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2010年3月に作成された記事

2010/03/28

2010・3・28 桜いまだ咲かず篇

アジサイの新芽Shinme  

 この一週間、東京では気温が低く、雨模様の日がつづいた。

一週間前に、プチッとひとひら咲いた桜はじっと我慢の時を過ごしている。

この土曜、日曜は天気予報だと晴れだったので期待していた。

しかるに、昨日も今日も肌寒い曇り日和。

これだと桜も心を開くことはできない、はず。

 今、龍馬伝で脱藩するかどうかの決心を龍馬は迫られている。

(江戸を売る)という言い方がある。

(田舎を捨てる)という言い方もある。

どちらも生まれ育った故郷を去っていくときの言い方だと思う。

 田舎から都会へ出向く。

これは(田舎を捨てる)ことになる。

捨てたはずの田舎には二度と戻ることはできない。

そういう覚悟で田舎を捨てる。

龍馬は暗殺に会うまで、その宿命から逃れることができなかったと思う。

 田舎を捨てて都会へ流れたとき、誰も守ってくれる人はいない。

たった一人で向き合っていくしかない。

龍馬はその生活の中で何人かのいい人に出会えたと思う。

そして、やはり若い時代に一人では守りきれなくて暗殺された。

土佐屋敷やら薩摩屋敷に庇護されることもなく、どこぞの宿屋で暗殺された。

 龍馬伝を見ていて、分かるなあと思う。

これは田舎を捨てて、都会で生活している人々の共感するところではなかろうか。

 昨日(大相撲3月場所篇)を文春のトヨダさん、ラガーマンの三人でやった。

いつもの蕎麦屋(きょうや)が貸し切りで、もつ焼屋の(志ん宇)となった。

この店はトヨダさんお気に入りの店なのである。

 最初、どういう話の流れだったのか瀬戸内寂聴さんの話になった。

(尼さんになって、ようなりましたなあ)

(あの人の話を聴いて涙流す人多いらしいですねえ)

(若いころはエキセントリックな感じがして作品は一冊も読んでませんけどねえ)

(子どもを捨てたことを一生の悔やみやいうてましたねえ)

(それは尼さんになってからでね、若いときは亭主や子どもを捨ててでも文学に生きる、いうてたんですよ)

(ほ~っ、そうでしたか、ツッパってたんですなあ)

(そうなんですよ、あの人はつっぱってましたねえ)

(トヨダさん、実際にお会いになってどういう人でした?)

(魅力的な人でしたよ)

(やはり、ねぇ)

 そのうちラガーマンは(お坊ちゃんだ)という話になった。

神戸生まれの大阪育ち。

ふうてんのような(村育ち)とラガーマンのような(街育ち)とでは何がどのように違うか。

村育ちは都会の学校へいったとき、やたらと都会っ子にいじめられた。

その都会っ子のラガーマンでも仲間はずれになったことがあるという。

ある時、仲間と数人で、食料やら寝具やらを用意してどこかでキャンプしようと集まった。

夜になって、少年だったラガーマンは不安になって(ボク帰りたい)と言って逃げて帰った。

 お母さんの反応がおもしろかった。

(ウン、この子はそういう判断力をもった子や)

と納得したという。

この体験が、長じて国外脱出をはかるときにも生きたというからおもしろい。

大阪のど真ん中のええとこのボン、それも長男坊が(外国へ行く)なぞと言い出したものだから親戚中大反対。

その中でお母さんだけは励ましてくれたらしい。

その数年後、弟くんも(ボクもお兄ちゃんみたいに外国へ行きたい)といったらしい。

お母さんのお応えは、

(アカン、あんたは外国行ったらあかへん)

だったという。

 トヨダさんと二人で、(孟母三遷の教え)てあるけど、ラガーマン作ったのはお母さんやねえと感心したものだった。

その弟くんがお兄ちゃんにこう言ったという。

(兄貴にいい友だちが多いのは、兄貴が無欲やからやと思うよ)

・・・・

欲はないけど、こだわりはある。

そういう三人の愉快な会合だった。

(ふうてんアーカイブス)

2010 初春 隠宅の新芽たち

アジサイAjisai_1_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

バラBara

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コナラKonara  

Konara_eda  

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2010/03/22

2010・3・21 3月21日は春分の日だった篇

芦ノ湖Ashinoko_3

 このところ天気の変化がめまぐるしい。

夕べはかなりの雨が降ったようだった。

風も強く吹き、我が家の庭師は夜も眠れなかったらしい。

今朝起きてみると、庭師が心配していたようにコナラの大きな枝が折れて傾いていた。

 今日は日曜日にもかかわらず朝の6時に目が覚めて起き出した。

一階へ降りていくと、(キャっ)という声が聴こえたようだった。

シロが早くも起き出して、朝食を催促しているのだった。

それで後輩との会話を思い出した。

(ネコってのはニャ~ンじゃなくてキャっと鳴くんだねえ)

(先輩、それって(キャっと=Cat)のダジャレでしょう、やだなあ)

 雨やら曇りやらが過ぎて、昼過ぎから快晴になった。

天気予報によると、黄砂が通りすぎて冬型の気圧配置になるという。

確かにその通りになった。

強い風で雲やら黄砂やらが吹き飛ばされて夕刻繁寿司へ出向くころには快晴となった。

 山口夫人と我々の三人で、静かに話し合うことができた。

3月ということもあって、自然に東京大空襲のときの話になった。

以前にもお話を聴いていたのだけれど、今夜はよりリアルな思い出を聴くことができた。

(燃え盛る火の中を逃げまどった)

という話は聴いていた。

その、事の顛末を今夜はジックリとうかがった。

 川向こう、つまり隅田川の向こう(千葉より)に夫人たちは住んでいた。

川コチラ、浅草とかの方面に焼夷弾が落とされて大火事になった。

その火が川を超えて移ってきた。

それで夫人の家族たち(ご両親とお姉さんとの四人)も焼ける家を捨ててチリヂリバラバラに逃げた。

・・・

気がつくとお姉さんと二人で、あるコンクリート作りの住宅に迎えられていた。

まわりの建て込んだ住宅は取り払われてその家ばかりが残されたようなところだった。

安全のためとか言って、空爆に備えてまわりの家々は取り払われていたらしい。

 その残された(安全な住居)で一夜を過ごしたとおっしゃる。

お姉さんと二人がはいったあと、もうそれ以上ははいれなくなりドアは閉ざされた。

窓ガラスがあった。

そこからは逃げまどう人々が見えたに違いない。

しかし、迎え入れた人から、

(お嬢ちゃんたちは外を見てはいけません)

ときつく言われてお姉さんと二人でジッとしていたらしい。

 マンジリともせず一夜が明けた。

外へ出ると、まさに屍累々であった。

(マネキンみたいになった人とか黒こげになった人とか)

・・・

(それで地下鉄で、親戚のいる世田谷へ向かったのよね。)

(エッ?あの3月10日の東京大空襲の翌日、地下鉄が動いていたんですかぁ?)

(そうよ、地上は焼き尽くされたけど、地下は何ともなかったのよね)

(とはいっても・・・ええぇ?そうだったんですかぁ?)

(世田谷へ地下鉄で行って、翌日だったか小田急で鵠沼の別荘へ行ったのよ)

(ええっ?3月10日の大空襲で東京が全部焼き尽くされたと聴いていました。なのに小田急が??)

(どうもテレビの報道はちょっと違うわよ、3月は浅草の下町中心で、5月には瞳さんたちの麻布が焼かれたのね)

・・・

(奥さん、そのとき、お幾つでしたぁ?)

(18歳だったわ・・・)

 そんな話をうかがった。

それから何故か今日の3月21日春分の日の話になった。

(実は今日は僕たちの結婚記念日でしてね)

繁さんは結婚記念日がいつなのか全く覚えていないらしい。

(でしょう~?3月18日、なんていうと覚えられない)

(それで?)

(321だと覚えられるでしょう?)

・・・

 まことに安直に結婚式の日を決めたのだった。

女房はまだ学生だった。

卒業式が3月16日だという。

それを待って結婚式を挙げるしかない。

3月21日だとその条件は満たしているし、春分の日は将来も祭日、休日ではなかろうか。

3・2・1だと覚え易いし・・・。

 繁さんが、

(もう何年になります?)

と聴いた。

(今が2010年で、結婚したのが1971年だから、え~と・・・39年ですか)

(僕たちよりちょっと長いですねえ、金婚式までには、え~と・・・)

と指折り数えはじめた。

 外へ出ると、風で吹き飛ばされた外気はクリアーで三日月が綺麗に見えた。

余りにも寒くブルブル震えるほどだった。

暖をとるため、帰りに(書簡集)へ寄って、ホット・コーヒーとウィスキーを飲んだ。

  

(ふうてんアーカイブス)

2010 初春 裾野小川別邸のまえに 箱根神社と芦ノ湖

箱根神社Jinjya_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Jinjya_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Jinjya_31  

Jinjya_32

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

芦ノ湖Ashinoko_1  

Ashinoko_2

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2010/03/15

2010・3・14 裾野は冬だった篇

ワインが並んだWine

 三寒四温と昔の人は言った。

当たっているなあという日々が続く。

この間(桃の節句)だったと思ったらもう3月も半ばとなった。

 温かい土曜日に久しぶりにワインを持って裾野(小川別邸)に集結した。

今回は新しい人の参加もあり、いままでの記憶では最大の9人だった。

集まったワインは12本ほど、日本酒も2本あって、もう若くはない我々ではこなせられない量だった。

 最近は裾野へ向かう前に箱根あたりを冷やかすことになっている。

今回は箱根湯本から(箱根登山鉄道)に乗って、強羅から(ケーブルカー)に乗って、早雲山で(ロープーウェイ)に乗って、最後は(遊覧船)で芦ノ湖を元箱根までいく。

そういう目論見もあった。

 しかし世の中なかなか思うようにはいかない。

温かくていい春日和だったのだけれど、出掛けに春霞が強いなあと思った。

天気も何となく怪しくて雲が重たく垂れ込めている。

これではロープーウェイに乗っても何も見えないのではなかろうか。

そんな杞憂を語りながら(ホンダ・レジェンド)で箱根へ向かった。

 結局、箱根湯本には適当な駐車場所がないことが分かり、箱根登山鉄道を諦めて1号線を元箱根へ向かった。

やっぱり箱根の雰囲気は1号線のうねうねと曲がる山道を走るときに強く感じることができる。

木々の緑や紅葉がなくても、道の両方に見え隠れする家屋の雰囲気に箱根を感じることができる。

 元箱根について、蕎麦を食べて(箱根神社)を参拝した。

この神社からは芦ノ湖が眺望出来て、湖にある鳥居からは宮島の厳島神社を連想させられる。

これまでは芦ノ湖の遊覧船から見ていた杉木立に囲まれたこの神社を初めて訪ねた。

(箱根というのは結構奥深いものがありますなあ)

とレジェンドの主と感嘆しあった。

 それから1時間半ほどかけて裾野(小川別邸)にたどり着いた。

今回初参加の元ニューヨーク駐在員がユニークな(ワイン・オープナー)を持ってきていた。

これはかなりの優れものだった。

ワインの蓋の包み紙を剥がし、コルクにギリギリと螺旋型のネジをねじ込み、ボトルを両またにはさんでエイッ・ヤッとコルクを抜く。

この一連の動作をこの(器具)はまことに軽やかに楽にやってのける。

 このマジックのようなしろものはやはりフランス人の発明のようだった。

ある意味極めて洗練された手際に(フランスのエスプリですね)と誰かが言った。

次回もこれを持ってきますよと元ニューヨーク駐在員はいった。

その時にはビデオで一連の成り行きを報告したいと思う。

(ふうてんアーカイブス)

2010 3月 裾野小川別邸 ワインの会

ワインの列Wine_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

大明神のギター

Kamakura_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Kamakura_2  

 

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2010/03/07

2010・3・7 SONYがダメならPanaもあるけれど篇

早春Ajisai

 今年の東京の冬は本当に雨が多かった。

雨のついでに雪も降った。

(しめりけ)ばかりの冬が終わり、雨の中、春が近づいている。

 土曜日だったかBS2で(ベン・ハー)を見た。

ガレー船でのチャールトン・ヘストンとジャック・ホーキンスのやり取り。

そして戦車競争での馬のシーン。

あのレースのシーンは何度見てもどのように撮影したのか分からない。

それにしてもウィリアム・ワイラーとは何という幸せな映画監督だったことか。

(ローマの休日 1953年)

(大いなる西部 1958年)

(ベン・ハー  1959年)

大したエネルギーの持ち主だと思う。

 ソニーのビデオ・カメラのズーム機能が動かなくなって一月ほどたった。

おかげで(ふうてんアーカイブス)の準備はまことに楽だった。

動画と静止画。

その容量が違うのに比例して動画と静止画では扱う苦労が全く違う。

そういう実感があった。

 ソニーを修理に出す手もある。

しかし今のところ迷っている。

最新のソニーのデジタル・ビデオ・カメラがえらく安く良くなっている。

高い修理代を出して今のカメラを直す値打ちがあるだろうか?

確か、松下のデジタル・ビデオ・カメラも我が家のどこかに眠っているはず。

・・・・・

 数日前にその松下(Panasonic)のカメラを自室で発見した。

3CCD、だとか400万画素相当だとか性能はソニーのより大分優れている。

しかし、4~5年ぶりに手にして戸惑っている。

ソニーとは使い勝手があまりにも違う。

何しろ倍くらい重たい。

ボタンとかメニューとかをどう使ってよいか分からない。

幸いマニュアルも出てきたのでアレコレ確かめる。

詳細な説明・・・ちょっと見たくらいではとても理解できそうにない。

・・・・

 機能満載のマシンの(説明書)はこうなってしまうのだろうか・・・。

 雨ばかりで(撮影日和)はめったにない。

SONYかPanasonicか。

軽快か質実剛健か。

これらを捨てて最新のマシンに走るべきか・・・。

優柔不断のふうてんはいつまでも迷うのである。

 桜の花も近いというのに。

(ふうてんアーカイブス)

2010 早春 雨のなかにアジサイの新芽が

アジサイShinme

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2010/03/01

2010・2・28 梅まつりのころ篇

谷保天神の梅Yaho

 この一週間、天気はめまぐるしく変化した。

17、8℃もある日もあったし、10℃以下の日もあった。

晴天もあったし、終日雨もあった。

春の、この頃はいつも、人間も温度やら湿度やらの試験を受けることになる。

 今日の28日は谷保天神の梅まつりを楽しみにしていた。

一昨日当たりから天気がくずれ、昨日は終日小雨が続いた。

今日も朝から雨だった。

谷保天神のホームページを見ると、雨天中止とあった。

 雨がやんだ夕刻、まだ日の光の明るい3時過ぎ、念の為に谷保天神の梅園を訪ねてみた。

囃し太鼓も琴の音も天神太鼓も聴こえてこなかった。

ただ馥郁たる梅の香りが漂っているだけだった。

一年をかけて舞や囃しや太鼓を練習した少年少女たち、オバさまたちの思いは・・・。

縁日のこととて雨天順延というわけにも・・・。

 チャリで冷たい空気の中女房と繁寿司へ向かった。

山口夫人と三人でしばらくいろんな話に耽った。

やがてお客さんがいろいろ来て繁さんは忙しくなった。

 夫人から(銀座百店)かなんかの小冊子で池波正太郎さんの没後20周年の座談会の記事を見せていただいた。

池波正太郎さんがなくなってもう20年。

ちょっと驚いた。

山口夫人は川向こう、大川(隅田川)の向こう側。

池波正太郎は川こちら、浅草近く。

近いところでお二人は生まれ育った。

瞳さんは山の手。

麻布だか青山だか方面。

そんな(江戸)生まれの三人のいろんな話を聴く。

 冷たい空気の中、帰りに書簡集へ寄る。

マスターがこの間の住大夫さんの番組を録画してふうてんにあげようと思ったという。

ところがどうした訳か音声がはいっていなかったらしい。

(NHKに問い合わせてみたい)

なんてことをいう。

(音声のない義太夫もないよねえ)

などと、DVD録画してあげたかったという気持ちを有難く受けとめた。

 住大夫さんの追っかけをしている、という話から、昔の追っかけの話になった。

ふうてんの追っかけは中学生のころの(オー・マイ・ダーリン クレメンタイン)の女優さんのリンダ・ダーネルにファンレターを出したことから始まったことを告白した。

この映画は日本では(荒野の決闘)という題名で放映されたジョン・フォードの傑作映画である。

あれがあり、これがあり、今は住大夫、錦糸コンビである。

錦糸くんの三味線がいかに素晴らしいか。

そういうことを縷々話していると突然マスターがこう言った。

(ピアノを始めたらいかがですか?)

 これにはドキッとして、まだ心が落ち着かないでいる。

京都でフラメンコ・ギター教室に3年間通って上手に弾けなかった。

小学校のころ2年ほどピアノ教室に通ってうまくならなかった。

もう楽器はよそうと思っていた。

マスターは言う。

(ピアノはどっか押さえると音が出るでしょう?)

まあ確かにね、ギターみたいにどっかを押さえて同時にどっかを弾く、てなことは必要ないよねえ。

(歳とったから出来ないなんて理由ないでしょう?)

まあ確かに、ピアノはどこか押せば、間違いなくそこの音がでますわねえ。

(でしょう、誰か、今、お家のピアノ弾いているんですかぁ?えっ、誰も弾いてない、いけませんねえ、いけませんよそれは、誰か弾かないとピアノに失礼でしょう)

・・・

(マスター、お話は分かりました、ところでどなたか別嬪のお師匠さんいてはりますピアノの?)

(分かってます、分かってますよそんなことは、でも余りクレームのこない程度の別嬪さんというあたりがですねぇ・・・)

 冷たい風の中チャリで家へ向かった。

帰ってから念の為ピアノの音がするかどうか確かめてみた。

ドレミ・・・。

夜中にしては、やたらとデカイ音がした。

マスターと話したようにピアノを弾くには時間のことを考えねばならないようだった。

藤田まこと

 藤田まことがなくなった。

なくなる一月ほど前に、神保町の三省堂書店で彼の印象的なセリフを聴いていた。

(恥ずかしながら 一生 芸人です)

 吉本隆明の(思想のアンソロジー)という本にこのセリフが取り上げられていたのだった。

少し長いけれど、引用することにしたい。

 藤田まこと

恥ずかしながら

    一生

      芸人です

 子どもの友人の娘さんが愉しい人で、藤田まことの色紙を頂戴してきてくれた。

そんな私的な色紙のなかの言葉を意図的に選んだ。

なぜかと強いていえば、言葉そのものが著名な芸能家がファンに与えるという位置に立っていないし、とうていそんな気持ちをもてないような謙虚な人柄が滲みでているからである。

わたしも自前の言葉を色紙に頼まれたら、一度は、恥ずかしながら、生涯物書きですという模倣をさしてもらおうとおもった。

 誰にとっても生涯の職業は恥ずかしいものだ。

何故なら、他の何にもなれなかったから、そうなってしまって米塩の資を得ているからだ。

 太宰治の(みみづく通信)のなかに、旧制の新潟高等学校に講演にいったときのことが書いてある。

講演を了えて、文芸部の学生さんと一緒に海岸の方へ散歩に出かけたとき、学生から(太宰さんはどうして作家になったのですか)と聞かれる。

かれは(他の何にもなれなかったからだ)と答える。

学生は(それじゃ僕にもその資格があるわけだ)と半分笑わせるつもりで言う。

太宰治は、たぶんきりっと真面目になって(だろうとおもうが)、(きみはまだ何もやったことがないじゃないか)と切り返す。

わたしはこの場面が好きだ。

 藤田まことの(恥ずかしながら)のなかにはおなじ思いがあるにちがいない。

(てなもんや三度笠)から現在の(はぐれ刑事純情派)まで、その演技や話芸をテレビで、好きだというだけで視聴してきた。

その芸は自然体のまま資質の深さを滲ませ、話芸はまた呼吸自体が人柄になり、静かなままで謙虚を映している。

 ここまで書かれると付け加えることは何もない。

このセリフを本で知ったあとしばらくして藤田まことは亡くなった。

(ふうてんアーカイブス)

2010 2月 谷保天神 梅まつりのころ

谷保天神の梅 

Ume

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと上から、好きな構図Baien_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

雨がなければ・・・Butai  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近くの公園の梅Koen  

 

 

 

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