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2005年6月に作成された記事

2005/06/26

6月26日 今年は空梅雨であるらしい篇

 順調かに見えた今年の梅雨も、どうも様子がおかしい。

梅雨の中休みとかいって晴れるのはよい。

今年は、逆に、晴れ間の中休みくらいにしか雨が降らない。

また今年も猛暑になって、渇水だとか断水だとかの騒ぎになるのだろうか。

 今日の繁寿司は珍しく客で一杯だった。

電通の人がいて、文春の人がいて、フルート吹きもいた。

その音楽家が(タバコを吸いたい)と言った。

繁さんが(ダメです、禁煙です)と言う。

(あのお客さんは?)

と音楽家はコチラのテーブルの灰皿を見逃さなかった。

・・・・・。

 それで彼は近くに来て愛でたくタバコを吸うことが出来た。

その彼の席から見ると、表に停まっているロシナンテが見える。

(形がいいですねえ、イギリス風ですね)

と彼は言う。

(そうなんです、イギリスのオープン・ツー・シーターのね)

(モーガンも似てるなあ、僕、モーガンのオーナー知ってますよ)

(ええっ??モーガンのオーナー?一度乗せて欲しいなあ)

・・・・・。

 と話題は尽きないのでありました。

エンドレス

 土曜日に鎌倉大明神から連絡があって、溝ノ口(まるや)で飲んだ。

聴けば、数十年、100年近い店を閉じるという。

その日が(ラスト・デイ)だった。

 鎌倉さんと二人きりで飲むのは何年ぶりだろう?

25年近い付き合いの中、若い頃はしょっちゅう二人で飲んだ。

この人と飲み始めると、話題が尽きない。

(ブロッグは週刊になったようですね?)

(いえ、そういうわけでも・・・)

(外国旅行、というか外国出張でもしてはったのかな?と)

(似たようなもんです、ちょっと飛行機に乗って、ゴルフに・・・)

と、最後の方は小さな声になった。

(いえ、それだけじゃないですよ、誰かの小冊子に一文書きましたし、株主総会も近いのでそれの準備もいろいろございましてね、文章は書いてるんです)

と、少し大きな声で言った。

 この我々二人の飲み会の特徴は、ともかく終わりがない、ということである。

溝ノ口(まるや)で酒食をしたあと、東急線に乗ってタマプラーザへ移動する。

タマプラーザのいつものショット・バーへ行くのかな、と思ったら、駅の反対側へ歩いていく。

そのオモロイ店で、先生はまたしてもワインを一本注文する。

 しばらくいて、そろそろ、と駅へ向かう。

タマプラーザの駅を超える時、

(もうお帰りですか?)

(あのショット・バーまだやってますかねえ)

 結局この日帰宅したのは午前2時だった。

翌日女房が(夕べは遅かったあ?)といった。

我が輩は猫である

 瘋癲老人日記に我が輩は猫であると書くと、いくらなんでもそれは戴き過ぎだ、谷崎翁と漱石先生に失礼だ、と言われるかもしれない。

一応、瘋癲も老人も我が輩も猫も一般的な日本語である、と言い訳をしておこうか。

 実は先週あたりから我が(東京新聞)で(我が輩は猫である)の連載が始まったのである。

去年あたりから始まった企画で、東京新聞夕刊に第一弾として漱石の(坊ちゃん)の連載が始まった。

その後、森鴎外の小説も取り上げたし、その他何人かの明治の作家のものを新聞小説風に連載するのである。

 最初の(坊ちゃん)を読み始めた時、本で読むのとは別の小説ではないか、と思われるくらい新鮮な印象があった。

今は新聞の文字のフォントが少し大きくなり、本よりは大きい。

それと本は段落がないのだけど、この新聞では6段くらいの段落があって、少ない文字数で折り返すのである。

 すると何だか文章にリズムのようなものが出てきて、漱石の小説が新しい命を得たように生き生きとしてくる。

鴎外やその他の作家の小説ではそういうことはない。

これはどういうことなのだろうか?

朝日新聞 以前と以後と

 漱石の小説(あるいは広く言って書いたもの)では朝日新聞と契約する前のものがいい、という説と、いやプロの作家として苦闘した朝日新聞専属となった後こそ本当の文学だ、という説に分かれるのかもしれない。

 もちろん以前も以後も大した文学であることには変わりがないので、どちらが好きかという議論かもしれない。

 ふうてんはどちらも好きなのだけど、じゃあどちらを読み返しますか?と聴かれると、以前の方に軍配は上がる。

(坊ちゃん)や(草枕)は何度も読む。

ほのぼのとした味があって、タンカが威勢よくて、無条件に楽しい。

この(我が輩は猫である)にも共通に言えるのは、語る口調が小気味いいのですね。

 明治の時代に、いわば一級の国家公務員として教師という生業についていて、小説は(余技)だった。

教師としての仕事も実は語学(英語)とか文学論とかだったろうから、自身の小説も無関係ではなかったはずなのだけど、語学とか文学論とか、真面目くさった議論に疲れた頭の、ウサを晴らすように自由闊達、自由奔放に、傍若無人に世間をこき下ろしている。

 その(世間)の中に、自身の姿も含めて、というのが漱石らしい。

(猫)ではカメラマン兼録音技師として猫を雇い自身を揶揄した。

(坊ちゃん)では自ら主役を演じた。

(草枕)では絵描き志望の若者に仮託して旅をさせた。

いずれにせよ、他人も自分も冷やかしの対象で気楽なものだった。

 朝日新聞に入社したあとの(職業作家)としての漱石の作品には、こういう余裕はなかった。

ギリギリと、世間を、世界を、日本を、人間を、そして何よりも自身を追い詰めていった。

その追求がピークに達した時、彼の肉体に限界が来た。

(ふうてんアーカイブス)

2003 子猫が子猫を産んだ

日記にも書いてます

子猫を産んだ日のこと

猫騒動

お母さんと子供たちkonekotachi  

 

 

 

 

 

 

 

人間はどないしてんのかなあdookana

 

 

 

 

 

2005 そして今は

一人で昼寝ができるのであるhirune

 

 

 

 

 

 

 

ロシナンテをねぐらにしておるのであるroshinantenegura

 

 

 

 

 

 

 

(付録)

すぐれもののテンプラ鍋tampuranabe  

 

 

 

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2005/06/19

6月19日 梅雨のころ篇

 梅雨の中休みだとかで照ったり曇ったりしている。

友人たちのブロッグでは(黒潮大蛇行)とか(冷夏、かしら?)とか、異常気象を心配しているむきもある。

それらをよくよく読むと、要するに黒潮が蛇行して(鰹)がとれなくなった、とかトマトやナスビの収穫が心配だとか、おいしいものが食べられなくなるのではないか、とのご心配のようである。

どうもふうてんの友人には(食いしん坊)が多いようだ。

(冷夏)ということに対する不安は、ふうてんにも身近な問題だった。

子供のころ、何しろ稲作、ミカン作りの農家であったから、初夏になると今年の夏は暑いのか暑くないのかを占うようになる。

夏は暑くなって太陽がギンギンに照ってくれないと作物が成長しないのである。

 NHKのラジオのニュースで(当時我が家にはテレビはなかった)、今年は冷夏のようです、なんて聴くと、いや~な、憂鬱な気分に陥ったものだった。

その習慣は、家を出て大学へ行き、卒業して関東まで流れて、所帯を持って、かなりの年齢になるころまで続いた。

(冷夏)と聴くと気分が暗くなるのだった。

大都会でサラリーマンしていて農作とは何の関係もないのに、夏が暑いかどうか気になるのだった。

 15年くらい前から、この習慣(習癖?)はなくなったように思う。

逆に毎年、ともかく夏は酷暑ばかりになった。

(今年の夏は涼しいでしょう)

なんて聴くとホッとするようになった。

電車で通勤する身にとって、事務所と電車の中は冷房、外は猛暑、35度くらい、というのは身体にこたえない訳がない。

温度試験を毎日コチラ人間様が受けているようなものなのである。

(ちなみにパソコンは0°C~40°Cでテストする)

出雲の国の住人に会った

 先日、前から約束していた古い友人との飲み会が実現した。

古い友人というか同僚というか、ようは昔仕事を一緒にした仲間である。

ジックリと飲んで話すのは久しぶりだった。

 彼は今、島根県のある製造会社の社長をしている。

島根へ行って3年半になる。

やっと彼の(俺流)ができ始めたかな、というフェーズのようであった。

島根の土地柄、社長業の苦労話、などなど話は尽きなかった。

話が面白いのでコチラまで元気になってしまった。

島根の土地柄

 この友人は、島根はまことに珍しい土地柄である、という。

まず、どうも地元には代々の(ドン)がいるらしく、何事もその(ドン)の了解を得ないと話が進まないらしい。

それと関係あるのかどうなのか、道路を作るとか、都市開発をするとかの(工事マター)はある意味で遅れていて、おかげで自然環境も結構温存されている、という。

 出雲の国であるからして、何しろそこいらじゅう(歴史)に包まれている。

もともとこの地区は全体が出雲だったのに(出雲市)だけがその名前を独占しているのはけしからん、なんて議論も闘わされている。

出雲大社よりコチラの神社の方が古いんだ、なんて主張する神社がいくつもある。

宅地用とか工業用に野原を切り開いて(造成)しようとすると、すぐに古墳が出てきて、工事は簡単には進まない。

 ・・・・・。

 その割りには、地元の人は(歴史)をわざわざ勉強するということはあまりしない。

むしろ余所から来た観光客とか、学者さんとか、歴史が趣味の人とかの方がよほど詳しい。

灯台もと暗し、紺屋の白袴、そんなことが島根での(歴史)にもあるという。

タクシーの運転手さんとの会話

 その友人は、もともと歴史なぞにはこれまで興味を持っていなかった。

島根へ行って、ある時、大国主と大黒さんが同じ人物だと聴いてビックラこいた。

何しろデザイナーであり、多少誇り高い男でもある彼は、土地の人に、そんなことも知らないの?とバカにされたような気がした。

 そこである日、タクシーに乗ったとき(おそらく飲んだ帰りだと思われる)、運転手さんに、いえね実は俺歴史知らないのだけど、大国主と大黒さん一緒なんだってねえ、笑われちゃったよ、といったそうな。

そうしたらその運転手さんが、私はここの出身なんですけど、そうなんですか、知りませんでした、ちょっと確かめて来ます、とどこかで車を止めて、知り合いの店へわざわざ聴きにいった。

戻って来て、やはり一ケリにされました、と二人で大笑いになったそうである。

(この話を友人から聴いたあと、ふうてんは何も知らないので、Googleに聴いたり、梅原猛の古事記現代語訳を読み直したりして、おおよその見当はついたのだけど、バカにされるといけないので、これ以上は語らないことにしよう)

(なお、サッカーの大黒選手は大国主の末裔であるというウワサもある)

夢をかたちに

 こういう標語を以前あるコンピュータ・メーカが使っていた。

なかなかいい言葉だと思いませんか?

ソニーの出井さんも、ある時、あるところで、素晴らしい言い方を某社さんに取られた、とグチッていた。

 当方の理解では、これを実現するためには、(夢)を見る人と(かたち)にする人が必要となる。

この二つはちょっと種類が違うので、一人の人間で両方は無理なのですね。

二人いてなんとかなる。

 この友人とのつきあいは、そんな感じだった。

コチラは(夢)を見ることしか出来ない人、アチラはそれを(形)に出来る人だった。

 どんな機械でも(機能)と(デザイン)というものがある。

これの両方が良くて、なおかつ価格が安い、となると(売れ筋商品)となりうる。

消費者の目は簡単には誤魔化せないのですね。

 パソコンも同じで、機能、形、価格の3つとも良くないと売れやしません。

中で、機能と形についてはエンジニア、デザイナーの役割が大きい。

価格はエンジニアやデザイナーだけではどうにもならない。

価格だけは誰とかじゃなくてメーカのあらゆる部門が絡む(総力戦)の結果となりますね。

 この男との役割分担は当方が(機能)、彼が(デザイン)だった。

機能というのはスペック(仕様)とそれを実現する為の電気回路や周辺機器、デザインというのは、そういう装置一式の実装構造とマシンの(外観)を決めること。

トラックでのリレー競技でいうと当方が先頭ランナー、彼がアンカーという役割。

どちらが遅くてもレースには勝てません。

 彼は3年半前に、そのアンカーの中でも仕上げ、つまり(工場)の社長になったという次第。

彼の会社は島根方面にあり、ノートパソコンを作っている。

工場で(園遊会)を催した

 この友人の(俺流)を一つだけ紹介しておきたい。

彼が社長になったときから、社員の働く姿をご家族に見てもらいたいなと思った。

それで(園遊会)みたいなものをやらかして家族を呼ぼうよ、と提案した。

反応は、恥ずかしいです、職場で組み立て作業している姿見てもらいたくない、などなど否定的な意見ばかりだったという。

 3年かかりました、と彼は言った。

今年やっと実現したというのである。

ふうてんはこの話は嬉しかった。

工場で組み立て作業をする。

これも立派な仕事なのである。

メーカの仕事には、そりゃあいろんな持ち分がある。

(夢)も語らねばならない、それを(形)にせねばならない、しかし最後にそれを(物)にしなくちゃ、商品にならない。

その(物)にするところが(工場)なのですね。

どの持ち分も必要不可欠なのですね。

 その友人にふうてんは言いました。

お父さんはこれを作っているんだよ、と最新のノートパソコンをお子たちや奥方たちに見せたろうね、と。

友人は、あれで少しは家に帰ったら料理が一品増えているとか、もう一杯どうですかとか、お父さんを見るお子たちの目が変わるとか、お父さんたちもやる気が出るとか、するといいんだけどなあ・・・・・。

この話を聴いてふうてんは、あたりが少し見えにくくなったようだった。

去年入院したのがきっかけで絵を始めたという

 詳細は聴いていないのだけど、去年医者にかかったらしい。

(ああっ、これね、この会社で社長になった人はみんなこうなります)

と妙な納得のさせられかたをしたらしいのだけど、しばらくある病院に入院した。

その病院の院長は偶然なのだけど、ふうてんが中学のころから大学まで一番親しかった男のようだった。

 入院してからなのか、そのしばらく前からなのか、彼は絵を描き始めたらしい。

先日彼と飲んだとき、どっかのホームページ(社内用)に載ってますよ、と教えられた。

その作品が、以下の(ふうてんアーカイブス)の数枚である。

数日前本人に、ブロッグに載っけるからね、と言ったら、やめて下さいよと言った。

でも載っけるからね、と言っておいた。

 こんな絵はふうてんには描けない。

こんな男と組めてよかったなあと思う。

朝日の絵は、入院していたとき、早朝看護婦さんが、朝日が綺麗ですよ、と病室に言いにきたという。

ふうてんは、(出雲の夕日)とブロッグに書くところだった。

朝日なのですね。

夕日と朝日は全く違います、と友人はいう。

(あれ、夕日じゃなくて朝日だったの?)

(まだ腕、足らんのかなあ)

と友人は言った。

(ふうてんアーカイブス)

2005 出雲の友人の絵

出雲の朝img002  

 

 

 

 

 

 

山茶花img005  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

名前は知らないimg009   

 

 

 

 

 

 

 

 



2005 コナラのドングリが芽を吹いた 

一人前の葉っぱに虫がp6120143  

 

 

 

 

 

 

 

また別の虫がp6120142  

 

 

 

 

 

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2005/06/12

6月12日 黒沢明の(野良犬)を見た篇

 ホリエモン騒動が終わった。

大相撲5月場所も終わった。

ジーコ・ジャパンのW杯ドイツ行きも決まった。

 面白いニュースがなくなった。

今のテレビはニュースにディペンドしているのでニュースがないと面白くない。

せっかく我がハイビジョンTVが直ってきたのにコンテンツがない。

 そういえば部屋の片付けをしていて、ずいぶんいろんなビデオがあった。

ホコリを払って積み上げ直すだけのことなのだけど、こういう、見るテレビがないときこそ、彼らの出番ではないのだろうか?

 そうだったんだ、黒沢映画があったんだ。

戦後10年間にエネルギーを爆発させた

 1910年(明治43年)生まれの黒沢明の傑作は、戦後の10年間に作られたとふうてんは思う。

戦後10年というのは1945年(昭和20年)から1955年(昭和30年)の間である。

 1945年(35歳) 太平洋戦争終了

 1948年(38歳) 酔どれ天使

 1949年(39歳) 野良犬

 1950年(40歳) 羅生門

 1952年(42歳) 生きる

 1954年(44歳) 七人の侍

 これらの作品以外にも5本くらい撮っているから、毎年一本のペースだったと思う。

野郎が一番仕事するのは大体35歳から45歳ではないかと、ふうてんは考えるのだけど、黒沢明のバヤイも見事に一致している。

 いつの時代でも35歳くらいから野郎はやっと自己の仕事に目覚める。

黒沢明がそれまで生きた時代は(戦争)の時代だった。

作りたい映画が作れる環境ではなかった。

 映画を作りたくて映画界にはいった黒沢明にとって(戦争)とはどういうものだったのだろう。

記録では、彼が兵役に着いたことはなかったようだ。

中国を転戦した小津安二郎とはその点、決定的に違う。

 兵隊になって戦争をしたかどうか、には違いがあるだろうけど、映画を志していた連中にとって、映画の発祥の地であり宝庫であるヨーロッパやアメリカを相手に(戦争)する時代は苦痛そのものであったに違いない。

その戦争が終わった。

ゲートインした競馬馬のようにゲートが開かれた瞬間、彼らは全力で走り始めた。

 それの黒沢明における成果が上記作品群であるとふうてんは思う。

七人の侍までの作品は、その後平和な時代になって作った(用心棒)以降の作品とは決定的に違うものがあるように、ふうてんには思える。

 これは実は日本の映画人の話だけではない。

世界中で第二次世界大戦が終わったあと10年間に数々の傑作映画が生まれた。

(七人の侍)の封切りのころ

 そういえば、これらの黒沢映画で一本だけ封切り当時の記憶がある映画がある。

(七人の侍)である。

昭和29年の封切りだから、ふうてんが8歳のときであった。

ふうてん自身が見たのではなく、7歳上の兄貴が見たのである。

それでも、8+7=え~と、15歳ですか。

ずいぶんませた中学生(高校1年生?)だったのですねウチの兄貴は。

 兄貴は映画が大好きだった。

映画を見て帰ると、身振り手振りでその映画がいかに素晴らしかったか説明しないと収まりがつかないようだった。

 (ジャイアンツ)というジェームズ・ディーン主演の映画がある。

それを見て帰った日は、ジェームズ・ディーンがどのように憎っくきロック・ハドソンを殴り倒したか、詳細に身振りで説明してくれる。

具体的で的確だからコチラはつい覚えてしまい、今でもハッキリと覚えている。

 まず、出し抜けに右フックを入れる。

 相手がたじろいだ次の瞬間、左でボディーをかます。

 うつむきになった相手のチン(あご)に右アッパーを入れる。

 相手はのけぞるように後ろに倒れる。

 このような具合に、あの映画、この映画、ふうてんは小学校へはいったばかりの頃だから実際の映画は見てやしないのに、すっかり耳年増になった。

(七人の侍)もそれらの中の一本だった。

 兄貴の話で印象的だったのは、七人の侍が守りに出かけた村に初めて(野盗、野武士)が襲いかかるシーン。

黒い山の稜線の向こうから、まるで雲がわき上がるように馬に乗った野武士たちが群れをなして、フワッと浮き上がる。

その野武士たちが、稜線を超えて、ドドドド~ッと山を駆け降りる。

それを望遠で捉えていて、カメラが降りていくと、谷間の向こうの方に、守ろうとする小さな村があり、村民たちが、キャ~ッとかヒェ~ッとかいって逃げまどう。

まことに見事なシーンではあります。

 実際に(七人の侍)をスクリーンで見たのは、兄貴の話を聴いて12年くらい後だった。

映画館ではなくて、京都のある映画クラブがどこぞの小汚い小屋で催した上映会で、だった。

ふうてんには初めて見る映画とは思えなかった。

ほとんど(デジャブ)感覚だった。

そしてこの(野良犬)

 黒沢映画、というと時代劇をイメージする人が多いと思う。

羅生門、七人の侍、用心棒、隠し砦の三悪人、赤ひげ、影武者、乱。

しかし同時に、

酔どれ天使、野良犬、生きる、悪い奴ほどよく眠る、天国と地獄、などの現代劇も捨て難い。

 (野良犬)を初めて見たのは池袋の何とかいう映画館での(深夜興行)だった。

25年くらい前、ふうてんが35歳のころまでは、銀座の並木座とかこの池袋の~とか、いろんな(文芸座)風の古い映画をやる映画館が残っていた。

池袋のこの映画館では何本もの黒沢作品を見たけど、夜中に映画を見て、始発の山の手線に乗って帰るのであった。

 今はシネマコンプレックスなるものが流行ってきて、スクリーンの数は一時の最低数を脱したと聴く。

ただし新しい映画ばかりで、古い映画は全く上映されなくなった。

古いのはレンタルビデオやDVDやテレビ放映で見て頂戴、というわけである。

1980年ころまではまだ東宝の映画館チェーンも細々と営業していて、立川などの場末でも、たまに古い黒沢映画を上映することがあり、その都度出向いていた。

いわゆる(追っかけ)だったと思うのだけど、映像の魔力に惹かれて通ったのだった。

 酔どれ天使、野良犬、生きる、のカメラは中井朝一(なかいちょういち)である。

勿論、七人の侍も、赤ひげも、天国と地獄も。

彼のカメラワークには独特のものがある。

まるで(生き物)のようにカメラがス~ッと動くのですね。

その(動き)が定型的、予定調和的ではない。

カメラマンの自分勝手な動きでもない。

全くそういう不自然な意図を感じさせない。

 映画というのは簡単にいうと(見せてなんぼ)の芸術でありましょう。

(見せる)ことが(必要条件)で、音楽が良かった、などの話は(十分条件)なのです。

中井朝一のカメラによる黒沢映画はそういう(目の世界での興奮)ということを教えてくれました。

ベン・ハーでもない、アラビアのロレンスでもない、シネラマでも70ミリでもない。

カラーですらない。

白黒の35ミリ・フィルムの4:3の画面。

(野良犬)は、そういう視覚的な迫力とは何か?を考えさせてくれる映画だと思う。

 カメラワークの基本形はエイゼイシュテインの(戦艦ポチョムキン)であらゆる事が試された、と言われ、実際見ると確かにほぼ出尽くしている、と感じさせられた。

それでも、世界の映画多しといえど、(黒沢-中井)コンビの映像は独特なのですね。

どうしてなのか?それは当方の説明能力をこえております。

 一つだけ言えるのは黒沢明は26歳ころまで画家を志望していた、ということがヒントになりそうではあります。

絵では喰って行けそうもなくて映画の世界にはいったらしい。

しかし後年の(影武者)や(乱)の絵画集を見ると画家としても天才である事がよく分かる。

これらの絵については、池波正太郎も(ともかく素晴らしい)と感嘆していた。

 絵描き志望だった人が映画を作るとなると何よりも(動き)にこだわらざるを得なかったのではありますまいか。

絵は動きませんからね。

(動き)というのは時間的な変化です。

黒沢明は(映画は音楽と一緒だ)と言っていました。

(時間の芸術だ)というんですね。

黒沢映画についてしゃべり始めるとキリがないので今日はこのへんにしておきまひょか。

(ふうてんアーカイブス)

ランちゃんが

向こうから来てranmukou

 

 

 

 

 

 

 

通り過ぎてrantorisugite

 

 

 

 

 

 

 

戻って来たranmodotta

(お父さんじゃないですか)

 

 

 

 

 

 

我が家では 

白ネコちゃんが枇杷の木で爪を研ぐp5250114

 

 

 

 

 

 

 

二人一緒にp6030121

 

 

 

 

 

 

 

ちょっとそこまでp6030128

 

 

 

 

 

 

 

二人別々futaribetsubetsu

 

  

 

 

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2005/06/06

6月5日 ハイビジョンの番組あれこれ篇

 テレビが直ってくるとどうしても見る時間が増えてしまう。

それでも不思議なのは、不便な時を3週間ほど過ごすと、テレビが邪魔にもみえてくる。

テレビよりも本を読んだり、空の雲の変化を見たり、パソコンで友達のブロッグを冷やかしたりする方がよほど面白い、とも思う。

 3週間ほど見なかった自室のテレビを久しぶりに見るようになってテレビに関して少し新鮮な印象があるので今回はその話をしてみたい。

ハイビジョンでもBS-hiというNHKの番組しか見ないので、NHKの宣伝みたいになるのかもしれないけど勘弁願いたい。

NHKはコチラがスポンサーだからして言いたい事が言えるのである。

代々木の杜(もり)の物語~明治神宮

 明治神宮というのがある。

ハイビジョンでそれの春夏秋冬をやっていた。

まず神社の生い立ちから始まり、明治神宮の森、もっというと代々木の森がどのように形作られたか、の番組である。

 神宮の杜(森)がどのようにして作られたか。

日本で2万人という神官(宮司)がどのような生活をしているか。

巫女さんたちはどのような研修を受けているか。

それらが克明に写し出される。

 一番面白かったのは神宮の杜が(仁徳天皇陵)をモデルとして設計されたことだった。

明治末期、ある学者が明治神宮の森の造営を任されて、日本中の神社の森を調べたそうな。

中で注目したのが(仁徳天皇陵)だった。

人手がはいることなく1000年以上も森を保っている。

どういう仕組みになっているのであろうか?

 こういうテーマはハイビジョンの独断場である。

神は小さきものに宿る。

それをえぐり出すにはこれまでの普通のテレビ(NTSC)では解像度が不足している。

だから私は京都に暮らす

 ハイビジョンでは京都を主題とした番組が多い。

(絵)になるからだろうと思われる。

その(絵)の細やかなところを写せば写すほど京都の特徴は出てくるようだ。

 例えば(着物)の世界がある。

例えば(神社仏閣)の世界がある。

例えばそれに伴う(庭園)の世界がある。

なおアレがあり、コレがある。

 そういう京都篇のなかに(だから私は京都に暮らす)という番組がある。

見ていると、見知った懐かしい風景がちょくちょく写し出される。

その匂いまで伝わってくるような気持ちになる。

 テレビが写真と違うのは(音)が加わっていることである。

サウンドとしての(音)もあるし、ナレーションもある。

ナレーションとか登場人物のセリフとかが映像に決定的な(付加価値)をつける。

オーディオでもないビジュアルでもない(精神性)を付け加えるのである。

 言葉とは怖いもので(時空)を超える。

(語り)により空間は広がり、時間は悠久となる。

オヤッ?これはハイビジョンと関係なかったのかもね。

地球に好奇心

「アルプス 雪と氷のラリー~名車の伝統が息づく4日間」

 スイスとフランスの国境当たりのアルプスで行うラリーがあるそうな。

何十年も前の古い車ばかりで標高1800mくらいなところを4日間、約600Km走るという。

1960年ころまでに製造された古い車ばかりで、1931年以前のクルマにはハンディが与えられるらしい。

 当方のように古いクルマが好きでラリーの経験があるものにとってはこたえられない番組だった。

ラリーと言っても厳格なタイム・ラリーでもなくスピード・ラリーでもなく他愛のない類で、ただある時間内に到着すればいい、走りきれるかどうかが大問題というやつ。

コースの中途にところどころ(スペシャル・ステージ)というのあって、ここだけが厳格なタイム・ラリーとなっていた。

スタートの時に地図を渡されるのだけど、方向転換のところだけ次々と指示が出ている地図で我々が使っていたのと同じだなあと懐かしかった。

 ラリーの思い出話はいつか書くこととして、今回は連中の古いクルマに対する思い入れの深さに触れたい。

 主に取り上げられていたのはフランスの古い車とメルセデス190SLでどちらも1950年代に製造されたもの。

どちらも妙齢の夫婦がドライバーをやりナビゲータをやる。

整備は自分でやる、という人も多いらしく、この2台のオーナーたちもそうだった。

(整備は自分でやります、ただしエンジンとブレーキは専門家に任せます)

(特にブレーキは自分で触ってはいけません、エライことになりますよ)

などと口々に言っていた。

 屋根のない車も多い。

タイヤも細っこいのが多く、雪道で大丈夫かいな、と思っていたら解説で、細いタイヤは接触面が小さいので雪道ではかえってスベリにくいという。

そんな100年近くも前のタイヤあるのかしらん?と思っているとミシュランの人が出てきて、当社は100年前からの全てのタイヤを注文で一本から作っております、という。

ペイしないけれど愛好家のためには当然のことをしているまでですとのたまう。

 車列の最後尾には(修理班)が車で追っかけていく。

何しろどれもロートルばかり、いくら整備をしていても、いつ壊れるか分からない。

修理班には、これまた車好きの連中がボランティアで参加しているという。

中の一人が古い車を修理する楽しさを語っていた。

(新しい電子制御のついたような車は修理する気がしませんね)

(古い車には手作りの良さ、人間の温かみがある)

(ろくな道具もなかった時代、これを作ることに人生をかけた技術者の情熱がつたわってくる)

(彼らは熟練工であり芸術家なんだ)

そういえば我等が(国立技工)さんも新しいスポーツカーには目もくれませぬなあ。

 4日間で620Km、氷と雪の道を走り終えた車たちが集結し簡単なセレモニをして、再会を誓って散っていく。

古い車をいとおしむようにかわいがっているピープルでした。

フランスでは古い車は(文化財)と考えられているという。

ヨーロッパの人々は古い車を見るとき、歴史と伝統を見つめなおす、とも。

 やはり車はヨーロッパの人々にとって彼らが築いた近代工業の代表選手の一人なのだろうか、とふうてんはため息をついた。

(ふうてんアーカイブス)

2005 桜通りでフェラ~リを見た

フロントと

ferrari1 

 

 

 

 

 

バックと

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2005 (Cafe CHANG)が再開した

青島ビール

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窓から大学通りが見える

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室内は骨董品ばかり

cafe2  

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