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2007/11/26

2007・11・25 読書の秋?篇

コナラも黄色くなったAki  

 夕刻チャリで繁寿司へ向かうとき、女房が(秋がなくてもう冬みたい)と言った。

四季がなくなって三季となった、とこの日記で何度も書きつけたように思う。

いやむしろ三季というより二季といった方がいいかもしれない。

(暑い季節)

(寒い季節)

ピリオド。

 何だか日本も味気ない国になったなあと思う。

ミシュランの三つ星レストランが東京に8店ほど出来たらしい。

いくらシェフたちが腕によりをかけても、肝心の日本の四季がケジメのないものになってきたら旬を重んじる日本食はどうなるのだろうか?

 10月ころからようやく空気が冷えてきて頭が少し働くようになった。

漱石の(傑作講演集)はまことに面白かった。

職業と道楽、とか開化とは何か?とか私の個人主義、とかかなり本質的なことについて彼が肉声で語ったところにこの本の値打ちはある。

 もう61歳、まもなく62歳という年齢になって漱石先生の40歳代の講演を聴いても、もはや手遅れ、後の祭りには違いない。

そうではあるけれども、やっぱり人間、あんまり他人に影響されず自分で考えにゃいけませんぜ、という漱石先生のお言葉、改めて心にしみた。

 漱石先生の次に谷崎のおっちゃんの本を読みたくなった。

(卍)という薄い文庫本が目についた。

谷崎が大正震災で関西に移ったあとの昭和3~4年の作品である。

(蓼喰う虫)もそのころの作品で、ふうてんはこの(卍)を含め、あと(猫と庄造と二人の女)に同質の魅力を感じる。

 東京に生まれ育った人間が大阪、京都など関西へ行ったとき、まず話し言葉の違いにショックを受けるに違いない。

漱石だって松山で(それバッタと違うイナゴぞなもし)と(なもし)という語感を坊ちゃんに書いている。

谷崎潤一郎のバヤイはやはりご婦人なのですね。

 大阪女の声はギターの音色で江戸女の声は三味線だとおっしゃる。

ツンツン、キンキンしたお座敷の三味線よりも、太棹のようなギターのような音色の大阪の女の声がはるかに魅力的だ、とおっしゃる。

 それで谷崎のおっちゃん、全編大阪弁の小説を試みるのですね。

小説の会話を方言でやるのはかなり勇気が要ると思う。

方言が分からない人には理解できない。

(標準語)というのは全国で理解される。

方言で押し通すには(読まれなくてもいい)という勇気が要る。

 そして谷崎先生の努力にも関わらず、何となくけったいな大阪弁なのですね。

けったいなのだけど、東京弁、標準語の会話にはない雰囲気はかもし出されるのですね。

 (卍)という小説は全編手紙の形になっている。

手紙であり会話であり、という作りはその後の谷崎作品に続くスタイルであり、この時期さまざまな実験をしていたように思う。

その実験は最後の(瘋癲老人日記)まで続くことになる。

(ふうてんアーカイブス)

2007 国立の晩秋

かぐやもいるのかなあ

Kaguya_3

 

 

 

 

 

 

 

 

屋根裏の天窓から

Kaguya_1

Kaguya_2  

 

 

 

 

 

 

 

ハナミズキHanamizuki  

 

 

 

 

 

 

 

コナラKonara

 

 

 

 

 

 

 

 

大学Daigaku

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コメント

楕円さん

 おとつい、繁寿司で大学通りの銀杏書房の話題がでました。
大学通りの銀杏はこれからですね。
貴兄のフランス語の記憶をリフレッシュするため、少し長いですがグーグルに聴いた歌詞を引用しておきます。

(LES FEUILLES MORTES 枯れ葉)
Les feuilles mortes se ramassent à la pelle.
Tu vois, je n'ai pas oublié
Les feuilles mortes se ramassent à la pelle,
Les souvenirs et les regrets aussi
落ち葉がたくさん積もってる
わかるかい、僕は忘れない
落ち葉がたくさん積もってる
思い出も後悔もいっしょに

 このフレーズの前に前奏があるのですね。
Oh, je voudrais tant que tu te souviennes,
Des jours heureux où nous étions amis.
En ce temps-là, la vie était plus belle
Et le soleil plus brûlant qu'aujourd'hui
あぁ、よぅく思い出してほしいんだ
しあわせだった日のことを
あのころ人生はずっと美しく
太陽はもっとまぶしかった

 この前奏があると枯れ葉を人生と重ねていることがよく分かりますね。
フランス人はこういう風に人生を歌いますね。
ジャン・ギャバンの(望郷)でもハンフリー・ボガートの(カサブランカ)でも(枯れ葉時代)にさしかかった主人公たちの(楽しかったパリ時代)のことが回想場面としてリフレインされます。

投稿: ふうてん | 2007/11/27 08:37


 黄落やまだら模様に記憶消し

 ここ数年、確かに四季の実感が薄くなりました。それでも大学通りの銀杏並木は、徐々に色づき始めています。枯葉が歩道を覆うまで、後一月ぐらいかかるでしょう。今年は黄色いじゅうたんを一歩一歩踏みしめて歩く楽しみが、まだ残っています。
 ところでフランス語では枯葉をla faille mort (スペルは定かではなし)という。ラ フォィュ モオ、死んだ葉という意味です。えらく直裁な表現ですが、シャンソン「枯葉」の出だしで♪♪ラ フォィュ モオ、ラ フォィュ モオと聴くと「死んだ葉」ではなく枯葉を想い浮かべる。フランス人にこの違い、分かるかなぁ。

投稿: 楕円 | 2007/11/27 00:30

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