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2009年7月に作成された記事

2009/07/27

2009・7・26 愉快な仲間たち篇

大学の森のカモKamo

 梅雨が明けた。

先週も書いたように今年の梅雨は行きつ戻りつした。

これまでにも空梅雨やドシャブリ連続の梅雨があった。

しかし今年のように降ったりやんだりを繰り返すことはあまり記憶にない。

 七月場所が終わった。

今場所は日馬冨士(はるまふじ)の綱取りの場所だった、はず。

期待していたのだけど、結局白鵬の一人相撲で終わった。

優勝がかかった最後の二番。

日馬冨士-琴欧州

白鵬-朝青龍

日本人のいない国技(大相撲七月場所)になってしまった。

 土曜日に谷保駅にほど近い(きょうや)で(大相撲七月場所篇)をやった。

年6回の(千秋楽前日)の飲み会である。

ラガーマンと文春のトヨダさんとふうてんが(きょうや)に集結した。

 ふうてんは(野村主義)という最近の野村監督の本をラガーマンに持って行った。

それを渡すと、あっ僕の方からも忘れないうちに、と一枚の絵を(奥さんに)と渡された。

それには赤い(うちわ)の絵と俳句が描いてあった。

(土曜丑 疲れ果てたる 渋団扇)

 (きょうや)のおかみさんにも一枚プレゼントされた。

(疲れ果ててるんですか~ぁ?)

と、おかみさんに聴かれてラガーマンすっかり銀色になった頭をかいていた。

やがて少し遅れたトヨダさんも来られて三人の会が始まった。

 トヨダさんは文春でこの間まで働かれていた。

文藝春秋、週間文春、文学界などで編集という立場で番を張ってきた人物である。

このお方が書かれた(それぞれの芥川賞直木賞)という本が(文春新書)から出ている。

そういう人だから、いつも質問ばかりして申し訳ないと思っている。

文芸に関する春秋を語るにこれほど相応しい御仁はいない。

 今回はふうてんが最近読んだ(悪霊)の話から前座をやらせてもらった。

ドストエフスキー、夏目漱石の過ごしたあの動乱の時代。

(疾風怒濤)の時代でしたねえ、とトヨダさんが応じてくれる。

井伏鱒二の作品も素晴らしいけれど、大いなる物語も読みたくなりましてねえ。

などとひとしきりコチラの最近の(読書傾向)を聴いてもらった。

 夏目漱石と森鴎外はやはり傑出していましたねえ、という話になった。

二人ともヨーロッパに留学体験があるのですなあ。

そういえばラガーマンさん、あなたも確かパリのソルボンヌ方面へ?

・・・・

という当たりから、古今東西の話に移っていった。

日本はユーラシア大陸の極東に位置している。

鎌倉大明神おっしゃるところの(辺境の国)ではなかろうか。

 ハモと梅肉、岩牡蠣、冷たいとろろ蕎麦などを麦焼酎で平らげた。

夜風の中、チャリで帰りながら(愉快な仲間たち)という昔TBSテレビでやった番組を思い出していた。

愉快、という言葉の響きがふうてんは好きなのである。

この言葉を上手に使っていたのは檀一雄だった。

食道楽でもあった彼が(まことに愉快だった)というとき、本当に旨そうだった。

 国立の(繁寿司)で知り合った愉快な仲間たち。

次回は(大相撲九月場所篇)、さてどのようなメニューになりますか。

(ふうてんアーカイブス)

2009 梅雨明け 国立の愉快な仲間たち

シロShiro  

Shiro_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

クロKuro  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カモKamo_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ロシナンテ                

Roshinante 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ミニMini

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2009/07/19

2009・7・19 久しぶりに(悪霊)を読んだ篇

モモが実ったMomo

 先週梅雨明け宣言があったのに、この蒸し暑さは何なのだろう?

以前の梅雨明けが懐かしい。

ドシャブリの雨が降ってカミナリがドシンドシンと落ちて、翌朝真っ青な空に真っ白の入道雲。

1日くらいは蒸し暑く、それまでの梅雨の湿度は簡単にはとれない。

しかし2、3日後からはカラリとした真夏がやってくる。

そんな夏休みのころの情景を思い出す。

 そういう爽やかさとはほど遠い夕刻チャリで繁寿司へ出向く。

今夜は連休のせいで人々は遠くへ出かけたのだろうか。

最後まで我々三人だった。

山口夫人が昔の写真を見せてくれる。

少なくとも30年は前の写真で、繁寿司の以前のお店での写真だった。

山口瞳さんも常盤新平さんも若かった。

 帰りに書簡集へ寄る。

繁寿司を出たとき、7時は過ぎていたと思うのだけど妙に明るかった。

空を見上げると(夕焼け)というより(残照)だった。

空に広がった、乱れた雲に夕日が反射して明るく照らしているのだった。

そういえば昔、京都でJOさん、Muさんと正月明けに上賀茂神社を冷やかしたとき、小説葛野記だったか小説木幡記だったかに(青春の残照)というタイトルがついていたなあ。

(夕焼け)というよりも(残照)の方が余韻が残っていいなあ、などと思う。

 蒸し暑さのせいで、あまり現実感のない一日だったせいか、マスターにドストエフスキーの話をした。

トルストイやドストエフスキーはあまり読んでいないらしい。

トルストイなどは重厚長大過ぎて、刑期20年くらいで監獄に閉じこもったら読むかもしれないとおっしゃる。

しばらくドストエフスキーやトルストイなどの話に耽った。

帰り際、

(マスター、競馬は相変わらず調子いい?)

と聴いた。

(8連勝中です)

とマスターは応えた。

ドストエフスキーで読んだのは(賭博者)です、とも。

(なるほど、やはりねえ、もうすぐ選挙ですねえ?どうなりますかねえ?)

(勝負の決まっているレースは興味ないです、一票あげますよ)

なるほど、なるほど、さすが(賭博者)のお応え。

(嬉しいけど2票は投じられないので)

と書簡集を辞した。

空気が少し冷えてきて、湿度も下がって快適な帰路となった。

ドストエフスキーの(悪霊)を読んだ

 源氏物語を読み終わるころからドストエフスキーの(悪霊)を読み直したいなあと思っていた。

本棚で見つかっていたのだけれど、何しろ古い文庫本故、読みづらくってしようがない。

岩波文庫は何故かこの米川正夫訳の(悪霊)を復刻しない。

新潮文庫の江川卓訳のものを本屋で冷やかしてみるのだけど、何となく雰囲気が違う。

・・・・

迷った挙げ句、結局江川卓訳で読むことになった。

ちなみにこの2種類の本の発行日は以下のようである。

岩波文庫 米川正夫訳 昭和 9年第1刷 昭和46年第32刷
新潮文庫 江川卓訳  昭和46年第1刷 平成19年第13刷  

ちょうどふうてんが読んだ昭和46年に入れかわるように江川卓訳が登場している。

 文庫本の初版が約40年違うということは翻訳の文体の違いもあることを意味する。

スチェパン氏、ヴァルヴァーラ夫人となっていたのがステパン氏、ワルワーラ夫人になっている。

ただ主人公のスタヴローギンは同じだったので助かった。

米川正夫の方がロシア語の発音に近いのだろうか?

 もう一つ、おそらくフランス語で書かれている部分を米川正夫は(・・・)としていたのに対し、江川卓はカタカナにしている。

これはかなり大きな違いで、訳者はお二人とも悩んだのではないかと思われる。

ロシア語の会話の中に突然フランス語がはいってくる。

それを日本語に訳すとき、どうすれば雰囲気が伝わるか・・・?

カタカナ表記にすると、確かに言葉が変わった感じがして、なるほどと思った。

当時ロシアは西洋コンプレックス、特にフランスへの憧れが強くフランス語を多用していた、という話を聴いたことがある。

 何故読み返したくなったのだろう?

スタヴローギンが寡黙で、じっと考えて行動に移る。

そんな一種のスタイルのようなことだけが印象に残っていた。

 読んでみて、ストーリを全く覚えていないことに驚いた。

いろんな人たちが沢山登場してともかくおしゃべりをする。

本題にはいる前に、まずスチェパン氏にご登場願おう、などと彼を登場させて、ヴァルヴァーラ夫人との果てしのないアレやらコレやらから物語は始まる。

どうでもいいような話ばかりが長々と続く。

 やがて、チラッ、チラッと物語の核心になりそうなことが(噂話)のような形で登場しはじめる。

ヴァルヴァーラ夫人にスタヴローギンという一人息子がいて、いま海外にいる、なんて話はずいぶんたってから出てくるのである。

この前半、スチェパン氏の友人としてGという男を登場させる。

何にも役はないのに何故かどの場面にも現われて誰が何をしたか、だれが何を言ったか報告しているのである。

(あれ~っ?ちょっと漱石のカメラワークに似ているなあ)

と、少し興味がわく。

 やがて、登場人物が多くなり、物語が複雑になり、緊迫感のあるシーンになるとこの手法は姿を消したように感じた。

(漱石の方は登場人物が少なかったものなあ)

と納得しようとした。

 最後の最後になってダーリャ当てにスタヴローギンから一通の手紙が届く。

状況から言うと(こころ)の先生からの手紙そのものではないか。

長い手紙ではないが、最後にこんな風に書き添えている。

(こんなに長く書いたことを許してほしい。いま気がついたのだが、思わずもこうなってしまったのだ。この調子だと百ページでも足りないだろう。十行でも十分だろう・・・)

 そして巻末に、ロシアで出版された当時は割愛されていた(スタヴローギンの告白)という特別の章が追加されている。

僧院にチホン師を訪ねる場面で、チホンとスタヴローギンの二人の会話の中にスタヴローギンという男のエッセンスが凝縮された形で描かれる。

 (悪霊)はロシアの農奴解放令のあった時代を舞台としている。

漱石は修善寺大患後、ドストエフスキーの(銃殺刑寸前の仕組まれた恩赦)について触れていたように思う。

ロンドン留学時代、英訳のドストエフスキーはまず全て読んだに違いない。

ちょっと確かめたくなってグーグルに聴いた。

ドストエフスキー

1821年 モスクワ生まれ、学生時代はペテルブルグ
1849年 逮捕され銃殺刑寸前に恩赦、シベリア流刑4年
1861年 農奴解放令
1866年 (罪と罰)

1871年 (悪霊)
1880年 (カラマーゾフの兄弟)
1881年 死去(60歳)

夏目漱石

1867年 江戸生まれ、学生時代は東京
1868年 明治維新
1900年 イギリスに留学
1905年 (我が輩は猫である)

1912年 (行人)
1914年 (こころ)
1916年 (明暗)
1916年 死去(49歳)

 やはり間違いないと思った。

漱石は小説作りにかなりドストエフスキーの影響を受けたのではないだろうか。

ロシアの農奴解放から共産革命へ至る混乱期。

日本の明治維新から世界戦争へ向かう混乱期。

個人の心の問題を社会の大変動の中で見続けた作家たちだったように思う。

(ふうてんアーカイブス)

2009 梅雨明けのころ 色づくことのできたモモたち

(例年、まだ熟さぬうちにヒヨドリに突つかれて落ちてしまう)

その1Momo_1    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2 

こんな細い枝で

Momo_21 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

重たいモモを  

Momo_22 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Momo_3  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その4Momo_4  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その5Momo_5  

 

 

 

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2009/07/13

2009・7・12 東京では民主が大躍進した篇

カサブランカKasaburanka

 夕刻チャリで東京都議選の投票に行った。

梅雨も一休みで、空は雲や青空や夕焼けや、マンダラ色だった。

風が全くなく、けだるいような生暖かい空気に包まれている。

 夕刻だったせいか投票所(近くの中学校)はガランとしていた。

投票を終わって、けだるい空気に誘われるように近くを一回りする。

この、夏の夕刻(薄暮?)のころはまことに平和な感じがする。

冬の木枯らし吹きすさぶ、というきびしさはない。

春の(桜は?桜は?)という焦りのようなものもない。

秋のもの悲しさもない。

ただボ~ッとしていればいい。

 どういう次第か今日は通りに人がいなかった。

まことに静かな日曜日の夕刻であった。

夏のこの静止したような雰囲気も悪くない。

夜になって続々と民主圧勝のニュースが流れた。

静かな中で東京は燃え盛っていたようだった。

 土曜日に(八王子エコ・サミット)をやった。

ひょんなことで知り合った三人の会である。

自然がなくなり養殖や輸入物の食べ物ばかりになった。

それを嘆く話で通じ合った三人組なので(エコ・サミット)というようになった。

一人は北海道出身、一人は佐渡島出身、ふうてんは瀬戸内伊予の出身。

どこも昔は魚の美味しいところだった。

 佐渡島出身のフジイさんは去年から家庭菜園をやりはじめた。

とれたての野菜の旨さにはまってしまったらしい。

そして半年ほど前から(絵)を描くようになった。

スケッチブックに(花)の絵を描くようになった。

(八王子エコ・サミット)に時々持ってきて披露してくれる。

 自分の目にするあらゆる花を描くんだ、と意気込んでいる。

もう花の種類は300種をくだらないらしい。

名前の分からない花が多く、植物図鑑やグーグルに聴いている。

そのうち描きためた絵をスキャナーでとって、ブロッグでも始めようか。

その絵を使って絵ハガキを作ったり、読者が自由に使ってくれると嬉しいなあ、などといっている。

 八王子エコ・サミットで寄った3軒ほどの店で、どこでも女性たちは歓声を上げてくれた。

やはり(花の絵)に女性たちは野郎どもよりは敏感に反応した。

野郎どもは(武器)に興味を持つ。

女性たちは(花)に興味を持つ。

ウ~ン、と考えさせられる。

(ふうてんアーカイブス)

2009 八王子エコ・サミット フジイ画伯

その1 

Fujii_11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Fujii_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Fujii_3  

Fujii_32

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2009/07/06

2009・7・5 伊丹一三のことなど篇

コナラの新芽?Shinme

 どうもこの季節、深い鍋底にはいったような日々が続く。

梅雨前線が上がったり下がったりしているらしい。

天気予報は当てにならず、怪しいなと思われる日はカサを持った方が無難という日々。

 繁寿司へ向かう前に、ロシナンテに一鞭くれる。

雨ばかりで(運動不足)になっているはず。

目につくホコリだけ払って、セル・モーターを回す。

アクセルを踏むこと20回、一休み。

これの3回目にエンジンが目覚める、というのがこの数年の決まり事となった。

 繁寿司で山口夫人が一枚の写真をバッグの中から取り出した。

この間見せて貰って(コピー)をお願いしていた伊丹一三の若いころの写真である。

彼が30歳代のころの写真で、サントリーの社宅に奥さんと来たときのショットである。

勿論、白黒の写真なのだけれど、伊丹一三が生々しく写っている一枚。

(これはただものではない)

と思わされる骨相をしている。

 どういう次第なのか、いつのころからか伊丹一三は山口瞳さんに弟子入りしたようである。

伊丹一三の最初の著作である(ヨーロッパ退屈日記)の推薦文を山口瞳さんが書いている。

その本をふうてんが読んだのは大学の3年生のころだったろうか。

京都の鴨川添いに下宿していたキンちゃんに誘われて、一晩飲み、明け方鴨川の土手を歩いていたとき(伊丹一三て知ってる?)と聴かれた。

何も知らなかったコチラはキンちゃんに言われるまま(ヨーロッパ退屈日記)を読んだ。

 この本の中身にも、バックカバー(本の裏側)の山口瞳さんの推薦文にもふうてんは強い印象を受けた。

まだ二十歳過ぎのころだった。

ああ、こういう生き方、付き合い方もあるのだなあ、と思った。

ふうてんの記憶では当時伊丹一三は二十八歳だったと思う。

二十歳にとって二十八歳は大人であり、大先輩なのであった。

 この本を紹介してくれたキンちゃんは松山の中学・高校、そして京都の大学と一緒に学んだ友人である。

おそらく彼は松山にゆかりのある人物として伊丹一三を教えてくれたに違いない。

 それから15年ほどたって、たまたま国立に住むようになった。

きっかけは女房が(国立音楽高校)の事務に勤めたことだった。

その学校で、出前でよく頼んでおいしい(寿司)があるという。

どれどれ?と出向いて行った。

それが繁寿司だった。

主人が娘さんのような人と二人でやっていた。

(お嬢さんですか?)

と聴いた。

(よくそう言われます)

と繁さんは言った。

 客の一人に、何だかサントリーの宣伝で見たことあるような人物がいた。

ショートカットというよりも(坊主刈り)に近い頭をしていた。

それが山口瞳さんだった。

もう30年近く前のことになるだろうか。

 今日、伊丹一三の一枚の写真を山口夫人から戴いて、こんなことを思い出してしまった。

(ふうてんアーカイブス)

2009 梅雨のころ コナラの生命力

もうドングリがDonguri  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

枝が落ちたらMae  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

また出そかAto  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

僕もShinme_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わてもShinme_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あたいもShinme_3

  

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