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2010年7月に作成された記事

2010/07/25

2010・7・25 小津安二郎先生の思い出篇

隠宅のサルスベリSarusuberi  

 このところ愉快な本に出会っている。

どれも一芸を全うした、或いは全うしつつある老優たちの本である。

老優という言葉は好きな言葉である。

老いた俳優という意味だろうと思っている。

人間、誰も、ある役を演じているのではないだろうか。

子供のころから死ぬるまで。

子役から始まって最後は老優になる。

 出会った本は以下であった。

・野村ノート 野村克也

・旬を握る  すきやばし次郎

・小津安二郎先生の思い出 笠智衆

 野村監督とすきやばし次郎の本は(プロフェッショナルとは何か?)を楽しい語り口で教えてくれる。

野球に関して、鮨に関して。

こんなにも野球や鮨の世界が楽しくて奥深い世界だったのか。

そして野球や鮨がいかに人間の人生そのものと係わっているか。

野球や鮨を通じていかに生きたか・・・それを老優達は語っている。

 対して、笠智衆の(小津安二郎先生の思い出)は一味違う。

大体、笠智衆(りゅう ちしゅう)という名前は本名なのだけれど、誰も読めない名前である。

ふうてんなどはズ~ッと(かさ ちしゅう)と思っていた。

この本を読んで分かったのは、彼はお寺の小伜なのですね。

お坊さんというのは難しい名前を子供につけても平気らしい。

 この本は朝日文庫の薄い一冊で2日間で読んでしまった。

自分は無口な方だった、と本人が書いているように、まことに無口な語り口。

文章も苦手なので、いわゆる(聴き語り)というやつで朝日新聞社の記者が(聴いた)話を文章にしている。

無口だからずいぶん時間がかかったらしい。

 無口な人が語ること、というのは無駄なものがない。

1904年(明治37年)から1993年(平成5年)まで生きた。

この本はその亡くなる2年前に出たという。

88歳まで生きた(老優)が86歳のころに語ったことが本になった。

 この本を読んでふうてんは幸せな気持ちになった。

全編、どこを読んでもふわっとした暖かい雰囲気に包まれる。

小津安二郎の映画で見る彼のたたずまい。

いつも変わらないその存在感。

自己主張はほとんどしない。

ただそこにいる。

たいていは聴き役である。

人の話を聴いて(そうか)とか(ああ)とか(うん)とか言うばかり。

 小津一家では一番ダメだったと語っている。

一番NGが多かった。

ほかの人がスッスッと進んでも彼の番になると長くかかる。

照明さんたちが引き上げたりしたこともあったらしい。

(笠さんだから時間がかかる、ちょっとメシでも喰って来るか)

という調子。

 笠さんは一滴も飲めなかった。

監督の小津安二郎は大酒飲み。

小津映画ではやたらと飲むシーンが多い。

笠さんは麦茶で酔っぱらったフリをした。

(晩春)で娘の原節子の結婚式のあと、バーで飲む。

家に帰ってリンゴの皮をむきながら睡魔に襲われたように手が止まる。

(ここで慟哭してくれ)

と小津安二郎監督は言ったらしい。

(監督、それはできません)

と珍しく反抗した。

それまで小津監督の言うとおりにやってきた。

演技というよりも人形のようにいいなりにやってきた。

しかし大声を出して泣き崩れる、ということはできなかった。

 結局、ラストシーンはリンゴの皮を剥いているうちにナイフの手が止まり、エンド・マークが出る。

笠さんの86歳のときのこの本では、あの時、慟哭してもよかったのかもしれない、

なんて語っている。

観客として言わせてもらうと、笠智衆の慟哭のシーンは見たくなかった、となる。

監督のリクエストに(それはできません)と答えた俳優の勝ちだとおもう。

 小津安二郎と笠智衆。

こういう師弟関係であり人間関係。

いいなあと思う。

人間一人で生きられる訳じゃない。

やっぱりいい先輩に恵まれ、いい後輩に恵まれ、いい同輩に恵まれ、そういう中でやっと自分の個性も発揮出来る。

そういうことをまことにストレートに(小津安二郎先生の思い出)は教えてくれる。

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2010/07/19

2010・7・18 きんちゃんに八女茶をもらった篇

スカイラインGTRGtr  

 梅雨が明けた。

今年はメリハリのある梅雨明けになった。

真っ青な空に真っ白な雲。

夏はこうでなくっちゃあ。

 金曜日、都内某所で昼前に電話があった。

いつものように、時計代わりの携帯電話で時間を見ようとすると(受信あり)のマークがついていた。

見ると、(きんちゃん)からだった。

 (きんちゃん)が今日、九州の久留米から東京に行くので今夜会いたいという。

出来れば嫁はんも連れて来なさいとおっしゃる。

今から飛行機に乗るからよろしくね。

 コチラの予定も聴かず、女房の都合も聴かず、(きんちゃん)は東京へ来た。

久留米方面で医者をやっている松山出身の幼なじみ(きんちゃん)が久しぶりに東京へ来たのであった。

5時ころにワインガーデンへ電話をして、三人だけど大丈夫?と確かめる。

夕刻、女房と御茶の水で待ち合わせて千代田線で乃木坂へ。

東京ミッドタウン方面の出口から歩いてワインガーデンへ向かった。

(これお土産)

と、きんちゃんは袋を出した。

(福岡名産の八女茶なんよ)

(八女茶、て聴いたことあるなあ)

(八女茶の産地でも一番山の方の黒木町から毎年新茶を贈ってくれるんよ)

(黒木町て、あの黒木瞳の?)

・・・

(八女茶が日本のお茶のルーツらしいよ)

(中国帰りのお坊さんが長崎たどり着いて、それから?)

(長崎も福岡も近くやからねえ)

(黒木はクロギと発音するんや)

(黒木瞳はクロキヒトミだよねえ)

(どうしてクロギと濁らないんやろなあ?)

・・・

ここまで話が進んだとき、女房が発言した。

(それは黒き瞳よ)

(ン?何それ?黒き瞳??)

(だって彼女宝塚でしょう、八千草薫、真帆しぶき、そういう名前つけるのよ)

(ということは黒い木じゃなくてブラック・アイズ??ということ???)

(旦那さんはやっぱり硬派なのよね、こういうことを知らないんだから)

・・・

(僕、そろそろ遺言を書かないかん思うんや)

(きんちゃんが遺言を?)

(お前さんは毎週書いとるやろ、ふうてん老人日記を)

(あれ遺言ちゃうでぇ)

(けどメッセージではあるよ、自分は何を考えているのかという)

(ウン、もうマンネリでやめようか思うんやけどね)

・・・

(親子というのは話にくいものやねえ)

(きんちゃんはボクちんと仲よさそうやないの)

(それはそうなんやけど、何というのかなあ、子供に残したい親のメッセージみたいなものは面と向かっては話しにくいのかなあ)

(きんちゃん、お父さん早く亡くしたんだったね)

(僕が生れたときはもう戦死しとったんや、28歳やったそうや)

(きんちゃん4月生れやったねえ)

(昭和20年の4月やからもう65歳になったよ)

・・・

 きんちゃんはお父さんと過ごしたことがない。

自分の父親がどのような生き方をし、何を考えていたのか知るよすががない。

それできんちゃん自身、息子さんへ伝え残したいことを書いておきたいと思うようになったのだろうか。

きんちゃんは短距離ランナーだった。

お医者さんになった。

ボクちんも今はお医者さんで大学時代は陸上部だった。

カエルの子がカエルになっているのである。

それでも(遺言を書かなくっちゃあ)ときんちゃんはいう。

(遺言といえばつかこうへいが死んじゃったね)

(朝鮮と日本の間にある対馬海峡の近くで散骨して欲しいと書いたらしいなあ)

(思わず涙がでたよ)

(熱海殺人事件よかったねえ)

(あれの文庫本のあとがきにはまいった)

(どうやったっけ?)

(小学校のとき、先生に1足す1は幾つだ?と聴かれた)

(それで?)

(1足す1は2です、と答えたら先生に君は間違っていると怒られた)

(何で?)

(君の答えには(1足す1は2です)と言い切る、暗くて劇的な背景が感じられない)

・・・

 ふうてんはこれを読んだとき(つかこうへいの世界)の全てを理解出来たような気がしたのだった。

 きんちゃんと我々夫婦の三人はワインガーデンのマスターとソムリエくんタッキーのもてなしでまことに愉快に過ごせて時間をうっちゃることができた。

(ふうてんアーカイブス)

2010 4月ころ 書簡集にスカイラインGTRがきた

その1Gtr_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Gtr_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Gtr_3  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その4Gtr_4  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その5Gtr_5  

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2010/07/11

2010・7・11 ロシアより愛をこめて篇

光と影Hikari

 今日はまことに慌ただしい一日だった。

参議院選挙の日である。

大相撲名古屋場所の初日である。

ワールド・カップの決勝戦の日である。

F-1のイギリス・グランプリの日である。

 こういう日曜日は何年に一度もないのではなかろうか。

朝の3時からワールド・カップの決勝戦がある。

月曜日、仕事だから見られなかった、というのはサッカー・ファンではない。

 ところで参議院選はどうなったのだろうか?

今テレビで顛末を報告している。

どうも民主党は負けたらしい。

菅直人首相の一言(消費税10%)が全てを決めた。

 いろんなニュースがあった中で、ふうてんは米・ロのスパイ交換の話が特に面白かった。

一か月くらい前に、アメリカでロシア人のスパイがつかまった、と報道された。

今どき(スパイ)という言葉も珍しい。

日本の若い人でこの言葉を知っている人はいるのだろうか?

と思えるくらい、今はスパイという言葉は死語になっている。

 ふうてんが特に興味を覚えたのはその決着のつけ方だった。

捕虜交換、のようにお互いの捕まえたスパイを交換する(戻す)という方法。

これでふうてんは笑ってしまったのだった。

ああ、そういう話は昔から聴いていたよね。

映画でそういうシーンをいろいろ見た。

それを次々と思い出させてくれた。

 捕虜を交換する。

つまり捕まえた相手の人質みたいなのを捕まえられている味方と交換する。

give and take

の原型みたいな世界。

これは戦争時代にある世界だと思う。

今我々は戦争しているのだったっけ?

そういう不可思議さを今回の米・ロのスパイ交換事件は教えてくれた。

 人質や捕虜の交換のシーンはいろんな映画で見た。

 リオ・ブラボーという西部劇がある。

ハワード・ホークス監督のこの映画のラスト・シーン。

飲んだくれて敵側に捕まったディーン・マーチンが向こうから両手を後ろ手に縛られてこちらへ歩いて来る。

こちらはジョン・ウェインがライフルを構えて何とかしようと身構えている

 現金に手を出すなというフランスのフィルム・ノワールがある。

ジャン・ギャバンの舎弟、リトン、が敵側に捕まって、こちらでも捕まえていた奴と交換するシーン。

 もう一つは黒澤映画の用心棒。

敵対するヤクザ、地元を取り仕切っている二組それぞれに人質を出して交換するシーン。

その人質の一人は司葉子だったように思う。

 どの映画でも、その人質の交換シーンが両組のバトルの(ファンファーレ)となる。

競馬場のファンファーレと同じように、その人質の交換シーンが始まると、いよいよこれから最後の闘いが始まる、と観客に知らせるのですね。

 その人質交換を今の時代にアメリカとロシアがやった。

普通は、人質交換は上記の映画で説明したように(闘いの始まり)を意味したハズ。

でも今回のはそうではなかったらしい。

アメリカもロシアもいまさら戦争なんてしたくない。

両国が戦争したがっていたのは・・・あれはもう50年近く前・・・。

 007という映画のシリーズがあった。

イギリスの諜報員(ジェイムス・ボンド)を主人公としたスパイものである。

いろいろ見たけれど一番印象に残っているのは(ロシアより愛をこめて)だった。

ウィキペディアに聴くとこの一作は1964年に制作されたらしい。

この年、ふうてんは故郷の伊予を捨てて京都へ逃げたのだった。

 ボンド役のショーン・コネリー。

タチアナ役のダニエラ・ビアンキ。

両方とも素晴らしかった。

男と女の魅力をいかんなく発揮してくれた。

 それから40年ほどたった。

もう冷戦という時代でもない。

ジェイムスとタチアナもお役御免である。

今回のニュースで(美しすぎる女スパイ)という文言も聴こえてきた。

美しすぎる(タチアナ)がいたのだろうか?

 今、参院選のニュースが流れている。

大相撲の結果もダイジェストで知らされる。

間もなくワールド・カップ決勝戦。

F-1グランプリ、イングランド。

 どれもこれもゲームやなあ、勝つか負けるか、やなあ。

生き残りの闘い、生存競争。

嫌な言葉やなあ。

ゆったりと平和共存したいもんやなあ。

・・・・

ン?阪神の真弓監督けっこうやれる?

ほうか、ほうやったんか。

真弓、イケッ、原・巨人やったれ・・・。

 どうもいけませぬねえ。

人間も生き物の一つなのですなあ。

生存競争、免れませぬねえ。

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2010/07/05

2010・7・4 書簡集に陰陽師がいた篇

ピンクのハナミズキHanamizuki  

 ワールドカップはベスト16まで行った。

岡ちゃんが言っていたベストフォーまであと2試合だった。

大したもんだと思う。

 この土日はなかなか忙しかった。

土曜日の昼過ぎ、電話をして山口夫人を訪ねた。

池波正太郎の雑誌を20冊借りていて、それを返しにいったのだった。

 お礼に、というわけでもないけれど、写真立てを持っていった。

例のイーゼル型の写真立てである。

ふうてんはこれを神保町の(文房堂)という画材屋さんで買った。

包み紙を開けようとすると夫人が(あっこれ文房堂さんね)と言った。

 山口瞳さんは画家でもあった。

御茶の水の山の上ホテルに泊まって絵を描いたりすることもあったらしい。

山の上ホテルから文房堂までは歩いて5、6分である。

それで瞳さん、ちょくちょく通っていたらしい。

絵筆とか絵の具とか。

(絵筆にもいろいろあるのよねえ)

などと夫人はおっしゃる。

 結局2時間ほどお邪魔して、返しに行った池波正太郎の雑誌の続きを10冊借りて帰ることになってしまった。

帰り際に夫人に(これでまたお邪魔する口実ができました)と挨拶をして辞した。

 日曜日である今日は雨模様の中、書簡集を冷やかした。

サッカーの話や選挙の占いをマスターから聴きたいと思ったのだった。

(マスター、参議院選が来週になっちゃいましたねえ)

(早いものですねえ)

(今回は民主党どうでしょうねえ)

(52席だと思います)

・・・・

 いつものようにマスターの(占い)は明快である。

それがよく当たるのである。

 しばらく民主党政権のやりようの話をした。

鳩山、小澤はどうだったのか、何をしたのか。

沖縄の普天間基地問題はどうなったのか。

一体沖縄に基地は必要なのだろうか。

日米安保は・・・・。

 カタッと音がして、一人の若者がはいってきた。

初めてではないような気がした。

チラッと見ると、先週来ていた若者だった。

国立の大学を出て、デパートに就職して3年目の男であった。

 先週は、いまどきデパートは流行らないよねえ、とマスターと二人でさんざんに冷やかしたものだった。

聴けば経済学部出身だという。

(経済学部というのは中途半端でいけません)

(どうして?)

(なんだか文科系なのか理科系なのか分からなくなるんです)

(ほ~っ?おもろいね)

(理屈も必要ですよね、例えば統計がどうだとか、あれって数学なんです)

(ウン、聴いたことあるよ)

(それでいて人間社会というのは理屈だけじゃ成り立ちませんよね)

(ウン、まあそうだよね)

(だから訳分からなくなっちゃうんですよ)

 しばらくこの青年の話を聴くうち、ふうてんはこの人の出自を知りたくなった。

(あなたどこの出身?)

(愛知県です)

(お父さんなにしてはんの?)

・・・

何秒かたったようだった。

(神主、なんです)

(神主ってあの神社にいる?)

(神主はお寺にはいません)

(神主の小伜がどうしてデパートに勤めてるの?)

とだんだんとマスターと二人してこの若者を質問責めに合せそうになった。

 神主という仕事はなかなか大変な商売らしい。

神社には(檀家)というものはない。

国家神道が盛んだった明治以降、昭和の終戦までは国家に保護されていた。

いまはその国家の保護も微々たるものになっているはずである。

(どうしてやっていけるのだろうね?)

(やっぱり世の中悩める衆生が多いようですね)

(それで?)

(そういう人たちが相談に来るんです)

・・・・

 ふ~ん、そういうこともあるのねえ、とマスターと少し納得する。

人間、迷ったり悩んだりするとき、誰かに頼りたくなったりする。

そういうとき、人間の仲間に相談する人もいる。

人知を超えた神仏に頼る人もいる。

(マスター、この人の名前まだ知らないけどニックネームは決まったよ)

(それは?)

(これから陰陽師とよぶことにする)

マスターに否やはないようだった。

(ふうてんアーカイブス)

2010 4月ころ ピンクのハナミズキとシロ

ピンクPink  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シロShiro  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ライオンNobi  

Lion  

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