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2006年11月に作成された記事

2006/11/26

2006.11.26 国立で紅葉(もみじ)狩りを篇

真っ赤なケヤキKeyaki_1  

 寒くなってきた。

毎週そんなことを書いているような気がする。

屋根のないロシナンテで走る時、気温を一切意識しないことが年に数日ある。

春に2日、秋に2日くらいだろうか。

 その秋が過ぎようとしている。

先週国立では雨が降って翌日に晴れ、また雨が降って晴れということが繰り返された。

そんなある日の夕方、家の近くを歩いた。

空気はヒンヤリと冷たい。

歩く時はこの冷たい空気がふうてんは好きである。

雨上がりのせいか空気が澄んで遠くまでクッキリと見える。

 近くを一回りすると、改めて国立には木が多いことに気づかされる。

新緑のころと紅葉のころと、木々が鮮明に自己を主張する。

マンションや家々がたて込んできたとはいえ、まだ住みやすいところなのかもしれない。

 今年は一つ(もみじ狩り)でもやってみるか、と晴れた日の午後チャリで出向いた。

リヤカーマン、アマゾンを行く

 23日の勤労感謝の日に東京12チャンネルでリヤカーマンのドキュメンタリー番組があった。

リヤカーを引いて世界一週分の距離を歩いた、というある冒険家の物語である。

リヤカーマンを教えてくれたのは神楽坂の山田塾長だった。

 絵葉書になった写真を、メッセージ付きで送ってもらった。

リヤカーを引いてアフリカ方面の砂漠を歩いていた。

その写真を見て、ふうてんは一種の戦慄を覚えた。

リヤカーを引いて、ただ砂漠を突っ切る。

それに何の意味があるのだろう?

しかしその写真を見ているうちに、これが(生きる)ということなのだと迫ってきた。

生きることには何の理由付けもいらない。

これでいいじゃないか、と無垢のものが迫ってきた。

 勤労感謝の日の午後に予告編(メーキング)があり、夜に本編が放映された。

予告編はよく出来ていたけれど、本編はいま一つだった。

ドキュメンタリーもシナリオが重要だなあ、とあらためて考えさせられた。

 そうはいってもリヤカーマンの映像は初めて見た。

もう50歳だとかで、番組の中でだんだんヒゲが伸びて、白いものが混じってきているそのヒゲだらけの顔にはなかなかの凄味があった。

顔立ちはひどく優しそうな顔立ちだし、人々に接する姿はあくまでもポライトである。

しかし汗だくでリヤカーを引き、ハエや蚊を追いやりつつ飯盒でメシを喰うときの姿は、やはり冒険家だなあ、と思わされた。

もみじ狩り

 まずは家のコナラである。

コナラの紅葉はこの10年ほどで余り綺麗だと思ったことはない。

何となく黄色くはなるのだけれど赤くなることはない。

赤くなる前に薄茶色になって、そのまんま薄いチョコート色で徐々に落葉する。

もう新芽が出るのに、とコチラを心配させるころになって、しぶしぶ最後の葉が落ちる。

新芽だって2度出すくらいだから紅葉もマンダラとなる。

 家の近くの市役所のケヤキとイチョウは見事に紅葉していた。

この2種の木は背丈も大きいし、並木道でも植えられるので関東では紅葉の主役かもしれない。

東京都のシンボルも大阪府のシンボルもイチョウであるようだ。

イチョウはよほど生命力の強い、人間に御利益を与えてくれる木なのかもしれない。

 ケヤキ並木は関東以北に多い。

仙台にはケヤキ並木が何本もあるような記憶がある。

バカ正直にまっすぐ伸びて、バカ正直に葉を繁らせて、バカ正直に一斉に紅葉して・・・。

何となくこの木は関西ではなく関東の気質のような気がする。

 桜通りでも大学通りでも、桜がほとんど散るころにイチョウが色づく。

桜は花もそうだけど葉が散る時もあまり未練がましくないように思う。

短い間に鮮やかな黄色になり、結構深い赤になる。

そして一風吹くと散っていく。

 一橋大学構内の森は昔の武蔵野の雑木林をそのまま残したと言われている。

勿論、雑木林を切り開き、整地して大学を作ったわけだから、全て雑木林のままではない。

しかし、確かにあまり人工的にデザインされていない雑木林の伸びるままになった木々たちも残っている。

今年は初めてこの大学構内で見事な(もみじ)の紅葉を見た。

人形遣い吉田玉男さんの追悼番組

 NHK教育テレビで土曜の午後、伝統芸能の番組がある。

文楽入門とかの、文楽についての解説もときどきある。

今回はこの9月に亡くなった人形の吉田玉男さんの追悼番組だった。

 いいコンビだった竹本住大夫さんも出てきて、いろいろと思い出話を語った。

この二人は10年ほど前にやはりNHKの特別番組で取り上げられたことがあって、まだ文楽に興味を持ち始めたころだったふうてんは、番組を見て本当に見に行きたくなったのだった。

 お二人の共演も幸い何度か見ることができた。

今回の追悼番組で驚いたのは(曽根崎心中)に関するエピソードだった。

江戸時代、1700年代初頭に登場した近松の(心中もの)は大ヒットした。

しかし一つのブームになって本当の心中がはやり過ぎた為、1723年に禁止令が出された。

それが復活上演されたのは、人形浄瑠璃では1955年だった、という。

 その復活上演の時、人形遣いの吉田玉男が一つの工夫をしたというのですね。

天満屋の段でお初が徳兵衛に心中の意志確認をするところ。

江戸時代は、人形は一人遣いか二人遣いで(足)はなかった。

現代になって、人形が大きくなったこともあって三人遣いなのだけど、女の人形の素足を見せることは殆どない。

 ところがこの天満屋の段ではお初の足が重要な役割を果たす。

天満屋の座敷の縁側に腰掛けたお初が、みんなに分からないように足を下ろして、縁の下に隠れている徳兵衛と意志確認し合うシーン。

着物の裾から少し出したお初の足を徳兵衛が自分のノドに押し当てることで心中の覚悟を示す。

この段の見せ場なのですね。

この足を使った演出が、実は吉田玉男が考案したものだった、と番組では教えてくれる。

もう一つは、ラストの天神の森での心中シーン。

文楽は海外公演も多く、各地で人気を博しているらしいのだけど、それまでの日本での公演では、最後に徳兵衛が刀を抜くところで舞台は終わっていた。

日本では、ああ二人はいよいよ死ぬのだなあ、と分かったところで()でよかった。

ところが向こうの観客はそれでは納得しない。

竹本住大夫さんの述懐では、

(どうもアカンは、やっぱり突くは)

と吉田玉男は言って、今の演出を考えたという。

お初が向こうを向き、徳兵衛がこちら向きになって、構えた刀を一瞬止める。

お初を突き、その刀を抜いて、自分の喉笛をかき切って折り重なるようにお初の上に倒れる・・・サ~ッと幕が引かれる、という演出。

どちらの演出が良いかは、好みもあると思う。

ついに二人は・・・と静かに余韻を残して()というのも悪くはない。

最後まで見せて、(日本刀)を使った心中の一つの様式を表現した今の演出も悪くない。

あれがナイフやピストルだとああいう()にはならない。

徳兵衛がいよいよ刀を構えてお初を突く形になる。

そのとき、照明が刀に当たり(キラリ)と光る・・・そのシーンを昔ドナルド・キーンさんのテレビ番組で見て、文楽に惹かれたのだった。

吉田玉男さんのこの演出がなかったら・・・文楽好きになっていたかどうか・・・。

(ふうてんアーカイブス)

2006 晩秋 国立 もみじ狩り

家のコナラ タバコの煙?

マンダラ模様Konara_1_2  

 

 

 

 

 

 

 

枯れても強い葉っぱKonara_2_1  

 

 

 

 

 

 

 

市役所のケヤキとイチョウ

赤いケキヤとKeyaki_2  

 

 

 

 

 

 

 

黄色いイチョウIcho  

 

 

 

 

 

 

 

桜通り

桜とイチョウのコンビネーションSakura_2  

 

 

 

 

 

 

 

公園の小道

突当は桜通りのロイヤル・ホストKomichi_2 

 

 

 

 

 

 

 

一橋大学の森

もみじMomiji  

 

 

 

 

 

 

 

ブナも?Momiji_2 

 

 

 

 

 

 

 

もみじの影Momiji_3  

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2006/11/19

2006.11.19 秋の夜長にジャズを篇

コナラのドングリDonguri_2  

 東京ではもう冬のように寒くなった。

太陽がずいぶん南の方へ行ってしまって、真っ昼間でもはかない光しか届かない。

夕方も4時を過ぎるとなんとなく薄暗くなってくる。

春夏秋冬を、人の一生と、重ね合わせて考えたくはない季節になったようだ。

 10月末ころだったか、ロージナ茶房の帰り、増田書店に寄った。

もう何年も買っていない(スイング・ジャーナル)が目についた。

(マイルス・デイビス生誕80周年特集)という赤い大きな文字が飛び込んできた。

ええ?あのマイルスが?生きていたら80歳になるのか・・・。

精悍な印象しかないマイルスなのに。

 昨日この話を書簡集でしていたら隣の客が、そうなんですよ、マリリン・モンローとマイルス・デイビスとうちの父は同い年なんですよ、といった。

えっ?あのマリリン・モンローも??

(スイング・ジャーナル)を買った日、帰ってパラパラ見ていると耳寄りなニュースが出ていた。

あの油井正一さんのラジオ番組が復刻されるというのである。

このラジオ番組はふうてんが学生時代ずいぶん聴いてジャズを勉強し、ジャズの魅力に引き込まれる一つのきっかけになった。

江戸の商家の旦那みたいな洒脱な語り口で、艶のある声で油井正一さんはジャズを語った。

それが復刻される?どのようにして?

 油井正一さんと言ってもジャズを聴かない人にはチンプンカンプンだと思う。

今日は少しジャズとのつきあい、特に聴き始めたころの話をしてみたくなった。

ジャズとの出会い

 本格的にジャズに興味を持ったのは大学生になってからだった。

中学、高校時代はもっぱらクラッシック(交響曲)と映画音楽とラテン音楽だった。

京都に行ったころはまだアルセンチン・タンゴにみいられていた。

タンゴのセンチメンタルな音色が、田舎から出てきた若者にピッタリだった。

(さらば草原よ)というフランシスコ・カナロの名曲がある。

草原の広がりを思わせるマイナー調の曲で、田舎を思い出させたのかもしれない。

 しかし京都は都会でもあった。

だてに千年の都してきたわけじゃない。

光と陰があった。

そこに都会で磨かれたジャズが忍び込んできた。

 映画(危険な関係)のテーマの乾いた都会風の音色がまず心に残った。

次にセントルイス・ブルースのサッチモことルイ・アームストロングのトランペットが田舎出の、ホームシックに掛かりかけた18歳をとらえた。

18歳になっていてもホームシックにはなるのである。

(俺は日が沈むのを見るのは嫌いだ)というセリフで始まるセントルイス・ブルース。

その通りだよ、とふうてんも思った。

 入学した年の5月に学内で何故かレコードの安売りをやっていた。

少ない仕送りでやっている貧乏学生でも買える値段で、ジャズのレコードがズラズラと並んでいる。

レコードのアルバム名も作曲者名も演奏者名も全てカタカナである。

何のことかサッパリ分からない。

それでも安さに釣られて何枚か買って帰った。

 これがジャズとの付き合いのスタートだった。

油井正一とは何者であるか?

 レコードを買ったはいいけれど、ジャズのことはサッパリ分からない。

ジャズとはいかなる音楽であるのか?

そこで本屋さんで雑誌やら本やらを探ることになる。

どうも(油井正一)というジャズ評論家がいるらしい。

このお人が日本におけるジャズ評論の草分けであり、第一人者であるようだ。

なるほど、レコードのジャケットに解説を書いていたり、雑誌にいろいろ定期的に書いている風である。

 ベーレントの(ジャズの歴史)を読まないとジャズ・ファンとは言えない、なぞと雑誌にあったので、本屋(古本屋だったと思う)でその本を探すと、油井正一訳とある。

ウン?騙されたつもりで読むしかないか、と読みにかかる。

 この本のことは今でも忘れられない。

音楽にはメロディーとリズムとハーモニーがある。

しかしジャズにはもう一つあるのだ、とベーレント先生はおっしゃる。

それはサウンドである、と聴いたときに、ふうてんは訳分からないけど非常に新鮮なものを感じた。

サウンドとは何なのだろう?

 英語を直訳すれば(サウンド=音)ではないか??

メロディーとリズムとハーモニー、それプラス(サウンド)?

中でベーレント先生は、サウンドだけは他人に真似できないものである、とのたまう。

・・・・・。

この本を読んで、ふうてんは少しジャズの秘密を嗅ぎ分けたような気がしたのだった。

同じメロディを奏でてもサウンドによる違いがある、それほどにジャズとは個性的なるものであるのだろうか?

こいつは面白そうだ・・・。

音楽を聴くには仲間がいるといい

 中学、高校、大学と一緒だった同じ愛媛出身の男と音楽のことがキッカケで親しくなった。

京都へ行って、同じ工学部ということも二人を近寄らせた理由だったかもしれない。

話すようになってから、一緒にジャズ喫茶へ行く、お互いの部屋でレコードを聴く、コンサートを一緒に聴きに行く、挙げ句の果てに彼に誘われてフラメンコ・ギター教室に3年も通うことになった。

 彼は同じ愛媛でも宇和島の出身なので、中学、高校と寮生活だった。

単調な寮生活の中で、レコードを聴き、ギターを弾き、本を読んでいたようだった。

従ってふうてんよりは、いろんな音楽について少し先輩だった。

 音楽の世界も、クラシックであれ、タンゴであれ、ジャズであれ、フラメンコであれ、幅が広くて奥が深い。

一人っきりだと大海の小舟もいいところでなかなか良いものに出会えない。

そこでジャズ喫茶に通い、本を読み、雑誌を見、ラジオを聴く。

しかし、(仲間)がいると楽しみが倍加するのである。

情報や知識だって(掛け算)になって増えていく。

 大学の4年間、さんざん彼といろんな音楽を(漁り)まくった。

その年代の若者は貪欲なのですね。

もっといいのはないか、もっと素晴らしいのはないか、聞き逃していやしないか・・・。

最後のころになって、二人がたどり着いた結論は、

(結局ジャズとフラメンコが一番深いなあ)

というものだった。

楽器の使い込み方一つにしても他のジャンルの音楽とは決定的に違う。

一つの楽器の可能性をとことん追求する、というところがある。

おそらくジャズやフラメンコをやる連中はそれ程にハングリーなのだろう。

 大学を卒業して40年近く。

その間ずっと、レコードがCDになったけれど音楽は聴き続けてきた。

就職した当時は(レコード卒業現象)というのが取り沙汰されていた。

その(卒業)の平均年齢が28歳だと言われていた。

つまり社会に出て仕事が忙しくなり、所帯を持って子供が出来たりすると、レコードどころではなくなるというのであった。

 ふうてんには28歳になってもその気配は全くなかった。

むしろ、また音楽に救われる時期が来るだろうなあ、という思いが強かった。

それはその通りだったと思う。

(ふうてんアーカイブス)

2006 晩秋 国立

アジサイは2度咲く?

枯れた花が葉っぱのようになりAjisai_2  

 

 

 

 

 

 

 

秋に、新しい花が咲いたAjisai_1  

 

 

 

 

 

 

 

ドングリとハナミズキ

庭中ドングリだらけDonguri_1  

 

 

 

 

 

 

 

ハナミズキも光が当たるとHanamizuki  

 

 

 

 

 

 

 

秋の嵐・・・枯れ葉

枯れ葉の吹き溜まりKareha 

 

 

 

 

 

 

 

大学構内の森Mori_4  

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2006/11/13

2006.11.12 メジロが帰って来た篇

確かにメがシロいMejiro_5  

 この頃ときどきメジロの鳴き声で目が覚めることがある。

団体でやってきて、鳴きたいだけ鳴いて、アッという間にいなくなる。

その鳴き声が鋭いので、目が覚めるのだろうか。

 夏場に、メジロがいなくなったなあと毎年気づく。

桜のころあれだけ鳴いていたのにどこへ行っちゃったのだろう?

そんなことを考えているうちに秋になり、10月ともなるとまた鳴き声が聴こえてくる。

新緑の5月ころまでいて、6、7、8、9月は姿を見ない。

 今日はメジロについて少し書いてみたい。

メジロは渡り鳥なのだろうか?

 冬場にはいて夏場にはいない、となると渡り鳥かもしれない。

我々が普段目にする野鳥たちはほとんどが渡り鳥である、という話も聴く。

カラスとハトとスズメ、は除いて。

 しかし、メジロはあまりに小さい、あれが海を渡っていくのだろうか?

と、ふうてんは思うのである。

移動するとしてもせいぜい(国内留学)ではないのだろうか。

(海外留学)しているとは思えない。

野鳥の専門家は先刻ご存じなのだろうけど、ふうてんにとっては謎であって、謎のまま取っておきたいような気もする。

子供のころ

 メジロがふうてんにとって特別な鳥になったのはやはり故郷での経験である。

家が山の中腹にあったので、まわりは自然だらけだった。

村の子供たちは(自然)と遊ぶことになる。

 女の子はままごと遊びなどの穏やかな遊びで済むのだけれど、男の子たちはそうはいかない。

あれは狩猟時代のDNAなのだろうか?

川で魚やエビを獲ったり、森で野鳥を獲ることに夢中になった。

 スズメなどは(巣)を探すのが楽しみだった。

たいてい家のカワラのすき間など、何故か人家の中に作っていることが多かった。

その巣を見つける楽しみは(ヒナ)なのである。

親鳥には悪いけど、ヒナがいるとそ~っと持って帰る。

ヒナはやがてお腹が空いてくる。

 この瞬間を待っていたのですね。

小さいからだの割りには大きな口を開けてピーピーとヒナは鳴きます。

そこでおもむろに、練り餌を与える。

(お母さんはここにいるよ、お前もう大丈夫だよ、安心をおし)

と、子供は満足感にウットリとなる。

 まめに餌を与え続けると、成長して(手乗りスズメ)に育つという次第。

メジロを捕まえるにはオトリが必要だった

 あれだけ沢山のメジロがいたし、さんざん追っかけたのにメジロの(巣)は一度も見たことがなかった。

それは子供心に不思議だった。

不思議だったけれど(メジロは渡り鳥だろうか?)なんてことは、子供には考えようもない。

 巣がないのにどうして捕まえられるのだろう?

当時はほとんどの家でメジロを竹でできた鳥カゴで飼っていた。

霞網(かすみ網)という道具があり、とりもち(鳥餅?)という仕掛けがあった。

大人たちや年長の子供たちが(メジロの捕り方)を教えてくれた。

 メジロ捕りの三種の神器は(オトリ、とりもち、エサ)だった。

オトリでメジロを呼び寄せる。

よく鳴く鳥を選んでオトリに仕立て上げる。

遠くのメジロがオヤッ?仲間がいるな、と近寄ってくる。

見るとカゴの中とはいえ仲間がいて、しかも何だか旨そうなものが近くに見える。

うまい具合に、そのエサを食べるに相応しい位置に、横になった枝さえあるではないか。

やれ嬉しやと、さ~っと近づいて、チョン、チョン、チョンと慎重に枝にとまる。

 それを陰で見ていた子供たちが(やった~っ!)と歓声を上げる。

メジロくんは、それに驚いて飛び立とうとする。

アレッ?妙な?飛べないゾ・・・・。

枝にはトリモチが仕掛けられていたのだった。

メジロくん、何のことか分からず、抵抗する間もなく、重力でくるりと(枝)にぶら下がる。

 驚愕のあまり、バタつくことすらしない。

子供たちが近づいて、そっと捕まえて、まことに平和裡にトリモチをはずしてやり、竹でできた鳥カゴへ入れて、風呂敷で包んで光を遮ってやる。

夜になったのかなあ?とメジロくん大人しくなる。

そして今は

 そういう風に昔メジロは親しい野鳥だった。

子供のころに、霞網は使用禁止になった。

あれは野鳥を、文字通り、一網打尽にできるので、鳥たちにとってはたまらない。

禁止されて当然の野蛮な道具だった。

 トリモチは禁止になったのだろうか?

それは知らないけれど、実は聴くまでもないのである。

今はメジロを飼うこと自体が禁止されている、と聴く。

残念なような気もするけれど、それでいいような気もする。

たまに鳥かごで飼っている声を聴くことがある。

飼い主は法律違反を知っていて飼っているのだろう。

 捕まえたり、餌付けして鳴き声を競わせる、という風な楽しみはなくなった。

しかし、幸いなことに今でもメジロは季節になると飛んできて、素晴らしい鳴き声を聴かせてくれ、愛らしい姿を見せてくれる。

メジロの鳴き声で目が覚め、寝室からその姿を見ることができる。

 言うことありません、と言うしかない。

(ふうてんアーカイブス)

2006 秋 国立の隠宅にメジロが来た

どっかにいるような

いたいた、やっぱりいた

コナラのKonara_1_1  

 

 

 

 

 

 

 

森のどこかに・・・Konara_3_1  

 

 

 

 

 

 

 

いたMejiro_4

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2006/11/05

2006.11.05 文化の日に剣道を見た篇

天下市のころTaiyatai_2  

 11月になって国立では天下市が始まった。

3日の文化の日、昼前にチャリで様子を見に出かけた。

この季節、涼しくなった風と、夏草や繁った枝を切った匂いで、秋を感じさせられる。

既に大学通りは屋台が並んでいて、見物の人で一杯だった。

 屋台は(香具師 やし)と言われた人たちがやっている。

普通のお店の人とは別人種ではなかろうか、と見ただけで分かる。

それぞれのお店で、その(香具師)たちの手さばきを見ているだけでも楽しい。

たこ焼き、お好み焼き、焼きそば、焼きイカ、金魚すくい・・・。

なおアレがありコレがある。

(香具師)たちは天下市で3日間商売したあと、どこへ行くのだろうか。

今でも(香具師の元締め)の(羽沢の嘉兵衛)みたいなのはこの江戸にいるのだろうか?

と、時代が(仕掛人・藤枝梅安)に戻ったような錯覚を覚える。

 

 夕刻、家の近くを歩いて、汗が引いたあとシャワー浴び、さてビ~ル、とテレビを付けた。

剣道の全日本選手権の準決勝が始まるところだった。

ふうてんは剣道も結構好きで、NHKの中継を時々見る。

 剣道・・・考えてみればこれも日本文化・・・文化の日に剣道の全日本選手権大会を開催する。

うん、悪くない。

剣道、相撲、柔道・・・これらは立派な日本文化ではあるまいか。

幼いころ

 ふうてんの育った村の真ん中に小さな神社がある。

名もない神社で、いわゆる(鎮守の森)というやつではないかと思う。

板敷きの社殿と、ちょっとした庭のような空間があった。

その板敷きの社殿で(剣道)を習った。

その小さな庭で(相撲大会)があった。

 小学生のころまで、この神社ではさんざん遊んだ。

木に登ったり、囮を使ってメジロを獲ったり、どっかで転んで大怪我をしたこともあった。

なかで、剣道と相撲の記憶がある。

 剣道の先生は、村の人で、警察官(刑事)だった。

名前はもう覚えていないけれど、骨相はクリアに覚えている。

色白でハンサムで背の高い人だった。

きゃしゃなように見えるのだけれど、ヒゲも濃く、その腕の筋肉は凄かった。

ある時、片腕で何回も腕立て伏せをやって見せた。

10歳くらいのコチラは口あんぐりだった。

この先生に板敷きの社殿で剣道を教わった。

 相撲については相撲大会の記憶である。

村には相撲をするような小学生が20人ほどはいたと思う。

ふうてんは、どちらかというと村では背の高い方だったので、あまり負けなかった。

賞品の中にチューインガムがあったことを今でも覚えている。

あの安っぽい甘味と嚙んでもなくならない食感。

売店などのない、ど田舎の村の子供にとってはまことに貴重な体験だった。

 こんな風に幼少期を過ごしたものにとっては、剣道や相撲はベースボールやサッカーとはまた別の意味を持っているのである。

あんな小さな(鎮守の森)でボールを投げたり、打ったり、蹴ったりするわけにはいかない。

せいぜい木刀や竹刀(しない)を持ってチャンバラしたり、フンドシ一丁で相撲をとる、よかない。

剣道全日本選手権

 テレビを見ていると、今年は内村良一という剣士が優勝したようだった。

熊本県出身、警視庁勤務(東京)、26歳の若者である。

決勝戦で対戦した相手は熊本県警勤務の古澤、28歳。

内村170センチ、古澤165センチ。

185センチの剣士もいる大会で小柄な二人が決勝戦で対決した。

 まあ見応えがありましたね。

4分くらいの試合時間。

いつ技が決まるか分かりません。

勝負は(一瞬)で決まる。

 あとでビデオでスローモーションで解説してもらって、ああ決勝戦で(面)を決めたのは二段面という技だったんだなあ、などと想像するばかり。

凄いですねえ。

やっている当人たちはそれをリアルタイムで分かっているんだから。

人間業とは思えない。

鍛えればあそこまでやれるんやねえ。

 内村良一という優勝した男は、何となく(七人の侍)の宮口精二(みやぐちせいじ)を思い出させる風貌だった。

強いはずやわ。

三鷹での黒澤映画は羅生門だった

 毎月恒例の黒澤映画を見に、4日に三鷹へ出向いた。

今度は時間を間違わないよう、早い目に家を出て、4時前には三鷹に着いていた。

前回は6時頃三鷹について一本見逃したのだった。

 会場について、まず来月のチケットを購入する。

インターネットで予約は済ませている。

700円です、と言われる。

エッ?いつもは900円じゃないですか?どうして?

(来月は、1本、ですから)

と、受け付けの人、ああそうだった来月は(生きる)だったんだと思い出す。

12月が(生きる)、来年1月は(七人の侍)。

黒澤映画の集大成の2か月だと思う。

 席に着くと、左も右もご婦人だった。

どうして黒澤映画のような、ある意味過激な映画をご婦人方が好んで見るのだろう?

いつも不思議に思う。

左側の老婦人に、そこからちゃんと見えますか?と聴く。

ええ、人の頭の間からちゃんと見えます、席を代わってもらわなくて大丈夫です、ありがとう。

右側の妙齢のご婦人に、いつも来られているんですか?ハイ、毎回・・・。

 1本目は(どん底)だった。

2時間の長尺もので、かなり退屈した。

ゴーリキ原作の、長屋ものである。

2本目まで41分もの休憩時間があるので、タバコを吸ったり、ハイネケンのビールを飲んだりして時を過ごす。

再び席に着いて、右側のご婦人に、今度は凄いですよ、特にカメラがね、宮川一夫ていうカメラマンなんです、そうですか、私あんまり知らないんです。

 それで(羅生門)が始まった。

カメラ宮川一夫、音楽早坂文雄、シナリオ橋本忍、黒澤明。

1時間半、全く息をつぐ暇もなかった。

そういえば昔、淀川長治さんが(羅生門)が黒澤のベストだと思います、と言っていたっけ。

なんてことを思い出しつつ、席を立った。

天下市で留学生たちに会った

 数日前、一橋大学の構内の森をチャリで散歩していたとき偶然アリアさんに会った。

(お父さん、今日は歩かないんですか?)

(うん、今日はチャリでね)

(ああちょうどよかった、今度の学園祭のときの店のチラシ・・・持って行ってください)

(え~と、トムヤムクン・ラーメン?うまそうやねえ)

(ランちゃんも来ますか?)

(そやねえ、アリアさんの店の場所が分かったので電話してみるよ)

・・・・

 5日の天下市最後の日、アリアさんのタイの屋台でランちゃん、アリアさんと再会した。

(トムヤム・ラ~メン)を食べた。

確かに、日本にはない味をしていた。

トムヤムクン。

酸っぱいような、辛いような、甘いような、エスニック風の。

そういえば昔サンフランシスコでトム・ランドルフにタイ料理店へ連れて行ってもらった。

その時のトムヤムクン・・・あれは旨かったなあ。

 アリアさんは店が忙しそうだったのでランちゃんとしばらくロージナ茶房で話をした。

今大学院の1年生で、相変わらず、勉強やバイトや友だち付き合いで忙しそうだった。

悩みがない訳でもなさそうで、少し痩せてホッソリとしたようだった。

 別れてから女房と、

(青春やねえ)

(25歳くらいまで成長するのよねえ、体は)

(そやなあ、体は25~6歳までねえ)

(それから折り返すのよね・・・)

・・・・

 一旦家へ帰って、5時頃、繁寿司へ出向く。

山口夫人と繁さん夫婦と、天下市のことなど振り返りながら話に耽った。

(お祭)の最後に繁寿司へ行ったのはよかったなあ、と女房と話した。

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