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2011年9月に作成された記事

2011/09/26

2011・9・25 暑さ寒さも彼岸までとか篇

台風一過

Taifu_2

 この一週間は慌ただしかった。
台風が来て、住大夫の素浄瑠璃を聴きにいって、大相撲秋場所楽日前の飲み会があった。

 台風一過のあと急に涼しくなった。

テレビで(暑さ寒さも彼岸までと言いますねぇ)というセリフが聴こえてきた。

確かにお彼岸の23日のあと急に涼しくなり、ポロシャツの下にシャツを着たりしている。

 台風15号が直撃するというので国立の隠宅で待ち構えていた。

午後の3時から6時が一番ひどいという予報だった。

確かにその時間から夜の9時ころまでかなりの風が吹き、雨が降った。

繁り過ぎたコナラの枝が猛烈に揺れる。

隣の家の電線に悪さをしないかと気が気じゃなかった。

 半日、ザワザワとした風の音に襲われて、夜になっても眠れるものじゃない。

何となく明け方まで飲んでいたのだろうか。

夜が明けて女房がすっとんきょうな声を上げて部屋へ飛び込んできた。

(・・・の木が倒れてる!!)

というのである。

綺麗な花をつける木なのだけどいまだに名前を覚えられない。

ロシナンテのいる車庫の前にある、この日記でもちょくちょく登場する木である。

 写真のようにそれが真横に倒れていた。

さて、どうしたものか。

この木は元々、藤のように蔓(つる)みたいな性質でグニャッとしている。

それでも大きくなって繁った枝を台風に煽られて支えきれなくて根元が地面から剥がされていた。

こうなると女庭師の力ではどうにもならない。

バカ力を出して元の姿勢に戻し、支えをする。

 数日後、竹本住大夫、野澤錦糸の素浄瑠璃を村ちゃんと日経ホールへ聴きに行った。

大手町にある日経ホールは初めてだった。

近くにある経団連のビルは商品発表会のときに何度か訪ねたことがある。

日経ホールは新しい感じでなかなかよく出来ていた。

会場へ着いて、入り口のロビーでビールを買って恐る恐る(タバコ吸えるところは?)と聴いた。

(一階上の四階に喫煙室があります)

という明快なお答え。

国立劇場では外に出ないとタバコを吸えない。

日経ホールではビルの中にちゃんと(喫煙室)を用意している。

こちらの方が文化度が高いなあ、と感心しつつニコチンとアルコールを注入して素浄瑠璃に向かった。

 ベースボール・マガジン誌で長年仕事をした村ちゃんに(喫煙室がちゃんとあったよ)と報告した。

そうしたら村ちゃんは(ここは日経ビルですよ、新聞やら雑誌やらの記者やデスクたちにタバコだめ、なんて言ったら暴動が起きますよ)と言った。

何となく愉快な気分になって住大夫の素浄瑠璃を聴き始めた。

 素浄瑠璃というのは謡い(語り)と三味線だけで人形がいない。

住大夫さんと錦糸くんが真っ正面に座ってこちらを向いて演じる。

文楽のときは人形が真っ正面にいて、語りと三味線は右端の小さな舞台で斜めにこちらへ向かう。

観客との位置関係がまず違う。

 前回この二人の素浄瑠璃を紀尾井ホールで聴いたときは物足りなかった。

語りと三味線と人形の三位一体が文楽の魅力だと思った。

今回は村ちゃんに誘われて、素浄瑠璃の魅力を確かめたいと思う気持ちもあった。

日経ホールは5~600人ははいれる中規模のホールだと思う。

席は前から4列目だった。

 二人はいつものように熱演し、言うことなかった。

今回は特に野澤錦糸くんの三味線を堪能した。

一時間ほどの演目だったのだけれど、ずっと前を向いたまま演奏しつづける。

住大夫さんは一応(床本)らしきもののページをめくりながらチラッチラッと本を見つつ語る。

錦糸くんは何も見ずに、演じ続ける。

とうしてああいう具合に語りと合わせられるのだろう?

語りをなだめる様に、寄り添うように、そそのかすように、あおるように。

 三味線といっても音の出し方は実に多様である。

単にメロディーを奏でるだけではない。

例えば、同じギターでもクラッシックとフラメンコでは弾き方が決定的に違う。

文楽の太棹はフラメンコと全く同じような弾き方をする。

ギターは指、三味線はバチの違いはあるけれど、弦を引っ掻く弾き方、押さえつけて弦を弾けさせる弾き方、さらにギターや三味線の胴に指やバチを当てる弾き方。

同じ高さの音でも、引っ掻く、押さえつける、ではサウンドが全く違う。

三味線のバヤイは押さえつけてついでに胴までバチを押し当てる弾き方がある。

その時に一番強い音となる。

という風に三味線を弾いたことのないふうてんは想像している。

 一時間の素浄瑠璃が終わって、住大夫さんと麻実れいという宝塚出身の女優との対談があった。

これがなかなか良かった。

大阪の北(キタ 北の新地?)出身の住大夫さんは宝塚へ通ったらしい。

住大夫さんは87歳になるという。

いまだに稽古をして貰っているという。

錦糸くんと二人でお師匠さんに聴いてもらうという。

錦糸くんは30違いの57歳。

87歳と57歳のコンビが今でも日々修練を重ねて芸を追求している。

沢山のファンがお金を払って見に来てくれている。

何となく身が引き締まるような、勇気づけられるような思いに包まれる。

 帰りに村ちゃんが(いいですねぇ、住大夫さんの大阪弁。吉本のは大嫌いなのだけど)と言った。

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2011/09/19

2011・9・18 歩いて汗だくになりたくなる篇

ドングリ

Donguri

 このところ毎回異常気象のことから書き出しているように思う。

この一週間も異常に湿度が高く蒸し暑い日々が続いた。

気象庁によると東京では9月になって10日以上真夏日(30℃以上)が続いている。

温度よりも湿度がこたえる。

ふうてんは、ともかく湿度の高さに弱い。

 あんまり蒸し暑いので汗をかきたくなった。

ゴルフなどの球遊びをはじめ、スポーツは一切やらないのだけど、走ったり泳いだり歩いたりというのは子供のころから嫌いじゃなかった。

数日前、あんまり蒸すので、(この野郎)と思って30分ほど歩いた。

 歩くコースは決まっている。

家の半径1キロの周囲をぐるりと回るのである。

30分で3000歩ほどであることが携帯電話らくらくホンの歩数計で分かる。

半分くらいのところからズボンが汗で脚にからみ始め、かなり汗が出てくる。

家に帰り着くころには汗だくになって滴り落ちるようになる。

 こういう歩くとか軽く走るとかを始めたのは大昔、東京に流れてきて所帯を持った多摩ニュータウンのときだった。

その時もあまりに暑いので、(この野郎)と思って半ズボンに運動靴(当時スニーカというようなものはなかった)で近くを走った。

走ってみて、当時26歳くらいだったけど足がガクガクしてあまりの体力の衰えに愕然とした。

それから軽いジョギングをすることが習慣となった。

 ジョギングといっても週に一回か二回近くを30分ほどゆっくりと走るだけであった。

多摩ニュータウンは出来たばかりで、家のそばには工事用の無人の道路が延々と走っていた。

そこをゆっくりと走りながら、東京へ出てきたけれどこれからどうしよう?と遠くの団地の灯を見ながら、定まらぬ思いに身を任せたものだった。

この習慣は8年後に国立へ移ってからも続いた。

 40歳のころの夏、ガキを行水させようと風呂場に作ったミニ・プールで横抱きに抱えようとしてぎっくり腰になった。

1986年だったけれどその時の痛みはいまだに忘れない。

結局これを機会にジョギングの習慣は終わった。

 世の中にはジョギングをする人、ウォーキングをする人が沢山いる。

その人たちは理由もなく走り、歩き続ける。

少しだけ経験のあるこちらはそのことがよく分かる。

つまり運動というのは中毒になるのである。

走る習慣ができると、一週間に一度も走らないと気持ちが悪くなる。

正月休みで6日間の連休になったとき毎日走って喜んでいたこともあった。

 その経験で一つだけ思ったことがある。

運動というのは人を攻撃的にするような気がする。

肉体と同時に精神も活性化されるのだろうか。

考え方まで前向きになるのである。

積極的になるのである。

ボヤボヤしている奴をどつきたくなるのである。

 ふうてんがジョギングしていた頃、30歳前後から40歳過ぎまではふうてんにとって一番過酷な仕事をしていた時代と重なる。

意識してジョギングをしていた訳じゃないけれど、ああいう過酷な時代を耐えることができた事の一つにこの走る事で得た(攻撃性)があるのではないかと思う事がある。

 攻撃性なんてものは普通の生活ではない方がよろしい。

できれば平和におだやかに過ごしたい。

ただ人生の途上にはそうもいかない場面がある。

自分の能力以上と思われる事をやってのけねばならないこともある。

そう迫られたとき、防御ではなく攻撃しかないのではなかろうか。

 蒸し暑さに耐えかねて(この野郎)と思ってこの一週間で三度歩いた。

悪くない。

汗みどろになって家に帰り着き、裸になってビールを飲む。

すぐにシャワーを浴びるのは意味がない事は分かっている。

体温が少し落ち着くまで、10分以上たってからでないとシャワーは意味がない。

体温が高すぎるとシャワーのあとで大汗となる。

むしろ冷たい水で体をぬぐう。

扇風機にでも当たりながら体を冷やしてビールの一本も平らげてからおもむろにシャワーを浴びて石鹸で汗を洗い流す。

もちろんシャワーは暖かいシャワーでなければならない。

 などなど、蒸し暑い9月の過ごし方の一端を報告させてもらった。

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2011/09/11

2011・9・11 マリリン・モンローの(バス停留所)を観た篇

9月の入道雲 

Neudogumo_11

   

 9月になっても気候不順は続いている。
(嫁さん、今日も蒸し暑いなあ、何やろこれ、もう9月ちゅうのに)
(それでも旦那さん、ずいぶん日が差してきたよ)
(日が差してきた?・・・アレッ、ほんま結構光が入っとるなあ)
一階のリビングに2メートルくらい太陽の光が差し込んでいた。

(太陽の角度が変わったんやねえ、そういやあもうすぐ秋分やわ)

(このあいだ夏至で暑い間は光が入ってこない思っていたのに)

(秋分の次は冬至でそのときは部屋に奥まで光がはいるんやろなあ)

(早いよねぇ季節が過ぎるのが)

(あと10年いうても、アッという間やろなあ)

 そんな会話を女房と交わした。

どうして(あと10年)という言葉が出てきたのだろう。

65歳になって、あと10年くらいはと思っているのだろうか。

人の寿命・・・これだけは誰にも予測できないはずなのに。

 テレビで(バス停留所)を観た。

BSプレミアムで放映されたのでついでに録画した。

地上波デジタル放送を機会に買ったテレビだと録画がまことに簡単に出来る。

(もうソニーのビデオ・テープは売ってないやろなあ)

(ビデオ・デッキが壊れたけど修理代どれくらいかかるやろか)

とビック・カメラで心配する必要もない。

 録画、再生がリモコン一つで出来る。

(録画したい)というと(番組表)が出てきて(コレ)というと録画される。

便利すぎて気持ちが悪い。

デジタル放送になって、そういう操作も可能になった。

(これは放送じゃないな)と思う。

 (放送)というのは本来、送りっぱなしという意味ではなかろうか。

送りっ放し。

つまり送り手が勝手に送り、押しつけるもの。

受け手には選択の余地なし。

そういうメディアが(放送メディア)ではなかったろうか。

受け手側の唯一の選択枝は周波数とかチャネンルを合わすことだけだった。

 放送の良さはその一点にあるとふうてんは思う。

一斉同報という言葉がある。

同じものが一斉に放たれて見るもの聴くものが(全く同じもの)を同じ時間に見聴きする。

それが放送のはずなのにデジタル放送はちょっと違うような感じがする。

デジタル放送は一斉同報ではない。

誰がどのように視聴しているか一意的に決まらなくなった。

 メディア論はこれくらいにして(バス停留所)だった。

マリリン・モンローとドン・マレイ主演。

この二人の名前を知っている人も今は少ないと思う。

この映画は1956年に公開されたというからもう半世紀以上前の映画である。

それがデジタル放送のおかげで、まことに生々しくリアルに(再演)された。

 モンタナで牧場を経営する若者が主人公である。

21歳になった彼は友人、というよりも後見人みたいな初老のバージとロデオ大会のためにフェニックスを訪ねる。

このバージを演じた役者は我々オールド・ファンには馴染み深い役者である。

野卑といってもいいようなこの若者の傍若無人振りから映画は始まる。

旅の途中で寄るバス停留所(Bus Stop)が映画の始めと終わりの舞台になる。

 監督はジョシア・ローガンというあまり馴染みのない名前。

どういう人だったっけ?とグーグルに聴いてビックリした。

ピクニック 1955年

南太平洋  1958年

などの監督だったということが分かる。

この2作の間の1956年に(バス停留所)は公開されている。

全てが(名画)といっていい傑作である。

ジョシア・ローガンは(1908-1988)とグーグル・ウィキペディアにあるから、47歳、48歳、50歳のときにこれらを作ったことになる。

 やはり野郎の仕事は40歳から50歳の時だなあと改めて思わせられる。

 野卑だけれど真っ正直なカウボーイ、場末の酒場でその日暮らしのすれっからしの歌姫。

ラストは勿論ハッピーエンドになる。

余りに野卑で自分勝手なカウボーイに歌姫は辟易して逃げようとする。

終わりに近い頃、バス停留所で吹雪の夜、カウボーイはバスの運転手にこてんぱに殴り倒されて自分勝手さに気づく。

 翌朝、吹雪も晴れて快晴となる。

カウボーイは歌姫に非礼をわびてサヨナラ、幸せに、という。

一旦二人は別れる。

途方に暮れてバス停留所の食堂のカウンターにうつ伏せている歌姫にカウボーイが近寄る。

(バージが言うんだ。お前は女を知らない。彼女は男を沢山知っている。二人で合わせて2で割るとちょうどいいかもしれん)

と。

 それからカウボーイと歌姫はお互いのそれまでの生き方、特に男女関係に関して恥ずかしそうに報告し合う。

歌姫が(沢山の男と付き合ったと言われる)といい(本当か?)と聴くと(本当よ)と応える。

カウボーイが(ずっと牧場に住んできたから女のことは全く知らねぇ)

という。

最後にカウボーイが(過去のことも含めてお前にホレている)

という。

これで映画(バス停留所)は完結した。

 バス停留所は1956年。

マリリン・モンローは1926年生まれだから30歳だった。

1953年の映画(ナイアガラ)で(モンロー・ウォーク)を披露してから1961年までにこんな映画に登場して我々を魅了した。

(ウィイキペディアから引用させてもらう)

1953年:『ナイアガラ(Niagara)』

1953年:『紳士は金髪がお好き(Gentlemen Prefer Blondes)』

1953年:『百万長者と結婚する方法(How to Marry a Millionaire)』

1954年:『帰らざる河(River of No Return)』

1954年:『ショウほど素敵な商売はない(There's No Business Like Show Business)』

1955年:『七年目の浮気(The Seven Year Itch)』

1956年:『バス停留所(Bus Stop)』

1957年:『王子と踊子(The Prince and the Showgirl)』

1959年:『お熱いのがお好き(Some Like It Hot)』 - ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)受賞

1960年:『恋をしましょう(Let's Make Love)』

1961年:『荒馬と女(The Misfits)』

 1962年にモンローは死に、翌年の1963年にケネディ大統領がダラスで暗殺された。

1946年生まれのふうてんの高校生の時代だった。

ふうてんが中学、高校生の時代、1950年~1960年はハリウッド映画の黄金期だったような気がする。

1955年 エデンの東

1956年 ジャイアンツ

1959年 ベン・ハー

1963年 アラビアのロレンス

 当時日本は1945年にゼロ・クリアーされて10年ほどだった。

黒澤明の(七人の侍)が1954年。

小津安二郎の(東京物語)が1953年。

日本映画の歴史に残るこの二作が同時代に作られたというのには必然性があるような気がする。

 1950年代~1960年代。

人々は国家とは何なのか、戦争とは何なのか、男と女とは何なのか、家族とは何なのか、生きるとは何なのか、そういうことをストレートに問い続けていた時代だった。

そのころに中学、高校生だったふうてんの同世代たちは還暦を過ぎて、同じような感覚で日々を過ごしているのだろうか。

 それから半世紀たって、今の中学、高校の諸君たちはどう過ごしているのだろうか。

50年も前の映画を見てそんなことも考えさせられる。

 

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2011/09/04

2011・9・4 文楽9月公演につき篇

ムクゲMukuge

 

 昨日の土曜日、台風12号が西の方で上陸して過ぎ去ったという天気予報を見ながら、国立劇場での9月文楽公演へ出向いた。

朝10時に国立住人の村ちゃんと劇場の入り口で待ち合わせる。

このところ村ちゃんにいつもチケットを取ってもらっている。

 朝の8時45分に家を出る。

文楽鑑賞のためにこんなに早く家を出ることは初めてかもしれない。

国立劇場は地下鉄の半蔵門駅が一番近い。

ふうてんの家から最寄りの矢川駅でJR南武線に乗り、武蔵溝ノ口で東急に乗り換える。

東急にはいろんな線があるが、半蔵門線というのがその名の通り半蔵門駅へ通じている。

 矢川-武蔵溝ノ口-半蔵門。

電車に乗っている時間は1時間ほどである。
魔界都市の大東京では1時間で行けるというのは、どちらかというと近場という感じがする。

 いつも三味線の野澤錦糸のホームページを見て住大夫さんの出番を確かめる。

今回は珍しく、竹本住大夫さんが初っぱなに出てくる。

どうもこれは不思議だなあと思っていた。

たいていは、ここぞという時に登場するのが住大夫のはず。

 錦糸の(配役表)には以下のようにあった。

第一部  (1030分開演)

寿式三番叟

    (謡い)  (三味線) (人形)

   住大夫    錦 糸  千歳  勘十郎

千歳  文字久大夫  宗 助  翁   簑 助

三番叟 相子大夫   清志郎  三番叟 幸 助

三番叟 芳穂大夫   寛太郎  三番叟 一 輔

    靖大夫    清 公 

    小住大夫  錦 吾 

 この(配役表)をマジメに見ていたら、初っぱなに驚くことはなかった、ハズ。しかしいつもは錦糸の(配役表)で、いつ住大夫と錦糸が出るのか、しか確かめない。今回も上の表の一行目の(住大夫と錦糸)しか目にはいっていなかった。

 村ちゃんと10時に国立劇場小劇場の入り口で落ち合って、ビールを飲んだりタバコをふかしたり、いつものセレモニーでなかなか忙しい。

アサヒ・スーパー・ドライの缶ビールを買って席に着くと、すみません、場内での飲食はご遠慮願いますと、サッと係員が近づいて教えてくれる。

(あっ、そうでしたね、タバコのみ場は?)

と分かっていることを聴くと、入り口を出て右へ行って大劇場の入り口過ぎて・・・

と教えてくれる。

 ハイハイと缶ビールを持ってタバコのみ場で一服して帰って舞台が始まった。

驚いたことに謡いも三味線も大人数であった。

住大夫と錦糸の二人しか想定していなかったこちらにとってはまさに(想定外)だった。

住大夫のソロもよく聴こえないし、住大夫-錦糸のデュエットも聴こえてこない。

少年合唱団のリーダーみたいな役を住大夫は演じていた。

少年伴奏団のリーダー役を野澤錦糸は演じていた。

これが(配役表)に書かれていた通りだったのに気づいたのは見たあとで、後の祭り。

 いつもの縁台では足りず、左右に長い舞台を作って謡いと三味線の面々を納めていた。何しろ謡い6人、三味線6人。これは何のためだったのだろう?最後まで分からなかった。

 結局、休み時間をはさみながら、10時半から2時半まで舞台に付き合った。勿論住大夫、錦糸の二人はオープニングの30分で姿を消した。演目は村ちゃんの解説によると歌舞伎からの先祖返りみたいなものだったらしい。文楽が先輩なので、文楽の演目を歌舞伎でもやるというのはよくある。逆に歌舞伎の演目を文楽でやるとき・・・難しいのかもしれない。

 どのシーンも長すぎた。

人形や三味線は頑張っていたけれど謡いはほとんど疲れ果てて・・・。

 終わって帰りながら村ちゃんと話し合った。

(今日のを観て改めて近松門左衛門の凄さを思ったよ)(そうですねぇ)

(近松のシナリオは一行でエッセンスを示し二行目にはもう場面が展開している)

(だから難しいそうですねぇ、演じるのが)

(その一行が、例え話的な、象徴化された歌で表されたりしてなおさら凝縮されている)

(曽根崎心中見たくなるなあ)

(そういえば5、6年前、愛媛の内子座で住大夫の(曽根崎心中のお初)聴いたなあ。)

(内子座ですか、僕は香川の金丸座は行きました、歌舞伎のね)

 村ちゃんは何しろ歌舞伎、文楽など日本の古典芸能、古典芸術に詳しい。

映画の大ファンでもあり、特に日本の古い映画を好む。

今でも東京ではいろんなところでマニアックな古い映画が上映されているらしい。

そういうことに何しろこの御仁は詳しい。

いつもそういう演目の案内のパンフレット類を一杯持っている。

 やはりベースボール・マガシン社でスポーツ・カメラマンをやっていたというのはダテではないのだろうか。

 よく分からない9月文楽公演を聴いたあと、四谷(よつや)で一杯飲んだ。

村ちゃんと話して楽しいのは、こういう日本の古典芸能に留まらないことである。

絵画展覧会などにもちょくちょく足を運んでいるらしい。

(僕は琳派が好きでしてね、日本の浮世絵、北斎や写楽も凄いですよね)などという。西洋の油絵よりも日本の古来からの絵画を好むという。(でも村ちゃん、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵も凄いよね)などとこちらは切り返す。

 二人とも海外旅行には縁のない衆生である。しかしもしヨーロッパに行くことがあれば・・・村ちゃんは美術館に通うでしょうね、といった。本当にすぐれた芸術品はこちらを黙らせるし、動けなくしてしまうよね。そういうところは分かり合っているような気がした。

 村ちゃんと次に住大夫さんを聴くのは9月22日の日経ホールでの素浄瑠璃である。素浄瑠璃というのは謡いと三味のデュエットで人形なし。

少年合唱隊のリーダーじゃない住大夫さんを聴きたいと思う。

(今回は住大夫さんのソロがよく聴こえなかったので素浄瑠璃の楽しみが増えましたね)

で意見が一致して再会を約して別れた。

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