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2006年1月に作成された記事

2006/01/30

1月29日 フィルムが無くなる日?篇

書簡集shokanshu  

 ニコンがフィルム写真機をやめるという。

コニカミノルタがカメラ事業、フォト事業から撤退するという。

 これらはフィルムの終焉を意味すると思われる。

サクラカラーとフジカラーの二人三脚も終わりらしい。

コダックやポラロイドはどうなっているのだろうか。

 視覚型人間と言われるふうてんにとって、この事態はやはり感慨深いものがある。

写真技術の中で150年も番を張ってきたフィルムがなくなる。

このことは写真や映画の表現に大いなる影響を与えるに違いない。

今日はそのことをちょっと考えてみたくなった。

ほぼ50年単位で変化してきた

 大阪のM社の営業さんと新大阪の(みみゅう)でウドンスキを喰った時、ビジュアル系は50年ごとに変化してきたんですよね、と言われた。

 ちょうどシドニー・オリンピックが間近に迫っている頃だった。

ん?50年単位で?ビジュアル系が?何のこっちゃ??

やがて彼が言いたいことが分かってきた。

50年続けてきたテレビが変わる、ついては歴史を考えてみた、と言いたいらしかった。

・写真   1855年のパリ万博のころ。

・映画   1895年フランスのリュミエール兄弟が大スクリーンで動く映像を映した。

・テレビ  1953年日本で初のテレビ放送をNHKが開始。

・デジタル 2001年シドニーオリンピックの時デジタル衛星放送開始。

 アバウトに言うとほぼ50年ごとに大きな節目を迎えている。

いつも技術の歴史のことでハァ~そうですか、とコチラの話を聴いていた営業さんが少し得意気にこの話をした。

コチラも少し嬉しかったので、

(これ使わせて貰いますよ)

と言って、その後いろんな機会に話している。

別に50年単位だからどうということはないのだけれども、フィルムが無くなったとしても、そもそも写真が150年ほどの歴史なんですよ、と考えることは一種の安心というか納得というかある安定感を与えてくれる。

一コマの意味

 写真や映画のフィルムには(コマ)という概念があった。

コマ落としと言って動きを速く見せる為、連続写真の中のコマを10枚に1枚とか抜く手法が映画で使われた、なんて話はもう過去の物になったのかもしれない。

(あれは忘れられない青春の一コマだった)なんていう言い方もある。

 どうもこの(コマ)というのは時間軸上に記録された中の1枚という概念であるような気がする。

フィルムの場合は、手動にしろ自動にしろ1枚写されてフィルムが送られて次が写されるのでフィルムがある意味でタイムキーパの役割を果たしている。

しかもフィルムは目に見えるものなので物理的に(物)として把握することが出来る。

 ところがデジタルになってフィルムがなくなるとどうなるのであろうか?

何しろデジタル・データというやつは目に見えないから始末が悪い。

実体が見えないのですね。

スクリーンに映す、ということで姿を表すのだけど、デジタル化することで一番失われるのは実は(時間)なのかもしれない。

デジタル処理では実体としての時間はなくなるのですな。

写真がセピア色になってくれないことが何よりもそれをよく物語っております。

ディズニーがピクサーを買収した

 フィルムがなくなるというニュースと同期してディズニーがCG会社のピクサーを8500億円で買収したというニュースが飛び込んできた。

ピクサーはアップルのスティーブン・ジョブスの会社であり、映像をコンピュータで作るCGの雄であることから象徴的なニュースとなっている。

 ウォルト・ディズニーの映画は我々の世代以上の人は特別の感情を持っているに違いない。

101匹のわんちゃん、など動物や人間の動き、心理を実写の映画以上にリアルに夢多く表現して見せた。

CGではこのディズニーの手書きのアニメを超えることは出来ないだろう、と言われていたのだけれども、制作の技術としてもはや避けて通れないものになったのだろうか。

 ディズニーとアップル。

アメリカン・ドリームの代表格みたいなもの同士。

ハリウッドとシリコンバレー。

ビバリー・ヒルズと六本木ヒルズ。

8500億円で買収された会社と8500億円失いそうな会社。

・・・・・・

ちょっと話が混線してきたような。

(ふうてんアーカイブス)

2006冬 国立富士見通り 書簡集

富士見通り(と電線)fujimitori  

 

 

 

 

 

 

富士山(と電線)fuji 

 

 

 

 

 

 

  

書簡集マスターmaster  

 

 

 

 

 

 

 

このたたずまいmado  

 

 

 

 

 

 

 

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2006/01/22

1月22日 国立の初雪は淡雪だった篇

寒いニャ~shiro  

 記録的な大雪のニュースが流れる今年、国立では昨日初めての雪が降った。

めったに雪の降らないコチラでは雪景色を見ると一種お祭り騒ぎの気分に襲われる。

昨日の朝起きて(オッ、降ってる降ってる)と窓の外を見た時、ノドに異変を感じた。

 風邪を引いたのである。

このところ寝込むような風邪は引いていなかったのだけれど今回はいけない。

鼻水、咳、悪寒がシッカリと襲ってきた。

土曜日、日曜日と終日フトンの中で過ごした。

繁さんには電話で行けないことを伝える。

 今日は朝から快晴だったので南側の雪は殆ど解けたようだ。

今年の初雪は淡雪だった。

 

(ふうてんアーカイブス)

 

2006正月明け 初雪

ベランダもyukigeshiki  

 

 

 

 

 

 

 

庭もniwa  

 

 

 

 

 

 

 

ハナミズキもhanamizuki  

 

 

 

 

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2006/01/16

1月15日 DVDの映画が1枚500円??篇

2006年お節料理osechi  

 正月も明けて10日当たりから世の中少しは仕事モードにはいったようだ。

9日に成人式が行われる、というのはどうしても合点がいかない。

意味がある日だから(休日)やら(祭日)だったはずである。

それをあなた(連休)にするために記念日の日をずらす。

日本は今、本末転倒の時代なのかも知れない。

 国の政治やら制度やらがおかしいな?と思われるとき個人はどうすればいいのだろうか? 

壁に向かって独り言でも言うしかないのだろうか?

 ふうてん老人は壁に向かって独り言を言うのにもいささか飽きたので正月明け街へ出てみた。

(犬も歩けば棒に当たる)という言葉がある。

確かにちょっと街に出て歩くと、戌年生まれのふうてんはすぐに(棒)に当たるのだった。

(片目のジャック)が1000円で売られていた

 ふうてんはマーロン・ブランドの大ファンである。

映画俳優の中で誰が好きですか?と聴かれたらマーロン・ブランドと答えるに違いない。

その彼の代表作ともいえる作品(片目のジャック)のDVDが1000円で立川で売られていた。

路上の夜店で投げ売りされていたわけではない。

クラッシック・シネマ・コレクションというシリーズで定価が1000円なのであった。

 この映画はいつ頃見たのだろう?

1960年制作とあるから、ふうてんはまだ中学生だったのだろうか?

中学時代、映画館や喫茶店への出入りは禁じられていた。

それなのにこの映画をいつどの映画館で見たのだろう。

松山の(銀映)という三流館で三本立ての古い映画をずいぶん見た。

しかしこの(片目のジャック)は1960年だとすると封切館で見たに違いない。

 それからずいぶんたって、この映画を下北沢のレンタル・ビデオ屋さんで発見したときは本当にビックラこいた。

この映画ではマーロン・ブランドが監督もやっている。

彼のようなタイプは監督業には合わなかったとみえ、この一作くらいしか知らない。

その監督ぶりがまたなかなか本格なのですね。

 原題は(One-Eyed Jacks)つまりトランプの11のジャックは片目なので裏側にもう一つの目がある、いつ友だちを裏切るかもしれない奴だ、という意味。

全編マーロン・ブランドの匂いがプンプンする作品で、彼が出突っ張りとなる。

ピストルをホルスターではなくベルトに直接差して早撃ちをやるのですね。

中学生だったふうてんはこれに憧れて木で作ったピストルをベルトに差して抜いて撃つ振りをして喜んでいましたね。

15歳の頃?

まだ家と学校の往復で、世の中のこと何も知らなかった。

映画というのがもう一つの(学校)だったのかも知れませぬ。

何枚か買うことになる

 立川のHMVというお店でこのDVDを発見し、チラチラと回りを見る。

5000円くらいのもあるし、まあいろいろございます。

しかしコレは?と思うようなのが、500円とか1000円の名札がついている。

結局は何枚か買うことになる。

・モロッコ(1930年 ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督)

・郵便配達は二度ベルを鳴らす(1942年 ルキノ・ヴィスコンティ監督)

・シェーン(1953年 ジョージ・スティーブンス監督)

・片目のジャック(1960年 マーロン・ブランド監督)

 何だか古いといえば古いような映画ばかり・・・・。

しかし芸術に古いも新しいもないのであって、いいか悪いかがあるばかり。

いいものが500円やら1000円で手に入る。

ああ、良い時代になったなあと無条件で嬉しかった。

ビデオ・テープが1本3000円していた

 映画をテレビで放映するようになって、淀川長治さんの日曜洋画劇場などは楽しみだった。

例の、といっても今の若い人には分からないだろうけどサヨナラ、サヨナラ、サヨナラで終わる番組。

 テレビで見るだけのうちは気楽だったのだけど、やがてVTRなるものが登場した。

ビデオ・テープ・レコーダー。

つまりテレビで放映されたものが録画できるようになった。

フジテレビで黒沢作品が放映されるという大宣伝を見せつけられて、ふうてんもソニーのβのビデオ・デッキを買った。

 定価が28万円のその機種が店頭品で22万円でいいと言うのである。

当時付き合っていた国立楽器さんが勧めてくれた。

それでβのデッキで黒沢映画の主要な作品を録画することが出来た。

 その当時、βのテープは一本3000円だった。

28万円のデッキを22万円で割安に手に入れて、やれ嬉しやと思った3年後、録画したテープは300本を超えていた。

3000円×300本=90万円!!

何のこっちゃ??

ちょっとも得してないやんけ。

 当時の業界誌をある日府中の喫茶店で見ていると、ビデオデッキの売り上げが一年2兆円、テープの売り上げがやはり一年2兆円とあった。

 今から20年程前のお話であります。

やはりブルー・レイなのだろうか 

 今のDVDの映像はそんなに綺麗なものではない。

2時間の映画を入れるにはいささか容量が足りない。

そこでデータの圧縮が行われる。

 今のDVDは4.7GBが標準的な大きさである。

これだと足りなくて、ブルー・レイなどと呼ばれる次世代のDVDが話題になっている。

こいつはブルー・レーザという波長の短いレーザを使って今のものより5~6倍の容量が実現出来るというから大したものだ。

 ふうてんはこの光メディアに期待している。

東芝・マイクロソフトの陣営と松下・ソニー陣営が対立していて、かってのVHSvsβのバトルの様相を呈している。

ふうてんは松下ファンでありソニーファンであるからブルー・レイに決めている。

松下とソニーの連合軍が敗れる時はコチラも諦めが付くという考え方である。

 これまでβで録画し、Hi-8で録画し直した映画達をまたブルー・レイで録画する。

2度も3度も同じ映画を。

それでもいいのである。

ハイビジョン・クォリティで(七人の侍)を録画出来て、いつでも見ることが出来る。

それが出来るようになると、映画に関してはもう思い残すことはない。

 今年2006年末ころ映像に関する新しいバトルが起こるらしい。

一つはこの25GBのブルー・レイ。

一つはキャノンが提唱しているフラット・パネルとプラズマ、液晶の対決。

 視覚型人間だと友人達に言われることの多いふうてんにとって2006年は楽しみな年なのである。

これまでアナログのメディアで表現され伝えられていたものがデジタル化されつつある。

ニコンがフィルム・カメラをやめると言う。

面白いなあと思う。

アナログであれデジタルであれ、道具が変わるだけで(表現内容)は変わらないのだよ、とも思う。

デジタル・カメラになったからいい写真が写せる・・・というようなものでもござんせん。

ただ表現されたものの後始末、保存とか伝達とか、それがデジタルだと格段にやり易くなる、ということなのですね。

(ふうてんアーカイブス)

ビルの谷間に満月がbuil  

 

 

 

  

 

 

 

立川シネマ・シティcinema  

 

 

 

 

 

 

 

隣は高島屋takashimaya  

 

 

 

 

 

 

NTTが光ファイバーを強化した

工事中fiberkanban  

 

 

 

 

 

 

 

鳥ではない、人間のようなtori  

 

 

 

 

 

 

 

テキパキとした出来る若者だったyoungguy  

 

 

 

 

 

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2006/01/08

1月8日 やはり寝正月だった篇

北海道の写真家からの賀状 

chiba   

 もうかなり以前から(寝正月)の習慣がついてしまった。

大晦日から飲み始め、4、5日ころまで何もしないのである。

今年も全くそのパターンのままで過ごしたようだった。

さっき寒風の中ロシナンテに一鞭くれて繁さんへ行ったのが初めての外出だった。

 若い頃はそうではなかったと思う。

四国の田舎に両親も健在だったし、子供もいない身軽な時代はたまに帰省していた。

いわゆるUターン・ラッシュの真っ只中に身を置くことを楽しんだこともあった。

航空会社に顔の利く友人に頼んでチケットを手に入れたこともあった。

 ある時期から、混む季節には動かなくなった。

ゴールデン・ウィーク、お盆、正月。

全く動かなくなった。

1週間くらい、自宅でただボンヤリと過ごすようになった。

そうして頭の中を真っ白にして、また休み明けに過酷な仕事の場に望むのだった。

 そういう習慣が、(毎日が日曜日)の還暦老人になっても続いているのだろうか?

これはどう考えても理屈に合わない話で、毎日が日曜日なのにどうして正月休みもシッカリと休むんだ?と自分に聴いてみた。

(正月休みは特別の休みである。土曜、日曜も平日とは違う。コチラの事情とは関係なく、世の中が休みである時はコチラも堂々と休めばよろしいので、その積りで)

という答えが帰って来た。

どうも(ストレス)というものを知らない衆生もこの世にはいるらしい。

 で、何もしないで一週間ほどたって、ブロッグに書くネタもない。

休刊したいけれども、せめて一週間に一回くらい書かんかい、という声も聴こえる。

何ぞネタはないかいなと、ふうてん老人日記の2001~2005の正月を振り返ってみた。

一年前、二年前、・・・似たようで、かなり違うことも考えていたことを思い知らされる。

そうであるならば2006年正月も何かを書いておけよ、と励まされた。

蝉しぐれ

 年末年始のテレビで一番よかったのはNHKのBSハイビジョンで再放送されたこの番組だった。

原作がいいし、主役の男、女、二人ともいい。

と同時に、音楽の小室等とナレーションの草笛光子が素晴らしい。

小室等は昔(あっしには関係のないことで)という(木枯し紋次郎)の音楽も担当していた。

草笛光子は歳とともによくなってきたような気がする。

二人とも藤沢周平の原作にピッタリとはまっている。

 あの小説から一つのテレビ・ドラマを作る。

文字表現されて読者の想像に任せていたものを映像や音楽や声で勝手に(これだ)と定着させるのはかなり勇気のいることだと思う。

大体、そ~お?と首を傾げるのが多い。

 そういう中で、カメラや助演人も含め、このドラマ化は原作者も二重丸をつけたことと思われる。

全6篇の短い時間だったからやれたのかも知れない。

音楽ビデオのアイコンがやたらと増えた

 正月何もしなかったのだけれど、音楽ビデオをアイコン化することにはかなりの時間をさいた。

(東京ラブストーリ)や(ウイアーザワールド)などアレやらコレやらキリがない。

アイコン化するにはビデオをパソコンに取り込んで、圧縮する必要がある。

映像のソースは大体(Hi-8)というソニーのビデオ・テープなのでパソコンへ取り込むには1394というインターフェースを使って25Mbpsで行う。

1秒約3MBだから10秒で30MBという勘定である。

1分は60秒だから30×6=180MBとなる。

これではたまらないので1/10くらいに圧縮する。

(ふうてんアーカイブス)に登場する映像もこういうやり方で作っている。

パソコンに取り込むまではいいのだけど、圧縮するには実時間の20倍くらいの時間が掛かる。

CPU使用率100%とかで、ふうてんのノート型パソコンは悲鳴を上げる。

冷やす為に風を送っていた扇風機がホコリまみれになって、風が弱くなり、20分ほどたつと(サーマル・シャットダウン)をするようになったので、年明けにその扇風機どののホコリを風呂場で綺麗に洗い流したのであった。

機械というのは現金なもので、以後全くダウンしなくなった。

 暇に任せてアイコン化しているうちに30も超えたので、一つのフォルダにまとめることになった。

人には(喝采)が必要なのだろうか?

 いろいろと(音楽ビデオ)をアイコン化するうちに一つのことに気付いた。

それは、人は(喝采)を受けることがないと生きていけないのではないか、ということである。

当方がアイコン化する音楽ビデオは勿論プロ中のプロばかりである。

プロの芸人は(喝采)を受けないと商売にならない。

商売・・・金、の為だけ?

あるいは又(喝采)はプロの芸人だけが必要とするものなのだろうか?

 金を稼ぐ為だけならデイ・トレーダすりゃあいいじゃないか、という声も聴こえてくる。

(喝采)というのはどうも別の要素を含んでいるようだ。

 プロの芸人ではない我々フツ~の人間にとっても(喝采)は必要ではないのだろうか?

と、この頃考えるようになった。

どんな人間にとっても人から(拍手喝采)を浴びることが生きがいになるのではないだろうか?

めったにないことかも知れないけれど人はそれを求めて、それを支えとして生きているのではないだろうか?

 ただ喰って生きていくだけというのなら、うちのネコちゃんたちと同じだよな、と女房と、それでもいいけどね、と笑ったのだった。

 寝る前にウィスキーを一杯飲んで、ちあきなおみの(喝采)を聴くことにしよう。

 いつものように幕が開き

 恋の歌うたうわたしに

 届いた報(し)らせは

 黒いふちどりがありました

 あれは三年前 止めるアナタ駅に残し

 動き始めた汽車に ひとり飛び乗った

 ひなびた町の昼下がり

 教会の前にたたずみ

 喪服のわたしは

 祈る言葉さえなくしてた

 暗い待合室 話すひともないわたしの

 耳に私のうたが 通りすぎてゆく

 

 いつものように幕が開く

 降りそそぐライトのその中

 それでもわたしは

 今日も恋の歌 うたってる 

(ふうてんアーカイブス)

 

1997 まだ部屋も片付いていた

どこかで見たようなボーイがboy  

 

 

 

 

 

 

 

1971年DIGジャズ・カレンダー ビル・エバンスbillevans  

 

 

 

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2006/01/01

2006年 1月1日 ふうてん還暦につき篇

鏡餅mochi  

 大晦日にテレビを見ていたら昭和21年(1946年)生まれは152万人だという。

今年あたりは100万人前後だと聴くから少子化というのは確からしい。

 152万人のうち何人生き残っているか、ということはテレビで報じてくれなかったのでよく分からない。

分からないけれども今年還暦を迎える人たちがかなりの人数いて(全員)戌年であることは間違いない。

 去年は戦後60年だとかでNHKなど随分(それからの60年)という番組をやった。

何だか当方などは何度も何度も生まれてからこれまでの人生を振り返らさせられたような気がした。

見ていて面白いなと思ったのは、日本だけじゃなく世界的に戦後60年だったということだった。

 中で、イギリスとかフランスとかスペインとかイタリアとかは余り出てこなかった。

そういう国では戦後60年どのように時間がたっているのだろう?にも興味が湧いた。

スペインなんていわれるとフラメンコ以外に知らないし、イタリアなどもいまだにオオソレミヨくらいしか思い浮かばない。

考えてみればヨーロッパへはまだ一度も足を踏み入れたことがないのだった。

 ふうてんは1946年1月5日生まれだからもうすぐ還暦となる。

少し還暦ということについて話してみたくなった。

1月5日生まれ

 こういう日に誕生日を持った人は不幸であると思う。

正月三が日、人々は散々食べて飲んでお祝いをしている。

そのあとの5日など、食べ飽きて飲み飽きて騒ぎ飽きている。

 従って、ふうてんは幼少のみぎりから還暦を迎えるまで一度も誕生日を祝って貰ったことがない。

せめてもの慰めは旧暦かも知れないけれど、夏目漱石が1月5日生まれだったことくらいだろうか。

 そういう意味ではふうてんのオヤジやら兄貴やらも気の毒なものだったかもしれない。

なにしろ二人とも12月25日生まれだった。

そりゃ、あなた、キリストさまには勝てませぬ。

二人とももうこの世の人ではないけれど、おそらく一度も自分の誕生日祝いをして貰ったという自覚のないまま死んでいったのではなかろうか。

クリスマスケーキであってバースデイケーキではないのでありました。

 もっとややこしいのはふうてんの姉貴である。

これが1月2日生まれときている。

12月に生まれるよりは年が改まってから生まれた方が若く言えるから・・・・と疑われたに違いない、女の子だから。

母親も父親もいなくなった今となってはことの次第を確かめようもないけれど。

 そういう育ちのふうてんにしてみれば(ハッピー・バースデイ・ツーユー)の歌などは聴きたくもないのである。

誕生日プレゼント

 昨日、大晦日に、街の様子を見てこようかなあ、明るいうちに、と女房に言った。

つまり大晦日の賑わいくらい見ておかないと年が暮れないと思ったのである。

そうしたら女房が、手袋くらいしか思い当たらないので探して候補は見つけたのだけどサイズを確かめたいので一緒に行ってくれる?という。

 それで立川へ行った。

ボロボロになっているロシナンテ運転用の皮手袋を補給することが出来た。

極めて薄いフランスの某社デザインの皮手袋である。

今回のは内側がカシミヤではなくおそらく絹なのだけど悪くない。

 ふうてんのような偏屈ものには誕生日祝いを贈る方も苦労するようではある。

山口瞳さんの断筆宣言

 もう20年近く前になるのだけど、繁寿しで知り合った山口さんからある日(杯)を戴いた。

京都の陶芸家が焼いた白地に山口さんの青い文字のはいった杯(さかずき)である。

どうも還暦祝いであったらしい。

桐の箱にはいっていた。

 その頃、山口さんは断筆宣言をしていた。

(人間死ぬまで働けと言われるでしょう、ボカアあれが嫌でね、もう小説なんか書きたくないんですよ)と小説を書かない宣言をされた。

それでも週刊新潮に(男性自身)は書き続け、結局亡くなるまで一回も休まずに書き続けられた。

(江分利満氏の優雅な生活)で直木賞を取ったあと33年間も。

 もう小説は書かない、と宣言し、知人に桐箱入りの杯を配った山口さん。

コチラは断筆しようにも筆はないし、杯を作ろうにも知り合いの陶芸家はいない。

同じ還暦なのに・・・・・。

 久しぶりに桐の箱を開けてその杯で酒を飲んでいる。

杯は大小2つあり、繁寿司とかふうてんの名前とか六十老山口瞳とかの文字が見える。

これが山口さんの好きな杯の形だったのだなあと思いながら何杯も飲む。

(ふうてんアーカイブス)

2005冬 福島へ行った

会津磐梯山じゃないよねbandaisan  

 

 

 

 

 

 

 

祖母、母、子ma  

 

 

 

 

 

 

 

キャメルとニッカcamel  

 

 

 

 

 

 

 

2005師走 立川

 

立川駅ビルeki  

 

 

 

 

 

 

 

チャイナ・ドレスchinadress  

 

 

 

 

 

 

 

麵の専門店men  

 

 

 

 

 

 

 

2005年末 東京はビルばかり(事務所より)

 

新宿shinjuku  

 

 

 

 

 

 

 

六本木roppongi  

 

 

 

 

 

 

 

東京タワーtower  

 

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