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2011年1月に作成された記事

2011/01/31

2011・1・30 大寒のころ篇

大学の森・落ち葉Taikan

 今月の20日ころが大寒だと聴いた。

同時に2月5日が立春だとも。

たった2週間で冬から春になるのだなあと感心した。

 2月となると文楽の二月公演である。

今年もeプラスとかいうチケットのサイトでプレミアの申し込みをして、外れた。

去年と全く同じパターンで、一般発売となってから電話で申し込む。

何10回も掛けるのだけれど、携帯電話で要領が分かっていると楽なものだった。

どっかのボタンを押して、繋がらない。

またどっかのボタンを押す。

その同じ動作の繰り返しを10分か20分かやる。

 出てきた女の人が、2月5日だと・・・11列36番が空いています。

と、嬉しいことを言ってくれた。

(いいですねえ、一番右の方、三味線と謡いに近いところ)

(はい、でも一番右の、壁際ですよ~)

(いいんです、一番右で。一応その席も小劇場の中にあるんでしょう?)

(ご冗談を・・・)

 ここまでは良かった。

住大夫と錦糸は一番右に陣取って演じる。

やれ嬉しやと安堵した。

安堵し過ぎた。

1月17日までにチケットを買わないとキャンセル扱いになる。

その日にちを1日間違えて、1月18日の午前10時に国立劇場のチケット売り場を訪ねた。

 おそるおそる、あの~、斯く斯くしかじかという次第で、と申し出た。

案の定、もうその予約は無効になっている。

窓口の女の人がパソコンですぐに調べてくれる。

小劇場の、500ほどの席が全部黒くなっている。

満席である。

ただ一つ、一番右に、ポチッと赤い点が見えた。

(11列36番)

の席であった。

(この赤いのは?)

(キャンセルされた席です)

(ああ、昨日までに買わないといけなかった僕の席ですねえ)

(今朝、早くきていただいて良かったですねぇ)

(一日遅れたけど、朝の10時からなので、10時に来れば何とか間に合うかも、と)

(その通り。住大夫さんは大人気でしてねえ。ご覧のように満杯です。本当にすごい。)

(いや~っ、ラッキーでした、どうもありがとう)

 それで国立劇場のチケット売り場を心地よい気分で後にして、東京駅へ向かった。

1月18日は京都へ行く日だった。

その顛末は先週の(最後のホテル・フジタ)で報告した。

 2月5日というと今週の土曜日である。

二月文楽公演の初日。

住大夫さんの追っかけだけど、ふうてんはいつも初日を申し込む。

本当のプロなので初日は調子がいま一つ、ということはあり得ない。

むしろお疲れになっていない、新鮮な気分のうちに聴かせてもらいたい。

 それでも面白いのは、毎回、語りが始まって5分ほどは声がかすれて勢いが出ない。

オヤッ?調子が悪いのかなあ?と思う。

しかしその時を過ぎると、いやなに、大丈夫。

しっかりと腹の底からの朗々とした声が場内一杯に響きわたる。

マイクもスピーカーもございません。

そのまんま、住大夫の声と錦糸の三味線。

それっきり。

 その至福のときを今年も11列36番の席で迎えられるのだろうか。

2011年2月5日。立春の日。

寝過ごしたり、電車に乗り間違えたりしないように・・・。

(ふうてんアーカイブス)

2011 大寒のころ 二月文楽公演 大学の森

小劇場11列36番 

Sumidayu_1

Sumidayu_2 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学の森の落ち葉Mori  

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2011/01/23

2011・1・23 久しぶりの京都篇

最後のホテル・フジタFujita

 所用で京都へ行ってきた。

もう5、6年ぶりになるだろうか。

京都駅から地下鉄に乗り(京都市役所前)で降りる。

出るとすぐに木屋町御池の通り。

ホテル・フジタはそこから歩いて3、4分のところにある。

 木屋町通りを歩きながら、やはり京都は落ち着くなあと思った。

友人の五条通り葛野(かどの)にある研究室を訪ね、夕刻、引き返して木屋町の三条小橋上がるの(めなみ)へ行く。

友人が、

(久しぶり、いう感じせぇへんなぁ)

と言った。

 いつも会う人。

 いつも行く店。

 いつも泊まるホテル。

全く同じパターンを20年近く繰り返して来た。

(変わらぬことが愛でたいことだ)

という高橋義孝せんせ~ぇの言葉通りに。

 ただ、残念ながらホテル・フジタがこの1月で店じまいとなる。

(いつも泊まるホテル)を失うことになった。

この20年ほどで30回以上も泊めてもらったろうか。

いいホテルだった。

鴨川に面していて、小振りで、静かで、スタッフがよかった。

鴨川側はツィンが多く、安くないのでいつも西側の墓場に面したシングルに泊まった。

ある時、上のエアコンだかのモーターの音が大きすぎるので丁重に文句をつけた。

(申し訳ありません、今工事をやっておりまして。よろしかったらお部屋をお換えします。)

といって鴨川沿いのツィンの部屋へ案内されたことがある。

料金はそのままです、と言われて移った部屋からは鴨川も比叡山も大文字山も東山も見えた。

 鴨川沿いの部屋はやはり良かったので、チェックアウトのときに聴いた。

(8月16日は予約で一杯なんでしょうねえ、大文字の見える部屋は)

(ハイ、一年前には一杯になります)

・・・・

 そのホテル・フジタが閉店する。

1970年開業、40年の歴史だった。

ふうてんが京都から江戸へ流れた翌年から店開きしたホテルだった。

 ホテルの閉店を知らせてくれた友人と、研究室での問答のあと(めなみ)へ向かった。

この店は同じところにあった。

しかし店は全面的に模様替えをし、スタッフも全部変わっていた。

あらかじめ電話をしておいたので掘ごたつのような席に案内される。

こういう席は以前なかった。

 注文にきたお姉さんは見覚えのお人だった。

(ずいぶん変わりましたねえ、でも悪くはないですよ)

(おおきに)

(ところで料理人も変わったねぇ、いつものおニ~チャンおらへんなあ)

(弟ですかぁ、自分で好きなようにやりたいいぅて、別のところでやっております)

(ええ~ぇ?弟?あなた、お姉さん?)

(そうなんです)

(それで分かったわ、長いこと勤めてはるなあ、思ってました。弟くん良かったのにねえ、イケメンで)

(今の料理長も若いけどイケメンどっしゃろ?)

(ウン、やさしいイケメンやね、弟くんはツッパリ・イケメンやったけど)

(そんな感じですわ、よう分かります)

・・・・

(なるべく来るようにします、少なくとも年内にはまた来ます)

(年内どすかぁ?)

(あっ、ごめん、ごめん、毎月とは言われへんけど、またそのうち、近いうちに・・・)

 友人と別れたあと祇園方面へ向かった。

(いつも会う人)と(いつも行く店)へ行き、タップリと京都弁を聴いてホテルへ帰った。

京都へ来て京都弁を堪能しない手はない。

 翌朝は硬めのベッドのせいか早く目が覚めた。

店じまいするホテルと名残を惜しんでいてもしようがない。

三条通りのイノダ・コーヒー本店へ向かう。

ビールとコーヒーを同時に持ってきてもらう。

(アラビアの真珠)といういつも飲むブレンド・コーヒーの豆を200g買った。

この店で飲むブレンドはおいしい。

池波正太郎さんも何度も書いている。

ただミルク(クリーム)を使うので、家でストレートで飲むとどういう味がするのだろうか。

 京都駅に着いたのは11時ころだった。

夕べかなり飲んで、朝ビールを飲んだ。

やはり日本酒の熱燗が飲みたくなる。

それで、友人からは店が無くなったと聴いていたウドン屋さんを探した。

京都駅の近鉄線の一階の(名店街)は友人の言うとおり模様替えされていた。

商売をやっている店には(商権)というのがあるので、簡単にやめたとは思われなかった。

案内を見ると、以前と同じような位置に(もり平)という(そば・うどん)の店がある。

ひょっとして、とそこへ向かった。

 店は多少位置も変わりすっかり模様替えをしてモダンになっていた。

うどん屋さんがモダンになってロクなことはない。

はいっても、同じ店なのかよく分からない。

しかしやがて、見慣れたお姉さんが給仕をしているのが目にはいった。

間違いない。

(熱燗と肉うどんをお願い)

と注文する。

 七味唐辛子ではなく山椒を振りかけるのも一味違うものにしてくれる。

ネギはきざんでなくて、具としての形を残している。

熱燗が冷めない程度のスピードで肉うどんを平らげる。

熱燗と熱い汁と豊かな味と香りで心身が温まってくる。

これを、

(どんぶり一杯の幸せ)

という。

懐石料理、フランス料理のフルコースにはない(幸せ)である。

ふうてんはどちらかというと、こちらの方を好む。

 勘定をして店を出るとき、いつもは料理人のおっちゃんと目が合って、

(まいどっ、おおきに)

と声を掛けてくれていた。

そのやさしげなおっちゃんの姿と声は・・・もうなかった。

(ふうてんアーカイブス)

2011 冬 最後のホテル・フジタ

ホテル・フジタHoterufujita_1  

Hoterufujita_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

叡山Eizan  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大文字山Daimonji  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

とんび 

Tonbi_2_3Tonbi_1  

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

春は曙Akebono_1  

Akebono_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イノダ・コーヒーInoda_1  

Inoda_2  

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2011/01/17

2011・1・16 コナラとの格闘記篇

ちょっと哀れなようなPhoto  

 このところの寒さはちょっとしたものである。

今日など、東京以外はどこも雪であったとニュースで報じている。

日本海側に住まわれている人々は大変だと思う。

一日に1メートルも雪が積もる、という体験をしたことがない。

 地球温暖化が叫ばれて久しい。

その話はどうなったのだろうか。

と、極端な寒さが続くと考えなくもない。

しかし去年の夏は本当に猛暑だったし、冬の寒さも年末くらいからではある。

トータルすると(暖冬)と言えるのかもしれない。

少なくとも東京ではそうであった。

 年末年始、コナラの残りの枝と格闘した。

12月12日の日記で1本目の枝を切ったことを報告している。

残りにまだ大物が2本、小物が2本あった。

それを正月明けまでに何とかしないといけなかった。

 前回の枝はハシゴの届くギリギリのところにあった。

あとはハシゴが届くより上にあり、木を登って木にへばりついて切らねばならなかった。

ノコギリ、なんてものはもう何十年も使っていない。

使う機会がなかった。

 大きな枝がお隣さんの屋根の上まで伸びている。

大きな枝がお隣さんの電線を邪魔しようとしている。

これらを切り落としたとして、枝が屋根の(樋 とい)に引っかかって引きずり落としたらどうしよう。

枝が電線に引っかかって電線を引きちぎったらどうしよう。

 ハシゴを掛け、ハシゴの上は木によじ登ってノコギリを使う。

木登りというのは子供のころしか記憶にない。

もの心のつく年齢のとき、近くの神社で年上の子に登り方を教えてもらったことを覚えている。

それ以来登ったいろんな木の感触がよみがえった。

ミカンの木、ヤマモモの木・・・どうやら登る目的がハッキリしている木もあった。

あと理由は思い出せないけれど、木肌のいろんなのに登ったように思う。

ツルツルのもありガサガサのもあった。

 大きな枝を切り落とす。

あと始末も大変である。

そのまま放っておくスペースもないし小枝がたくさんついている。

その処理は庭師の役割である。

ノコギリで同じ長さに切り揃え、まとめて資源ゴミとして出す。

さすが庭師だけに普段からこの種の作業には慣れている。

手際よくアッという間に片づけた。

ただ、木に登って、木にへばりついて大物をノコギリで切り落とす・・・この作業だけは女の庭師には酷なようであった。

 方丈の庭には大物3本の(枝の幹?)が残った。

資源ゴミとして回収車に出すわけにはいかない。

これはどうすればいいのだろうか。

お隣さんは屋根に太陽光発電のパネルを取り付けるという。

その工事が始まるというのがコナラの枝を切るきっかけだった。

 同じ太陽のエネルギーが光合成の結果として3本の(枝の幹?)として方丈の庭にころがっている。

お隣さんは太陽光発電で電気エネルギーに変えようとしている。

光合成による緑を楽しむのか、電気に換えてお湯を沸かして温まるのか。

いずれにしても太陽はありがたい。

関東では、広葉樹が葉っぱを落としてしまったこの冬に太陽の光は連日目的もなく地上に降り注ぎ続けている。

太陽光発電パネル、正解かもしれんなあ・・・。 

(ふうてんアーカイブス)

2011 真冬 コナラの枝を切った

その1 

Eda_1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Eda_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Eda_3

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2011/01/09

2011・1・9 65歳になった篇

玄関のお飾り(めでたやのお年玉袋)Otoshidama  

 2011年の正月は本当に何もなく、去年の暮れも何もなく、今年が始まった。

大晦日の日、元旦を谷保天神で確かめたらどうですかと書簡集マスターに勧められていた。

紅白歌合戦が終わって、ゆく年くる年が始まる。

寒くてとても出かける気分にはなれない。

念のため気温を確かめようと外に出ると、ゴォ~ンと二カ所から寺の鐘の音が聴こえてきた。

 年末年始、昔はテレビでの映画が楽しみだった。

テレビ番組の雑誌などを買っていろいろとほくそ笑んでいたものだった。

録画するためにテープを買い込んだりしていた。

 このところ正月のそういう楽しみはなくなった。

テレビでさえも正月気分がなくなると、どこに正月気分が残っているのだろうか。

正月に備えた餅つきというのは、もちろん、ない。

家や庭の大掃除といったって方丈の庭にそんなに手間はかからない。

お供えといっても昔のように家屋敷の角角にローソク立てて、なんてことはない。

正月の元旦には座敷でお膳で黒豆と屠蘇で亭主がおごそかに年頭の挨拶をする、なんてこともない。

 そういう風習を我々の世代は受け継ごうとしなかったように思う。

 今、せめてもと継続しているのは(年越しそば)と(お節料理)くらいだろうか。

年越しそばは我が家でも大晦日に欠かせない。

その作り方も決まっている。

子供のころ、よく行っていた伊予の桜井のおふくろの実家で、その年越しそばを食べたのである。

ポイントは温かい薄口醤油のダシに具が牛肉の霜降りの薄切りというやつ。

子供心に、こんなにおいしいものがあるのかと思った。

 25歳で結婚した後、ず~っとこのパターンで料理人に作ってもらっている。

お節料理として欠かせないのはカズノコの醤油漬と五目煮と海老の焼いたのだろうか。

若いころはゴマメとかクリキントンとかロースト・ビーフなども楽しんだ。

ゴマメはガリガリと硬すぎるし、クリキントンとかロースト・ビーフは手間と時間がかかり過ぎる。

 今年、元旦の午後、料理人がいつものようにお節料理をお盆に盛って部屋に運んできた。

やはり熱燗だよなと飛良泉(ひらいずみ)をお燗して食べ始めた。

ふうてんはいろんな味のするいろんな料理を同時期に食する、ということを好まない。

だから懐石料理のように、アレコレ続いて出てくるのは苦手である。

鮎の塩焼きなら、それだけでいいじゃないか、それだけを腹一杯喰えばいいじゃないか、という方なのである。

 今年、飛良泉を飲みながら、料理人の作ったカズノコを齧ったり、五目煮のギンナンを齧ったり、玉子焼きのエビや椎茸の味を確かめたりしているうちに、ウンこういうのも悪くないかもしれない、と思った。

 飛良泉は純米酒だから熱燗をしては旨くない、という説もある。

しかし食事をするときに飲むには熱燗がいい、ということを今回納得した。

酒自体は柔らかくなって料理の味の邪魔をしないような気がした。

そうしてかつ料理の醤油味や塩味を適度に緩和してくれる。

 酒と料理の相性、というようなことに、これまでは興味を持たなかった。

この料理にはこのワイン、なんてのは大嫌いだった。

ただビールには油もの(ポテトフライとかカキフライとか)が合うということくらいだった。

池波正太郎だってビールにはポテトフライが一番良いと言っている。

 今年、一つの発見として次のように言うことができる。

(ふうてんちのお節料理には飛良泉の熱燗がよろしい)

 1月5日に65歳になって、第4楽章を迎えた。

人生の最終章を面白おかしく生きていきたいと思う。

どうすればよろしいのか・・・誰かが決めてくれるはずもない。

自分で決めるしかない。

(ふうてんアーカイブス)

2011 正月模様(全てカメラマン助手撮影)

お節料理

カズノコ、エビなどOsechi_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

五目煮、ハマチの薄作りOsechi_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷保天神

願い事 

Tenjin_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

開運祈願Tenjin_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

梅園Tenjin_3  

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2011/01/02

2011・1・2 花アルトキハ花ニ酔ヒ篇

2011年のお飾りOkazari_2

 何ごともなくおだやかに新しい年が始まった。

今週の1月5日には65歳になる。

60歳で還暦を迎え、もう5年も過ごしたことになる。

何か変化があっただろうか?

 去年はいろんな親しく感じていた人々がなくなった。

ほとんどがテレビを通じての(知り合い)だった。

(昭和がどんどん遠くなる・・・)

と先週書いた。

昭和はテレビの時代だったのかもしれない。

 中で(榊莫山)という書家がいた。

京都とか三重方面で生まれ育ったお人だときく。

確かにテレビで拝見すると完璧な関西弁だった。

二十歳代に書道で一等賞をもらったのにすぐに野に下った。

(組織ちゅうのは窮屈でかなわん)

と言って死ぬまで一人で自然の中に住んで活動した。

 花アルトキハ花ニ酔ヒ

 風アルトキハ風ニ酔ヒ

 酒アルトキハ酒ニ酔フ

 という句とも詩ともいえない言葉を残している。

中国の漢詩の世界にあるような世界のような気がする。

李白あたりの詩に似ているような・・・。

 バクザン先生の真似をするわけにはいかないけれど、こういう精神でやっていきたいなあと思う。

夏目漱石は(道楽と職業)という講演の中で(道楽)と(職業)を峻別して語っている。

(道楽)は自分一人だけのためにすることである。

(職業)は他人さまのためにすることである。

だから(道楽)では報酬は期待できないからパトロンが必要である。

そして(職業)では報酬を得るためのあらゆる工夫が必要である。

 漱石は(道楽)の代表例として芸術家と科学者をあげている。

また(職業)として柳橋の芸者さんを例にとっている。

柳橋の芸者さんが大した金をとっても不思議じゃない。

それだけのことを(他人さま)のためにしているのだから。

というロジック。

漱石はおそらく自分は(芸術家)だと思っていたに違いない。

だから朝日新聞社をパトロンに選んだ。

その(業務委託契約)の文面は全部漱石自身が書いたと言われている。

極めてロジカルで時代を感じさせない内容になっている。

 そういう漱石の見方でいうと(榊莫山)は(道楽人)だったのだろうか?はたまた(職業人)だったのだろうか?

自分だけのためにやったことが人さまの為になる。

そういうことがあることを・・・漱石せんせ~ぇ・・・ご存じのはずでしたよね。

及ばずながらこのふうてんなども、これからの人生を、

(遊びのような)

(仕事のような)

という雰囲気でやっていきたいと思っている。

 

追記

 

 ほかもさんからご質問のあったお手玉は以下の会社の(めでたや)ブランドの(花玉)という布で作ったお飾りでした。

株式会社)大直

めでたや

2010 大晦日 富士の残照

残照その1Fuji_1_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

その2Fuji_2_2  

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