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2007年10月に作成された記事

2007/10/29

2007・10・28 VHSのビデオ・デッキを買った篇

ドングリDonguri  

 秋が深まって上着が必要になった。

厚着は嫌いな方なので、上着なしで、出来ればポロシャツくらいで年中過ごしたい。

なら、ハワイでも行ったら?と言われるかも知れない。

 夕刻、繁寿司へ行く前にロシナンテで一回りする。

気温は20度を超えていたのだろうか。

長袖のシャツを着て、カーディガンは出したのだけど着ずに乗った。

この季節、オープンカーで走る心地よさを諸氏はご存じだろうか?

 今週はテレビで日本シリーズ、ワールドシリーズ、府中競馬場の天皇賞を見てしまった。

ダルビッシュや松坂が投げるのを見て、ああ我が阪神タイガースにこういう投手がいればなあ、と思った。

 週末、山田塾の神楽坂へ行ったついでに秋葉原まで脚を伸ばして来た。

そのことを少し書いてみたい。

VHSデッキとの付き合い

 今どき、ローテクのVHSのビデオ・デッキを買ったと言うと笑われるかもしれない。

ふうてんも笑いたくなる。

ハイテクのiPhoneではない、VHSのビデオ・デッキである。

 我が家のビデオ機器はいろいろあるけれど、ソニーが中心なのでVHSは(ゲスト)の存在である。

やむを得ずVHSのデッキが必要になったときもソニーのHi-8とVHSのダブル・デッキを買った。

 半年ほど前、モハメッド・アリの(アリvsフォアマン 1974年)を見直そうとテープを入れた。

そうしたらどうにも動かなくなり、テープも取り出せなくなった。

国立のソニー・ビデオ・ショップという、よくお世話になる店に持ち込んだ。

テープだけは回収できたのだけど、VHSのデッキ部分は修理不可能と言われた。

 テープが戻ってきても、それをプレイするデッキがない。

まあしゃあないかと、半年ほどたった。

 2週間ほど前、今年定年退職した元ホンダ・マンと飲んだ。

ふうてんの大好きな本田宗一郎さんの会社に定年まで勤めたお方である。

その人と初めて飲んだとき、2本のテープを渡された。

ホンダの歴史のようなものと、宗一郎さん引退後のありようの2本だった。

2本ともVHSのテープだった。

いつまでも借りておく訳にはいかない。

 我が家ではソニーのβから始まり、Hi-8、その後はデジタル・ビデオ・カセットと、ほとんど松下のVHSにはお世話になっていない。

ただ近くのレンタルビデオ屋さんにβのテープがなくなったときには困った。

レンタルされるのはVHSばかりになった。

 そんなころからか、我が家にもVHSのビデオデッキが存在するようになった。

久しぶりの秋葉原

 神田やお茶の水からほんネキに秋葉原はある。

日本の(電気街)の総本山である。

オタクの街とも言われる。

 駅を降りて、ラジオ会館を目の前にしたときには懐かしさに涙が出そうになった。

昔、NECも富士通もここをコンシューマ商品の主戦場として火花を散らしていたものだった。

 ところで、いま探しているのは、主戦場の主役たるデジタル機器ではなく、アナログのビデオ・デッキなのではなかったかしら。

あんまり大きな顔は出来ないなあ、と表通りを避けて裏通りへと足を向けた。

 みんな小さなスペースのお店ばかりである。

VHSをはじめ、場所をとるビデオ・デッキを、しかも中古の安物を置いている物好きな店なんてないよなあ、と気づいた。

裏通りの店を一通り冷やかして、収穫のないまま疲れを覚えた。

ド・トールかなんかのコーヒー店で一服して、さて帰ろうと駅へ向かった。

 SONY何とかという店があったので、オヤジさんに、念の為、聴いてみた。

(VHSのデッキって、この間まで沢山売っていたのにもうないんですねえ、アレいつごろまででしたあ?)

(そんな前じゃないよ、1年半前くらいかなあ)

(今はもう売ってる店ありませんねえ。この秋葉原でいろいろ聴いたけどどこもね)

(うちの前の店、ほれそこの店なんか、売れ残りの在庫あるのと違うかなあ)

(エェッ?そこの前の店に??)

・・・・。

 その店で、すぐに、ななきゅっぱ(798)のビデオ・デッキが見つかった。

やれ嬉しやとそれを買って、得意気に中国から来た旅行者のような顔をして、デッキを抱えて、秋葉原駅へ向かった。

そう、ななきゅっぱ、7980円のデッキを大切そうに抱えて。

(ふうてんアーカイブス)

2007 秋 国立の隠宅

ホトトギスとドングリ 

 

Donguri_1 Donguri_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

夕日のドングリDonguri_3  

 

 

 

 

 

 

  

カマキリKamikiri_1  

Kamikiri_2  

 

 

 

 

 

 

  

ハチ1Hachi_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

ハチ2Hachi_2  

 

 

 

 

 

 

 

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2007/10/22

2007・10・21 cooper? coper? それとも?? 篇

ミニ・クーパー?Top  

 秋も深まって、という季節になった。

しかし今年はどうもそういう実感が湧かない。

 先週当たりだったか、コスモスが綺麗だったという話題になった。

コスモス?10月も半ばに?

・・・・。

あれって9月の花じゃなかったっけ?

今年は夏の花が今でも平気で咲いているという。

そういえば我が国立の隠宅にも一輪(アジサイ)が嬉しそうに咲いている。

 分かりにくい世の中になってきた。

温暖化のせいだけなのだろうか?

国家の防衛の要であるポジションの人間が納入業者(商社)と毎週のようにゴルフに明け暮れていたという。

ゴルフは国家防衛のための必須科目なのに違いない。

唯一の審判のいない紳士のスポーツ・・・審判がいない?なるほど。

そして、紳士だけがやっているわけでもなさそうではある。

 伊勢神宮御用達の(赤福)が、その日に作ったものだけお食べくださいと、ふうてんなども、ついその気になって、しかもなかなか旨いので、関西へ行くたびにお土産に買ってきていたのに、いや実はそんなの真っ赤なウソでしたという。

赤いのは餅だけにせえよといいたくなる。

 なかなかまぎらわしいことの多い世の中になった。

我が家でも、この間、ああ勘違いの事件が起こった。

小さな車の、いい形の車の、車名に関する勘違いのもたらした事件だった。

近くの駐車場でカッコいい車を見たと女房云い

 女房が、近くの駐車場でスタイルのいい車を見たという。

なんて車だった?と聴くと、たしか(クーパー)とあったという。

そうか、我が女房どのはミニ・クーパーがお気に入りなのか、と少し悲しくなった。

今のミニ・クーパーはBMW傘下になって普通の車になっている。

オリジナルのイギリスのあのスタイルは失われている・・・のに。

同時に、その(クーパー)が小さくて、おそらく座席は2つしかないと思う、と言ったのが気になった。

ふうてんの理解では(ミニ、あるいはミニ・クーパーに2シーターはない)のである。

 女房は特に車好きというわけではない。

彼女の気掛かりなのはただ一つ、デザインなのである。

昔、フォルクスワーゲンのカルマンギアという車が気に入って、あやうく買わされそうになったことがある。

カルマンギアは確かに流線型のいい形の車だった。

CooperではなくCoper?

 女房がそれほどいう車はどういう車なのだろう?

ある日の夜中、近くの駐車場へ行って確かめることにした。

 なるほど、小さなカワイイ車がとまっている。

エンブレムを見ると(Coper)と読めた。

しかし、Coperの最後のrが筆記体のrでnのようにも読めた。

Coperだとクーパーではなく、コウパー、コーパーとしか読めない。

もしCopenだとするとどう読むのだろう?

そんな英語しらへん。

Copenとは何か?

 帰ってウィスキーを飲みながらグーグルにいろいろ聴くことになった。

まずはcooperの歴史から始まった。

ミニという自動車の歴史である。

グーグルに聴くと、

(オリジナルのMiniはイギリスBMC(British Motor Corporation)のサー・アレックス・イシゴニスによって設計された革命的で特徴のある小型車である)

(現在の小型車の定番になっている横置きエンジン、前輪駆動2ボックススタイルの組み合わせは当時としては画期的だった)

とある。

 その後ジョン・クーバーというエンジニアとの出会いで登場した(ミニ・クーパー)が1960年代ラリーなどのレースで大活躍をする。

当時自動車部にいたふうてんなどはモンテカルロ・ラリーでの報道を聴いて熱い心で歓迎した。

何故歓迎したかというと、あんな小さな車で凍った雪道のラリーで・・・・。

 いや、そういう話ではなくて、さっき見た車は何者なのか?

メーカーはDAIHATSUとあった。

・・・・

いろいろ探って、やっと分かった。

Copen=軽自動車のオープンカー(KeiのOpen)

Kopenではカッコウが悪いので(Copen)にしたに違いない。

 ふ~っ、疲れた・・・・・・。

(Copen)をどう発音すればよろしいのか、いつかダイハツの技術者に聴いてみたい。

(ふうてんアーカイブス)

2007 初秋 クーパー?コペン?

前から見ても悪くないKopen_1 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Copen_2 

 

 

 

 

 

 

 

Copen_3  

 

 

 

 

 

 

 

後から見ても悪くないCopen_4  

 

 

 

 

 

 

 

 

Copen_5  

 

 

 

 

 

 

 

Copen_6  

 

 

 

 

 

 

 

 

メーカ、女房、ふうてんの写真たち

イエローCopen_daihatsu  

 

 

 

 

 

 

 

シルバーCopen_xhikaku  

 

 

 

 

 

 

 

これはミニ・クーパーCooper  

 

 

 

 

(Muさんのコメントに応えて)

ダイハツ・ミジェット1957年型85sai  

 

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2007/10/15

2007・10・14 (荒野の七人)を見た篇

荒野の七人Seven  

 やっと秋らしくなって気温が下がってきた。
少しは頭が働くようになったような気がする。

 夕刻、ロシナンテで桜通りを流すと、桜花で言えば一分咲き、緑のトンネルにも黄色い葉が目立つようになっていた。

先週と比べて、たった一週間なのにもう木々達は(紅葉)へ急いでいる。

 繁寿司には山口夫人と岩橋女史がいて話がはずんでいた。

しばらくすると文春の豊田さんも登場した。

(いや、今日は中学の同窓会がありましてね)

(新制中学?)

と、期せずして山口夫人、岩橋女史が聴いた。

(ハイ、真正の新制中学です)

と豊田さんはダジャレで応じた。

 60年ほど前、日本は戦争に負けて、アメリカの占領下におかれ、小中高の教育制度に大変動があった。

その大変動の最中に、小中高の年齢だったご三方は影響をモロに受けたのだった。

 急に寒くなってきて、気づけば10月も半ば。

ドングリが毎日のように、ドシーン、コロコロコロと落ちる。

2階のベランダに落ちるドングリの音は(どんぐりころころどんぐりこ)そのまんまの音で、落ちて転がる。

庭師は、庭にいてドングリが落ちて当たるとかなり痛い、という。

ワインガーデンでランちゃんの就職祝い

 中国からの留学生ランちゃんが6月ころ日本での就職が決まった。

遅ればせながら(就職が決まったらオゴるよ)と言っていたワインガーデンへ行った。

 日本の大学へ行き、日本の企業に就職する。

国と国がうまくやっていくためには、首相や大統領や首席が握手するだけではないのですね。

お互いのピープルが親しくならなければ始まらない。

ランちゃんが日本に来て、卒業したあともしばらく日本で働きたいと思った、ということは日本人として嬉しいのですね、無条件で。

(日本人と結婚しなさい)

とは言わないから安心してね、とランちゃんには言っている。

 今回は言葉の話になった。

この間北京でランちゃんも関わっている(国際交流)の会議のようなものがあったらしい。

中国語と日本語と英語を使い分けて対応していたので、日本に帰って来てしばらく日本語がうまく話せなかったという。

(やっぱり日本語が一番むずかしい?)

(そうですねえ、漢字ばかりの文章だとスッスッと頭にはいるのだけど)

(ひらがなやらカタカナやらがいけませんか?)

(ええ、でもまあ私にとっては英語がなかなか心に伝わってきません)

(日本語の方がまだマシですか?)

・・・・。

(お父さんに勧められて源氏物語よみましたよね)

(ああ、谷崎源氏ね)

(谷崎訳は難しくて、実は寂聴さんの訳のも読んでみたんです)

(ほう?それでどうでした?)

(断然谷崎でした、寂聴さんのは意味は分かり易いのだけど雰囲気がねえ)

(分かり易いけど、何かが足りない、と)

(ハイ、やっぱり谷崎訳の方が日本らしい、そういう魅力を感じます)

・・・。

(日本語で、いいなあと思うのは川端康成です)

(川端康成?あれ、分かります??)

(伊豆の踊り子もいいですし、雪国も)

(ええ?雪国も読んだの?)

 ま、極めて表面的な(文学論における国際交流)とお笑い下さい。

荒野の七人

 三鷹の市民センターでの黒澤映画上映会が9月で終わった。

8月、9月はデルスウザーラ以降の作品なので見に行かなかった。

10月には(荒野の七人)をやりますと聴いていたのだけど約束通り実現した。

(荒野の七人)には我々の世代には特別な思い入れがある。

1946年生まれのふうてんにとっては、この映画の監督ジョン・スタージェスの、以下の作品は忘れることが出来ない。

OK牧場の決闘(1957年)

老人と海(1958年)

荒野の七人(1960年)

大脱走(1963年)

 どれも50年、半世紀ほど前の映画である。

ふうてんにとっては11歳から17歳、一番多感な年代だった。

小学校、中学校、高等学校の時代。

何故かこれらの映画を封切りで松山の映画館で見たような記憶がある。

 三鷹の市民センターでこの映画が始まったとき、思わず時間が50年前にスリップしたような気がした。

エルマー・バーンスタインのテーマソングが高らかに鳴る。

監督ジョン・スタージェス、俳優スティーブ・マックウィーン、ジェームス・コバーン、ユル・ブリンナー、チャールズ・ブロンソン、ロバート・ヴォーンなどなどの面々。

そして野盗の首領を演じたイーライ・ウォラック。

 やっぱり50年代、60年代のハリウッド映画は凄かったなあ、といい気分になり、国立へ帰って書簡集へ寄った。

(マスター、荒野の七人を見てきたよ、三鷹で)

(どうでした?三鷹では映画とかいろいろやってますねえ、国立でももっとやればいいですのにねえ)

(そうなのよね、国立でもね、それって我々の世代の責任かもね)

(芸術小ホールなんてのもありますのにねえ)

(ところで、荒野の七人なんだけど、これって七人の侍の焼き直しだよね)

・・・・。

 ふうてんは(荒野の七人)を中学生時代に見て、(七人の侍)は大学時代に見たのだった。

しかも大学時代見た(七人の侍)は映画部のアホな連中が途中でスクリーンの前で踊るというパーフォーマンスをやったので台無しとなった。

ちゃんと(七人の侍)を映画館で見たのは就職してから、もう30歳も過ぎてからのことだった。

 そんなもろもろの記憶とともにこの映画をワイド・スクリーンで見、書簡集のマスターに、

(こういう映画はデジタル化されて世界遺産として残るよね)

と言った。

(そうですよねえ、映画はまだ100年ほどだから・・・)

(ミロのビーナスなんて何千年もたってまだ魅力的なんだからねえ)

(映画も何本かは残るでしょうねえ)

・・・。

(ふうてんアーカイブス)

2007 秋 国立のドングリやクモやら

木になっているドングリDonguri_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

落ちたドングリDonguri_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

何故かアジサイが咲きハナミズキの実がAjisai  

Still0003  

 

 

 

 

 

 

 

クモが巣にいてKumo_1  

 

 

 

 

 

 

 

 

葉っぱへ降りてKumo_3  

 

 

 

 

 

 

 

 

また巣に戻ったKumo_2  

 

 

 

 

 

 

 

 

三鷹市民芸術センターCinema  

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2007/10/08

2007・10・7 Sing Sing Sing篇

スウィングの名曲Sing_3 

 秋になった。

全く今年の夏はどうしようもなかった。

歳のせいなのだろうか?

暑さと湿気で8月と9月の二か月間、ほとんど頭が働かなかった。

 10月になって、ようやく空気が少し涼しくなった。

頭が少し働き始めたかな?と思うようになってきた。

(日傘)を初めて使った今年の夏・・・それもやっと終わってくれた。

 昨日は夕刻、いつものようにロシナンテに一鞭くれ、近くを一回りした。

桜通りはもう一枚、二枚と(枯れ葉)のようなものが舞っている。

ちょくちょくお世話になったガソリン・スタンドのお兄さんが会釈をするのが見えたので手を振って挨拶をする。

 このガソリン・スタンドは百恵ちゃんちの隣にある。

ロシナンテのキャブレターを修理する前、今から5年くらい前まではエンジンの掛かりが悪く、バッテリーがしょっちゅう上がった。

セルモーターがカチッと動かなくなると諦めて、チャリでバッテリーを運び、このガソリン・スタンドで(充電)をお願いした。

その当時のお兄さんがまだいて、通るたびにお互い挨拶をするのである。

コチラは走っているので一瞬合図し合うだけの挨拶ではあるけれど。

 書簡集に寄ってマスターとF-1の話やVHSのデッキが店頭になくなってきた話などをする。

マスターによると冨士と上海のコースの設計者は同じ人物だという。

 家に帰って(ふうてん老人日記)を書こうとするのだけど筆が進まない。

夜半からフジテレビで上海サーキットでのF-1レースが中継された。

上海も雨模様で、この間の冨士スピードウェイの時と同じような、しぶきを上げながらのレースとなった。

雨の中で、あの速度で走って、殆どスピンすることがない。

ブリヂストン・タイヤ、新しいコースの路面処理にどのような工夫がなされているのだろう?

 頭がまだ働いていないようで、結局(ふうてん老人日記)は一日遅れとなってしまった。

(ふうてんアーカイブス)

2007 初秋 神楽坂山田塾と裾野小川別邸

神楽坂山田塾

神楽坂(matoi まとい)Matoi_1  

Matoi_2 

 

 

 

 

 

 

 

山田御大とまといのスタッフたちYamada_1 

Stuff

 

 

 

 

 

 

 

裾野小川別邸 トランペッター(Tom トム)誕生

Sing Sing SingSing_2_4  

Sing_5_4Sing_4_2  






   

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2007/10/01

2007・9・30 大江戸博物館で漱石を見た篇

漱石展・江戸東京博物館P9292576

 

 今日は一日雨だった。

昼頃、裾野小川別邸から帰って、テレビで中継を見るとF-1は雨の中の壮絶なレースになったようだった。

冨士スピードウェイからほど近いところにある(小川別邸)も霧と雨に覆われていた。

一眠りし、夕刻、雨の中繁寿司へ向かった。

 繁寿司にはI女史と山口夫人がいた。

(文豪谷崎とか文豪何とかと云われる人がいなくなっちゃったわねえ)

などという声が聴こえてくる。

 文豪と言われるのは川端康成が最後ではなかろうか、という説がある。

時代が作家に成熟する時間を与えなくなった、ということなのだろうか。

大江戸博物館での漱石展

 神楽坂での山田塾の日、ちょっと足を伸ばして両国へ行った。

JR両国駅のそばに(国技館)があり、その隣に(江戸東京博物館)がある。

地下鉄・大江戸線の駅もあるので(大江戸博物館)と呼んでしまう。

 今回の漱石展は、東北大学所蔵の遺品を展示するものだった。

東北大学創立100周年記念・朝日新聞入社100年、などとある。

ウィキペディアによると、

1907年(明治39年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社。本格的に職業作家としての道を歩み始める。

とある。

 漱石の手紙や絵と蔵書が展示の中心だった。

学生時代の試験の答案や教師時代の答案への添削まであった。

これらは今まで知らなかったので、なかなか愉快だった。

 例えば、数学の答案が展示されており、幾何と代数の点数が95点と90点であり、数学も得意だったことが分かる。

驚いたのは、答案が全て英語で書かれている。

ロンドン留学のときに数学を習うはずもなく、日本での大学時代のものだった。

明治の半ばころ、当時の大学教授は全て外国人だった、ということの証拠物件がここにある、と思った。

 面白かったのは、英語の教師をしていたときの生徒さんへの採点ぶりだった。

添削、というより、間違っているところに赤で斜線を入れている。

ある生徒さんの答案用紙には、斜線が沢山あり、答案用紙の一番上に一行書かれている。

(This is worst.This boy is unfit for this class.)
と読めた。


漱石の教師ぶりは、最初はとっつきにくく人気がなかったらしい。

しかしそのうち、教えていない他の学部の生徒まで漱石の講義を聴きに集まるようになった、とあった。

この辛辣だけど、どこかおかしい一行の(寸評)にその人気の秘密の一端を見る思いがして、ニヤリとさせられたのだった。

(ふうてんアーカイブス)

2007 9月 大江戸博物館 漱石展

博物館は国技館の隣にあるSoseki_1 
Soseki_3 

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