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2010/04/26

2010・4・25 41年前にも東京に大雪が降った篇

コナラの新芽Konara

 今年の四月はまことに異常な気候だった。

先週だったか、東京に雪が積もった。

東京で4月に雪が積もるのは41年ぶりだとニュースは伝えていた。

2010-41=1969年・・・・。

待てよ、1969年の4月に東京で大雪・・・??。

 それでふうてんはすっかり思い出してしまったのであった。

1969年の四月に、京都から東京へ流れてきたふうてんは(第3市が尾寮)という、会社の寮に入所した。

この寮は、会社が借りたものだったらしかったけれど、何しろ4月1日の入所日前に見学に行くとまだブルドーザで整地したりしていたのには恐れ入った。

1945年の第2次世界大戦終了からまだ25年くらいのこの時代はそんなものだったのですね。

 その慌ただしいような東京に流れてきた4月、今でも覚えているけれど、大雪が降った。

市が尾という田園都市線(東急)の駅で降りて、寮までは坂道だった

その坂道を登り切ったところに寮はあった。

ある日、目覚めると外は真っ白の雪だった。

4月なのに・・・東京は妙なところだなあ・・・。

と眠い目をこすりながら坂道を下った。

その朝の真っ青な空と真っ白に雪の積もった下り坂の映像は刻みつけられている。

 あれはもう41年前なんだ・・・。

この寮で知り合った一人がJOさんだった。

この寮には50人~60人いたと思うけれど、何故か関西出身の男が多かった。

あれは会社の人事部門、厚生部門の配慮だったのではないかと思う。

関東と関西では文化が違う、言葉が違う。

だから関西人を集めてやれ・・・、と。

 大学を出たばかりの若いの、なんてのはまだ子供なのですね。

そういう会社の配慮にはまってしまって、なかなか愉快な時間を過ごすことができた。

入社式のときに(新卒が400名)という声を聴いたような記憶がある。

ということは会社はこういう(第3市が尾寮)みたいなのを10個近く用意しなければならなかったに違いない。

どこに誰を入れるのか。

関西出身は集めてしまえ・・・。

どうも(配慮)というほどのこともなかったのやもしれぬ。

 今年もその会社の(新人教育)にお付き合いをした。

去年800人だったのが今年は560人になったと聴いた。

減ったとはいえ560人である。

沼津の工場へ行くとその新人たちが真っ黒の上下に身を固めて待っていた。

3組に分けて、200人ほどだったけれど、若いことはいいなあと思う。

社長交代の妙なウワサの質問も出た。

(社長なんてのはどうせロクなもんじゃない、気にしなくていいよ)

(それよりも君たちがこれからどこまでやれるかで決まるんだ)

(今どき何兆円て商売やっている会社てめったにないよ)

(ええ会社にはいったんやから思い残すことのないように頑張りや)

 4月に大雪の降った年に入社して、60歳の定年までこのコンピュータ・メーカに勤めた。

定年退職して4年後の今もまだコンピュータやら情報処理やらを追っかけている。

 今日はドストエフスキーのことを書こうと思っていたのだけど、41年ぶりの雪の話を思い出してこんな話をしてしまった。

ドストエフスキーのことはまたいつか話してみたい。

(ふうてんアーカイブス)

2010 4月 隠宅のコナラ

コナラ 巨木になったKonara_1

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コメント

Muさん

 そうなんですよ。
まだ何があるか分かりゃあしません。
そやし、生きる意味がある・・・のかも。

 41年前も似たようなものでした。
な~んも分かっていやしませんでした。
分からないから自分は何者なのか問い詰めたのやも知れませぬね。

 禁煙されましたね。
まことにうらやましい。
2年前に明石の人丸どのも禁煙されました。
当方は毎日、640円用意してキャメルを二箱買います。
面倒くさいですなあ。

 ニコチン、アルコール、カフェイン、・・・。
いろんな中毒ですねえ。
これに、仕事、白粉、美少女、なんてことをいうて若いのを面白がらせていたものです。

投稿: ふうてん | 2010/04/26 18:43

うらやましいような、青雲の志、青年時代だったんですね。
それと、何兆円ものお金がダイナミックに動く世界なんだぁ。

60歳定年は早いと思いましたが、その後、別の視点で仕事をするのはよいものです。
ふうてんさんは、若者をその気にさせる風貌があります。
私はその分、この歳になって私自身が変わらざるをえなかった、禁煙!(笑)

まだ10年、20年、なにがあるか楽しみです。

投稿: Mu | 2010/04/26 17:12

JOさん

 新撰組やったんかもしれんねえ。
金も実績もなかったけど、夢だけはあったなあ。
いや、夢を求めていたねえ。

 ほんとにゴッツイ雪が降って積もった。
それも一日で積もって消えていったと思う。
だから(真っ白)という綺麗な記憶しかないのだろうね。

 確かに2年足らずだった。
当時、1970年安保の学生運動に慣れていた俺たちはすぐに反逆してねえ。
(こんな安っぽい借り上げ寮なんて何なんだ)
って訳さ。
うまい具合に、風呂場の壁が落っこちたりしてねえ。
それで、会社と(団交)をやった。
団体交渉というのだろうか。

 寮長が高橋さんで、何故か僕は副寮長だった。
厚生課長さんを第三市が尾寮まで呼びつけて(団交)をやったのさ。
結局、会社は非を認めて、他の寮へ移っていいことになっちゃった。
藤が丘寮とか下野毛寮とかとかへね。
俺は自由が丘のアパートへ移ったのだった。

 その厚生課長さんは優しげな若い人だったけれど、この一件で長野工場へ飛ばされちゃったよ。
後で悪いことをしたなあと思ったけれど、僕たちが反逆したのも当然だと思った。
(造反有理)
なんて毛沢東の文化大革命のセリフにかぶれていたからねえ。
アポロで月に人間が着陸した映像はリアル・タイムで実験室で見ていたしねえ。
大阪の千里では万博も開かれていた。
三島由紀夫がお腹切ったりしたのもこの頃だった。

 それから20年ほどたって、アメリカ帰りのJOさんが僕の実験室にひょっこりと顔を現したときは本当にビックリした。
それから僕たちの(第2ラウンド)が始まったのだった。
JOさんに連れられてアメリカの西海岸やらテキサスやらいろいろ訪ねさせて貰った。
妙な連中が多かったけれど、この世界こんな連中がいる、これ以上でもこれ以下でもない、ということをおかげで知ることができた。

 当時の僕たちには(世界を相手にする)という気持ちしかなかったものねえ。

投稿: ふうてん | 2010/04/26 10:54

第三市ガ尾寮は新撰組

 僅か2年程度の寮生活、しかし、新撰組と同じ期間で、中身が濃い青春時代、都に登り青雲の志に燃えていた時代、でしたね。

 私にとり、あの第三市ガ尾寮は会社人生の原点になった巣のような場所でした。22才の血気盛んな何でも出来るという向う見ずな青春時代で、会社もそんな若者だけの向う見ずな会社でした。世界をあっと言わせたるという気概に包まれていた。

 4月に雪が降った事件は記憶にありません、新人教育の期間だったのでしょうね。この年は確かアポロが月面に着陸した年でしたよね。私は青山の教育センターを抜けだし、散髪屋でテレビを観ていました。

 全てが、おおらかで細かい事を言う人は居なく、大志に燃えていた時代でした。給料は安かったけど、希望に満ちていた時代でしたね。寮に帰れば、関西弁の仲間がいる、週末は楽しかったです。

投稿: jo | 2010/04/26 08:53

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