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2010年5月に作成された記事

2010/05/30

2010・5・30 内田百閒を初めて読んだ篇

初夏の花たち(庭師撮影)Hana

 夕刻、チャリで繁寿司へ向かう。

その前にロシナンテに一鞭くれてガソリンを補給する。

20リットルで2700円ほどだったけれど、めったに入れないので高いのか安いのか分からない。

 山口夫人から戴いた佐治さんを囲んだ四人の写真を神保町で買った写真立てに入れたものを(話のネタ)に持って行った。

その写真立ては、イーゼル(画架)の形のものである。

四人のうちの柳原さんと山口さんは画家でもあったのでピッタリだと思った。

 貴重な写真を戴いても仕舞ってしまうと二度と見られない。

それで、今までやったことがないのだけど写真立てを思いついたのだった。

夫人も気に入ってくれたようなので、このイーゼル・タイプの写真立てをもう一個買ってプレゼントすることを約束した。

(こんな写真を持ってきたのよ)

と夫人がおっしゃる。

それは戦争直後に夫人と山口瞳さんが知り合ったころの瞳さんの住んでいた家の写真で、最近訪ねられたらしい。

鎌倉のどこかで、どなたかの別荘だったという。

戦争に負けて、そういう別荘やらの豪邸が売りに出されたらしい。

最近、鎌倉市から(保存文化財)みたいなのに指定されたという。

まことに立派な洋館である。

 その家に昭和21年ころから5年ほど山口瞳さんは住んでいたらしい。

(こんなお金持ちのお坊っちゃまと結婚するなんてとても私には無理だわ)

と思ったと夫人はおっしゃる。

その広い家にはいろんな人々、まだ若い、夢見がちなグループが集まったという。

言ってみれば大学の部活の拠点みたいなような存在だったらしい。

通りの向かいには川端康成の家があったという。

だから夫人は川端康成の話も時々してくれる。

 その宏大な屋敷に住むのも5、6年だったらしい。

山口瞳さんが(僕のうちは金持ちだったのか貧乏だったのか分からなかった)と書いているように、瞳さんのお父さんは、いわゆる(山師)だったようである。

つまり(一山当ててやる)というタイプ。

だから一山当たると大金持ちになり、それが外れると借金取りが押し寄せる。

そんなことだから、当然鎌倉のこの別荘のようなお家ともそのうち別れがくる。

(それにしてもコントラストの強い時代でしたねえ、一年前に江戸の下町の大空襲で火の中を逃げまどっていたのでしょう?その夫人が1、2年後に鎌倉の大邸宅でお友だちと(すみれの花~)を歌っていたんですか~ぁ?当時江戸ではまだ掘っ建て小屋みたいなところでみんな過ごしていたのでしょう?まるで天国と地獄じゃありませんか?)

(そうなのよねえ、言われてみれば不思議なのよねえ)

と夫人はオットリとお答えになった。

内田百閒(うちだひゃっけん)のこと

 この人のことは前から名前だけはよく聴いていた。

黒澤明監督の(まあだだよ)は記憶に新しい。

これだけではなく、いろんな本でちょくちょく名前を見る。

どういう人なのかなあ、と思いながら(まあだだよ)のテレビ・コマーシャルで見た印象が、何だかわざとらしい笑い、わざとらしい恩師と教え子の関係みたいだったので自然読む気にならなかった。

 先日、神保町の三省堂書店に寄ったとき、2階の文庫本のコーナーに彼の本が4冊、横積みにされていた。

オヤオヤ何だろう?と見ると(第一阿房列車)(第二阿房列車)(第三阿房列車)などとある。

阿房と書いてアホウと読ませている。

一冊目を手にとって読んでみた。

 ちょっと長いけれど、百閒先生にお許し願って、その出だしを引用させてもらう。

特別阿房列車

 阿房(アホウ)と云うのは人の思わくに調子を合せてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない。

用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。

なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う。

 用事がないのに出かけるのだから、三等や二等には乗りたくない。

汽車の中では一等が一番いい。

私は五十になった時分から、これからは一等でなければ乗らないときめた。

そうきめても、お金がなくて用事が出来れば止むを得ないから、三等に乗るかも知れない。

しかしどっちつかずの曖昧な二等には乗りたくない。

二等に乗っている人の顔付きは嫌いである。

 ここまで読んで、ふうてんは思わず引き込まれてしまった。

こういう(おかしさ)は初めての経験である。

まことにとぼけている。

同時に何となく理屈が通っている風でもある。

しかしやはりおかしいし、とぼけていると思わされる。

・・・

などと右往左往させられつつ、結局、愉快に読まされてしまう。

 一冊目の(第一阿房列車)を買って読み終わった。

全編、立ち読みしたときのままの調子だった。

次はどれを読もうかとウィイペディアに聴いてみた。

(内田 百間(うちだ ひゃっけん 1889年(明治22年)-1971年(昭和46年))

とある。

明治44年に明石で夏目漱石の講演(職業と道楽)を聴いている。

夏目漱石の門下生のハシクレでもあったらしい。

ドイツ文学科を卒業して、ドイツと親しかった時代だったからして軍関係の学校の教授や法政大学の教授を勤めたあと、昭和8年から文筆業に専念した。

 文体はちょっと井伏鱒二に似たところがあるように思う。

この世の中であまり面白いこともやりたいことも何もない・・・から始める。

ただの傍観者のように見たこと聴いたことを書きつらねているだけだ、という顔をする。

自分は主義主張を持った人間には生まれつかなったようだ。

・・・

そのうち、ああいうのは好ましくない、こういうのは嫌いだ、が始まる。

同時に、こういうのは好ましい、これは望ましい、そうあって欲しい、という前向きな発言も聴こえてくるようになる。

 やがて、この人はただものではないなとこちらが気付いたときには、もうすっかりこちらはハメられていて、次は何を読もうかなと探すようになる。

 井伏鱒二は(1898年(明治31年)-1993年(平成5年))とあるから、ひょっとしたら井伏鱒二はこの内田百閒に大きな影響を受けたのかもしれない。

ちなみに井伏鱒二は広島県、内田百閒は岡山県の出身である。

隣り合った県でどちらも瀬戸内海に面している。

その瀬戸内海の対岸にふうてんの故郷である愛媛県はある。

 何となく瀬戸内気候で育った人間には通じるものがあるような気がしてニヤニヤしている。

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2010/05/23

2010・5・23 大相撲5月場所篇

シロとクロ(庭師撮影)Shirokuro

 大相撲5月場所が終わった。

圧倒的な(白鵬場所)だった。

彼が19歳のときデビューしてテレビの画面で見たとき、あッ、いいなあと思った。

白鵬にはしなやかな美しさがある。

 昨日の土曜日に(大相撲5月場所篇)を谷保の(きょうや)でやった。

ふうてんは図書館で仕入れた(生誕80年「開高健の世界」展)のポスターを持って行った。

このポスターには二十歳過ぎの開高健の写真がクローズアップされて写っている。

それで80年前から刊行されている文藝春秋社の(オール讀物)の話になった。

 80年ということは昭和5年ころでしょうかねえ?

という当たりから会話は始まった。

80年、人間で言うと80歳。

そういえば、あの人も、この人も・・・。

という話になる。

 フランキー堺(さかい)が麻布中学で、当時の同級生たちにあの人がいて、この人がいる。

そういう話になった。

みなさん80翁であるからして、そんなに元気ハツラツというわけにはいかない。

それでも活躍していた時代の印象は強烈だったよねえ。

フランキー堺は(幕末太陽伝)で役者としての深さを示したけれど、森繁の社長シリーズ、駅前シリーズが一番良かったなあ。

あの国鉄の添乗員役の演技は秀逸だったよねえ・・・。

 (きょうや)で3時間ほどそういう話に耽った。

文春のトヨダさんは戦後の活字時代の一番いいころに番を張ることが出来たのではなかろうか。

文藝春秋社の「文學界」「別冊文藝春秋」「オール讀物」などの編集長をつとめた。

 ある夏の日、松本清張に来てくれと言われて、土曜日に駆けつけた。

松本清張は(こちらが仕事をしているのにサラリーマンは土日だといって休むのはけしからん)とのたもうていたらしい。

松本清張先生の仕事を終わってトヨダさん繁寿司へ一直線。

一杯やって寛ぎたい。

 そうしたらその日、繁さんが(向田邦子さんが飛行機事故で・・・)

と言ったという。

松本清張はテレビなど見ていなかったようであった。

あの日は8月22日で今でも覚えています。

とトヨダさんは言った。

 ふうてんはその話を聴いて、そういえば向田邦子の事故の話を聴いた日、繁寿司へ向かうときに(ムクゲの花)が咲いていたなあと思い出していた。

隠宅の近くには木槿(ムクゲ)の木が結構あって毎年楽しませてくれる。

トヨダさんから8月22日だったという話を聴いて、木槿-向田邦子のことを思い出した。

その頃、山口瞳さんは週刊新潮の(男性自身)に(木槿の花)を書いていたのだろうか。

 8月22日に向田さんが亡くなって、30日に瞳さんが亡くなりました。

僕の誕生日は8月29日なんです。

毎年、8月のその頃になると・・・。

と、トヨダさん。

 ここまで書いてウィキペディアに聴くと、向田邦子さんのその事故は1981年だったという。

もう30年近くも前の話になる。

ふうてんたちが多摩ニュータウンから国立に移ったころだった。

 (人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり)

 織田信長が好きで良く舞ったと言われる幸若舞(こうわかまい)の敦盛(あつもり)の一節。

だと、聴く。

三十年前のことが昨日のことのようにも思える。

夢幻の如くなり、というのはいいセリフだなあと感心してしまう。

人生は夢(ゆめ)であり幻(まぼろし)のようなものかもしれませぬなあ。

(ふうてんアーカイブス)

2010 5月 隠宅の方丈の庭 庭師撮影

Mado  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

庭師の椅子Isu  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハナミズキとコナラHanamizukikonara  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ハナミズキHanamizuki  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Hana  

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2010/05/17

2010・5・16 ドストエフスキーの魔力篇

フジFuji

 

 夕刻、少し温度が下がったのでカーデガンを羽織ってチャリで繁寿司ヘ向かう。

桜の季節にしか食べられない(ノレソレ)が出た。

(もう今年最後ですけど)とおかみさんが言った。

このアナゴの子供はふうてんの大好物なのである。

 やがて山口夫人が登場する。

30分ほど遅かったので繁さんはヤキモキしていた。

(電話がなくて来られないことはないし、遅れるときも連絡があるはず、心配だから電話しようかというと女房が反対しましてね・・・)

ヤキヤキしているうちにタクシーで到着したという次第。

(繁さん、やっぱり電話しなくてよかったようね・・・)

 夫人からお借りしている池波正太郎の週刊誌の話になる。

全30巻の予定で、21巻までを2週間前にお宅へお邪魔して借りてきているのである。

(お読みになった?)

(ええ、11巻まで、面白いですねえ)

(わたし、真田ものは読まないのよ)

(そうですか、やはりおくさんは江戸物でないと)

(ふうてんさんはお読みになるの、真田物)

(ええ、真田太平記なんか好きですよ、やはり新国劇の座付き作家的な時代もあったくらいですから、戦国時代から幕末までの侍とか武将とかには池波さん興味があったのでしょうねえ)

・・・

(あっ、そうそう写真ができてきたのよ)

(えっ?あっ・・・嬉しいですねえ、ありがとうございます)

それはサントリー時代の写真であった。

若いころの開高健、山口瞳、柳原良平がこれも若かった佐治敬三社長を囲んで四人とも愉快そうに笑っている。

(片づけていたらこんなのが出てきたのよ)

と一か月ほど前に見せていただいて複製をお願いしていたのだった。

 まことに素晴らしい貴重な写真なので、しまい込んで見つからなくなると困るのでそのうち適当な額縁に入れて飾っておこう・・・。

ドストエフスキー劇場

 またドストエフスキーを読んでしまった。

去年、久しぶりに(悪霊 あくりょう)を読み返したいと思った。

主人公のスタヴローギンが深夜一人で思いに耽るシーンが印象に残っていたからだった。

読み直してみて、なかなかそれらしいシーンは出て来なかった。

・・・

 そんなことを以前報告した。

ストーリーはすっかり忘れていたけれど、このスタヴローギンという主人公が静かに考えて、人が思いもよらない行動に出る、という人物像に描かれていたことは記憶とそんなにずれてはいなかった。

 (悪霊)を読んだあと、やはり(白痴)も読みたいと思った。

白痴(バカ)と思われるほどに純粋無垢な人間が汚濁に満ちたこの世に放り出されるとどういうことになるか。

そんなことを意図した小説なのだろうか。

読んでみて驚いたのは、やはりストーリーを殆ど覚えていないことだった。

主人公のムイシュキン、ラゴージン、ナスターシャなどの人物像は記憶とあまり違いがなかった。

しかしストーリーはファースト・シーンとラスト・シーンしか覚えていなかった。

 (白痴)を読み終わると、やはり(罪と罰)にも当たってみようか、という気になる。

ああいう青臭いのも今更ねえ、という気持ちがあって、ずっと読み返していなかった。

質屋の老婆を殺害したあとネヴァ川の流れをじっと見るラスコーリニコフ。

そんなシーンしか覚えていない。

 読み返してみて驚いた。

次々と起こる事件、出来事の数々。

そこで登場する人物の多様さ。

その登場人物たちの言動のリアルさ。

それらの全てがラスコーリニコフの(殺人)というテーマを中心に展開する。

なるほど、これがドストエフスキーの代表作といわれるのももっともかもしれない・・・そういう迫力があった。

 さて、ここまでくると(カラマーゾフの兄弟)も念の為に読まねばなりますまい。

あれはあんまり読み返すような小説じゃなかったよな、と思いながら読み始めた。

僧院のゾシマ老師が登場する。

アリョーシャが従っている。

イヴァンの(大審問官)が始めのほうに登場したのは記憶と大きく違っていた。

しかもその内容はこんなに面白いものだったのか・・・。

 長兄のミーチャがトナカイの橇(そり)で大宴会、大騒ぎの場へ向かうシーンだけは覚えていた。

それだけが印象に残っていたのだった。

そして、その前後関係、何故彼がトナカイの橇を仕立てて大騒ぎの場へ向かったのか、大騒ぎをしようとしたのか。

その因果関係は全く覚えていないことにも一驚を喫した。

あのシーンは(親殺し)というこの小説のテーマの、その事件が起こった当夜の出来事だったのだった。

 確認できたのは、やはり(カラマーゾフの兄弟)の主人公はこのハチャメチャな長兄のミーチャであるということだった。

この人物像はそれまでのドストエフスキーの小説にはないタイプなのである。

ラスコーリニコフ・・・スタヴローギン、イヴァン=悪魔志向

ムイシュキン・・・アリョーシャ=天使志向

ミーチャ・・・=意識をしない悪魔であり天使???

 ドストエフスキーの小説では、これらの代表人物以外にも、多くの魅力的な人物が登場する。

若くて自尊心の強い美しい女性もいるし、熟年のマダムみたよな、仕切りたがり屋のくせに少女のような恥じらいを持った女性たちもよく登場する。

貧困のためにあらゆる手だてで日々をしのいでいる娘や母親たち。

どうしてこんな嫌味なことができるのだろう?と思われるようなことをしでかす小心な悪漢たち・・・。

そのバリエーションは極めて多様である。

 米川正夫訳の(カラマーゾフの兄弟)の前書きで訳者がトルストイの(戦争と平和)と対比してこの小説のことを語っている。

一部を引用させてもらう。

・・・後から後から畳みかけて重なって来る異常な事件の旋風が読者を鷲掴みにして眩暈を感ぜしめ、なかば夢幻の境へ拉し去るのである。

我々は作品の世界に没入している限りにおいては、それらの事件や心理が否応のない必然性を有し、そこになんらの不合理も超自然性もないという気持ちを抱きつづけるけれども、一たびその作品の世界から出て振り返ってみると、そこに描かれた個々の場面なり人物なりが、そのままロシアの現実生活から切り取って来たものであるとは、何としても云うことができない。

 さすが翻訳をするほどの人の理解力は的を得ているなあと感心した。

どうしてストーリーを覚えていなかったのか、この米川氏の解説を読んで納得したのだった。

 次々と起こる(事件)でコチラの心を鷲掴みにする。

読んでいる間はまことにリアルなドラマが展開する。

そうして作品を読み終わってフト我にかえったとき、もうストーリーのことは忘れて、ただ強烈だった印象のみが残っている。

 ドストエフスキーの主な作品を読み終わって、源氏物語のときと同じような寂しさを感じる。

映画を見終わったとき、コンサートが終わったとき、劇場を出るときの気分と同じものがある。

ドストエフスキー劇場、紫式部劇場。

そういう言い方がふうてんには一番ピッタリくるような気がする。

 劇場から出ると、また現実の生活が待っている。

(ふうてんアーカイブス)

2010 国立 新芽のころ

シロとロシナンテStill0001  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

谷保天神Tenjin  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フジの花Fuji_1  

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2010/05/10

2010・5・9 文楽5月公演につき篇

チラシ(国立劇場ホームページより)Bunraku  

 

 東京ではこのところまるで夏のような天気が続く。

雨が降ったりするけれど、毎日のように25度以上で、晴れの日が多く、まさに初夏というにふさわしい。

 今日は母の日だという。

前は確か5月10日だったような記憶がある。

おふくろの誕生日も同じ5月10日だったような・・・。

それなのに5月9日の今日がおふくろの、じゃなかった母の日??

 分からぬときはウィキペディアに聴け、ということで調べるとオヨヨとなった。

昭和24年からアメリカにならって日本でも5月の第2日曜日が母の日となった、とある。

この歳になるまで(母の日は5月10日)だと思っていた。

ああ勘違いで(おふくろの誕生日が5月10日)なのであった。

人間の思い込みて、怖いですなあ・・・。

 18歳で京都へ流れてからは5月10日には必ずおふくろに誕生日祝いの連絡をした。

もうよく覚えていないけれどたいていはハガキだったのだと思う。

ちょっと気取って花屋さんにカーネーションを届けてもらったこともあったような気がする。

しかし伊予の田舎に花屋さんなんてあったのかしら?

人間の記憶て、摩訶不思議なものですなあ・・・。

ただ今日分かったのは、(5月10日=母の日)は完全な間違いでもないこと。

正確には(5月10日=(ふうてんの)母の(誕生)日)ということだった。

 5月10日生まれ、周りは新緑に包まれる頃。

それで今治のおじいちゃんはおふくろに(緑 みどり)という名前をつけたのだろうか。

おじいちゃんは趣味人であったけれど、ちょっと安直すぎるネーミングであったような気がしないでもない。

長女に緑という一字の名前をつけた。

それで、残りの5女にも一字の名前を付けたらしい。

緑、泉、睦(むつみ)、東(あずま)、梢(こずえ)、和(のどか)

子供たちは親の趣味から逃れることはできないものらしい。

 母の日の今日、大相撲5月場所が始まった。

年に6回のうち1月、5月、9月は両国の国技館で開かれる。

3月、7月、11月は大阪、名古屋、福岡ということになる。

ふうてんの世代は大相撲、プロ野球がプロスポーツの代表格だった。

ゴルフやらサッカーやらはまだなかった。

 今の大相撲は外国人ばかりでつまらない、という説もある。

ふうてんなどはあまり気にならない方である。

フンドシ(まわし)を締めてチョンマゲ(まげ)を結う。

それだけが条件であとは問わない。

そういうシンプルさが素晴らしいと思う。

それでしっかりと様式美を保っている。

白鵬、日馬冨士(ハルマフジ)、バルト。

ちゃ~んと大相撲の立派な力士になっている。

レスリングでヨーロッパ・チャンピオンだった琴欧州はまだ相撲の様式に馴染みきれないようだ。

伝統芸能というものの持つ様式美というものは強い根拠を持っているのだなあと感心しながらこの頃の大相撲を見ている。

 伝統芸能の代表格の一つ文楽の5月公演が始まった。

昨日5月8日の初日に住大夫さんを聴きに国立劇場へ出向いた。

国立の隠宅からJR南武線と東急半蔵門線でドアツードア1時間10分だった。

やはり東京は広いなあと思う。

京都だったら北白川の下宿から平安神宮近くのコンサート・ホールまでバイクで10分ほどで、歩いていくこともあったのになあ・・・。

 住大夫-野澤錦糸のコンビは快調だった。

初日なのにどうして出だしからああいう調子を出せるのだろう?

・・・

ほんまのプロやなあと感心する。

開演後1時間ほどで、それまでの2組のコンビの演技のあと続いて登場する。

二人が現われると場内の空気がピーンと張りつめたような気がした。

三味線の音も語りの声もそれまでとは全く違った調子になる。

 今回も2月のときの席に近いところだった。

3列25・・・前から3列目、右端から3番目。

つまり劇場の右前隅であり、そこには語りと三味線の舞台がある。

住大夫さんのツバが飛んできそうな場所なのである。

こんな幸運が二度も続いた。

 

 前から3列目だと人形も大きく見える。

オヤッ?と驚いたのは(おみつ)役で吉田簑助(みのすけ)が登場したことだった。

男役の吉田玉男、女役の吉田簑助。

このコンビが最高だったと文楽歴の浅いふうてんは思う。

吉田玉男はもういないけれど簑助が病を克服して再起してくれたのは嬉しい。

 ということで今回は吉田簑助の人形にも注意が向かった。

文楽歴の浅いふうてんにとっては一つの発見があったのだけれど、ちょっと長くなってしまった。

このつづきはまたいつかしてみたい。

 文楽5月公演につき、というタイトルで来年も書くことができるだろうか?

(変わらぬことがめでたいことだ)

という話が通用しなくなった世の中になったことだし・・・。

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2010/05/03

2010・5・2 池波正太郎没後20年につき篇

コナラKonara

 今夜の繁寿司は一杯だった。

久しぶりに本当に満席になった。

山口夫人はいつもの席に座っておられた。

我々三人がまず陣取って、そのうちあの人この人が登場した。

 ふうてんは4月26日に発売された別冊太陽の(池波正太郎 練達の人 没後二十周年記念)の話から切り出した。

夫人の家へはやはりこの一冊は送られてきていたらしい。

ご子息、正介くんの一文も載っているからである。

正介くんは映画評論を書いていて、しょっちゅう(試写会)に通っている。

映画好きな池波正太郎さんも試写会は欠かさなかった。

20年以上前の話だけれど、時々顔を会わすことになったという。

そのことを正介くんは書いていた。

 それで池波正太郎と山口夫人との交流の話になった。

山口瞳さんは池波正太郎とほぼ同時期に直木賞をもらった。

それで交流が始まったのだけれど、夫人と池波正太郎は江戸の下町育ちで、そういうあたりが通じ合ったのではなかろうか。

山口瞳さんが池波正太郎の弔辞で、わたしはあなたの小説を読まなかったのですが、女房と息子が読んでいて大ファンなのです、なんて言っているのよねえ、などと夫人はおっしゃる。

 江戸の大川、今でいうと隅田川をはさんで、川向こうで山口夫人は生まれ育った。

池波正太郎は川こちら、浅草方面で生まれ育った。

川を一つ隔てた近場だったのですね。

川向こう、そこに本所もあった。

鬼平こと長谷川平蔵の育った土地である。

 驚いたのは、夫人が通っていた学校の売店に池波正太郎のお母さんが勤めていた、というお話しだった。

後で知ったのだけれどね、と夫人はおっしゃる。

夫人は川向こうの小学校を卒業して、府立第一高等女学校へはいった。

それは川こちらの秀才が行く学校だったらしい。

当時の高等女学校というのは今でいうと中学高校の年代だったとおっしゃる。

(じゃあ、優秀な生徒さんだったのですねえ)

(小学校のころはね、地元でも高等女学校へいく人は珍しかったもの)

(それでその学校は川こちらでしょう?ということは毎日大川を渡って?)

(そうなのよ、その橋のことが池波さんの小説にいつも出てくるのよねえ)

・・・・

 そんな話に耽っているうちに馴染みのピープルが次々と登場した。

デンツウのハナダご夫妻、元ニッケイシンブンのヤマちゃんご夫妻、元ベースボールマガジンのカメラン村ちゃん・・・。

 店が満杯になりワイワイガヤガヤとなるのはまことに楽しい。

昔の店のあの賑わいを思い出していた。

 5月の連休は国立にへばりついていても結構楽しめるのではなかろうか。

新芽が素晴らしい。

空気はないのではないかと思われるくらい暑くも寒くもない。

愉快な仲間たちもいる。

今年はアチコチでウグイスの声も聴こえる。

(ふうてんアーカイブス)

2010 5月連休 コナラとウグイス

BSのアンテナとコナラ Antena  

コナラの枝が伸び葉が繁ってBS放送が見られなくなった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Antena_2_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コナラ、ハナミズキ、ビワとウグイスの声Uguisu

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