗した。聴けばその技術者が考えたとおりやっていれば失敗しなかった話だった。技術者は(課長に言われましたので僕の考えを取り下げました)と弁解した。

宗一郎さんは烈火のごとく怒ってこう言ったという。

(バカもん、真実は権威より強いんだ、何故その課長と闘わなかった!!)

 こういう合理的な叱られ方をすると手下どもは成長するに違いない。

そんなことでホンダはマン島レースでの優勝から始まってオートバイで世界を制覇し、排ガス規制のレースでCVCCを作り四輪車(自動車)でも世界に躍り出た。

こういうホンダの歴史の中に、創業者の宗一郎さんの(手の人)と(合理精神の人)の二つが脈々と生き続けているように思える。

 合理精神、合理的な考え方というと何となく人の心とは別の冷たいような印象があるかもしれない。

しかし本当はそうではないのではないかとふうてんは思っている。

人の心は不条理なこと不合理なことには動かないのではないだろうか。

義理人情というのは(不合理性)の代表のように捉えられている。

しかし本当にそうだろうか?と思うのである。

 合理性を逸脱した(義理)やら(人情)やらは長続きしないのではないのだろうか。

本田さんは13歳くらいで東京神田のアート商会という自動車修理屋さんへ丁稚奉公に出た。

そこで若いのにメギメキと頭角を現し、いろんな重要な修理を受け持つことになった。

中学生みたいな子供みたいなのが当時貴重品だった(自動車)の修理をする。

回りから見れば、とても安心して任せられるはずもなかった。

 ところが宗一郎少年、意外とユーザの信頼を勝ち取ったらしい。

どうしてだろう?という秘密をこの(私の手が語る)で宗一郎さんは語っている。

(修理屋は車を直せば済む、というものではない)

(車が故障したユーザは、車が壊れたことで心が壊れているんだ)

(従って、車の修理の前にまずユーザの心の修理をしなければならない)

こういうことを宗一郎さんはまだ子供のころに実体験のなかで学び自分の智恵として獲得している。

合理精神というのは物において必要なだけでなく人間の心にも大切なことであるということを本田宗一郎さんは示したように思う。

子供みたいな宗一郎少年が、ちゃんと車を直して、尚且つ、この故障の原因はかくかくしかじかで、従ってかくがくしかじかの修理を施しましたからもう大丈夫ですと説明する、それ以前に約束の時間は絶対に守って姿を現し、相手の信頼感の第一歩を築く。

泥だらけの靴で乗ろうとするお客さんには、それはダメですよと注意を促す。

そういうことを宗一郎少年は意識してか無意識のうちにか出来ていたらしい。

(私の手が語る)ではこういう(手の人)が何故そう(考える)のかの両面がクッキリと語られていてまことに楽しい。

日露戦争の日本海海戦の勝負を決したのは(スピードだった)と断言する。

船の下についた貝やら藻やらをロシアの戦艦は掃除していなかったようだ。

(そういう記録がない、ロシアを出航して1年近く)

それだけで戦艦のスピードは20%落ちる、流体力学的に言うとそうなる。

といった調子。

 あるいはまた、宗一郎さんの娘さんがオーストラリアへ嫁いでいて、ある日電話がかかってくる。

(お父さん、北向きのとても日当たりのいい家を買ったのよ)

(何をパカなこと言ってんだ、北向きだと日当たりが悪いだろう)

(お父さんて何も知らないのね、ここは南半球よ)

と言われて、娘さんに一本取られた宗一郎さんいろいろと考えるのですね。

確かに北半球と南半球では違う。

さらに赤道近くと南極、北極ちかくでは時間の感覚が全く違う。

考えてみれば日本が南へ戦争をしかけたとき、そういう問題があったのではないか。

ナポレオンがモスクワを攻めきれなかったのは単に寒かっただけではなかったのではないか。

戦争のときに時間管理、時間の感覚のズレは決定的になる。

緯度が変わるとこの時間感覚に誤差が生じたのではないか。

ハンニバルや蒙古が世界制覇みたいなことをやったのは(同じ緯度)の世界ではなかったか。

 (手の人)であり(合理精神の権化)である人は、娘さんから(北向きのいい家を買ったのよ)という電話を受けてここまで考えるのですねぇ。

こういう人がリーダーだったら、オートバイ・レースでもF-1・レースでも公害対策・レースでも勝てるかもしれない。

どうしたら勝てるか?を極めて合理的に考えていって、じゃあそれはこうしたら出来る、と手が動く訳ですからねぇ。

 この間亡くなったスティーブン・ジョブスのことも思い出してしまった。

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2011/10/17

2011・10・16 季節外れの一日につき篇

台風で落ちたドングリ  

Photo_2

 

 今日は妙な一日だった。

日曜日だとて朝からビール。

定番の関口博の番組を見ながら、論客の寺島さんが出ていないこともあり眠くなった。

12時ころに嫁さんが作ってくれたソーセージの焼き飯を食した。

夕刻4時ころ目覚めて、あとは繁すしへ出向かねばならない。

 どうして(妙な一日)だったかというと、ずっとかったるいのであった。

関東では(しんどい)ことを(かったるい)と言う。

何となく朝から晩まで(かったるい)一日だった。

聴けば今日は東京では最高気温が30度を超えたという。

繁さんへ行く前にシャワーを浴びて髪を洗いドライアーで乾かすときに湿度は分かる。

今日は髪が乾かなかった。

 つまり高温で高湿度の一日だった。

高温で高湿度・・・ふうてんはそれに憎しみに近い感情を持っている。

一番苦手な気候条件なのである。

 繁すしでは(マッサージ・クリニック)の話題になった。

我が家の女房殿が腰を痛めて、5月ころからお世話になっている医院がある。

繁さんに勧めたら、彼も通うようになったらしい。

どうもこのところそういう(医院)が増えてきたのではないかという話になった。

医院という話になって、どっかいい内科の先生はいないだろうか、という話にもなった。

 

 ふうてんも65歳になって、そろそろ見取ってもらえるお医者さんを決めたいと思っている。

15年ほど前にまずおふくろ、続いてオヤジさん、二人に国立の隠宅へ来て貰った。

来て貰う時の条件は(往診してくれるお医者さんを見つける事)だった。

幸い、15年前のその時は女房がお産のときからお世話になっている先生にいい人を紹介して貰って結局おふくろ、オヤジの最後を見てもらう事ができた。

死んだときに電話をする。

夜中であれ何であれすぐに来てくれるお医者さんがいると、こんなに安心な事はない。

おふくろの時もオヤジの時も、夜の1時過ぎだった。

(どうせ銀座か六本木で飲んでいたに違いない)

女房がおかぁさん死んじゃったというので、おそるおそる電話するとすぐに来てくれた。

(なくなったときは絶対に119番には電話せずに私に電話しなさい)

と教えてくれていた。

119番に電話すると、解剖やら何やらややこしいことになるらしい。

 次はこちらの番である。

この素晴らしい先生は3年ほど前に亡くなった。

息子さん二人は歯医者さんと整形外科で内科を継ぐ人はいない。

この間久しぶりに弟くんの歯医者さんを訪ね、見取ってくれるお医者さんの事を相談した。

家の近くの二人ほどを教えてくれた。

一人は中々の人格者で夫婦ともお医者さんだという。

もう一人はちょっと軽目だけどふうてんには合うかもしれないという。

そのうち確かめに行こうと思っている。

 我が国立にはいろんな頼もしいお医者さんが近くにいて助かっている。

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2011/10/10

2011・10・9 スティーブ・ジョブスのこと篇

ハナミズキの実が色づいた 

Hanamizuki_5  
 10月6日の深夜に女房が(Macの画面にジョブスの写真と数字しか出ないのだけど何かあったのかしら)と部屋へ飛び込んできた。
数字は(1955 2011)とあったという。

いかにもアップルらしいなと思った。

 今から30年ほど前の1980年ころ日本へもパソコンの文化が押し寄せ始めていた。

コンピュータ・メーカに就職して10年ほどだったふうてんも無関心ではなかったけれど、特に強い興味も持っていなかった。

 当時定期購読していたアメリカの雑誌(BYTE)の1982年8月号を読んだとき、オヤッ?と思った。

BYTE誌はその頃まだ日本語版はなく、読みもしないのに英語のテキストの一つくらいな積もりで、ま、一応コンピュータ関連だし、という乗りでとっていたのだった。

英語に興味が強かったのかTime誌も定期購読していた。

読むというよりも紙面のデサインとかアルファベットのフォントの美しさとかグラフ表示の巧みさなどを楽しんでいた気配もある。

 1982年の8月号はLOGOというプログラミング言語特集だった。

当時のBYTE誌は、毎年8月号は言語特集なのだった。

前年の1981年の8月号はアラン・ケイの伝説の(Smalltalk)だった。

 LOGO特集ということで、Logoの言語としての開発経緯とか当時のトレンドとかがいろいろ紹介されている。

中でふうてんの興味を引いたのは(AppleⅡのスプライトLogo)だった。

 さっそく会社でAppleⅡを買い、スプライトLogoを試してみた。

Logoにも感心したけれどAppleⅡにも感心した。

こんな親しみやすいマシンを作る奴がいるんだ。

聴けばスティーブン・ジョブスとスティーブ・ウォズアニックの二人だという。

二人のステファン、スティーブン、スティーブがこれを作ったという。

同じコンピュータでも大型機とは全く違う世界がふうてんの前に拡がっていく感じだった。

 1980年当時マイコンとかパソコンの世界でアメリカでも日本でも20代の若者が有名になっていた。

アメリカのスティーブン・ジョブスとビル・ゲーツ。

日本の西和彦と孫正義。

4人とも1955年前後の生まれでふうてんなどより10歳下の世代である。

その後の30年間の4人の活躍ぶりはみなさんご存じの通り。

10歳年上の我々はパソコンに関しては(遅れてきた青年)だったのかもしれない。

 スティーブ・ジョブスの作品でふうてんの一番印象的な作品は初代マッキントッシュだった。

これは1984年に発売された。

9インチのモノクロ画面でCRT一体型のパソコンだった。

1984年といえばもうパソコンもいろいろと登場し、画面は15インチくらいのカラーが主流だった。

それなのにどうしてこんな小さいモノクロ画面で一体型のパソコンをアップルは作るのだろう?

世界中が不思議に思ったものだった。

 さっそく会社で買って実験室であれこれと使ってみた。

使ううちに(ウ~ン、これは)と唸らされることになった。

GUI(Graphical User Interface)という触れ込みだった。

それまでのコンピュータのマンマシンはタイプライターを模したものだった。

キーボードと紙に印字される文字列。

 それがマッキントッシュでは手元のマウスと画面上のカーソルだった。

マウスでカーソルを移動させて、いろいろ出てくるメニュー(ボタン)で操作をする。

文字入力だけはキーボードを使うのだけれど、それ以外の操作はこれでやる。

こんなコンピュータは初めての体験だった。

マウスとカーソルを使ったGUIの世界はアラン・ケイの(Alto ゼロックスのパロアルト研究所で試作されたマシン)として話としては我々にも伝わっていた。

それがジョブスのアップルによって商品化され我々が触っている・・・不思議な感覚だった。

 特に感心したのはフォント・エディターだった。

16×16だったか32×32だったか忘れたけれど、その数の枡目が出てくる。

その枡目を白とするか黒とするかでフォントを作ることができる。

1個1個の枡目が(ドット 表示の最小単位、一個一個の点のこと)を表す。

つまりマックは初めて1ドットをいじることの出来るマンマシンを提供したのだった。

どうしてジョブスはこんなに1ドットにこだわるのだろう?と思った。

しかもその画面上の枡目の縦横比が1;1で真四角なのである。

当時のブラウン管は横縦比が写真と同じ4:3だったので、大抵のパソコンの1ドットは4:3の横長が普通だった。

 もう一つ、当時WYSIWYGWhat You See Is What You Get)というユーザ・インターフェースが話題になり始めていた。

画面で見たものがそのまま印刷して手に入る、くらいな意味である。

顔写真を画面に出して、それを印刷することができる、という風な意味だった。

大きさの違いや縦横比は多少違っていてもそう呼ばれていた。

そこでマックで画面の内容を印刷してみた。

勿論マック指定のプリンタである。

 それで我々は口アングリとなった。

文字通り(WYSIWYG)そのもので、縦横比も大きさまでも画面と全く同じものがプリンタで印刷されたのであった。

スティーブン・ジョブスというのはただ者ではないなあと話し合った。

 それからずいぶんたって、2005年にジョブスが行ったスタンフォード大学での卒業式でのスピーチのことが伝わってきた。

そのスピーチの内容を知って、何故彼がマックをそのように作ったかの謎が解けた。

彼は若いころ、まだ20歳になっていないころに大学で(カリグラフィ 文字を美しく見せるための手法)を学んだ経験があったのだった。

ジョブス自身がこの経験と初代マッキントッシュの関係をスピーチで語っている。

このスタンフォードでの卒業式のスピーチの一部をある人のブロッグから引用させて貰う。

このスピーチはユーチューブでも見ることができるようになった。

彼は本当にスピーチの名手でもあったことが分かる。

物事の本質を短く、鋭い言葉で語ることができる人だった。

 全く惜しい人を我々は失った。

---2005年スタンフォード大学の卒業式でのスピーチ 抜粋--

 私はリード大学を6ヶ月で退学しましたが、本当に辞めるまで18ヶ月ほど大学に居残って授業を聴講していました。

・・・・

リード大学には、当時おそらく国内でも最高のカリグラフィ教育がありました。見渡せばキャンパスにはポスターから戸棚に貼るラベルまで美しい手書きのカリグラフィばかりだったのです。私は退学したのですから普通の授業はとる必要もないのでカリグラフィの授業を受けて手法を学ぶことにしたのです。私はそこでセリフやサンセリフの書体について習ったり文字と文字のスペースを変えていく概念についてつまり異なる文字のコンビネーション手法など素晴らしいフォントの作り方を学問として学びました。フォントは、美しく、歴史的にも、芸術的にも、科学で把握できないほどの緻密さでしたのでそれは私にとって魅力的な発見となったのです。 

フォントは、人生の役立つという期待すらありませんでした。しかし、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する時にその知識が役に立ち、マックの設計に組み込むことにしました。こうして初めて美しいフォントを持つコンピュータが誕生したのです。もし私が大学であのコースを寄り道していなかったら、マックには複数の書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるマネに過ぎないのでこうしたパソコンがいま世界に存在しないかもしれません。もし私が大学を退学していなかったら、あのカリグラフィの授業に寄り道することはなかったしパソコンには素晴らしいフォント機能がないかもしれない。もちろん大学にいた頃の私には、未来を見据えて点と点をつなげることはできませんでした。しかし10年後に振り返えると、とてもハッキリ見えることなんです。

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2011/10/02

2011・10・2 新幹線の開業日は10月1日だとか篇

 家の上の雲

(2011年最後の入道雲)

Kumo_5

 土曜日の午後、見ることもなくテレビをつけていた。

NHKのBSプレミアム(らいじんぐ産~追跡!にっぽん産業史~)だった。

ライジングサン・・・日の出のことだろうか。

日本・・・日のもと、日出ずるところの天子・・・何だか聴いたことのあるような。

この番組では電池とか新幹線の開発がどのような経過を辿ったかをやっているようだった。

 47年前の昭和39年、1964年のこと。

10月1日新幹線(東京-大阪間)開業。

10月10日東京オリンピック開幕。

ふうてんはこの10月10日に初めて新幹線に乗って京都から東京へ(お上りさん)した。

オリンピックのチケットはなかったけれど代々木の開会式の会場近くを歩いた。

快晴の日だった。

開会式が始まったとき空を見上げるとジェット機が五輪のマークを5色で描いた。

真っ青な空に見事な五輪のマーク。

(なかなかやるなあ)

と感心した。

 東の都への(お上りさん)だったけれどこの五輪のマーク以外のことは全く覚えていない。

東京の友人の下宿に泊まったはずである。

この友人も18歳で東京の大学にはいったばかりだったはずである。

後で何度か訪ねることになるのだけれど、この10月10日の記憶は失われている。

 往きの新幹線、帰りの新幹線のことも全く覚えていない。

それなのに新幹線に乗ったということを記憶に留めたのは一枚の写真だった。

京都駅で新幹線に乗っている姿をだれかが写してくれたらしい。

モノクロの写真が一枚だけ残っている。

誰かが京都駅まで見送りに来てくれたのだろうか。

そうして、新幹線も開通10日目だからと、記念に写真を撮ったのだろうか。

どこのどなたさんにその一枚の写真を渡されたのか・・・忘却の彼方である。

 50年もたつと記憶とはそういうものなのだろうなあと思う。

誰かに渡された一枚の新幹線の車窓の写真。

ふうてん自身が写した真っ青な空に描いた五輪のマーク。

(オリンパスのオンボロカメラを叔父ちゃんから貰っていた)

こういう写真がなければ記憶は定着せず全く失われていたに違いない。

 この年の3月に京都へ受験に来て帰りに名神高速で京都から神戸まで走っている。

名神高速も開通したばかりで、うっとりとするような春霞の中、信号のない道中の1時間ほどは珍しかったので記憶に残っている。

タクシー代をどうしたのだろう?

一緒に受験に行った三人と、どうせ落っこちて二度と来ることはないだろうから、記念にと張り込んだのだろうか。

名神高速に乗る前に、平安神宮近くにあったスケート場で滑った。

これも(どうせ試験にはすべるだろうけど、その前にスケートで滑ってやれ)という悪ガキどもの魔よけに近い魂胆だったように思う。

初めてのスケートというのはフラフラヨロヨロで、ス~ッと滑れるものじゃない。

同じように初めて滑る小さな女の子がいて、ふうてんにドシンとぶつかった。

(かんにんっ!!)

と少女が言った。

それがふうてんにとっての初めての身近に聴く京都弁だった。

伊予弁で彼女にどう答えたか・・・これまた忘却の彼方である。

 1964年、18歳のときに初めて名神高速道路と新幹線に乗ったことになる。

それがもう47年前・・・ほぼ半世紀前のできごと。

65-47=18歳

歳取るはずだわ。

 1964年というと戦争が終わってほぼ20年ほど。

同じ20年でもあのころの20年とこの頃の20年はずんぶん違うなあと実感する。

1945年~1965年 焼け野が原になったあと高速道路や新幹線まで立ち上げた

1990年~2010年 バブルが弾けたあと右肩下がりで給料は下がるばかり

 ふうてんたちの世代は両方を経験している。

これだけの大きな違いをどういう年齢で迎えるか、ということで人生観は違うだろうなと思う。

前にも書いたけれど(失われた20年)と言われるこの20年に生まれて育った人たちがもうすぐ成人式を迎える。

日本の今の20歳以下の人たちはある意味日本の現状からスタートする。

右肩あがりではない日本。

アジアの中で家電もテレビも自動車もナンバーワンではない日本。

エネルギーや食糧をこれからどうしよう?と悩んでいる日本。

 ふうてんはこういう20歳以下の若い人たちはこれまでの日本人が考えつかなかったような人生観、世界観を持つのではないかと思う。

戦争もない、高度成長もない、誰もどうしろと方向を示してくれない。

こういう時代に子供たち、成人前の若い人たちはどのように過ごすのだろうか?

ふうてんの想像だけれど、自分で考えるしかない、と思う傾向が強まるのではないだろうか。

そうなればしめたものだけどなあとも思う。

やっぱ人間は最終的にはどんな時代でも(自分で考える)しかないのだから。

 その兆しの一つを(なでしこジャパン)と(イトカワへ行き帰還したハヤブサ)に感じる。

佐々木監督と川口プロジェクト・リーダーには共通なものを感じた。

ご両人とも(若い人たち)を信頼し,自主性を重んじている。

ああしろこうしろ、と言われたことを忠実に実行する。

それで問題が解決するほど単純な時代ではなくなったのかもしれない。

 10月1日に新幹線が開業した、ということを聴いて昔話をしてしまった。

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