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2011年3月に作成された記事

2011/03/28

2011・3・27 なごり雪篇

なごり雪Nagoriyuki

 どうにも言い様のない日々が続く。

きのうの土曜日は大相撲春場所篇の飲み会の予定だった。

春場所がなくなってどうするのだろう?

幹事役のラガーマンがちゃんと谷保駅近くの店をセットアップしてくれた。

ただし、大相撲春場所はなくなったので、東北関東大震災篇になってしまった。

 このお店では(計画停電)に備えて節電をしていた。

停電になってもローソクでやります、という。

夕刻6時20分から停電が予定されていたのだけれど、中止になった。

(何だったら電気消してローソクでやりましょうか?)

と亭主がいう。

(江戸時代みたいで、それを楽しみにしていたけれど、やっぱり電気がついた方が・・・)

 どうしても話題は震災と原発事故になってしまった。

これだけの災難から立ち直るのは容易ではないと思う。

日本はもともと山ばかりの国である。

紀元前5000年ころ、関東平野は海だったと聴く。

ちょうどアラビア方面で(ノアの方舟)伝説ができたころ。

向こうでは100年も200年も雨が降り続いて、逆に日本では海が干上がって関東平野ができた、というような話を聴いたような気がする。

聴き間違いかもしれない。

ただそういう天変地異があったということは確からしい。

 今回以上の規模の津波が東京に押し寄せていたらどうなっていただろうか。

東京23区はかなりヤバイのではないだろうか。

そんなことも考えてしまう。

 原子力発電で首都圏も電力の3割をまかなっていると聴いた。

どうして福島県なのだろう?という声が聴こえて来る。

安全なのなら東京湾に作ればいいじゃないか、という説である。

安全どころではなく、40年前の設計の発電所は放射能を流し始めた。

東京都民も逃げる場所を考えないといけない事態になるかもしれない。

 現実感のない生活が続く。

米やパンや納豆は少しずつ姿を見せ始めた。

しかしミネラルウォーターはまだめったに見ない。

 震災の前の3月初めころ国立ではなごり雪のようなのが降った。

たまたまビデオに納めていたのだけれど、震災後、伊勢正三の(なごり雪)をユーチューブでよく見聞きしている。

ビリー・バンバンの(また君に恋してる)という、いいちこのコマーシャルの曲もなかなかいい。

1970年前後、日本ではこういう歌が作られ流行っていた。

なんて優しい歌なのだろうと思う。

この時代、中国の文化大革命の影響もあって日本の学園は闘争の最中にあった。

 当時、ふうてんはジャズとフラメンコに入れ狂っていて日本の歌は全く聴いていなかった。

甘ったるい日本のフォークソングなんて(よしてくれよ)という硬派だった。

それから40年ほどたって、悪くないなあと思うようになった。

今回のような未曽有の大災害のとき、何故かこれらの曲が心にしみる。

曲といい歌といい、世の中が大変動するとき、すぐれたものが生れるらしい。

白川静さんは中国の詩経と日本の万葉集についてそういう説を唱えている。

 伊勢正三の(なごり雪)と(22歳の別れ)は名曲だと思う。

ユーチューブで見ると彼はかなりのギターの名手だったのではないだろうか。

あの曲調はギターから出来たのだなあと思う。

 歌は歌えないので、せめて国立のなごり雪のあり様を報告しておきたい。

(ふうてんアーカイブス)

2011 3月 なごり雪

屋根Yane  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ネコNeko  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハトHato  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hana  

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2011/03/20

2011・3・20 計画停電につき篇

停電Teiden

 大地震、大津波から10日になる。

ずっと非日常的な生活が続き、現実感が全くない。

言葉は失ったままで、地震や津波のことをアレコレ言う気にはなれない。

東京一円は東北に隣接している。

従って大きな影響を受けるのは当たり前である。

地震後の国立での生活の一端を報告しておきたい。

 一つは交通手段である。

かなり復旧しては来たけれどJRも私鉄も地下鉄も不安定で安心できない。

予定していた仕事のミーティングとか四季の会などの飲み会を中止する。

予約しておいたお店をキャンセルする。

地震から3、4日後にやっと少し携帯電話が復活したのでそういう連絡をした。

 一つは食料品の不足である。

米、パン、ミネラルウォーター、惣菜類が一斉にスーバーから消えた。

毎日に欠かせない食品、あるいはすぐに食べられる食品が真っ先になくなった。

1970年代のオイルショックの時のパニック状況と似ていなくもない。

買い占めに走っている、日本人はなんて自分勝手な民族なんだ、という報道もあった。

近くのスーパー、ピーコックで念の為に聴いてみた。

(売り切れですか、みなさん沢山買うのねぇ)

(それもありますけど、それよりも入荷しないんですよ)

(そうですか、買い占めというよりも物がはいって来ない?)

(はいっても少しなんです、だから朝からお店の前に並ぶお客さんもいます)

日本人は、必ずしも自分勝手な人間ばかりではなさそうであった。

食べるものがないときに、それを求めようとするのは自分勝手とは言えますまい。

少しホッとする。

 一つは計画停電である。

東京一円では震災の4日後くらいから各地で様々な停電が始まった。

計画停電ともいい輪番停電ともいうらしい。

これの意味がふうてんにはよく飲み込めなかった。

(計画的に)停電する。

(輪番的に)停電する。

いつ停電になるのか予測するのが難しく、市役所も適切な案内を出来ないでいる。

東京電力の配電の地域を5つに分けた。

それを第1から第5グループと呼び、グループ毎の停電時間が予告される。

 ふうてんの住んでいる国立市ではややこしいことに地域により第1から第4グループに分かれている。

どの地域が何時に停電になるのかはまことに分かりにくい。

例えばふうてんの住む国立市西の地域は第3グループで以下のように(計画停電)が実施された。

3月16日 18:20~22:00

3月17日 15:20~19:00

3月18日 12:20~16:00

つまり日によって停電の時間帯が変わるのである。

19日(土)、20日(日)は予定はあったけれど実施されなかった。

どの時間に停電になるのか、実施されるのかされないのか。

日替わりメニューで、それに合せて生活するしかない。

 昼間の停電はそんなに苦にはならない。

しかし夜となるといかに我々が電気に頼っているか痛感させられる。

照明、風呂、コーヒー・メーカー、テレビ、パソコン、何もかもである。

パソコンはノート・パソコンでは少しはバッテリーが持つはず。

と思っていたら、光アダプタも無線ルーターもバッテリなんてありゃぁしない。

あえなく停電のときはインターネットに繋がらなくなった。

インターネットに繋がらないパソコンは用途が極めて限られる。

 というようなことで、震災の影響は東京地区でもいろんな形で現われている。

地震や津波や原発のことを振り返るのは少し落ち着いてからにしたいと思う。

今は言葉を失っていて、(計画停電)のことくらいしか書けない。

(ふうてんアーカイブス)

2011 3月 東北関東大震災 国立でも計画停電が

イノダコーヒーの燭台Inoda  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小さなローソクRosoku  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

サントリー・オールドの炎Old_1  

Old_3_2

 Old_5

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

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2011/03/13

2011・3・13 レクイエム篇

谷保天神の梅園Baien

 言葉を失う、とはこのことだろうか。

自室で今回の地震の恐怖を体感した。

それから部屋にいるときはずっと地震被害の報道を見ている。

 今日は夕刻まだ明るいうちにチャリで一回りした。

晴れて風がなく暖かくて穏やかだった。

(変わらぬことが愛でたいことだ)

という高橋義孝の言葉を思い出していた。

人間の幸せって結局それに尽きるのではないだろうか。

 せめてもの手向けに2月はじめ頃の谷保天神の梅の花を捧げたい。

(ふうてんアーカイブス)

2011 春 谷保天神の梅

その1  Yaho_1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Yaho_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

紅梅Aka 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白梅Shiro 

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2011/03/07

2011・3・6 また(梅安乱れ雲)を読んでいる篇

湯河原Yugawara_kanban

 3月になって春らしくなった。

気温はまだ低く、今日など東京では0℃~8℃くらいであった。

しかし、光の具合が違う。

今日のように快晴で風がない一日は(何て幸せな)と思う。

 繁寿司では我々だけの静かな会話から始まった。

繁さんが去年末に亡くなった(フ~センさん)こと頑亭さんの奥さまの話をする。

亡くなる前の日に、出前の器を引き取りに訪ねた。

そのとき、フ~センさんが、

(昨日のお寿司おいしかったわよ~)

と云ったという。

繁さんは、この言葉は忘れられないという。

 繁さんは、人間は最後の最後に本質が現われますねぇ、とも云った。

(フ~センさんは1個か2個しか食べられなかったはずです)

それでも繁さんに対して、

(届けてくれたお寿司おいしかったわよ~)

といった。

亡くなる前の日に。

 フ~センさんと呼ばれたのは体つきが(ふうせん)のようにまろやかだったからだった。

まぎらわしいけれど、ふうてんも以前の繁寿司の店で何度かお会いした。

繁さんが、

(本当にいい人でした)

(今年の正月明けに山口夫人から初めて亡くなったと聴いたんです)

という。

 フ~センさんは90歳を過ぎていたという。

(繁さん、亡くなる前にそういうセリフを吐けるというのは旦那の頑亭さんも並みじゃないね)

(そうなんですよ、フ~センさんが亡くなってガックリくるのが心配なんです)

90歳すぎまであのようにニコヤカな表情で生きて行ける。

それはやはり夫婦二人でだからやれたのではないだろうか。

一人ではそういう具合にはいかないだろうと思う。

 やがて山ちゃん夫妻が現われ、村ちゃんも来た。

ベースボールマガジン誌のカメラマンをやっていた村ちゃんは定年2年目だという。

日経新聞に勤めていた山ちゃんは定年5年目だという。

お互い賑やかなややこしい時代は過ぎたかもねぇ。

村ちゃんは二月文楽公演で住大夫を聴いてきたという。

(やっぱり住大夫はすごい)

と云う。

じゃあ次の5月あるいは9月には一緒に行こうよ。

で話は決まった。

 おとつい当たりから池波正太郎の(梅安乱れ雲)を読み直している。

昔の版は紙が茶色になって読みにくいので数年前の新しい版で読んでいる。

新しい版は字が大きくて紙が真新しくていいのだけれど、文字を大きくした分、文字の間隔が極めて小さくなった。

縦書きの上下の文字の間隔がほとんどなくなった。

紙で出来ている書物での出版はここらあたりが難しい。

 しかし、読み進むにつれ、この小説はよく出来ているなあと感心する。

藤枝梅安と白子屋菊右衛門の一対一の対決を真っ正面から取り上げている。

同じ(闇の世界)に生きるもの同士のガチンコ勝負である。

梅安は(仕掛け人)ということでいろんな(悪 わる)を仕掛けてきた。

しかし今度はその仕掛けの(胴元)を殺すか、殺されるかの大勝負なのである。

 この一篇を何度か読み直してあらためて思った。

これは(映画)である。

登場人物たちの姿形、その行動のしかた、などなどが、まざまざと目の前に見えて来る。

映画館に足を運ぶ必要もなく、DVDを自宅で42インチの液晶テレビで見る必要もない。

イタリア人の発明だと言われる(文庫本)で、ただ読めばよい。

池波正太郎は、ヘミングウェイのように、文章だけで、

Audible(聴こえるように)

Visible(見えるように)

Tangible(触れるように)

をやってのけた。

 日本の中でこういう小説を書いた作家をふうてんは知らない。

(ふうてんアーカイブス)

2011 2月 湯河原  梅園と先輩の別邸

湯河原の梅園その1Photo 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その21  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その32  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その44  

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その55_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

先輩の別邸Betei  

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