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2005年9月に作成された記事

2005/09/26

9月25日 夏の日の思い出篇

STILL0012  夏の日の思い出、というと、何を年寄りが、と笑われそうではある。

確かに何か熱情のようなものに突き動かされて普段やらないことをやる。

それは若者の(夏)の特権かもしれない。

しかし年寄りにも確実に暑い夏はやってくるのである。

 今年の夏は本当に蒸し暑かった。

これまでの夏は、梅雨があけて一週間もするとカラリと晴れて真っ青な空に、真っ白な入道雲が浮かんでいたものだった。

 この数年、この(カラリとした感じ)が夏だけでなく年中なくなったような気がする。

いつも薄曇りのような、煮え切らない空模様である。

これは、ひょっとして、中国の経済大躍進のせいなのではなかろうか?

黄砂は春に限るけど、その他のホコリも年中偏西風に乗って西から吹いて来ているのではないか。

北京からのリュウコウさん、瀋陽からのランちゃんに聴いても現地のエア・ポリュージョンはかなりなものだと言う。

 あるいは(温暖化)のせいなのだろうか?

温暖化によって海水の温度が上がる。

水は蒸発して空へ登り、視界を遮る要素となる。

京都議定書に反対したアメリカのハリケーン騒ぎは(温暖化)を象徴しているのだろうか。

議定書にサインしなかった大統領のお膝元を最大級のハリケーンが直撃した。

 あるいはコチラの目のせいなのだろうか?

今年、梅雨時分に京都へ行ったとき、目が霞んで倒れそうになった。

一週間ほど続いたので(白内障)を疑った。

しかし、その後の経過をみると、一時的な目の疲れであったらしい。

今は、風景がクッキリと見え、どうも目のせいではないようだ。

 そんなボンヤリとした今年の夏、お盆明けに久しぶりに国立技工さんを訪ねた。

いつだったかMuさんこと京都の彦さんから、

(最近、ふうてん老人日記に国立技工さんが登場しませんなあ)

と言われた。

 言われてみるとその通りで、半年ほど行っていない。

病気にならないと主治医へ行かないように、故障しないと修理屋さんへも行かないものである。

去年、一昨年と大修理をやらかしたので、今はドッコも悪くない。

彦さんの言葉に促されるように蒸し暑いある日、国立技工さんを訪ねた。

元気そうな(音)してるじゃないですか

 行くなりそう挨拶された。

修理屋さんは(音)で健康状態が分かるものらしい。

それはいいのだけど、次の一言が気に喰わなかった。

(持ち主より長生きしそうですね)

 ・・・・・

(またそれを言うの)

いつもの会話が始まった。

働き者の兄弟

 車の修理業とはどういう職業なのだろう?

壊れたものを直す、という意味では医者に近い職業なのだろうか。

 お医者さんがあまり休まないように、この国立技工さんもめったに休まない。

お兄さんが経営者のようで弟さんがアシストしているようではある。

ハッキリ分かるのは、営業はお兄さんで、板金塗装は弟さんくらいである。

 長年のいろんな修理屋さんとの付き合いで、彼ら兄弟が本当のプロだということはよく分かる。

本当のプロというのはいつまでも現役で働き続けるのですね。

車に関する事は、どんな質問をしてもすぐに答えが帰ってくる。

日本の車、外国の車、F-1の車・・・・。

お兄さんの得意なのは1920年代のフォードだそうで、2万点の部品から1台の車を組み立てられる、アメリカの競技大会で優勝した事がある、というのだから恐れ入る。

当時のフォードの幹部から(うちの従業員より優秀です)と褒められたとか。

フライパンの柄が折れた

 数カ月前、我が家の料理人が愛用しているフライパンの柄が真ん中からポッキリと折れた。

最初は折れたまま使っていた。

半分になった柄でフライパンを揺すったりするのはシンドイものだった。

こういう時、何となく家人の目が(あんた理科系やったよね?)と語っているように感じてしまう。

故障したり壊れたりしたものを直すのは(理科系)の務めでしょう?てな顔をしている。

 大体フライパンなんて、安くて良さそうなのがいくらでもあるではないか。

この日記にも書いたけど、すぐれものの天麩羅用鍋ですらスーパーで格安に売られている。

(買い換えたら?)

(それがこういうのが今ないのよ)

(こういうのって?)

(ある大きさで周りが低いやつ)

(???)

 どうもフライパンのサイズ(直径)が大きくなるにつれて周辺も高くなるらしい。

周辺部が高いとそれが邪魔になって料理がしづらいという。

 真ん中から折れた柄を直す、に関しても車の修理屋さんならいい智恵があるかもしれない。

それで技工さんへ持ち込んだ。

結果は、やはりまともには相手にしてもらえなかった。

 しようがないので、帰りに(理科系)の智恵を絞った一案の為の材料を買った。

それらを使って、今はそのフライパンは見事に復活して毎日のように活躍している。

スカイライン2000GT-Rのレストア

 長い間修理をしていたGT-Rのレストアが終わったという。

もう4~5年前から工場に置いてあった。

最初はエンジンなどの内蔵物を外され、塗装も剥がされたガタイだけが台の上に載っかっていた。

辛うじてシルエットからスカGだなと分かる有り様だった。

 それが今回、見事にレストアされピカピカに仕上がっていた。

30年も40年も前の車がどうして新車のように復活するのだろう。

(どんな車でも直せますよ)

とお兄さんは言う。

(5年も置いていたら・・・修理代は考えたくもないなあ)

(同じスカイラインGT-Rで最近都内で直した人がいて、1500万円掛かった、けど仕上がりが今一つと嘆いている、いう話も聴きましたよ)

 ・・・・・。

(この間までここに置いていたホンダS800は10年ほどかかっていたけど・・どうなりました?)

(ああ、アレは完成してオーナー喜んで乗ってますよ)

(修理代は聴かんときます)

 そういう時間と手間と金のかかる修理(というより作り直すようなレストア)も国立技工さんはやっている。

しかし、ふうてんのような、金はないけど古い車が好きだ、という輩にはそれなりの付き合いをしてくれる。

何年も車を置いているようなオーナーは大抵車を何台も持っている。

ま、そういう人は大金持ちに決まっている。

 大金持ちと貧乏人とこの修理屋さんの3者を結びつけているものは(古い車を愛する心)であるとふうてんは思う。

新しいBMWのオープン・ツー・シーターはどうですか?なんて聴いても、ああアレね、と技工さん鼻にもかけない。

東京人の明るさ

 実際に車が壊れて修理を頼む時、以外にも時々訪ねてしばらく時を過ごす事がある。

訪ねるたびに(東京人の明るさ)のようなものを感じる。

話題が(車)中心で、あまりややこしい話をしないせいかも分からない。

 ただ四国・愛媛で生まれ育ち、京都に途中下車して東京まで流れてきたものにとって、東京や横浜などの人は、関西人にないアッサリとした明るさのようなものを感じる。

 黒沢明が(どん底)という映画を作った動機として、いつもは(宵越しの金は持たねえ)と粋がって、明るく振る舞っている長屋の住人たちの間にも、実際には黒くドロドロとした人間模様が隠されている、それを描いてみたかった、と語っている。

 その通りなのだろう、と思う。

人間の生活に、東西の差、あるいは大げさに言うと世界での差なんてのは余りないのだろう。

ただ違うのは、表にどう表すかではないだろうか。

関西人はオドケてみせることから始まる。

あとからネットリとネチネチとヒッソリと攻めにかかる。

関東人、というのか東京人は、まずバチーンとかます。

それで決まりである。

ネットリもネチネチもヒッソリもない。

合うか合わないか、一瞬で決まるのである。

 流れ者のふうてんは、自分ではどういうタイプなのか分からないけれども、こういう東京人との付き合いは嫌いではない。

コチラも東京に来て35年有余。

そろそろ東京人としてのスタイルを身につけてもよろしいのかもしれない。

(ふうてんアーカイブス)

2005夏 国立技工

兄と弟anitoototo  

 

 

 

 

 

 

 

お兄さん 事務所でani  

 

 

 

 

 

 

 

弟くん 壊れたフライパンとototo  

 

 

 

 

 

 

 

古田選手の弟くんfuruta  

 

 

 

 

 

 

 

ロシナンテと技工さんSTILL0003  

 

 

 

 

 

 

 

初代スカイライン2000GT-RのエンジンSTILL0002  

 

 

 

 

 

 

  

レストアされる前restoremae  

 

 

 

 

 

 

 

レストアされた後ato  

 

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2005/09/20

9月19日 裾野でゴルフにつきあった篇

 富士山の裾野(小川別邸)でワインの会があった。

今回はいつものパターンと違って、朝5時に家を出てワインの前のゴルフにつきあった。

メンバーの都合で、いつも裾野まで運んでくれるお人がゴルフをすることになった。

コチラは足がないので、朝6時に(たまプラーザ)にたどり着いて乗っけて貰うしかない。

 いつもはお昼の12時ころに家を出るのに、朝5時に出発するというのは妙なものだった。

みんな、ふうてんがたどり着けるかどうか、かなり心配をしてくれていたようだった。

 前日から(早起き)の練習をして、当日朝4時に起きて、ゴルフ・クラブの代わりにビデオ・カメラを担いで、現地に向かった。

ゴルフをしない人がコースに?

 ゴルフをしない人間が朝早くからゴルフ場へ行ったとして、何をして時間を過ごせばいいのだろう?

朝8時から午後の4時ころまで。

ビールを飲むくらいでは8時間は持たない。

 そこでゴルフ場の会員であり(別邸)当主の小川さんにビデオ撮影を提案した。

交渉してもらったところ、一切の責任はコチラにありますという(誓約書)に署名すればOKだとのこと。

ゴルフ場では様々な事故があるので会員には保険が掛かっているのですね。

その保険の対象外ですよ、ということをこの(誓約書)は表している。

 鎌倉大明神が、ゴルフ場は滑って骨折というのが多いのよね、芝は滑り易いんですよ、と当方のスパイクの着いていない靴を見ながら楽しそうに言った。

初めてのゴルフ・コース

 ゴルフ場というのは外から眺めるかテレビで見るかしかしたことがなかった。

初めて連中を追っかけてコースへはいり、アウト・インの都合18ホールを駆けめぐった。

18ホールは直線距離で6Kmはあるそうで、たいてい10Kmほど歩くらしい。

 普段1Kmも歩いていないふうてんにとって、これはエライことだった。

それでも晴天に恵まれ、ようやく涼しくなった初秋の空気は気持ちよかった。

午前中のアウト、9ホール、午後のイン、9ホール、連中にくっついて廻った。

こんなに大きな空は久しぶりに見た。

ゴルフ場は3Dなんですね

 テレビ中継で見るゴルフ場はゴルファーがショットするシーンが多く、中でもパットのシーンが多いので、フラットな印象があった。

ゴルフ場にもよるのだろうけど、小川別邸近くの(十里木ゴルフコース)は起伏が多く、フラットなところは殆どなかった。

 1ホール目の風景を目にして、アリャ~、こりゃあ大変だ、と思った。

下って行った、遠くの方にグリーンがあり目印の黄色い旗が見える。

あんなところまで歩いていくのかぁ!?

375ヤード、パー4とかカンバンが出ている。

350メートルほど先の穴ポコに4回ボールを打って入れると(合格)となるらしい。

 フル・オートマチック(運転手がいなくてもリモコンで動く)のカートに半分くらいは乗った。

それでも上り下りのコースを這いずり廻って、つくづく分かった。

ゴルフコースは平面ではなく立体であった。

3Dであった。

単なる10Kmではなくクロスカントリーの10Kmなのであった。

奥行きもあった

 上り下りがある、ということと、奥行きがあるのにも驚いた。

はるか彼方にグリーンが見える。

坂に隠れてそのグリーンが見えないホールもある。

いずれにせよ、目的地は遥か遠くにあり距離感がつかめない。

 あんなところへどうして小さな玉を飛ばすことが出来るのだろう?

頭だけでは理解しかねる世界だなと思った。

余程経験を積んで身体に覚えさせないと、思うところに玉は行ってくれないと思った。

戦いすんで日が暮れて

 ゴルフが終わって(小川別邸)にたどり着き、お待ちかねの(御殿場高原ビール)にありつく。

このビールは御殿場の地ビールで、なかなかいける。

いつもは、これで喉を潤し、さて白からいきまひょか、とワインに移る。

 今回は少し様子が違った。

ワインに移る頃から、野山を駆けめぐった疲れがドッと出てきやがった。

小川別邸当主はせっせと料理を出してくれる。

鎌倉大明神はいつものようにそれを次々と平らげながらゴルフの蘊蓄を傾ける。

・・・しばらくボンヤリとしてしまった。

 大明神がしきりに、ふうてんさんもゴルフをやった方がいい、アレは最初に恥をかくことが大切なんです、一旦自分をさらけ出すんです、裸になるんです、などと言っている風だった。

ワインが3本、4本と開くうち、これはロゼですか、エッ?プロバンスじゃない?そもそもロゼというのはワインとは言えないんです、鑑定は出来ませんね、なぞと昼間ゴルフで疲れているはずなのに、大明神の元気な声はとどまる事を知らないようだった。

 一息ついて、いつものようにカフェインとウィスキーを注入したくなった。

ウィスキーの代わりに小川当主は別の酒を勧めた。

ボトルの中に梨のはいっている風変わりなシロモノだった。

いつだかフランスで買ってきて、いつか飲みたいと思っていたという。

 この梨風味のグラッパはいけた。

ワインの搾りかすのブドウの皮から出来たグラッパと梨との大いなる出会い。

あまりに美味しいので翌朝一人で起きて、林を見ながら残りを飲んでしまった。

 大明神は朝5時に小川別邸を抜け出し、水戸方面で二日間連戦するという。

裾野と合わせて三日間ゴルフをやるのである。

あの人の精神と肉体は一体どうなっているのだろうか。

(ふうてんアーカイブス)

2005 初秋 裾野

東名でポルシェを見たporsche  

 

 

 

 

 

 

 

富士山が見えてきたfuji  

 

 

 

 

 

 

 

元ニューヨーク駐在員二人ny  

 

 

 

 

 

 

 

さて、やるかstart  

 

 

 

 

 

 

 

飛んだかな?tondakana  

 

 

 

 

 

 

 

鎌倉大明神と大草原sogen  

 

 

 

 

 

 

 

三人そろってsanninga  

 

 

 

 

 

 

 

大明神のパットkamakurasanpat  

 

 

 

 

 

 

 

ウ~ン、残念uunn  

 

 

 

 

 

 

 

小川別邸当主ogawasan  

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2005/09/12

9月11日 衆議院選挙の日篇

 夕刻、雨模様の中、チャリで出かけた。

いつもの投票所で投票をすませ、繁寿司へ行く。

やはり山口夫人が同じころ投票をすませて到着する。

 帰って、今夜は選挙速報を見ながら(老人日記)を書くことになるな、とテレビのスイッチを入れた。

8時過ぎの、開票開始まもないときに、もう(自民党歴史的勝利!!)と報じられている。

これにはちょっと驚いた。

ここまで結論を先に言われると、もう選挙速報の意味はなく、テレビを見ずに(老人日記)でも書くしかなくなった。

 今回の選挙は何よりも(民意)が問われる選挙だと思っていた。

日本国民の(民意)が今度の衆議院選挙に出たのだろう。

戦後60年、日本では本格的な政権交代はなかった。

自民党一党独裁だったと言ってよい。

それでよかったし、今後もそうあって欲しいと今回の選挙で日本人は結論を出した。

イギリスの完全小選挙区制やアメリカの大統領制とは違って、一党独裁なのですね。

政権が交代しないのが日本人のお好みらしい。

 さて、今後の日本はどうなりますことやら。

自民党さん、たのんまっせ、ホンマに。

 ということで落ち着いてこれを書けるので、2週間前の伊予紀行を補足しておきたくなった。

(伊予へ帰って来た)

 (9月4日 ふるさとは遠くにありて思うもの篇)を書いたのだけど、途中からブロッグでの編集が不可能になった。

この記事に限ってそういう事態になり、読者の一人である(ほかもさん)からビデオが見られません、とのコメントを戴き急遽、応急処置(別の記事を追加)をほどこした。

数日たってもその状況は変わらないので、記事を(削除)するしかないと思っている。

 この9月4日版は実は当方もかなり消耗していたので文を書かずに絵やビデオで誤魔化そうとしていた。

それが良くなかったのかも知れない。

初心にかえって、伊予への旅の印象をあらためて書くことにする。

愛媛の今治に桜井という町がある

 今治におふくろの実家があり、今のJR予讃線では駅名が伊予桜井となっている。

おふくろの実家はこの伊予桜井駅から電車沿いに歩いて4、5分のところにある。

今回はおふくろの末弟(拓叔父 ひろしオジ 通称ひろにいちゃん)が対応してくれた。

 桜井にはこの叔父ともう一人叔母が住んでいる。

この叔母の旦那さんは茶人で、残念ながら去年の秋になくなった。

今回はその茶人の娘っ子に、茶釜ではなくポットからのお湯で茶をたててもらった。

 ひろし叔父、それとこの茶人、二人と会って、無駄話に耽る、というのが若い頃のふうてんの伊予での大いなる楽しみだった。

ひろし叔父は北鎌倉から大学へ通った

 彼が東京の大学に通ったのは昭和27年から31年にかけてだったらしい。

今回は何故かそういう時代の話になった。

平成17年の今年は昭和でいうと昭和80年らしいからほぼ半世紀前のお話である。

 当時、省線とも横須賀線とも呼ばれていた国鉄の北鎌倉から品川へ行き、新宿から都電かなんかで早稲田方面の大学へ通っていたらしい。

1時間とはいわない時間が掛かる。

それでも、結局大学時代はずっと北鎌倉から通い続けた。

理由は、田舎出身故、都心の空気の悪さに耐えられなかったからだとか。

 途中に大船駅がある。

大船は交通の要所でもあるし、当時は松竹の大船撮影所全盛の時代でもあった。

小津安二郎監督がブイブイ言わせていた時代である。

いろんな役者をしょっちゅう見かけたという。

 と同時に、当時まだ朝鮮戦争が終わっていなくて、福岡の板付飛行場から列車で運ばれてきた、星条旗に包まれたジュラルミンの大きな箱が、横須賀港へ行くのであろう、大船駅で大量に積み替えられていたという。

 今70歳の人たちは昭和30年ころに大学生だった。

一番(ものを考える時代)に、まだ戦争の余波が日本には色濃く残っていた。

昭和一桁世代、と言われる。

今の少子高齢化の元凶みたいに言われている戦後生まれの(団塊の世代)の一つ前の世代である。

 昭和27年から31年まで大学生だったと聴いて、ふうてんは思わず質問した。

(じゃあ29年に封切りされた(七人の侍)見たよね?)

(そりゃあ見たよ、一回じゃなく、何度もね)

(ちょっと驚いたんとちゃう、あれを見て)

(ウン、黒沢映画ではその前の(生きる)とこの(七人の侍)がやっぱり双璧かなあ)

 ・・・・。

(ところで早坂文雄は、七人の侍が最後だったよね)

(そうね、そのあとは佐藤勝だったっけ、用心棒などの威勢のいい音楽)

(どうして昔の映画の音楽は印象に残っているんだろう?)

(それは、ひょっとしたら白黒映画では音楽の印象がカラー映画より強いのかもしれんよ)

(そうか、なるほどそうかもしれんねえ・・・)

(その代わり、黒沢映画の音楽が独立してヒットすることもなかったと思うよ)

(ウ~ン、カラー映画に勝つくらいの強烈な曲じゃないと独立してヒットはしませんか)

 ・・・・。

 このひろし叔父は大学で文学部を卒業したはずである。

何文学かは聴いたのだけど忘れた。

文学というよりも文芸一般について、ずいぶん沢山のことをこの叔父から学んだ。

例えばアルゼンチン・タンゴなどのラテン音楽はこの叔父の持っていた当時珍しいステレオ装置で聴かされて味をしめたものだった。

 若い頃から大酒飲みで、品川から北鎌倉まで終電車でよく帰っていたと聴く。

10年くらい前までは、家へ行くと昼間でもいつも熱燗を沸かして次々と注いでくれたものだった。

60歳を過ぎたころから、赤ワインがええ、と言い出した。

70歳を過ぎた今でも、ワインだと一本は飲む、という。

茶人だった義理の叔父から学んだこと

 もう一人の叔父は、叔母の旦那さんという関係だった。

これが茶人なのである。

書画骨董と茶で半生を過ごした。

 伊予桜井で生まれ育ち、一種の放蕩息子だったのかもわからない。

若い頃、イギリス製のオートバイ(BSA?)に乗っていたという。

繁寿司さんがハーレー・ダビッドソンでブイブイ言わせていた頃より少し前である。

 その彼が、一旦はまっとうな職業については見たのだけど、やがて職を辞し、書画骨董で生計をたてるようになった。

店を構える訳ではない。

小さな茶室を作り、そこで客を向かえ、まあ言ってみれば(商談)もこなすのである。

 そんな茶人と叔母が結婚することになり、以後ずっと休みのおり帰省するたびに訪ねることになった。

行くと彼は茶釜のそばに座りながらずっと茶をたててくれる。

それ以外の姿の記憶がない。

 そこに座って、書画骨董、茶、生き方の話をする。

 例えば、茶碗は安土桃山時代までだ、なんて言う。

何とか作、なんて作者の名前がつくような時代はもうダメである、と。

ふうてんなどでも使わせてもらったものに、古志野の豪快な茶碗があった。

志野焼き独特のゴツイ茶碗である。

戦国時代、武将は戦陣で茶を飲んだという。

三味線の聴こえてくる、白粉の匂いのする畳の上ではないのである。

 その古志野の茶碗の、口の当たる、一番上の(線)は素晴らしいものだった。

そうしたらその叔父が、こういうのは日本人より外人の方が分かるらしい。

ある時来た外人の客が、これ下さい、いうて抱えて離さなんだ、あれには弱った。

とか笑いながら話す。

 例えば、ある時、今日はちょっと今から今治港に友だちを迎えに行くので、と辞そうとすると、その友だちは女か?と聴かれたことがあった。

(う~ん、残念ながら男なんよ)

(野郎か、野郎ならすっぽかしてもええ、ほっとけ)

 ・・・・・。

で、結局すっぽかすことになった

後悔の念が全く起こらなかったのは不思議だった。

 例えばある日、ある時。

(オジちゃん、うちのオヤジが時々、これはどうやろなと相談に来るでしょう?)

(ウン来るよ。まあロクなもんはないわい。けどこれはしゃあない)

(というと?)

(この世界は遊び人やないと分からんのや。生業についとるやつには分からん世界なんや)

 例えば、

(オジちゃん、今何とかの壺とかニセモノ騒ぎがニュースになっとるけど本物とニセモノどうして分かるん?)

(本物を見続けるしか手ないよ)

 例えば、

(本当の道楽は飲む、打つ、買うじゃないゾ)

(何が本当の道楽?)

(骨董よ)

(どうして?)

(底がないのよ、この世界は)

 この叔父も去年85歳で大往生。

床について一月ほどだったという。

 ふるさとは遠くにありて思うもの、それは確かである。

同時に、ふるさとは、やはりコチラを育ててくれた土地である、と思う。

そのカケラが残っている限り、訪ね続けるに違いない。

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2005/09/06

9月6日 (ふうてん老人日記)記事補足につき篇

 9月4日号のビデオで一本うまく動かないのがあります。

(姿が見えなくなるまで見送るのが伊予の流儀)というやつ。

9月4日号で直そうとしても直らないので、この(号外)で見て下さい。

(ふうてんアーカイブス)

2005夏(号外)

姿が見えなくなるまで送るのが伊予の流儀

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2005/09/04

2005・09・04 ふるさとは遠くにありて思うもの篇

 (ふるさとは遠くにありて思うもの)

これが室生犀星のセリフだとは知らなかった。

4泊5日の伊予松山への旅で、このセリフを何度も思い出していた。

両親がいなくなって、親しかった人々が年老いて、山も海も様変わりして、もはやふるさとは・・・・。

 内子座文楽公演で竹本住大夫を聴く、ということをきっかけに伊予へ帰り、10人ほどの縁者と会ってきた。

18歳で故郷を捨てた人間が40年もの間、なんだかんだと行き来するのは複雑な心理状況を伴う。

ふるさとの人々はず~っとそこに生活しているのである。

コチラには(変化)しか見えない。

現地の人にとってその(変化)は緩やかなものに違いない。

コチラは京都や東京の(変化)も重ねながらふるさとの(変化)を感じることになる。

 ふるさとはちょくちょく訪ねたりせずに、室生犀星のように、

(ふるさとは遠くにありて思うもの)

と決め込んだ方がいいのかも知れない。

その方が流れ者としてはふさわしいのかも知れない。

 言葉で書き綴る気にならないので、写真やらビデオやらでごまかすことにした。

つまり、百聞は一見にしかず、というやつ。

(ふうてんアーカイブス)

2005夏 伊予松山へ帰った

内子座 

竹本住大夫に似たお人が

内子座のたたずまい

内子座uchikoza  

 

 

 

 

 

 

 

どこぞで見たようなsumidayu  

 

 

 

 

 

 

 

記念写真をkinenshashin  

 

 

 

 

 

 

 

もう一枚やて     

moichimai  

 

 

 

 

 

 

コメント

ヴィデオは明日以降葛野でみておきます。

ミゼット、これがある、動いている、ものすごい話だし、この写真は、たしかダイハツ?という会社にとっても「現車」として、貴重だと思います。

カーコさん、おもしろいニックネーム。そういえば、薫子という人がいたら、カオルコとよぶのだろうか。

故郷、遠くにありて。
故郷を亡くした文学、というフレーズが耳をよぎりました。ハイマート、とかいうドイツ語が懐かしいのですが、世界中、故郷という概念はあるのでしょうね。いや、遊牧民にとっては如何なりや、ともおもいましたが。

そうそう、別府はでませんねぇ~。

名前: Mu | 2005年9月 4日 午前 09時29分

Muさん

 Googleに聴くとダイハツは1998年にトヨタの子会社になっていますね。
当方がダイハツの車に乗ったのは(シャレード)でして、30年ほど前、話題になっていたのでレンタカーで一日乗ってみました。
富士山周辺を走って、多摩へ帰り着く頃、ノーズ・ヘビーのその車を運転するのに腕がクタクタになっていたことを覚えています。

 別府ですか。
女房の両親が20年ほど前になくなり親類縁者も殆どいないので足が遠のいていますね。
女房の兄弟やおいっこめいっこ達も、京都、横浜、東京、シアトルなどに散らばっています。
ひょっとしたら日本人も定住の真似事をする(遊牧の民)かもしれませぬなあ。
昔エジプト人が、アリと日本人はどこにでもいる言うてた、と開高健が書いてました。

名前: ふうてん | 2005年9月 4日 午後 02時35分

 (見学したかった萬翠荘)

 夏の旅行では、場所だけ確認して、翌日まわろうと思っていたのに、「子規記念館」で時間をとりすぎて、結局行けなかった萬翠荘です(涙)。おしゃれな建物ですね。

 (坊っちゃん列車)

 あちゃ~。客車に乗って喜んでいたんでは、ダメですね。ちゃんと蒸気機関車を撮さないとね(笑)。列車を降りて、道路から撮してくださったんですか。

 坊っちゃん列車と、後に続く路面電車との違いがおわかりになります?
 前者クーラー無し、後者クーラー付きでした。それで泣く泣く坊っちゃん列車に乗ることはあきらめました。(真夏でしたから。笑。)

 (内子座での演目)

 芝居小屋の映像だけなんて、ヒドイです(笑)。昨年は、演目についても語られていたような・・。何をご覧になったんでしょう?

 琴平の「金丸座」と似ています。みなさん、うちわであおいでおろれるところを見ると、もちろんクーラーはないんでしょうね。残暑が厳しかったから、大変でしたでしょう。

 (事故現場)

 もっと狭い道かと思っていました。こんな広い道で、それも赤信号で突っ込むなんて、ムチャですね。バイクもそこそこ大きかったんじゃないですか。よくぞ、ご無事でございました(笑)。

 (伊予弁)

 夏の旅行では、伊予弁が聞けることを楽しみにしていたのですが、ホテルも食堂も、みなさんきれいな標準語で、残念でした。
 タクシーのおじさんは違いますね。おじさんとふうてんさんの会話で(伊予弁)をたっぷり楽しみました(笑)。

 P.S.お若い従姉妹さんがいらっしゃるんですね。あっ!いやふうてんさんもお若かかったm(_ _)m。

名前: ほかも | 2005年9月 5日 午前 09時25分

ほかもさん

 やはり写真やビデオだけだと想像力をかきたて過ぎますかね。
松山のことは何度も書くので重複を恐れて言葉少なになる、という面もあります。

 萬翠荘は昭和46年ころはまだレストランや披露宴会場の商売をやっていました。
60人ほどの結婚披露宴をやったのですが建物も庭も貸し切り状態で、いい感じでしたよ。
 文楽の演目は(菅原伝授手習鑑)です。
封建時代の武士社会での(忠君)の話だから、ちょっと話が硬くてね。
めったに機会がありませんが、やはり(近松物)が当方には一番よろしいなあ。

 今の時代ですから小屋にはエアコンがはいっています。
どうも当方のビデオには扇風機とかうちわが出てきて混乱を招くようですね。
昔はエアコンも無かったでしょうが、そのころはアスファルトや車も少なかったでしょうし、山間の町だからきっと緑の涼しい風が吹き抜けていたことでしょう。

 あのオートバイ事故では、ほんとよく死者が出なかったと思います。
ヘルメットなんか被っていませんからね、当時は。
オートバイは250CCのホンダでしたね。
車輪のスポークが一本足に突き刺さっただけで済みました。
ぶつかった相手がオートバイじゃなくて助かりました。

 この従姉妹は僕が大学生のころに生まれました。
何しろおふくろが9人兄弟(女6人)の長女なのです。

 なんだか(後付け)の補足説明になりましたね。

名前: ふうてん | 2005年9月 5日 午後 12時39分

 昨日もやってみたのですが、「45年前のダイハツ・ミゼット」のファイルがクリックしても(ページが開けられません)と出てくるのですが・・。
 ウチのPCがおかしいのかな?

名前: ほかも | 2005年9月 6日 午後 03時45分

ほかもさん

 貴姉のPCがおかしいのではありせん。
ミゼットのビデオに関して変なのは分かっているのですが、この記事に限って(編集)をココログが受け付けてくれないので直すことが出来ないのです。
他の記事だとリンク先変更など、できるのですがね。

 原因を調査中です。
他の読者の方々も、すみません。
ほかもさんのご質問で、いろいろ試してみて、この記事だけに特有の問題であることが分かりました。
ほんと、パソコンって疲れますねえ。

名前: ふうてん | 2005年9月 6日 午後 06時30分

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