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2006年6月に作成された記事

2006/06/26

2006.06.25 乳色の風景篇

 ふうてんは若いころから、モヤで霞んだようなボンヤリとした風景が嫌いじゃない。

曇天で暗くて見通しが悪い、というのではなくて、何となく白っぽくて明るいようなのだけどよく見えない、ハッキリ、クッキリ見えない、という風景である。

 どうしてこの風景が好きなのだろう?

外に出て、本格的にモヤッていると嬉しいような気分にさえなる。

ひょっとしたら現実感がないのが心地よさを与えてくれるのかもしれない。

雪国育ちでない者が、何年かに一度雪景色を見てお祭りのような気分になる。

それに似ているような気がする。

雪やモヤが(見たくないもの)を隠してくれる。

 そのモヤ~ッとした風景を初めて心地よく意識したのはずいぶん昔になる。

大学の3年生のころだったか、長距離のラリーで六甲山系を越えて三田(兵庫県)の丘陵地帯へ差し掛かった時だった。

時間は朝の5時だったか6時だったか、朝もやとも霧ともつかないものに包まれていた。

夜明け前の暗さ、という時間帯は過ぎていて、通りも回りも明るく見えるのだけど全体としてウスラボンヤリとしていた。

(まるで乳色の風景やなあこれは)

と思った。

 ドライバーが誰だったのか、自分がナビゲータだったのか時計係だったのか覚えていない。

ただ居眠り運転をしないように声を掛け合いながら三田地方の緩やかな斜面を下って行った。

三田(さんだ)という地区は正確なところは知らないけれど、標高がある程度ある高原地帯なのではないだろうか。

その乳色の風景は余程印象的だったようで、その後いろんなところで霧やら靄(もや)やらに包まれた風景に出会うたびに、このラリーで体験した三田の情景を思い出す。

 今年は関東地方では5月ころからやたらと雨が多い。

6月にはいって(梅雨入り宣言)など受けても、言われなくても分かっているよというくらい、雨やら霧やらモヤやらが多いのである。

言わば毎日のように(乳色の風景)に閉じ込められて生活している。

嫌いではないのだけれど、たまには晴れ間も欲しいなあという気持ちにもなる。

ジーコ・ジャパンは終わった

 ドイツW杯が始まって夜昼逆になった人は多いのではなかろうか。

選りすぐられた32チームの戦いというのはかなり見せてくれる。

うちの家人三人もリアルタイムで結構見ているようではある。

 岡田→トルシェ→ジーコと監督は変わってきた。

ふうてんはジーコの指導法は間違っていなかったと思う方である。

長期的に見れば間違っていない、と言った方が正確かもしれない。

 それにしても3試合で得点3、失点8だった。

これじゃ勝てるわけがない。

どうしてなんだろうね?と嘆いていると、ヨーロッパのいろんなリーグの試合をWowowなんかでしょっちゅう見ているうちのガキが言った。

(お父さん、歴史が違うよ)

 あとでグーグルに聴くと、イギリスのマンチェスター・ユナイテッドなど、1878年創立、1902年マンチェスター・ユナイテッドになる、なんてある。

Jリーグはまだ10年ほどである。

テキは100年以上も前から・・・・。

そのJリーグの黎明期にわざわざブラジルから鹿島の田舎に来てくれたジーコはエライと思う。

(これは神の意志だから)

というのがジーコが来日を決意したときのセリフだった。

 サッカーに関して唯一ふうてんが思うのは、早くアジアで国際的なプロ・リーグを立ち上げてほしいという事だけである。

日本、韓国、中国、インド、アラビア諸国、つまりW杯でアジアと定義されている諸国がアジア独自のリーグ戦をやるのである。

今のような親善試合みたいのではなく本格のプロ・リーグでヨーロッパからも南米からもアフリカからも優秀なのが来たいと思うような。

ま、100年もすれば、そうなっているのだろうけど・・・。

白州次郎とブガッティ

 一月ほど前にあったNHKテレビの番組で白州次郎という日本人の事を知った。

知った、というより彼がイギリスで若年期を過ごし、車好きで、百姓をしていた、ということに興味がわいた。

 それで2冊の文庫本を読んだ。

(プリンシプルのない日本人 白州次郎著)

(風の男 白州次郎 青柳恵介著)

 2冊とも非常に興味深く読んだ。

小林秀雄とも交流があり、その元はどうも神戸で今日出海と幼なじみだった、というのには驚いた。

 NHKの番組で、かれがイギリスのベントレーに乗っていたというのは出てきた。

しかし上の2冊目の本で、ベントレーと共に、ブガッティにも乗っていたというのを知って、ふうてんはもう一つ驚いた。

ご丁寧にこの本には当時かれがブガッティに乗っている写真が何枚か載っている。

そのブガッティはブガッティの中でも一番カッコイイ、レーシング・ブガッティそのものではありませんか。

 彼は神戸の綿貿易商の息子として育ち、不良だったのでイギリスへ島流しされたと自身は語っているらしい。

1902年生れだとかで、ちょうどマンチェスター・ユナイテッドが誕生した年に当たる。

彼がイギリスに留学したのは17才から26才くらいまでらしく、1920年代である。

第一次大戦後のローリング・トウェンティーズの時代をイギリス、ヨーロッパで過ごしたということになる。

 フランスのスポーツカー、ブガッティがレースで一番活躍したのも1920年代だった。

中でタイプ35というのがあり、T35Bとかはカーグラフィック誌で何度も取り上げられていて、カーグラフィック誌ではブガッティ特集をよくやっていた。

それのバックナンバーを探しに神田の古本屋街、神保町へ通った。

 ちょうどふうてんは30才前後、ロシナンテを手に入れたころで、遅過ぎた青春だった。

白州次郎とは、まあ、戦争をはさんで50年ほど年代が違う、ということになりましょうや。

彼は1920年代本物のレーシング・ブガッティでヨーロッパを駆けめぐり、当方は1970年代、そのブガッティの姿を自動車誌、それも古本の自動車誌に求めて、神保町界隈をうろついたのでありました。

 それでも50年後には日本でも及ばずながらダットサン・フェアレディというオープン・ツーシータがあって、1920年代のレーシング・ブガッティよかスピードは出せていて、王侯貴族ではなくても手に入る値段で提供されたのでもありました。

 レーシング・ブガッティというのはスポーツカーの教科書であり究極であって、座席は2つしかなく、屋根などというものもない。

イタリア人のエットーレ・ブガッティによってデサインされたそのフォルムはあくまでも美しい。

メカについても・・・話せばキリがない。

そんな車に二十歳代の白州次郎はうちまたがって、まだ舗装道路も少なかったヨーロッパの道をホコリを蹴立てて走っていたのですね。

 彼の著書にもチラチラ出てくるけど、こういう人が戦前何人もいたに違いない。

もう少し外国のことを知った人が為政者側にいたら・・・あんなバカな戦争はやらなかった。

今は大丈夫なのかなあ・・・そうでもないかもなあ・・・やっぱ島国なのかなあ。

と、海外への(観光旅行者)は増えたけれども、神社へお参りしてアジアから総スカンを喰っている日本へ思いを馳せるのでありました。

(ふうてんアーカイブス)

2003 夏 比叡山は霧だった

夏も曙?

山の端Yamanoha  

 

 

 

 

 

 

 

鴨川Kamogawa  

 

 

 

 

 

 

 

比叡山Eizan 

 

 

 

 

 

 

 

 

自動車部の先輩

40年たっても変わらない Senpai 

 

 

 

 

 

 

 

 

休憩所で驟雨に会った

三姉妹+ワンSanshimai 

 

 

 

 

 

 

 

 

雷まで鳴ってきた

カメラ目線?Kamera  

 

 

 

 

 

比叡山 乳色の風景

あれは大津のようなOotsu  

 

 

 

 

 

 

 

ここは展望台なのだろうかTenbodai  

 

 

 

 

 

 

  

先輩、梅原猛さんに・・・Takeshi 

 

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2006/06/18

2006.06.18 栗の花の匂うころ篇

 梅雨のこの季節、非常に強い匂いを発する木がある。

その匂いを初めて意識したのは大学生のころだった。

自動車部に所属していて、この季節、夜になってドライブ練習に出かける時、山の中などで強く、開け放した窓から匂ってきた。

4年間、毎年、この季節に限ってその匂いがしたのだった。

 う~ん、草木も匂うころか、と、初夏を過ぎて梅雨になり、植物の一番の活動期ゆえの匂いだろうと、アバウトに考えていた。

 大学を卒業し、会社にはいり、結婚して国立に住むようになった。

ところを変えても、この季節、同じような匂いがして来ることがある。

う~ん、これは(単なる草いきれ)ではなく、特定の木の匂いなんだなあ、とフッと匂うたびに近くの木を見上げて思っていた。

しかし今まで木の名前を特定できないままだった。

栗の花だった

 先日、近くの歯医者さんへ出向いた時、同じ匂いが強く感じられた。

これは季節の匂い・・・と見ると、一本の栗の木があった。

病院の前の畑に大きな栗の木が一本、コナラと同じような花の如きものを沢山ぶら下げていたのである。

う~ん??これがあの匂いの元だったの?

 歯の治療が一段落して、若先生に聴いた。

(前にあるのは栗の木ですか?)

(はいっ?)

(この季節、匂いが凄いですねえ)

(ああ、アレですか、今は確か一本くらいしか残ってないでしょう)

(そういえば・・・昔は栗林だったような)

(そうなんです、以前は栗の林だったので、その匂いというのは凄かったです)

(栗の花ってのは強烈に匂うのですかねえ)

(いやあ匂うなんてものじゃなかったですよ、息が出来ないくらいでしてね、それに虫が沢山来て、花だか虫だかがバタバタと地面に落ちて、エライ騒ぎでした)

(はぁ~、花だか虫だかがバタバタと落ちてねえ・・・・)

(今は一本くらい・・でしたよね・・・になったので楽になりました)

 この歯医者さんは(杉森デンタル・クリニック)という。

決して(栗林デンタル・クリニック)ではない。

おふくろが死んだ時も、オヤジが死んだ時も、真っ先に電話した相手は彼のお父さんだった。

お父さんは今も現役の内科医として活躍されている。

さくらんぼの実るころ

 この季節、どうしてもさくらんぼのことを思い出す。

梅雨・・・さくらんぼ、がセットになっている。

果物はたいてい夏から秋にかけて収穫される。

・・・・梅雨時に何故果物が?

と書いてきて、な~んだ、桜が花の一番乗りじゃないか、と気づいた。

 山桜にもソメイヨシノにも小さな実は着く。

しかしそれはとても食用にはならず、食べるのは別の品種のようだ。

佐藤錦(さとーにしき)というのが日本では代表格で山形県特産らしい。

グーグルに聴くと、何故山形県特産かには理由があるという。

・寒さに弱い

・暑さに弱い

・霜に弱い

・雨に弱い

・風に弱い

と、どこででも採れる逞しい果物ではなく、まことにはかない、深窓の令嬢のような趣がある。

 そういう、さくらんぼの一種のはかなさ、短い命を青春になぞらえた歌に、フランスの(さくらんぼの実るころ)というのがある。

(さくらんぼの花の咲くころ)という呼び方もあるシャンソンの名曲である。

ふうてんは学生のころ、レコードやギターを共に楽しんだ友人から、この曲を教わった。

 いろんな人が歌っていて、ジュリエット・グレコなどのもあるけれど、ふうてんはイブ・モンタンが歌うのが一番好きである。

今でも繁寿司帰りに寄る(邪宗門)でモンタンのこの曲がたまに聴こえてくる。

日本では(紅の豚)という宮崎駿監督の映画で加藤登紀子がこの曲を歌っている。

宮崎監督が憧れたサンテクジュペリへの一種のオマージュの気配もあるこの映画で、この曲を挿入歌として使ったのは分かるような気がする。

一番美しく

 三鷹での黒澤映画全作品上映会の第二回目があった。

(一番美しく 1944年)と(我が青春に悔なし 1946年)の2本だった。

戦時中に映画作りを始めた黒澤監督の、監督第二作目と第五作目になる。

終戦(敗戦)の年1945年をはさんで、一年前、一年後の2作を同時上映した。

 一つ驚くのは、映画人というのは映画を作るのが仕事だから、兵士として駆り出されていない男たちは戦時中であろうとなかろうと、映画を作っていたのだなあ、ということだった。

いくら戦争をしていても、戦場以外では日常生活が行われていたのだなあ、と当たり前のことを考えさせられた。

 この2作はごく初期の作品で黒澤映画の(らしさ)というのはまだ出ていないと思った。

むしろ(誰にも初めはある)という印象が強い2本で、ストーリー展開、人物の描き方、カメラワーク、などなど映画のあらゆる要素で(実験)を繰り返しているような印象だった。

(よく、世界の黒澤と言われるまでになったなあ、この映画作家が)とハラハラした。

 2本とも女性が主人公だった。

(一番美しく)の矢口陽子は黒澤監督と結婚した。

(我が青春に悔なし)の原節子は、このあと小津安二郎と組んで数々の名作に主演する。

原節子の魅力をどう捉えればいいのか、若い監督黒澤明が、カメラマン中井朝一と組んで、ああでもあろうか、こうでもあろうかと苦闘しているのが面白かった。

明らかにこの時の原節子という女優はスタッフたちの力を超えた存在感を持っていた。

 中井朝一は(七人の侍)や(生きる)(天国と地獄)(赤ひげ)など一番多く付き合ったカメラマンで、そのドッシリとしたカメラワークに特徴がある。

もう一人が(羅生門)や(用心棒)を撮った宮川一夫で、こちらはいつも新鮮な驚きでもってファンを喜ばせてくれる。

 この上映会では8月に(酔どれ天使)と(野良犬)があり、いよいよ黒澤映画(らしさ)のある作品群が始まる。

全作品上映会、というのは一人の映画作家が、どのように悩んで、成長して、迷って、衰えていくか、を見せてくれるのだろうと思う。

 何だか個々の作品を楽しむ、というよりも一人の人間の生きざまの記録を見せつけられるようでハラハラドキドキする。

これは初めての体験ではある。

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2006/06/11

2006.06.11 梅雨にはいった篇

 関東でも梅雨にはいったようだ。

今年は何故か雨が多く、気温も低めで、温暖化という気配が全くない。

1月からの降雨量は相当なものになるのではないだろうか。

5月だって雨や雷が多くて、いまさら(梅雨入りです)と言われてもピンと来ない。

 今日も雨だからしてチャリで繁寿司へ向かった。

ロシナンテもこのところ中々出番がない。

ネコちゃんたちのホテルになったようなもので、今は彼女たちも冬服から夏服への衣替えの季節だからして、たまにシート・カバーを外してロシナンテのホコリをはらうときは、沢山のネコの毛を覚悟せねばならない。

ネコというのは夏服に着替えるとき、毛が生えかわるのだろうか。

風呂に入れてシャンプーしてやっている訳でもないのに、真っ白になるのである。

そしてオーバーを脱いだようにスリムになる。

 山口夫人がいつもの席に座っていた。

最近出た新刊本の話をすると、アレ買わないでね、そのうちお持ちしますから、とおっしゃる。

奥さんのサイン入りですって、と繁さんがチャチャを入れる。

私がサインしてもしようがないわよ、と夫人が切り返す。

 繁寿司を出て、邪宗門で時間を過ごす。

いつもいい曲がかかっているのだけど、今日はオヤッ?と思うシャンソンが流れてきた。

メロディーに聞き覚えがある曲だった。

やがてその曲が、宝塚のテーマソング(すみれの花咲くころ)ではないかと気づいた。

そうか、あの曲はもともとシャンソンだったんだ。

 帰ってGoogleに聴いた。

そのフランス語版の花は白い「リラ」 (Lilas blanc)(ライラックLilacは英語) でした。 ベルリンでFranz Doelle氏が作ったドイツ語の元歌の花は白い「ニワトコ」(Weise Flieder)の花でした。

と教えてくれる。

確かに邪宗門で聴いていると(ブラン)という言い方が何度も出てきたので、ああスミレじゃなくて、白い花だったんだ原曲は、と思っていた。

いい本に出会った

 5月の末ごろ、神楽坂の山田塾へ向かうとき、飯田橋で時間があったので本屋さんに寄った。

(グーグル Google 佐々木俊尚著 文春新書)副題に(既存のビジネスを破壊する)とある本が平積みされていて目についた。

2006年4月20日第一刷発行、5月11日第四刷発行とあるから出来立てホヤホヤで売れている本のようだった。

 読んでみて、なるほどと思った。

どうしてグーグルがタダでサーチエンジンを提供して巨額の利益を得ているのか謎だった。

その謎が解けた。

 知らぬ間に、ボヤボヤしている間に、トフラーの言う(第三の波)が確実に押し寄せている、ということをヒシヒシと感じた。

四季の会

 先週、退職手続き説明会というのがあるので久しぶりに会社を訪ねた。

もうあと一週間でここへも入れなくなるのよ、などと言いながら職場の若いのを冷やかした。

説明会は予想と反して、生徒(退職老人)4人に対して先生(若い勤労担当者)6人だったのでビックリした。

 まるで小学生が先生に授業を受けているような気分になった。

東洋には長幼の序という伝統がある。

卒業していく年寄りに若い連中が事細かに手続きを説明して、安心を与えようとしている。

西洋風の単なる雇用契約ではないものがここにはあるような気がした。

 帰りに元の手下二人を誘って府中で飲んだ。

(先輩、退職したあとどうするんですか?)

(浪人さ)

(悠々自適ってやつですか、いいですねえ)

(遊んで暮らす余裕はないけど、ほれ、長く勤めたからなあ)

・・・・。

(ところで君んとこ今何人くらいいるの?)

(そうですねえ、え~と、20人くらいかなあ)

(今日君の席に行ったら大きなテレビ置いていたんでビックリしたよ)

(あれ37インチなんです)

(いつからテレビメーカになったんだっけ?)

(あれでパソコンなんです)

・・・・。

(アップルのスティーブン・ジョブスて結局何者なんでしょうねえ)

(彼はまともに大学へ行けなくてデザインの専門学校へ行ったと聴くよ)

(へぇ~、そこで何をしていたのです?)

(フォントのデザインを勉強したそうだよ、それがMacに繋がったんだと自身が語っているよ)

(今はiPodでしょう?あれはオーディオの専用機みたいだし、パソコンとはずいぶん違いますよねえ)

(彼は空間と時間に興味があったのと違うかなあ)

(空間と時間ですか?)

(ウン、それに関するマン・マシンを一般の人に与えたような気がするのよ)

(空間はビジュアルだし、時間はオーディオだし)

(つまりコンピュータを使ったメディアということがアップル社が一貫して追求しているテーマということとちゃうかなあ)

・・・・。

 やがて夜も更けて、府中の大國魂神社のケヤキ並木を歩きながら、

(ところでもう会社では会えなくなるけど、たまには飲みたいなあ)

(望むところですよ)

(じゃあどうだろう、春夏秋冬、四季の会なんてのは)

(昔、映画関係者で四騎の会なんてのありましたよね)

(そうそうそれよ、それにひっかけて、四季の会、これでいこうよ)

(いいですねえ)

 ということで春夏秋冬、年に4回は一緒に飲もう、幹事役は俺がやる、招集礼状を出すから集まってくれ、と連中と別れた。

飲み屋のボトル・キープは3カ月が期限であると店の人はいう。

春夏秋冬通えば賞味期限が切れることもありますまい。

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2006/06/05

2006.06.04 あの人に会いたい篇

 土曜日に歯医者から帰ってテレビをつけると本田宗一郎さんが出ていた。

NHKアーカイブス(あの人に会いたい)だった。

この番組は10分と短く、いつやっているのか注意していないものだから、めったに見られない。

しかしたまたま見る機会があると、日本にも魅力的な人がいたのだなあといつも感心する。

 世の中、何が魅力的かといって人間の魅力に勝るものはない。

その人間の魅力の中でも特別なものを持っていた人々をこの番組は取り上げる。

映像あり語りありだから、大昔の人は登場せず、せいぜいこの5、60年に活躍したピープルである。

NHKアーカイブスでもう一度会わせてあげましょう、というのが番組の主旨なのだろう。

 10分足らずの番組の中で、インタビュー(NHKの鈴木アナウンサーと堺屋太一)に答えて、本田宗一郎さんは本質的なことを実に的確に、楽しそうに話していた。

コンビを組んだ藤沢武夫さんとの出会いの話から始まり、意外に早かった社長退任までのホンダの活躍のエッセンスを語った。

 藤沢さんとの出会いについては、僕がモノを作るから君は売って金をとってくれ、で話は進んだのだけど、人間の出会いというのは大切ですねえ、という。

得意技が違うもの同士が、たまたま出会って組む、ということなのだけど、本田さんはさらに、好かれる、ということも大事なんですねえ、と付け加えた。

人に好かれる、人を好きになる、そういうことの大切さを語る経営者というのはあまりいない。

 どうしてホンダは急成長出来たのでしょう?

という質問に対しては、戦後、権威とか上の人とかがいなくなっちゃったのが良かった。

マッカーサが、そういうのをぜ~んぶパージしちゃったから、僕たちはノビノビとやれた。

みんな生きるのに必死の時代だったけれども、上からの押しツケではなく自分たちの、それぞれの工夫でやることが出来た。

それが良かったんじゃないですか。

 だから年寄りは早く引退した方がいいんですよ、という。

若いということは素晴らしい。

若い人にやらせてみると、中に仕事に夢中になるのが出てくる。

そういうのがリーダーになって回りは引っ張られていくんです。

そういう人が何人かは必要なんですねえ。

 ・・・・・。

 本田宗一郎さんで感心するのは言葉による表現が素晴らしいということである。

しゃべりはべらんめえ調で人を惹きつける。

文章は無駄がなく、ほとんど哲学的ですらある。

この番組を見たあと、女房としばらく話をした。

本田さんは小学校を出たあと、神田の自動車修理屋さんに、当時の言葉で言うと丁稚奉公に出た。

中学、高校、大学へは行っていないのである。

 同じように池波正太郎さんも小学校を卒業して、株屋にはいった。

お二人とも12歳のころから社会に出たのですね。

学校で知識を詰め込まれるより、その方が(自分の言葉)を持てるのかしらねえ、と女房がいう。

そうかもしれんなあ、と応じた。

 本田宗一郎さんの言葉の魅力に触れたい方には以下の一冊をお勧めしておく。

(私の手が語る   本田宗一郎著 講談社文庫)

この本には右手のハンマーやらスパナやらに痛め続けられた左手のスケッチが本人画で載っている。

痛め続けられた左手は右手より1センチほど短い、というのだから恐れ入る。

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