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2010年12月に作成された記事

2010/12/27

2010・12・26 今年も終わったなあ篇

大学通りのイルミネーションDaigaku

 2010年を振り返る時となった。

今年もいろいろあったなあ、ということになる。

谷啓とか藤田まことが亡くなった。

小林桂樹、若乃花、大沢親分。

石井好子、池内淳子、つかこうへい、井上ひさし・・・。

昭和がだんだん遠くなる。

・・・ああ。

 民主党政権になってここまでヨレるとは思わなかった。

インターネットでの情報流出が進みこれまでの枠組みが怪しくなってきた。

世界中に(政府の機密情報)が一瞬で伝達される。

 のど元過ぎれば、というやつで猛暑のことは忘れかけている。

しかし今年の猛暑はこれまでに経験したことのないものだった。

外を歩いて帰って涼しい部屋にはいった途端、フラッとめまいがしたことがあった。

猛暑のせいで今年の印象はボンヤリとしたものになった、というと言い訳になるだろうか。

 個人的には二つのことが印象に残った。

一つは(形あるものは滅びる)ということ。

一つは(本屋通いはやめられない)ということ。

 今年我が家の家電類はほとんど壊れた。

エアコン、テレビ、ビデオカメラ、ビデオデッキ、パソコン、洗濯機、炊飯器。

それぞれ5年以上、中には10年以上も使ったものばかり。

だから壊れるのも無理がないのかもしれない。

 しかしここまで続くとやはり(形あるものは滅びる)あるいは(機械は必ず壊れる)ということを改めて思い知らされた。

機械というのは使っているうちに馴染みのあるものになる。

使い方に慣れてやっと仲間のような存在になる。

だから壊れたとき、別のものに買い換えればいいさ、とは簡単にはいかない。

 ただし機械が壊れることは悪いことばかりではない。

新しい製品を調べることになる。

ビデオカメラとかパソコンとかはビックリするくらい変わっている。

使い勝手はどうなのか分からないけれどカタログ・スペックだけは何もかも何倍と良くなっている。

まだこの領域は飽和していないのだろうか。

 もう一つの本屋通いは今年かなり充実していたかもしれない。

神田の神保町である。

古本街で有名だけれど、ふうてんが通ったのは新刊本の三省堂書店だった。

1階から6階まで。

本のワンダーランドである。

アマゾン・ドットコムとの本質的な違いは、知らなかった本に出会えること。

そして中味を確かめることが出来ること。

 この三省堂書店の2階にタバコの吸える喫茶室がある。

ここでコーヒーを飲みながら小さなノートにメモを書きつける。

人は文字を書くことで考えるのだろうかと思う。

文字を獲得できなかった民族は滅びるか、滅びなくても活躍できないでいる。

してみれば、たまにノートに文字を書きつけるのも、死ぬるまでは続けた方がいいのかもしれない。

 

 この喫茶室の名前を最近知った。

(Cafe Comfort)

という。

(癒しの喫茶室)

とでもなるのだろうか。

確かにこの1年、ここに通うことで癒され、慰められ、元気づけられてきたように思う。

 来年はどういう年になるのだろう。

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2010/12/19

2010・12・19 ヒッチコックの(鳥)を観た篇

アストン・マーティンDB2 / 4ドロップヘッドクーペ

(シーザー・トレーディングのHPより)

(鳥でティッピィ・ヘドレンが乗っていたのはシルバーだった)Db22027_5  

 

 この2週間、BS2でヒッチコック特集をやっていた。

ヒッチコックというのは生前も、亡くなってからもまことに話題の多い映画監督である。

一人のファンとして少し書いてみたい。

 映画は(総合芸術)といわれる。

だから(芸術)のあらゆる要素が含まれているのかもしれない。

物語があり映像があり音楽がある。

 いろんな要素の中で、ふうてんは映画で一番興味があるのは(映像)と(時間)なのかもしれない。

映画は何といっても(見る)ものである。

それも静止していなくて(動く)ものである。

つまり、ふうてんとっての(映画)とはいかに一枚一枚の(静止画)を動かすか、が重要であるらしい。

 Db22019_9   

 一枚ごとの(静止画)がつまらないとダメである。

それの(動かし方)がつまらないとやはりダメである。

もちろん、それ以前にストーリーというものの必然性がないといけない。

映画には多様なことが要求される。

 ヒッチコックの作品の中で、ふうてんは(鳥)と(北北西に進路を取れ)が一番好きである。

(白い恐怖)も凄いし(レベッカ)も素晴らしいし(ロープ)もおもしろかった。

今日は(鳥)について書いてみたい。

 映画はサンフランシスコ近くの小さな港町で始まる。

ティッピー・ヘドレンがアストン・マーチンのオープンに乗って小鳥屋を訪ねる。

この冒頭のシーンが素晴らしい。

ここはアメリカだから左ハンドルだったけれど、アストン・マーチンの形とエンジンの音。

このアストン・マーチンのような車が登場するだけでもふうてんなどは嬉しくなる。

(ラブ・バード)のつがいを買った彼女がいたずら心から湾の向こうの家へこれを届ける。

帰りのボートで何故かカモメが彼女の頭をヒットする。

おやっ?どうしたのだろう?

カモメが人を襲うようなことがあるのだろうか。

これが伏線となる。

 それから数々の、鳥に襲われる惨劇が繰り広げられる。

鳥をどのように調教したのだろうか。

実写と合成画面はどのように組み合わせられているのだろうか。

ヒッチコックはあらゆる技術、映画の映像技術を駆使している。

 中でこの映画のハイライトはガソリンスタンドでの爆発シーンだったと思う。

映画の中盤当たりで人々がガソリンスタンドのレストランでわちゃわちゃとやっている。

ドーンとトラックかなんかがガソリンの給油台にぶつかってガソリンが流れ始める。

一人の給油の客がタバコに火をつけようとマッチを磨る。

それを観たレストランの客たちが窓を明けて口々に叫ぶ。

(気をつけろ~、マッチの火を消せ!!)

驚いたその客はつい、火のついたマッチをコンクリートの床に投げ捨てる。

それで・・・ガソリンの流れに火が着いてしまう。

 導火線のようになった流れを火が渡っていき、スタンドのガソリン・タンクに次々と引火し、ガソリンスタンドは火の海となる。

数秒後、画面は俯瞰撮影となる。

ふ~っ、ふ~っという呼吸をするような不気味な風の音ばかりである。

カモメが数羽飛んでいるのを後からクローズアップで写している。

その視線の先に、遠くの方に火柱のようなものが見える。

その火柱は燃え盛るガソリン・スタンドの遠景なのである。

カメラの焦点は近くのカモメと遠くの火柱と、両方に合っている。

カモメの数が増え、呼吸をするようだった音の中にカモメの野生の鳴き声が混じってくる。

これをヒッチコックは1カットで見せる。

このカットだけはこのシーンの中では長く10秒ほど続く。

 このガソリン・スタンドのシーンをふうてんは昔研究したことがある。

パソコンで動画処理をどうすればいいか悩んでいたのである。

当時、動画はデータ量が多すぎてパソコンでリアルタイムに処理するのは難しかった。

だからせめて秒8コマでもいいからパラパラ・アニメのように動かしてやろうと思った。

それでいろんな映画のシーンをデジタル化してパソコンに取り込んでいた。

 この鳥の一シーンを観たとき、ふうてんは(カットが多いなあ)と思った。

(カット)というのはおそらく映画用語で(カメラの切り換え)というほどの意味だと思う。

会話している男女を撮るとき、男と女を別々のカメラで撮る。

それを映すときには別々に撮った男と女を切り換えて映す。

写し取ったカメラが変わることを(カット)というらしい。

その切り替えがこのガソンリ・スタンドでは極めて多いのである。

 そこでどのくらい切り換えているのだろう?と数えてみた。

180秒のシーンで90回切り換えていた。

つまり平均2秒に一回、カメラが変わるのである。

それを編集でつないで180秒(3分)のシーンに仕立て上げている。

 これにはふうてんは一驚を喫した。

2秒に一回カメラを切り換えて、しかも繋がったシーンとして見ることができる。

ティッピィー・ヘドレンの恐怖の顔が写る。

2秒後に、襲ってくるカモメの顔がクローズアップで写される。

それの連続なのですね。

 それでふうふんてはカットとは何だろうかと考えた。

それは(観客に、見たいものを見せる)手法なのだなと気づいた。

それで大好きな西部劇の(シェーン)なども見直してみた。

驚いたことに、あのゆったりとした風に感じられる映画においても猛烈な数のカットが駆使されていた。

 念の為にヒッチコックはどの程度カットを使ったかその限界を知りたくなった。

それは(白い恐怖)の中に見つかった。

グレゴリー・ペック扮する主人公は白いものを見るとパニック状態になる。

スキーのゲレンデを滑り降りているとおかしくなったりする。

その主人公がヒゲを剃ろうとして洗面所で水を流し始める。

ヒゲソリを取ろうと洗面器の縁に手を伸ばす。

その瞬間(白い恐怖)が彼を襲う。

その時のカットは1秒間に7回だった。

真っ白の洗面器。

何かヒゲソリみたいなもの。

クッ、クッ、クッとそれがクローズアップされる。

白い恐怖の先に、鋭い刃物であるヒゲソリを写す。

1秒間に7回のカットで。

 ヒッチコック特集が始まったころ、神保町の三省堂書店で(ヒッチコック映画自身)という本を見つけた。

自伝的な要素と映画に関する彼の考え方などをいろいろ寄せ集めた一冊である。

ほとんどが彼自身書いたものなのでまことにおもしろく読むことができる。

中でも(いかにして私はヒロインを選ぶか)などはまことに秀逸で笑ってしまった。

映画の大半の客は女性である、従って女性に好かれる女優でなければならない、から始まる。

その次に、女優は小柄でなければならない、と来る。

男優の胸の当たりにカールさせた髪を押しつけるからいいのであって、女優がもし30センチ背が高かったら男が間抜けに見えるに違いない。

・・・

なぞと。

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2010/12/13

2010・12・12 コナラの枝を切った篇

枝?Konara  

 今年も残りわずかとなった。

今週は月水金と昔の仲間と会う機会があった。

こういう週の週末は外へ出かける気力もわかず、大抵寝ているしかない。

月曜日から金曜日は長年の習慣が抜けず(仕事モード)で過ごす。

土日は(休みモード)で、やれ嬉しや、とつい朝からビールに手がのびる。

 今日の日曜日は昼寝から覚めたあとコナラの枝を切った。

お隣さんからのリクエストで、隣の屋根まで伸びている枝を切らねばならない。

この一か月ほど、どのようにそれをやってのけるか悩んでいた。

(植木屋さんに頼んだ方がいい)

(いやこの年末にそういう業者を入れるのは好きくない)

(でもハシゴで登ってノコギリで切るなんて余りにも無謀すぎる、危ない)

・・・

 結局、お隣さんからハシゴを借りて自分で切ることになった。

我が家の庭師は(をなごはん)なので、とても彼女の手におえる大きさ、高さではない。

それでハシゴをかけて、家の2階ほどの高さまで登ってノコギリで切り始めた。

最初は、とてもこれは無理だなと思った。

 コナラは大きくなると皮の部分がかなり硬くなる。

(枝)といっても直径が10センチほどになっている。

エライことだった。

 3回ほど、登って切ったり降りて休んだりして筋肉を休めながら試みた。

幸いコナラは皮は硬いけれど木の質そのものはそんなに硬くないようだった。

それでなんとか無理だと思っていた(枝)を切り落とすことができた。

腕というか体はワナワナと震えるようだった。

(今日はここまでにしよう、次の枝はまた明日)

と庭師にいって作業を終えた。

植木屋さんに頼まずに自分でやってみてよかったと思った。

ヒョロッとした苗木のような小さな木だった。

それの成長ぶりを15年間ほど見てきたのである。

もはや家族同然の存在なのである。

生かすにしろ殺すにしろ他人の手に委ねる気はしなかった。

 ワナワナと震えるような体全体の(脱力感)を抑える為に(ルル)を3錠飲んで書簡集へ向かった。

(ルル)というのは常備薬で、風邪薬なのだけれど、体の痛みにも頭痛にも疲労感にも効く。

我が家ではまことに重宝なクスリなのである。

 今日は(坂の上の雲)がある日だったので司馬遼太郎の話になった。

マスターとふうてんは同じような司馬遼太郎観を持っていることが分かった。

(ドキュメンタリーなのかフィクションなのハッキリしてよ)

という思いをマスターも持っていたらしい。

 

(それでも坂の上の雲は読めましたねえ、あれはちょっとカメラをひいているからかしら)

(そうでしょう、竜馬がゆくは竜馬をクローズアップで写さないといけませんものねえ)

(なるほど、坂の上の雲は個人というよりも国というか時代というか、そういう視点で描かれているのかしらねえ)

・・・

 

(それと司馬遼太郎て、何となくヒロイズムみたいなのが強いですねえ)

(ヒロイズム?)

(ヒーローがいて何かを解決してメデタシ、メデタシというような)

(ああそういう意味ね。別の言い方をすると、どっか権威主義の匂いがあると誰かが言っていたなあ)

(池波正太郎の世界とは違いますねえ)

・・・

 書簡集から帰って夕食をすませ、宵寝をすると驚くくらい筋肉の痛みはない。

(ルル)のおかげなのか、痛みは明日以降出てくるのか・・・。

(ふうてんアーカイブス)

2010 晩秋 コナラの枝

枝といってもデカいKonara_1  Konara_2

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2010/12/06

2010・12・5 坂の上の雲篇

コナラの紅葉Konara  

 今日は繁すしの帰りに書簡集へ寄って早い目に帰った。

(坂の上の雲 第2部)が7時半から始まるからである。

BS2で10時からもあるのだけれど、何となく最初に放映される時に見たいと思った。

 書簡集のマスターに、今日の日記はまだテーマが決まってなくてね、と話した。

テーマが決まらないと一行も書けない。

困ったなあとチャリで帰りながら考えても決まらない。

それで今(坂の上の雲 第6回)を見ながら書いている。

 ふうてんは司馬遼太郎さんの小説を2作品しか読んでいない。

一つは(殉死)、一つは(坂の上の雲)である。

一時期、司馬さんの(竜馬がゆく)がはやった時期があった。

どれどれと国立の増田書店で立ち読みした。

(竜馬はその黒船の姿を見て、~と思った)

という風な場面だった。

 こりゃダメだ、とそのとき、ふうてんは思った。

坂本龍馬という実在の人物が、そのようなセリフをはいたという風に書く。

ちょっと違うのではないかと思った。

ドキュメンタリーなのかフィクションなのか、どちらかにしていただきたい。

そう思って、以降、司馬遼太郎の本を読む気にならなかった。

 初めて読んだのは、梅原猛が(殉死)は司馬さんの最高の作品だと思う、と書いていたのを目にしたときだった。

読んでみて、なるほど梅原猛の言うのは分かったと思った。

乃木希典という明治の人の話である。

極めて薄い文庫本だった。

内容もあらゆる虚飾を取り去って乃木希典の一生に迫るものだった。

 それで5年ほど前に(坂の上の雲)を読んだ。

読む気になった理由の一つに題名の良さがあったと思う。

(坂の上の雲)

ちょっと小高い丘に登ろうとすると、坂の上の真っ青な空に真っ白な雲が浮かんでいる。

少年のころ、ふうてんなども馴染み深かった風景である。

どういう小説なのだろう?

 それで読み始めると止まらなかった。

文庫本で何冊だったのだろうか。

司馬遼太郎の魔術にはまってしまった。

 ちょうどその頃、松山で一人のトランペッターと話をする機会があった。

松山城をすぐ近くに見上げるレストランだった。

この時も城山の上に真っ青な空が広がり、真っ白な雲が浮かんでいた。

ビールだったかシャンパンだったか飲みながら、このトランペッターと話した。

(坂の上の雲が大河ドラマになるようですよ)

(へぇ~、それは楽しみですねえ)

 それから数年たって結局大河ドラマにはならなかった。

NHKの方針だっていろいろ変わるものであるらしい。

大河ドラマは(龍馬伝)になっちゃった。

しかし(坂の上の雲)も年に5回くらい、3年越しのドラマとしてNHKは制作した。

これで良かったのではないかとふうてんは思う。

(龍馬伝)は司馬さんの(竜馬がゆく)ではない。

司馬さんのは(竜馬)であって(龍馬)ではなかった。

この名前の字の使い方が違うことを夕べ文春の豊田さんに教えられた。

 いずれにしてもNHKのドラマでは坂本龍馬とか秋山兄弟とか、今年は四国の人物が活躍した年だった。

こんな年は二度とないように思う。

四国は歴史上の人物はあまり登場しなかった土地柄なのだから。

 太陽の光の角度が一番傾いて、2010年も晦日を迎えた。

(ふうてんアーカイブス)

2010 初冬 国立の紅葉

コナラKonara_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大学通りDaigaku_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

桜通りSakura_2  

 

 

 

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