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2009年6月に作成された記事

2009/06/28

2009・6・28 After Twenty Years篇

アジサイAjisai

 この土日も雨に降り籠められた。
梅雨は梅雨らしく降ってくれた方がいいとは思う。
しかし天気予報では昨日も今日も晴れか曇りのはずだった。
予報はすっかり外れ、おかげでロシナンテの(体操)も買い物もできなかった。

 今年は隠宅のアジサイが豊作だった。

年によっては一個も花をつけないことがある。

庭師に聴くと、葉が枯れ落ちるころ行う(剪定)の具合によるらしい。

(去年は、少し背を高くしたいという思いもあって花芽を残すように切った)

と、のたまう。

その結果がエライ豊作となって現われた。

まこと植物というのは素直なものだと感心する。

 先週金曜日に(四季の会 春夏篇)を府中でやった。

5歳違いの四人組である。

今年は63-58-53-48となる。

してみると、一番若い(天才牛若丸)ももう48歳??

 その彼がこの間(文部科学大臣賞)を貰ったという。

パソコンによるデジタル放送の視聴を可能にし、パソコンの拡販にも貢献したのがその理由らしい。

めったにないことなので紹介しておきたくなった。

その風景がインターネットで見つかった。

受賞者5人が写っている写真で一番左が我らが(天才牛若丸)である。

 ずいぶん長くかかったなあ、という思いがある。

あるいは、そういう時代になったのだなあ、という思いもある。

(天才牛若丸)と初めてやったパソコンは1985年だった。

標準モニターにテレビを使った、テレビ・パソコンだった。

当時、パソコンとテレビは別のものであった。

 今、パソコンとテレビは一体化しつつある。

それを加速させる役割を果たした、という意味で今回の受賞があったのだと思う。

1985年のテレビ・パソコンの次に、この四騎の会の四人組がそろってチャレンジしたのが1989年のTownsだった。

今度はオーディオCDをパソコンにくっつけた。

オーディオもテレビもビデオもパソコンも(デジタル時代はみんな一緒)という思いだった。

 1989年から20年か・・・・。

After Twenty Years

オー・ヘンリーの傑作短編のこの文句をよく使わせてもらう。

言葉の響きがよろしいじゃありませんか。

 ちょっと1989年がどういう年だったのか振り返ってみたい。

1989年 1月 昭和天皇崩御、平成となる

      2月 手塚治虫死去

      3月 Towns発売

      6月 美空ひばり死去

      6月 中国、天安門事件

     11月 ベルリンの壁崩壊

 我々はTownsの開発、出荷、前後の大騒ぎで夢中になっていた。

しかし世の中は大きな変化に襲われた年だった。

日本では昭和が終わり、世界では冷戦が終わった。

昭和の戦後、マンガやアニメで鉄腕アトムはみんなが見た。

紅白歌合戦のおおとりはいつも美空ひばりだった。

007の(ロシアより愛をこめて)やヒッチコックの(北北西に進路をとれ)などのスパイものが大はやりしていた。

 それから20年たって世界中が不況にあえぎ、冷戦のあとアラブ方面を始め世界で争いが続いている。

この先どうなるのだろう?

ここは一つ、ジャック・アタリ先生の(21世紀の歴史)でも読んで、21世紀の残りの90年に思いを馳せてみますか。

この間神保町の三省堂書店で重たいこの本を買ってきて寝室でナイトキャップにしてしいる。

(ふうてんアーカイブス)

2009 梅雨のころ 隠宅のアジサイ

その1Ajisai_1 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Ajisai_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Ajisai_3  

 

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2009/06/22

2009・6・21 国防上、略図ヲサラニ大略ス篇

谷保天神の梅Yahotenjin

 どうも6月にはアジサイ以外に目立った花がないようだ。

梅雨のころ、雨が降るかどうかは別として、ともかく太陽は隠れていやがる。

こういう季節、花たちは依怙地に、被害妄想になるのだろうか。

百花繚乱の季節のはずなのに、あまり自己主張する花がいないような気がする。

してみれば、花たちの(我が世の春)は4月、5月までで、6月は(知りません!!)なのかも。

 今年になって、テレビや本屋さんで何故か(太宰治)がニギニギしく取り上げられている。

これはどうしたことなのだろう?

何故、今どきの人が(太宰治)を読むようになったのだろう?

神保町の三省堂書店当たりを冷やかすたびに不思議だった。

そして一週間ほど前、ニブイふうてんもやっと気づいたのだった。

(太宰治 生誕100周年)なのではなかろうか、と。

 太宰治という作家は夏目漱石の次にポピュラーな作家ではないかと思う。

残念ながら我らが(瘋癲老人)こと谷崎潤一郎せんせ~も負けているような気がする。

(ポピュラーさ)という点では、漱石、太宰の右に出る作家はいない。

 その太宰治の作品で一番好きなのは(津軽)である。

表紙を開けると、彼自身が書いた絵が(口絵)として出てくる。

その1枚目が津軽の地図であって、それの注として(国防上、略図ヲサラニ大略ス)とあって、ああ太宰治も昭和の戦争時代に生きた人なのだなあと思わされる。

 (斜陽)(人間失格)、彼は人の話しに耳を貸さずに大急ぎで生きて死んじゃった。

太宰治については彼の作品そのものより、関係した人たちの話から受ける(太宰治像)というものがある。

 熱烈な読者だった大学の先輩に(津軽だけは読んだ方がいいよ)と教わった。

 吉本隆明からは(君、無精髭は剃れよ、と言われた。夜店で売っていた毛ガニを殻ごとバリバリと齧っていた)と聴いた。

 檀一雄からは学生時代の悪友関係ぶりを(小説太宰治)などでいろいろ聴いた。

いつものモツ焼き屋のようなところで安酒を飲んで(吉原という戦場)へ突撃したものだったと語っている。

 井伏鱒二からは見合いに付き合ったり、アレコレの太宰治の行状の客観的な報告を聴いた。

 (斜陽)とか(人間失格)とかはもう内容を忘れてしまった。

しかし(津軽)は何度も読み返して、そのたびに感心する。

終戦前後の昭和20年ころ、久しぶりに故郷津軽へ帰る、その3週間ほどの旅の記録である。

自分は何なのか、津軽人とは何なのか?

冒頭に(国防上、・・・・)とあるような時代状況。

東京に出てきていた太宰が久しぶりに津軽に帰り、懐かしい人々を訪ねる。

 感傷、お涙頂戴、という表現をとらない。

お坊っちゃまが来るというので、歓迎するために涙ぐましい努力をする。

歓迎の準備でへとへとに疲れてしまう。

歓迎される方も、その思いの重たさに、これまたへとへとに疲れてしまう。

大金持ちの(お坊っちゃま)だった太宰は、家族の中で自分だけガラッぱちだという違和感に悩み続けてきた。

しかし、この津軽旅行で、懐かしい人々を訪ねるうちに、ああ俺はこの人たちと同じなんだと気づいてくる。

この人たちに育てられたんだ、とユーモアというか可笑しさというか、おもしろい気分で振り返っている。

 ああいう死に方をした作家だったけれど、よほど人懐こい人だったのではないかとふうてんは思う。

ふうてんが読む文学は、戦争をくぐってきた人たちのものばかりだなあ、と改めて考えさせられた。

(ふうてんアーカイブス)

2009 6月 谷保天神 山口瞳さんの文学碑

その1Ume_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その2Ume_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その3Ume_3  

 

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2009/06/14

2009・6・14 盲目のピアニストのこと篇

梅雨にはアジサイAjisai

 辻井伸行という20歳の若者がクライバーンのピアノ・コンクールで優勝した、というニュースが飛び込んできた。
 

 ニュース番組の映像をいろいろ見て、ふうてんは無条件に嬉しかった。

(よかったなあ、ピアノがあって)

と思った。

 数年前に(戦場のピアニスト)という映画を女房と立川シネマシティで観た。

猟奇殺人事件に捲き込まれたあのポランスキーが監督した堂々たる映画だった。

ハードボイルド・タッチの中にポーランド人のナチスへの抵抗が描かれていた。

その映画の中で、主人公を救ったのはピアノで奏でるショパンの名曲だった。

 辻井伸行くんの愉快なニュースを聴いて、この映画のことを思い出していた。

目の見えない彼にとって、この世で生き抜いていくということは、戦場での戦いの連続のようなものではなかったろうか。

お父さんやお母さんがテレビにも登場して、何気ない風に語っておられる。

戦場での勇者たちは苦労話はしない、ものなのだなあ・・・・。

 伸行くんは2歳半くらいのときにオモチャのピアノを喜んで弾きはじめた。

3歳くらいまでが絶対音感というものが身につく年齢だといわれている。

 あるいは脳学者に言わせると、ニューロンがまだ十分に繋がっていない年齢だから、その音楽世界が大きくなります、ニューロンが繋がって成人してからでは遅いんです、とも。

ニューロンというのは、はいってくる刺激に対して、ああこれはこれね、と反応する機能を持っている。

ニューロンのネットワークがある程度固まってくる年代以降に音楽に触れるのと、その年代以前に音楽に触れるのとでは、音楽に関する可能性の範囲の大きさが違う、というのがこの脳学者の説なのですね。

 音楽というのは音の世界でありますわね。

本来は(楽譜)なんて関係のない世界、のはず。

楽譜というのは何ごとにも規則を作りたがる西洋の一部の人の発明でありました。

連中、楽器の開発にも熱心でしたから、楽器の奏法上(楽譜)が必要だったのかもしれません。
 

 その他の地方、世界中の各地で行われていた音楽には楽譜なんぞありゃしません。

ですから伸行くんは眼が見えないが故に(楽譜)に毒されることなく、本来の音楽世界に素直に接することが出来た、とも言えるのではないかとふうてんは思うのですね。

 ふうてんの神さまの一人であるパコ・デ・ルシアは9歳のときにお父さんに言われたそうです。

(パコ、もうお前は文字も書けるし、数の勘定も出来るよね。明日からはギターの練習だ)

それで小学校へも行かなくなった、とか。

まだ小学校の2~3年生なのに大きなギターをどう弾いたのでしょうか。

勿論(楽譜)なんてものはフラメンコの世界にはございません。

ただ大人たちの弾くギターの指遣いを目で見て、歌い手の歌を耳で聴いて、踊り手たちの踊りでリズムや情感を感じる。

パコ・デ・ルシアはフラメンコ一家に育ったので、まあ一日中フラメンコ漬けでしたわ、と本人が語っています。

 こういうニュースは無条件で嬉しいなあ、と言っていますと女房が、

(でも彼が何を弾きたいのか、何が特徴なのかわからない)

とゆいました。

(ショパンもベートーベンも、あまつさえリストまでも弾いていたよね)

・・・・

(嫁さん、彼はまだハタチなのよ。ピアノを上手に弾けるようにはなったけど、音楽家としてはこれからじゃないの?クライバーン・コンクールはいろんな作曲家の曲を弾くことがノルマになっている。ということは芸術性よりもテクニックを確かめるコンクールとちゃうのかなあ)

・・・・

 まだ女房どのは納得がいかないような顔をしていた。

 グルメ(美食家?)たるためにはグルマン(大食漢?)でなければならない、と聴く。

音楽も同じではないだろうか。

楽器を上手にこなせないのに、何故か演奏は人に感動を与えた。

・・・そういうことはめったにないのですね。

まずはテクニックでございます。

それをさんざん磨いて、まずは人に不愉快な音を出さないようになって、そのうち聴き心地のよい音を出せるようになって、ひょっとしたらその次にウットリさせる演奏をできるようになる。

(そうなれなかった、ふうてんの実感でもあります)

 テレビのニュースの続編で彼が作曲もしていることを知った。

(ロックフェラーの天使の羽)という曲で、彼自身が弾いていた。

お母さんに連れられてニューヨークへ行ったとき、ロックフェラー・センターかなんかで、これが天使よ、とお母さんに教えてもらって、指で触ったのだろうか。

悪くない、君は単なる演奏家で終わることはない。

と、ふうてんは思った。

 梅雨が始まって、あまり外へ出たくはない季節となった。

こういう時季は、本を読んだり、音楽を聴いたり、映画を見たりして時間をうっちゃりますか。

飲めない人には悪いけど、ビールやらウィスキーやらに付き合ってもらってね。

(ふうてんアーカイブス)

2009 梅雨のころ 花たちの春

青いアジサイAo  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

薄紫のアジサイAi  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名前知らずNamae  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

野イチゴNoichigo 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ユリYuri  

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2009/06/08

2009・6・7 インターネット難民につき篇

梅雨まぢかDonguri

 木曜日に急にインターネットに繋がらなくなった。

ハテ?弱った。

我が家の3人がそれぞれに(繋がらない)と訴えた。

 光ファイバーと終端装置が悪いのか?これだとNTT東日本である。

無線ルーターが悪いのか?これはバッファローである。

それとも3人のパソコンが同時並行的にイカれたのか?これはあり得ない。

それともBフレッツを使ってインターネットに繋ぐ役割に選んだニフティが悪いのか?

 水曜日の夜まで使えて木曜日の朝から使えなくなった。

木曜日、無線ルーターを外して終端装置から直接パソコンに繋いでいろいろ試みる。

どうも分からない。

金曜日に立川のNTT東日本の営業所を訪ねた。

行ってみると何だか入り口当たりから様子が違う。

たまたま入り口にいた(警備のおっさん)みたいな人に聴いた。

(ここにNTT東日本ありましたよねえ?)

(ああ、それは6年前に引っ越しました)

(いえェ?6年前にィ?そのころ光ファイバー引いて何度かきた・・・今は?)

(今は新宿だけなんですよ、営業所は)

 そうか、もう6年になるんだファイバーにして。

まいったなあ、取り付けてもらったところに来てもらって診断して欲しかったのになあ・・・。

コーヒー屋さんにはいって、少し頭を冷やしてから(携帯電話)でNTT東日本に電話した。

Bフレッツのサービス案内に繋がって、2を押すと、機械からの声ではない生の人間の声が聴こえてきた。

(かくかくしかじかなんですが)

(ああ、そうですか、コントロールパネルからはいって、あれこれするうち、プロバイダのアカウントやらパスワードやら入れるでしょう?)

(パスワード?・・・そういえば思い当たるフシありますねえ)

(今、テストしてみましたが、お宅の終端装置まではちゃんと繋がっていますよ)

(えっ?そういうテストができるんですかぁ、光ファイバーはちゃんと繋がっている、と? どうもありがとう)

電話を切って、しかしパスワードを変えたタイミングと繋がらなくなったタイミングがずれているなあと不審は残った。

 その1週間ほど前に、迷惑メールが多いので、それも自分のメール・アドレスで発信されて来るメールが多くなって、念の為にやってみようとログインの時のパスワードを変えたのだった。

パスワードを変えるのは勿論インターネットで自宅のパソコンで行った。

そのあとも数日ちゃんと繋がっていた。

だから繋がらなくなるとは予想していなかった。

 土曜日、光ファイバーと終端装置は生きているのだから、あとは無線ルーターとパソコンの問題である、何とか繋げる方法はないだろうかと試みた。

終端装置とパソコンを直接繋いでアレコレやっていると、Bフレッツの胴元であるフレッツ・スクウェアーというのには繋がった。

しかし、依然としてインターネットには繋がらない。

Bフレッツのサーバと直接繋がっているだけであるらしい。

(この野郎、やっぱりニフティのログイン・パスワードを一文字変えたのが原因なのか)

日曜日、インターネット難民は立川のインターネット喫茶に出頭したのであった。

ネット・カフェともインターネット喫茶とも言われるこの種の店に今まではいったことはなかった。

はいってみると、極めて清潔で、店員さんの対応も爽やかであった。

料金も1時間幾らもかからない。

ニフティのログイン・パスワードを変えるだけだから、5分もかからない。

 チャリで真夏のような太陽の光の中、家に帰って、元のように無線ルーターやらを繋ぎ直した。

ふうてんのパソコンはアレコレいじってしまったので繋がらない。

女房に聴いた。

(アッ、繋がった)

ガキはどうだろう?

(クンちゃんも繋がったと言ってる)

と女房。

 日曜日は昼寝をして、夕刻繁寿司へ行かねばならない。

帰りに書簡集へも寄らねばならない。

そのようにして、帰って、インターネットに繋がらないパソコンを見捨てて宵寝をした。

起き出してアレコレやっていると何故かふうてんのパソコンも繋がってしまった。

 この3日間ほどの(インターネット難民体験記)は稿を改めて論じてみたい。

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