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2005年10月に作成された記事

2005/10/31

10月30日 芸術の秋と言われても篇

もう秋だニャ~akinya

 秋というのは(天高く馬肥ゆる)と言われるようにスジ雲のようなのが出て、空が高くなってくれないと雰囲気が出ない。

どうもこの数年空がいつも霞んだようなボンヤリとした表情しか見せなくなったような気がしてならない。

 梅雨の頃、京都へ行ったとき目が霞んで立っておられなくなり、藤井大丸の店先でしゃがみ込んでしまった一件は報告した。

異常気象による気候の変化のせいなのか、コチラの目のせいなのか。

その後(白内障)の症状は現れず、霞んだ空がクッキリと見えるので気候のせいにすることにしている。

 世界の異常気象はかなり進んできていて、ニューオーリーンズが埋没して消滅しそうになったニュースには驚いた。

ジャズもおちおちやってられない。

日本でも台風の来かた、去りかたが以前とは変わってしまった。

 こんな風に気候が変わってしまうとヒンヤリとした風が吹き始めて(ああ秋が来たんだ)という気分になりかねる。

(芸術の秋)という言い方も何となくソラゾラしく聴こえて来るのであります。

選挙も野球も競馬も終わってしまった

 どうも異常気象のせいなのか、今年は(一方的勝負)が多い年だという説がある。

 小泉選挙の自民党大勝には誰もが驚いた。

あまりにも差がついて、その後の政局に面白味がなくなり、いつもはよく見るテレビの政治ニュースもほとんど見なくなった。

見る必要がなくなった。

 阪神が4連敗で負けたと思っていたらホワイト・ソックスが4連勝で勝った。

日本シリーズとかワールドシリーズはなかったようなものだった。

あんなことならジャンケンで決めてもいいのじゃない、というくらい味気なかった。

 ディープ・インパクトの末脚(すえあし?)にも恐れ入った。

最後の10秒間くらいであんな差をつける馬がいちゃあ他の馬はたまったものじゃない。

100円の馬券は誰も払い戻しせず記念にとっておくという。

当たり外れではなくあの美しい姿に観客は酔ったと聴く。

 選挙、野球、競馬が終わり、あとは正月を待つだけとなった。

でもまだ残っているゲームが・・・・

 残された中で一番面白いのはマネー・ゲームなのかもしれない。

あろうことか(我らが阪神タイガーズ)を買収しようという野郎が現れた。

テレビ局を買収しようというインターネットの会社も現れた。

数100億円とか数1000億円とか動かせるという若い連中である。

戦後60年営々とやってきた年寄りたちと10年ほど前に勃興した若い連中の戦いである。

 若い人たちのチャレンジには拍手を送りたい方ではあるのだけど、今回の二つの買収劇には一つだけ気に食わないところがある。

それは、評価の定まっているものを買って一儲けしようという根性である。

 メディアとインターネットの融合というのなら、全く新しい、インターネット時代にあったコンテンツを自ら作ればいいじゃないの。

自分たちだけで作る自信がないのなら礼を尽くして、コンテンツ作りの先輩たちを迎えるということはやっていいと思う。

札束でホッペタ叩いても応じるようなタマじゃないよ、連中は。

 20年ほど前、日本がまだバブルの真っ最中にいたとき、ゴッホのひまわりの絵を250億円で買った日本人がいた。

それについて作家の村上龍が週刊プレイボーイ誌にコメントを書いていた。

(250億円でゴッホの絵を買ったと聴いてもちっとも羨ましくなんかない。そんな評価の定まったものに大金を投じるなんて最低だ。そんなことしても誰も尊敬しないよ。本当に尊敬されるのは、まだこれからという若い芸術家に投資する人なんだ。)

正確ではないけど、おおよそそういうことを言うてました。

この話は印象に残っているのでどなたかのブロッグのコメントにも書いた。

張芸謀(チャン・イー・モー)の(初恋のきた道)

 このチャン・イー・モーについてはMuさんも(英雄 ヒーロー)についてかなり高い評価をしていた。

今、テレビ朝日の(日曜洋画劇場)でその続編の(ラバーズ)をやっている。

 この監督がふうてんは好きなのである。

1950年に中国の西安で生まれたという。

1949年に毛沢東が統一国家宣言をした共産中国で映画を作るのは容易じゃなかったと思われる。

(芸術の秋)なのかして先週NHKのBSハイビジョンでこの監督の2000年作の(初恋のきた道)が放映された。

何度も放映されているしビデオ録画もしているので、アアあの映画ね、と何気なく見始めて驚いた。

ストーリを全く覚えてなかったのである。

どうも(録画する)ことで安心してマトモに見てやしなかったらしい。

 見始めて、ズンズン引き込まれて最後まで飽きずに見て、最後の最後にガ~ンと一発喰らわされてしまった。

シナリオの力なのですね。

テーマは心の問題、特に(恋とは何か?)の一つのバリエーション。

 山村に残っている老いた母親を町に出て働いている30過ぎの独身の一人息子が訪ねるところから映画は始まります。

父親が亡くなって、葬儀のために故郷に帰るのですね。

その母親が、どうしても父の死んだ町の病院から故郷の村まで遺体をみんなで運んで欲しい、一緒に歩いて帰りたい、車じゃダメだと主張するので、息子や村長さんたちは大弱りします。

寒い冬の雪道を運んで帰るなんて・・・人を100人ほどは集めないとやれません。

さて、どうするか・・・・。

 今は我々日本人は(心)ということを殆ど忘れかけているような気がしますね。

心よりもお金でしょう。

何でもお金でケリがつくという世の中になりました。

揺り篭から墓場までね。

 この(初恋のきた道)はそういうとっくの昔に忘れていた(心)ということをフッと思い出させてくれます。

(恋心 人を恋する気持ち)という形でね。

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2005/10/23

10月23日 芸術の秋?篇

秋の光aki

 (芸術の秋)なんていう言い方をする。

秋になると妙にいろんなところで(芸術)にまつわるイベントが開かれる。

学園祭、なんてのも秋に決まっている。

どうして芸術は秋に限られるのだろう?

 先日近くを歩いていて信号待ちをしていると、若い女の子二人連れに声を掛けられた。

(あの~すみません、芸小ホールはどう行けばいいんですか?)

(芸小ホール)とは近くにある(芸術小ホール)の略でバス停の名前になっている。

展示会をする部屋やコンサート・ホールや体育館などがこじんまりと一つになった国立市の施設である。

何かやってるなと帰りにチラと見ると案の定(国立市 総合芸術展)なるものをやっていた。

 どうして芸術は秋なのだろう?春や夏や冬は姿を消すの?とイジワルなことを言わず、素直に(芸術の秋)を楽しませて貰ったほうが良さそうだ。

 NHKが先週からBS2で狂ったように往年の名画を放映し始めた、これも(芸術の秋)の効用に違いない。

昼間から夜まで古今東西の(懐かしの名画)をやるのである。

中でも以下の作品をデジタル録画出来たのは今年の(芸術の秋)の収穫だった。

(ダーティ・ハリーは11月2日の予定)

夜の大捜査線     1967年

ブリット         1968年

ダーティ・ハリー    1971年

フレンチ・コネクション 1972年

この時代、ハリウッド映画は面白かった

 この時代、というかこの時代まではハリウッド映画は面白かったと思う。

1972年には、かのゴッドファーザーも封切られた。

そしてゴッドファーザー当たりをピークにハリウッド映画は変質して行ったような気がする。

 1967年から1972年というのは東西冷戦時代の象徴であったベトナムでの戦線が拡大し、アメリカでは徴兵制で戦地に行く若者が多い時代だった。

そういう時期に、ウカウカとした映画を作る訳には行かなかったのだろう。

これらの作品群にはまことにシビアな緊張感が満ちている。

そのことで無駄のない引き締まった映画が出来たのだと思う。

ハード・ボイルドの伝統

 文学の世界にハード・ボイルドというスタイルがある。

固く茹でられた卵。

中の黄味まで固く茹でられた、半熟ではないゆで玉子。

何のこっちゃ?

 このスタイルの元祖はヘミングウェーだという説がある。

彼が1900年代初頭文学界に登場した時、彼の文体はまるでアメリカ人の毛むくじゃらのコブシを目の前にニュッと突き出されたような感じがしたとヨーロッパの文学評論家たちは言った。

 文学は言葉で表す芸術である。

それなのにヘミングウェー先生、二十歳代のときに自分の文体に掟を作った。

Audible(聴こえるように)

Visible(見えるように)

Tangible(触れるように)

 文字だけの表現でどうすればそれを実現できるか。

先生、智恵を絞ったのでしょうね。

結論は、心理状態を説明することをやめて、行動させる、というものだったと思われます。

心理とか感情とかは目に見えません。

行動させるとその動きは目に見えるのですね。

行動は誰から見ても分かるハッキリとした(形)をとります。

 このハード・ボイルドというスタイルは映画の世界にもあるように思われますね。

分かってくれよ、と延々と心理描写して綺麗な風景を写すような映画も多い。

そうじゃなくて主人公たちの行動で、動きで、説明抜きで目に物見せる映画もあります。

ブリット

 カーチェイス物の元祖といわれる傑作。

乗り手のスティーブ・マックィーンの淡いブルーの瞳が素晴らしい。

彼は(大脱走)ではナチスの捕虜収容所から脱出を試みるとき、オートバイでアルプスの高原を駆けめぐり、その運転技術の華麗さで我々見るものをアッと言わせた。

 このブリットではオートバイではなくムスタングというアメリカ車なのですね。

舞台はサンフランシスコ。

坂ばかりの街です。

そこでカーチェイスをやるとどういうことになるか?

坂が段々になっている。

バーッと下って行って、少しフラットになって又下っている。

そうすると車は水平に行こうとして(飛ぶ)わけですね。

バッシャン、バッシャンとそれを繰り返しながら追っかけが続きます。

 この映画で最もハード・ボイルドなシーンはどこでしょう?

それは、マックィーンの車とバトルになるなと覚悟した悪役がシートベルトを締めるシーンでしょうね。

悪役たちは二人で、助手席に乗っている方はショットガンに弾をこめる。

運転する方はシートベルトをカチャッと締める。

レースみたいな走りをするときはシートベルトで固定しないとダメなんです。

説明がなくても、いよいよ始まるなと見てる方に伝わります。

フレンチ・コネクション

 この映画はもう主演のジーン・ハックマンの肉体の動きに尽きますね。

ポパイというあだ名の麻薬担当刑事。

粗暴な40歳の独身です。

 舞台はニューヨーク。

今はどうか知らないけれど、1970年ごろは麻薬まみれだったはずです。

フランスから何故か大型のアメ車リンカーンがフランスの有名俳優の車として運ばれてくる。

その車にフランスの麻薬組織のボスの(ぶつ)が大量に仕込まれているという仕組み。

 いよいよその取引が行われる日、フェルナンド・レイ扮するボスの手下の殺し屋がポパイを襲います。

辛うじて弾を避けたポパイがその殺し屋を追っかける。

フランスから来た殺し屋だから車じゃないんですね。

何と、高架の地下鉄に乗っちゃうんですな。

 不器用なポパイは電車で逃げられたと分かって、駅から降りて車をつかまえて(あとで返す!!)

とか叫んで電車を追いかけます。

 史上初の、電車と車のチェイスが展開されるのですね。

これを作った監督のウィリアム・フリードキンは勿論ブリットを見ていたのです。

ブリットに触発された面もあったはずです。

そしてブリットを超えたいと思ったのでしょうね。

 ブリットのスティーブ・マックィーンは運動神経抜群のホンマのレーサみたいな運転しても不思議じゃない人物です。

実際にオートバイや4輪でレースも経験している。

しかしジーン・ハックマンは運動神経ゼロの不器用な男です。

 その彼が高架の地下鉄(?)の電車の下をメチャクチャな運転で犯人を追うのですね。

アチラやコチラへぶつかろうとかまやしない。

ひたすらアクセルを踏み続けます。

 NHKの解説によると最後は実際にハックマンが運転して、隣でフリードキンがカメラを回したといいます。

まあそういう迫力がありますね、この映画は。

 今年の(芸術の秋)はこれらの往年のアメリカ映画を見て、やっぱしCGよりも実写に限るなあ、迫力が違うなあ、ということを再確認できたのでした。

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2005/10/17

10月16日 ランちゃんのお母さんが来た篇

okasankuru  先日ランちゃんのお母さんが瀋陽からやってきた。

来日は初めてだとかでビザの取得だとかアレコレ大変だったようだ。

中国では5月と10月に連休があり、それぞれ1日から7日の一週間。

まことにシンプルなルールのようである。

 今回はその連休を利用して2週間ほどの来日だった。

勿論パリパリのキャリアー・ウーマンであり、普段はそんなに休むわけにはいかないのだけど、国民の休日である1週間にプラスして前後を休んだらしい。

 ホストファミリーとして付き合っている当方にも会いたいという。

それで来日2日目に我が隠宅に来てもらったのだった。

その時チャイニーズ・レッスンの生徒は

 ランちゃんにはかれこれ3年近く中国語を教わっている。

挨拶くらい中国語でしないと申し訳ないのではなかろうか。

よくいらっしゃいました。

日本はどうですか?

お嬢さんにはレッスンでずいぶんお世話になっています。

・・・・・。

 2、3日悩んだ。

昔、英会話教室で、どうしても先生に話しかける勇気が出ず情けない思いをしたことも思い出した。

もうその時だって30歳は過ぎていた。

今還暦近くになって、また同じようなことで悩んでいる。

一体俺は中国語を学ぼうとしているのだろうか?

不精な俺のような人間が、そも外国語を学ぶなんてことが不届きなのではなかろうか・・・・。

 アホらしくなって、一大決心をして事に望んだ。

ニ~イハオ(你好)

シエシエ (謝謝)

ザイチェン(再見)

これしか喋ってやるものか。

スマートなお母さんだった

 その日、天気は良かったのだけど、残念ながら家の隣は工事の真っ最中である。

2軒の家を壊して跡地に9軒の家を建てる工事が佳境にはいっている。

ブルドーザが2台もウナリを上げている。

 ここは一つ、客人を驚かせてはいけないと表に出て迎えることにした。

工事の様子を見たりしているうちに向こうの方から二人が歩いて来るのが見えた。

ちょっと手を振ったりして近づいて行った。

 ここで発した第一語が(ニ~イハオ 你好)であったことは言うまでもない。

二人ともヒョロリと背が高い。

お母さんはランちゃんをもう一回りくらい細くしたような感じだった。

黒いズボンに紫の上着を着ていた。

日本はいかがですか?

 昨日成田に着いたばかりで、まだどこへも行っていない人にこう聴いてもしようがないなと思いながら一応聴いてみた。

(みんな非常に礼儀正しい感じがします)

と予想外の返事が返ってきた。

 第一印象というのは何ごとも本質にかかわることが多い。

そうなのか、変転めまぐるしい中国と比べると、今の日本でもまだ落ち着いた感じに見えるのだろうか?

我々住んでいるものから見ると今の日本はアレコレ嘆かわしいことばかりなのだけど、外見的にせよ(礼儀正しい風に見える)ということは悪いことではないなと、少しホッとする。

 お土産です、と陶器製の酒器を持ってきてくれた。

そこで第二語(シエシエ 謝謝)を発した。

ランちゃんのメニュー

 今回の日本訪問でランちゃんが用意したメニューは以下のようだった。

国立(くにたち)の大学、ホストファミリー

日光(一泊)

お台場とフジテレビ

明治神宮と表参道、原宿

六本木ヒルズ

ディズニーランド

 本当は日本を知るには京都、奈良は欠かせないのだけど今回は母一人なので、それは次回にとっておく。

次回は父と母と二人で来て貰いたい、その時は京都へも行きたい。

そんなことを言っていた。

再会を約して

 初めての対面だったけれど、中国人というのは見た目が我々と全く変わらない。

同じ外国人でも白い人やら黒い人やらとは違ってアジア人には違和感を感じない。

基本部分が似ているから表情を読み取り易いような気もする。

これが白い人やら黒い人だと、まず表情を読み取るのに苦労する。

喜んでいるのか怒っているのか。

 いくら似ていても言葉は違うのですね。

全部ランちゃんが通訳することになる。

コチラを向いて日本語を話し、アチラを向いてお母さんと中国語で話す。

アチラ、コチラと繰り返しているうち、ついコチラを向いて中国語でひとしきりしゃべり、アレッ?日本語でしたね、と笑うようなことも起こる。

 昼間の一時を過ごし、別れる時間となった。

(ザイチェン 再見)の第三語を発して、手を振って別れた。

角を曲がって見えなくなるまで見送ったのだけど、向こうは振り向かなかった。

(嫁さん、アチラには見えなくなるまで、という風習はないようやね)

(子供のころからオジイチャンやオバアチャンに教わって育ったけどなあ)

 もう一度お会いしたいなあと思わせる魅力的なお母さんだった。

 

(ふうてんアーカイブス)

2005秋 ランちゃんのお母さんが来た

紫の上着だったpurple  

 

 

 

 

 

 

 

どこぞで見た同級生のお母さんのようなokasan  

 

 

 

 

 

 

  

どうぞどうぞ、真ん中にdozodozo  

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2005/10/10

10月9日 淡海の海篇

akashiohashi  明石へ行ってきた。

帰って自分の撮ってきた明石海峡のビデオなどを見るうち、柿本人麻呂の歌が思い出された。

(淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ)

 はて?淡海の海というのはどこの海のことをいうのだったっけ。
近江の海?琵琶湖のこと?

自信がなくなったのでGoogleに聴いた。

諸説あるらしく、琵琶湖説、明石海峡説、鳥取の岩見説。

いずれにせよ本拠地奈良を追われた柿本人麻呂の悲愁の歌であることは間違いない。

確かに明石海峡の速く流れる海には移りゆくこの世の来し方行く末を思わせる何かがあった。

 この歌は万葉集に載っていて原文は以下のようであるという。

『万葉集』巻三、二百六十六番
柿本朝臣人麿の歌一首
あふみのうみ,ゆふなみちどり,ながなけば,こころもしのに,いにしへおもほゆ
淡海の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ

(原文)淡海乃海 夕浪千鳥 汝鳴者 情毛思<努>尓 古所念
(岩波古典大系に準拠)

明石の人丸どの

 明石方面では柿本人麻呂のことを人丸と呼ぶらしい。

ふうてんの親しい友人の一人に柿本人麻呂に非常に似た人がいる。

勿論、肖像画でありそれも伝承として伝えられている似顔絵に骨相が似ているというお話。

 その友人がいつだったか淡路島に流された・・・・そう、あれは阪神大震災の年だった。

正確にいうと、前の年に川崎から明石に転勤になり、行ったと思ったすぐあと正月明けに大地震に見舞われたのだった。

明け方だったので寝ていたのだけど重たいタンスが2メートルくらい水平移動したというのだから恐れ入った。

 彼が明石へ行ってから何となく(人丸どの)と呼ぶようになった。

彼のオフィスを訪ねてみると、その建物の6階当たりからは淡路島が目の前に見え、明石海峡を沢山の船が行き交っていた。

な~んだ、やっぱり淡路島に流されたんやないのと人丸どのをからかった。

その頃にはもう明石大橋の建設は始まっていた。

 人丸どのとJOさんに(瘋癲老人日記)をパソコン通信で送り始めたのもこの頃だった。

明石に(一とく)という店がある

 その人丸どのに連れられて明石にある(一とく)という小料理屋へちょくちょく行くようになった。

魚がうまい、ウニがうまい、カニがうまい、魚そうめんがうまい、言うことのない店だった。

勿論、瀬戸内海で採れるウニでありカニである。

魚そうめんとは魚の擂り身で作ったそうめんである。

 そんな(一とく)の女将(オカミ)さんが明石弁でいろいろ話に付き合ってくれる。

そういえば谷崎潤一郎の好きな寿司屋が明石にあったそうですねえ、いやあれは神戸だったかしら、なんて話になった。

やがて谷崎翁の(瘋癲老人日記)の話にもなった。

いえね、長男の嫁の颯子に300万円の猫目石を買う、あのシーンがいいですよねえ。

いえね、家族そろって浜作かなんかへ押しかけて、ハモと梅肉のシーンがありますよねえ。

 そんなことから女将さんと親しく話すようになった。

年賀状に一句書いてよこすようなお人だからおそらく昔(文学少女)だったのではあるまいか。

昔(文学青年)だったふうてんと気心が通じるのは自然の成り行きだったとも思える。

 そんな(一とく)さんも工場長(料理人)が代わり、今は女将さんの次男坊がやっていた。

今回初めて彼の料理を食べたけど、人丸どのは工場長と呼ばず、技術部長と呼んでいた。

確かに若い、まだこれからの料理の味だった。

技術部長というのはまだ技術の研究中なのですね。

なぜお前がもてるんだ

 今回の明石訪問の主目的はふうてんの先輩でありかっての上司だった人と会うことだった。

この先輩にはずいぶん多くのことを学んだ。

5年ほど前から先輩は人丸どのと同じ兵庫方面に棲息している。

勿論パソコン稼業に身を投じてから知り合ったのだけど、初めて一緒に飲んだときのことはよく覚えている。

もう20年ほど前の話である。

 会社の近くの飲み屋で確か正月明に飲んだ時だったと思う。

その店では正月には枡酒を出すのである。

杉の木の枡で冷や酒の美味しいのを飲ませる。

それを6杯くらいまで飲んだのは同行5~6人のうち先輩と当方だけだった。

(お前、血液型は何だ?)

(ハイ、B型です)

(女房は?)

(ハイ、O型です)

(で、どうだ?)

(ハイ、頑固です、コッチャの言うことは全く聴きません)

(お前もそう思うか?!)

 聴くと、先輩も自分はB型で女房どのはO型だと言うのでありました。

この会話で、この先輩との付き合い方が決まったような気がしましたな。

いわゆる同類相哀れむ、というやつ。

 この先輩は東京生まれの東京育ちで、おそらく下町育ちではないかと思う。

口ぶりなどでフッとビート・タケシに似ているなあと思うことがある。

その東京のお人が明石でふうてんと飲むことになったのですね。

こりゃあもう勝ち負けは目に見えていますわね。

ましてや(一とく)のオカミは(瘋癲老人日記)を通じて旧知の仲でおます。

テキの方から、一杯注いでおくれ、みたいに杯をさし出します。

そうか、とか言って注いで乾杯したりしています。

 先輩、これが面白くない。

(お前が何でもてるんだ?)

(こんなやつのどこがいいんだ?)

 ・・・・

とシキリに首をひねっている。

それは次に近くの薄暗いバーへ行った時まで続きました。

ちょうど小雨が降ってきたので女将とコチラは番傘の相合傘です。

 実はこれが先輩の手なんですね。

人をいい気にさせて働かせるんです。

ある意味、自分がバカになれる人なんですね。

本当はゾーリンゲンか正宗くらい切れるお人なのですがね。

舞子ビラ

 愉快な時を過ごして、ふうてんは人丸どのに送られて予約しておいたホテルにたどり着いた。

明石大橋のすぐ近くで、眺めがまことに良い。

舞子、須磨、明石・・・・・。

瀬戸内海の終着点。

この狭い海路、明石海峡を古来どれだけの船が行き交ったのだろう?

2000年ほど前からのことを考えると・・・ビールを飲みながら・・・陶然となってしまう。

(ふうてんアーカイブス)

2005秋 明石

オフィスで

お世話になった三人衆

先輩senpai1  

senpai2  

 

 

 

 

 

 

人丸どのhitomaru1  

hitomaru2  

 

 

 

 

 

 

鉄人と言われた後輩(空手部出身)tetsujin1  

tetsujin2  

 

 

 

 

 

 

若い人たち(彼女は阪神ファン、デイリースポーツ一週間分貰う)wakaino1  

wakaino2  

 

 

 

 

 

 

舞子ビラで

朝もやの大橋(海路と鉄道と国道2号線と)

夜が明けて

様々な船たちfune1  

fune2  

 

 

 

 

 

 

なおアレがありコレがあるfune3 

fune4  

 

 

 

明石大橋akashiohashi1 akashiohashi2    

 

 

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2005/10/03

10月2日 阪神タイガース優勝につき篇

2005 仲秋の名月2005moon  

 数日前、久しぶりにロシナンテで一回りした時は、風が涼しくて快適だった。

風が少し冷たいくらいの方が屋根のない車で走るのには適当であるようだ。

 

 

 今日のように暖かいと風が生ぬるくて、繁寿司へ向かう時も一向に走っているような気分になれなかった。

夏から冬に向かう過程で、涼しくなったり暑さがぶり返したりする。

それらが一々老体には応えるようだ。

池波正太郎さんが季節の移り変わりと体調についていろいろ書いていて、ちょっと大げさなと思っていたのだけどいざ自分がそういう年齢になると恐ろしいくらい当たっている。

 繁寿司では山口夫人と我々夫婦と繁さん夫婦。

阪神タイガース優勝の話題はカケラも出なかった。

清原がやっとクビになった話題も、出るには出たけど盛り上がらなかった。

冬の時代の巨人ファンにとって、今は何も話したくない時なのだろう。

繁さんに、

(来年から原ですか?)

と聴くと、

(ハラタツ?)

と答えた。

どうも繁さんは原のこともお好きではないようだった。

四国生まれがどうして阪神ファンに?

 子供のころテレビというものが登場した。

プロレスの力道山と大相撲の栃若と西鉄ライオンズが主役だった。

40歳以下のピープルには何のことか分からないと思う。

 ふうてんの隣の家がテレビを買って、よく見に行ったものであった。

ただプロ野球中継を繁々と見に行ったという記憶はない。

オールスター戦とか日本シリーズとかいうのが記憶に残っている。

勿論全部、白黒テレビの記憶である。

 四国の愛媛というのは九州に近い。

当時(西鉄ライオンズ)というのが巨人を追われた三原監督のもと大活躍していた。

中学生のころ、日本シリーズで西鉄が3連敗4連勝で優勝したのを学校の帰り松山駅だかどこかで見たのを覚えている。

ピッチャーの稲尾がホームランを打ったり、ショートの豊田が足を痛めて走れない時、面倒くさいと、これまたホームランを打った。

 必然的に愛媛の人間は西鉄ファンになった。

ところが後がいけない。

三原監督が去った後、サッパリ、ダメであった。

やがて西鉄球団が売りに出される話になり、結局西武ライオンズという形に落ち着く。

四国の人間にしてみれば、西武、所沢と言われてもピンと来ない。

 大学を卒業して、新婚所帯を持って、2年目くらいにソニーのトリニトロンが綺麗だったので初めてカラーテレビを買った。

その時代、活躍していたのが阪神の江夏、田淵バッテリーだった。

西鉄ファンはアンチ・ジャイアンツなのですね。

江夏は巨人戦になると闘志をあふれさせる。

田淵も巨人戦ではやたらとホームランを打つ。

すっかり気に入ってしまった。

カラーテレビで見る白地に黒の縦縞のユニフォームもカッコ良かった。

それ以来阪神ファンになった。

 1975年前後、約30年前のお話です。

1985年の阪神優勝の時

 阪神ファンになってから、優勝というのは遠い話だった。

江夏、田淵も衰え、阪神以外の球団で不思議な活躍をしていた。

江夏は野村南海のあと広島に移り(江夏の21球)で有名なドラマを演じ日本一になった。

田淵は西武ライオンズに移り(がんばれタブチくん)でアニメのキャラクターになった。

この(がんばれタブチくん)というアニメは当時国立にあった映画館で見た。

プロ野球の監督や選手を全員コキ下ろしてマンガにしてしまう、まことに痛快な映画だった。

 そんな中、1985年になって急に阪神が怒濤の快進撃を続けた。

バース、掛布、岡田のセンター・バックスクリーン3連発なんてのも出た。

この岡田が今年優勝の阪神の監督をしている。

何しろこの年はアメリカから来た金髪のバースが打ちまくった。

 そんな愛でたい年に、ふうてんは一度も阪神戦をテレビで見ることが出来なかった。

大体、サラリーマンにとって最高の楽しみは、ビールを飲みながらファンの球団の活躍を見ることなのであった、当時は。

特に優勝争いをしている時には尚更なのであった。

 野球シーズンは4月から10月までであり、ちょうどビールの美味い季節と来ている。

あろうことか、ふうてんはこの大事な年の4月に、あるパソコンの開発を命じられ、それを何とか世に送り出せたのが10月の末だったのである。

この6カ月ほどは、ふうてんのサラリーマン生活の中でも最も過酷なものとなった。

土曜も日曜もあったものじゃなかった。

 そのパソコンというのが、これはふうてんが言い出しっぺだったのだけど、テレビパソコンだった。

つまりテレビ機能を標準実装していたのである。

パソコンの文字もテレビの映像も同じCRTモニター(表示装置)で映さねばならない。

コンピュータの経験しかない我々はテレビというものに往生をこいていた。

 どうしても回路の動作がうまくいかなくて実験室であがいている。

夜になるとナイター中継が始まるのですね。

アッ、バースがまたホームラン打ちよった、なんて阪神ファンの若いのが叫びます。

テレビパソコンのテレビ機能で苦しんでいるのだから、そりゃあテレビ写しとる訳です。

オッ、そうか、てなこと言っても、喜んでいるバヤイじゃない。

8月になって出荷まで2カ月しかないのに、まだ回路の問題解決が出来ない・・・・。

冷や汗、あぶら汗は出ても、ビールも飲んでないし楽しい汗は出ようがありませぬ。

 10月が終わって、ムッシュー吉田の阪神が日本一になって、やれ嬉しやという頃、当方たちは出荷したばかりのマシンの初期不良対策で、秋葉原や新宿の家電量販店を駆けめぐっていたのでありました。

 ま、その分、1985年というのはまことに印象に残る年とはなりましたね。

After twenty years

 オー・ヘンリーの小説にこういう題名の短編がある。

中学生のときだったか教科書で読んで、気の利いた、ちょっとひねったストーリなので、この題名をよく思い出す。

20年目の節目のような時に、オー・ヘンリーのこの題名を使わせてもらったりもする。

 10年一昔と言われるから、20年二昔となるのだろう。

阪神ファンにとってこの20年はどうだったのだろうか?

2年前に星野仙一が18年ぶりの優勝をやらかした。

その間、たいてい5月で終わっていた。

それでも不思議なことに阪神ファンは離れない。

 去年の1リーグ制騒ぎに代表されるように日本のプロ野球を包む環境は激変しましたね。

イチロー、松井の大リーグ移籍、サッカーの人気、などなど。

そんな中で、阪神は観客動員数を増やしているらしい。

甲子園球場はもとよりファンたちが追っかけで東京へでも愛媛へでも出向くのですな。

一度松山で阪神戦にぶつかりホテルが満杯で弱ったことがあった。

 阪神地区の地元の球団。

甲子園球場という素晴らしいホームグランド。

白地に黒の縦縞のスマートなユニホーム。

70年という球団の歴史。

東京への対抗意識

 今年も、昨日テレビを見ていたらニューヨーク・ヤンキースが地区優勝を決めました。

ピンストライプのユニフォームを真似したのは阪神に違いない。

白地に黒というのを。(本当は濃い青?ヤンキースのは?)

地元密着、という意味でも。

巨人の悲劇は(全国区)になったことだと思われます。

阪神は案外ヤンキースに似てるなあと思いましたね。

 今年の阪神優勝で一番愉快なのは、喜劇役者藤山寛美に似ているから岡田寛美と呼んでいた大阪生まれのアホの岡田くんが(智将 岡田監督)言われ始めたことです。

顔はアホ面、言葉は出ない、そんな彼が、打線やら継投策やらで手腕を発揮しましたね。

ヤンキースのトーリ監督とちょっと似ているのは、選手の心を大切にする点や思います。

今の巨人にそれは、ありまへんなあ。

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