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2005年3月に作成された記事

2005/03/30

3月27日 桜はまだかいな篇

 東京都内のソメイヨシノはそろそろ開花宣言をしたらしい。
夕刻、ロシナンテのホコリを払って、咲き具合を確かめるため、桜通り、大学通りを流す。
ホコリを払うとき、普通のホコリはすぐ取れるのだけど細かい花粉はこびりついたようで、中々取れない。
今年の花粉の飛来は全く異常だった。
 
 国立ではソメイヨシノはまだ一かけらも咲いていなかった。
(まだ冬景色ね)と女房が言った。

花粉が車に積もった

 関東では花粉がこれまでの年の数十倍飛ぶと予想されていた。
 
 ある日、チャリで流しているとある家の前に駐車した車の前で大声で話している住人がいた。
通り過ぎる間に、その車の屋根にホコリのようなものが白く積もっているのが見え、どうやらその住人は隣で建てているマンションの工事のホコリが車に積もっていると抗議しているようだった。
 工事のときはよく揉めるんだよな、と同情しながら通り過ぎた。

 書簡集でマスターと話していると、駐車場で車にこんなに花粉が積もってました、と指で示しながら言う。
そうか、そうだったんだ、アレは工事のホコリじゃなく(花粉)だったんだ。

 やがて隣の家の黒い車にも黄味を帯びた白い花粉が積もり、ご亭主が洗いつつ、取れにくくて困ります、と言い、ロシナンテにも外から舞い込んだ花粉が付いた。

 国立中、サングラスとマスクで完全武装した住人が右往左往するようになった。
花粉症である女房もその姿で買い物に行くようだ。

人丸どのの還暦祝い

 先週都内某所で人丸どのの(還暦祝い)をJOさんと三人でやった。
(還暦)という三人に共通な話題がテーマの宴会だったので、まことに清澄な気分で語り合うことが出来たような気がする。

 その後数日たってもまだその気分が残っているようにも感じる。
暦が一回りしたんやから、と何かが完結したような、元に戻ったような不思議な気分なのである。
一回りするまで生きたのやからゼロ歳に戻ります、言うても誰にも非難されないような気もする。

(75歳まで元気でいてポックリいうのが理想やなあ)
と人丸どの。
(75歳まで・・・あと15年しかないんか・・・)
とJOさん。
(今頃それに気づいたん)
とふうてん。

 結局この(還暦祝い)の勘定は人丸どのがすませた。
少し気になっていた。
今日、繁寿司で、お母さんの(誕生祝い)だというので来た家族連れがいた。
 繁さんが、お祝いをしてあげるのだから、お祝いをして貰うお母さんが払うんだよねえ、と話しかける。
繁さんなかなかいいことを言うなあと安心した。
(実際は孝行な息子さんが払ったのだけど)

 国立の桜も来週は咲いてくれるでしょう。

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3月21日 お彼岸のころ篇

 世間では3連休だという。
毎日が日曜日の身にあって、なおかつ今日は春分の日で休日だ、と朝からビールへ手が伸びるのは一体どういう心根なのだろうか。

 春分の日、お彼岸の中日。
今年は3月21日がその日に当たり、これは我々の結婚記念日でもある。
1971年(昭和46年)だからもう34年になる。

 春分の日、冬の寒さが緩み、三寒四温、徐々に暖かくなってくる。
温暖化と関係のなかった子供のころ、ふうてんはこの季節が一番好きだった。

何故3月21日に結婚を?

 どうせ結婚記念日なんて覚えられないだろうから、覚え易い3・2・1にしよう、ということで決めた。
当時コチラは関東の会社に就職して2年目、アチラは福岡で大学卒業の年だった。

 卒業して中途半端に家にいてもしようがない。
卒業する前というのも何だか気が引ける。
そこで3月16日に卒業式を終えたあと、4月までとなると3月21日の春分の日という有り難い味方がいることに気づいたのであった。

何故お彼岸というのだろう?

 Googleに聴くと、春分の日、秋分の日はちょうど太陽が真西に沈む。
太陽が一番あの世(彼岸)に近づく日だからという。

 してみればこの日、太陽は赤道をたどるのであろうか?
と思っていたら、この日太陽は赤道の南から出て北へよぎる、と書いている。
たしかに地球の回転軸は太陽との関係で多少傾いている。

 そのGoogleの記事に、春はボタモチといい、秋はオハギと同じモチを別の言い方をして楽しむ、ともあった。

 ボタモチとオハギか。
忘れておりましたねえ。

ザワザワとし始めるころでもある

 啓蟄という言い方がある。
立春(3月6日)のころ、またはそれから春分までをいうらしい。
地中に眠っていた虫がうごめき始めるのですね。

 日本では4月から新学期や新年度が始まる。
従って3月はその準備期間であり何かと出入りが騒がしい。
不動産屋さんに聴くと稼ぎどきだという。

 今年、戦後60年だとかでテレビではやたらと戦争記念番組を連発している。
3月10日未明の東京大空襲なんてのはNHKも民放もリキのはいった番組を見せてくれた。

 西武事件、ホリエモンvsフジテレビ、郵政民営化、皇室典範改定、憲法改定、政官経教医警*どれもボロボロなどなど。
(* 政治、官僚、経済、教育、医療、警察の略)

 戦後60年間むさぼってきた(大いなる眠り)からそろそろ日本は目覚めないといけないのだろうか。
 還暦という言葉がある。
1年で植物が一回りするように世の中は60年で一回りするという教えなのだろうか?

 我々の世代は世の中の還暦と自身の還暦が同期しちゃったのかしら。
そんな気もしますねえ。

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3月13日 瘋癲老人日記篇

 人丸どの
 JOさん

 今日は珍しく繁寿司に客が多かった。
山口夫人、文春の豊田さん、我々、山口瞳ファン夫婦。
同時に6人の客がいることは少なくとも日曜日には珍しい。

 邪宗門で砂糖抜きのウィンナー・コーヒーを飲んで、寒風の中、ロシナンテに一鞭くれる。
(嫁さん、酒飲み運転は罰金30万円だって、二人で60万円、それで売り上げ落ちたと杉田屋酒店の若旦那が言うてた)
(ホント?ウッソォ~、60万円?・・・・)

 帰るとウィスキーを飲みながら老人日記を書くくらいしかやることがない。
どうしてこういう習性が身についたのだろう。
ふうてん老人日記のサイトが閉じられたことがきっかけとなって、この習性のことを考えさせられる。

相手がいないと書けない

 パソコン通信が始まったころの気分は忘れられない。
ワープロで文章を書くことにもまだ慣れていなかった。
若いのがやり始めたのを横目で見ながらマジックでも見学する気分だった。

 それから2年ほどたって、いつの間にかメールを書くようになっていた。
仕事でのメールはほとんど書かないのだけど個人的なメールを書くのは苦痛ではなかった。
メールというのは相手が特定されているので手紙のようなものだ。

 手紙を書くということは相手に何かを訴えたいという心に根ざしていると思う。
ある感情、感想を自分の中だけにおいておくのに我慢出来ず、誰かに聴いて貰いたいと思う心のようだ。

お母さんっ子だった

 小学生のころお袋によく言われた。
学校から帰るといつも母にまとわりついて、今日のおかず何?と台所で聴く。
ことのついでに、今日は学校でアレがあった、帰りにコレがあったと聴かれもしないのに報告するのである。
 一歳半下の弟は一切そういうことをしない。
(どうして同じ兄弟なのにこうも違うのだろう?)と母親である彼女はいつも不思議がっていた。

 どうもこのお袋さんとの付き合いの仕方がそのまんまこの歳まで続いているような気がしてならない。

 数年前、55歳のころだったか、何か嬉しいことがあり、帰宅して浴衣に着替えて階段を降りながら、(おかあちゃん、今日ねえ・・・)としゃべりかけて、もう
5年も前にお袋はいなくなっていることに気づいて苦笑したことがあった。

ふうてんの文章修行

 京都で学生していた頃、ふうてんは二種類の手紙を書いていた。
一つはお袋への(仕送り追加の無心状)だった。
一つは遠くにいるガールフレンドへの(恋文)だった。

 この二つほど文章修行になったものはない。
どういう内容だったかは全く記憶の彼方にあるけれど、それを書くときの切羽詰まった気分は多少覚えている。
 どちらも(訴状)みたいなもので、いかに今自分は窮状に陥っているか、いかにあなたの助けが必要であるか、そのあなたの助けがいかに賛美されるべき名誉あることであるかを綿々と訴えるのである。

 この文章修行の次は会社にはいってレポートを書かされた時だったかもしれない。
文章にうるさい上司でいちいち赤を入れて直してくれた。
 これも一種の(訴状)であって、学生時代の切ない訴状に慣れていたコチラにしてみれば、まあ楽ではあった。

いつの間にか習い性に

 もう10年以上前になりましょうかねえ、お二人にメールを送り始めたのは。
当時はまだOASYS40LXかなんか使っていたし、自分の部屋はガキやらおふくろやらに占領されていたので書くときに台所の食卓にOASYSを持ってきてコンセント挿して、さて一つメールでも書くか、と一週間のアレコレを報告して、ああこれで一週間が過ぎた、と安寧な気分になって、次の週を迎えられたのだった。

 10年以上も続いたのは読者たるお二人が、おそらく迷惑だったろうに、嫌がらずに読んでくれたからだと思わざるを得ない。
 メールは手紙だからして(返事)がないと次が続かない。
返事を貰うということは文章における句読点だと思う。
句点、読点を打たないと次の文章が書けない。

 お二人の打ってくれる句点、読点によって10年続き、もはや習い性になってしまった。

谷崎の瘋癲老人日記

 勿論この小説の題名をそのまんま借りた。
当時この小説をドナルド・キーンの勧めで初めて読んで
(最高の小説だ)とのぼせ上がっていたからだろうと思う。
74歳くらいの時の最後の長編なのだけど、それまでの谷崎の世界を総ざらいするような作品で、しかもキーンが言うように(軽み)があって、とぼけているのである。

 小説にもいろいろあるけど漱石や谷崎を安心して読めるのは、軸足を自分個人のなかに置いていることではないかと思う。
天下国家は論じないのである。
大説ではなくあくまでも小さな説でございますけど、というスタイルを変えない。

 メールにこの題名を借用したのは当方が40歳代後半まもなく50歳という頃だったけど、今から思えばその年代はもう会社での一仕事は終わっているのですね。
この小説の主人公も(元大学の先生)という設定。

 その老人が長男の嫁に女神を見てしまうのです。
70歳を過ぎた谷崎翁、もう失うものはない、とばかり世間体を気にせず、そこまでやるか、とばかり回りを驚かせる所業の限りを尽くすのですね。

 この小説が本当にすごいのは最終章近くになって、この元大学教授の破廉恥とも思える所業を、何となく回りが応援し始めるのですね。
ばあさんと呼んでいる奥方まで見て見ぬふりをする。
みんな、このことで老人は支えられている、生きるエネルギーになっている、ということに気づき、ほとんど応援する(あの破廉恥な行動を!!)ようになる。

 そういう風に当方はこの小説を読んだ。
まあ文豪谷崎の最後の長編ですから彼の技の全てがこめられている訳で、漱石の明暗にも匹敵する傑作だと思う。

定点観測は続けたいような

 ふうてんにとって(老人日記)は国立の隠宅における(定点観測)の記録ではないかとも思われる。
一個の人間としての自身の移りゆく様。
一つの街の移りゆく様。
行き来するピープルの移りゆく様。
それらを、視点を変えず、同じところから見続ける。

 ロシナンテも繁さんも、いやコチラだっていつまでもつか分からない。
 行けるところまで行くしかない。

 定点観測というのは面白い。

 古いものと新しいものと。
 富めるものと貧しいものと。
 強いものと弱いものと。
 滅びゆくものと勃興するものと。
 フジテレビとホリエモンと。

 国立の隠宅、という小さな窓から、定点観測して記録してみたい。
 まあ、そんなところですかね。

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3月10日 春のような篇

 三寒四温の季節になってきたようだ。
ボンヤリと過ごしているうちに3月になって、雪が降ったり今日のようにまるで春のような気温になったり、今年はなかなか目まぐるしい。

 現役を引退して半年以上になる。
会社員時代の生活とはまるきり違う日々の過ごし方をしている。
戸惑いつつ少しずつこの生活に慣れてきたようにも思う。

 JOさんが団塊世代の定年の時、という表現をBlog上などでよくする。
戦後60年。
確かに今日本はあらゆるところで(踊り場)にさしかかったと思う。
踊り場がやたらと広くて(登る階段)が見当たらない。

一人になって思うこと

 会社員時代から政治や家族や日本や世界には興味を持ってきた。
アレやらコレやらに関する(見方)のようなものが微妙に変わって来たような気がする。

 例えば年金問題とか少子高齢化問題とかにまつわる(社会システム)はどうあるべきか?などに関して。
例えば天皇制とか戦争とかにまつわる(憲法改定)に関して。
例えばアメリカ、ヨーロッパ、中国、その他との付き合い方に関して。

 こうすりゃあいいんじゃねえかなあ、と少しだけ分かりかけた時、既にコチラの残り時間はいくばくもない、という皮肉。
ま、こういうことを大昔から人は繰り返しているのでしょうな。

日本の近代化いまだ成らず?

 革命いまだ成らず、の言葉を残して死んだのは孫文でしたっけ。
今の日本の政治、経済、社会、文化などを考えるにつけ、どうしても江戸末期から日本はどう歩んだのだろう?と考えさせられることが多い。

 故あって250年鎖国したのですね。
その間にヨーロッパでは民主主義と工業が芽生え、根付き始めた。
日本は徳川家を守る為だけにあらゆる工夫が行われていた。
ちょうど西武の堤王国を思わせられます。

 明治維新という形で無理無理対応することになったけど、内なる日本も外なる日本も付け焼き刃ですわね。
そのまんま150年たっても根本的には大して変わっていない。
(民意)というものが変わっていない。
それぞれの個が確立している民が集まって(民意)は出来る。
個を確立するためのシステムが家庭にも学校にも企業にもない。

 そんなことを考えさせられます。

近代化とは何なんだろう?

 古代、中世、近世、近代、現代とか時代を区分していう言い方がありますよね。
これらを分類する根本は生産形態にあると考えると分かり易い。
つまりトフラー的言い方をすると第一、第二、第三の生産に関する(波)があったわけです。

 これらの波は人間の衣食住に決定的な影響を与えます。
その中で、近代とは工業生産がもたらしたものでありましょう。
発祥の地はイギリスでありました。
人力によらない機械による(動力)ですね。
第二の波が津波のように世界を襲いました。

 生産の主戦場が田んぼや海や野原などから(工場)に移りました。
そこでの生産活動にはもはや親子の伝承という世界はありません。
子供たちは成人すると育った家を離れて他の地で働きます。
育った家には両親が残ります。
工場に近いところで新しい所帯を作ります。
核家族といわれるものが生産の主体となります。

 では(故郷)の両親はどうなるのでしょう。
元気なうちはよろしい。
やがて年老いて二人だけではやっていけなくなります。

 つまり老人介護の問題は工業生産が始まった瞬間に想定された問題なのですね。
他国のことはよく知りませんが日本では150年たってもまだなかなかいいシステムは出来ていません。
 年金問題、老人介護問題という取り組みではうまくいかないと考えられます。

 工業生産時代に合った(揺り篭から墓場まで)の一気通貫のシステムを作らない限りうまくいくはずがございません。

 では近代化の先輩であるイギリスやらのアチラではどのようにこの問題を克服してきたのでしょうか。
克服出来ているのでしょうか?

という風に

 戦争の問題、天皇制の問題、日本の近代化の問題・・・。
エライ大げさな話ばかりで、この老人日記のテーマではありませんが、たまにはこういうことに関しても書いてみたい思いました。

 と申しますより、我が家で飲む一杯の味噌汁にも実はこういう大げさな話の全てが籠められているのではありますまいか。
この味噌、一体どこのどなたさんがつくらはったんやろ。
それをどないして国立のスーパー(ピーコック)まで届けたんやろ?
それを沸かすガスとは一体どこいらへんから・・・・。

 ふうてんは百姓の小伜として生まれ育ち、メーカという工業の会社に就職し、情報ということに洗われまくって今還暦を迎えつつあります。
 第一、第二、第三の波をこの身一つで受け止めてきた訳ですね。

 いろいろ考えさせられる今日この頃であります。

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3月1日 同僚の死につき篇

 昨日アナザー筒井の通夜で三島へ行った。
ニューヨーク駐在員の仲間たちが集まった。
アナザー筒井が東海岸、JO筒井が西海岸ということでアメリカ全域をカバーしていたらしい。

 55歳で膵臓ガンで診断から3カ月で亡くなった。
去年の夏、裾野の小川別邸のワインの会の時は元気だった。
ふうてんなどよりは余程若くてエネルギーに満ちていた。
10月に診断を受けて余命3カ月と言われたという。

ニューヨーク駐在員たち

 通夜に出て焼香を済ませニューヨーク駐在員+JOさん、部外者のふうてん合わせて10人ほどで居酒屋にはいった。
IBM事件の時の当事者(千谷さん、JOさん)などが口火を切り、1980年前後のアメリカ駐在時代の話に花が咲いた。ニューヨーク時代アナザー筒井の後輩だった小川、富田の両君は奥さん同伴だった。
当時ふうてんもちょくちょくニューヨークを訪ねていたのでアナザー筒井、小川、富田の諸君と面識が出来た。

 千谷、鎌倉、小川、富田、JOさん、みんなよく喋った。(あの頃は楽しかったなあ)と最後の頃JOさんが言った。
その通りだと思うし、集まって当時の話に花を咲かせたのはアナザー筒井への最高の手向けではなかったかと思う。

俺たちの番が来るなあ

 三島駅へ歩きながら鎌倉さんに、55歳は10年早いけど死に方としては羨ましいですね、と言った。
鎌倉さんは、元気でコロリという意味ではいいけど、余命3カ月と言われた時、どう思ったのだろうなあ、ちょっと考えられないなあ、と答えた。

 三島から喫煙組のJO、ふうてんは皆と別れ、二人でこだまの3号車に乗った。
うまくもない缶ビールを飲みながら、自分たちの葬儀はどのようになるのだろう?という取り止めのない話になった。

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2月27日 春一番篇

 水曜日、二度目の国立劇場参拝の日、春一番が吹いた。
10度Cプラスアルファで4月上旬の気温だという。
国立劇場、小劇場は目の前に皇居の林が見えるのですね。
会場は禁煙なので外で宮城を見ながらタバコを吸い、ビールを飲むわけですな。

一週間前とは客層が少し違った

 前回は95%おかあさんばかりだと書いた。
今回はとっつぁんの比率が結構高かった。
若いのもチラホラ混じっていて前回とはずいぶん印象が違う。
同じ水曜日の午後2時半からの公演で演目も同じなのだけど、日にちによって客層は変わることもあるのでしょうかね。
まこと人間の行動は予測がつきませぬ。

ビールのせいなのだろうか

 二度目の今回は時間を読み違えることもなく国立の隠宅から会場まで余裕を持ってたどり着いたのだけど、余裕があると悪い癖が出て途中で寄り道したりするので結局ビール一杯を飲む
時間しか余裕がないまま、前から5列目の席についた。

 文楽を聴いていると心地よい眠りに襲われるのは何か理由があるのだろうか。
今回は二度目のせいなのか、それともビールのせいなのか、たった1時間20分の、竹本住大夫の貴重な実演なのに途中で眠気に襲われた。

 浅い幸福な眠りから覚めて、文楽を聴き終わり、その演目のCDを買い、カタログを買って、JOさんと待ち合わせた下北へ向かった。

Blogは現代の(連歌)だとJOさん言い

 久しぶりの下北沢での話題はホリエモンとBlogだった。
ニッポン放送にはかなりの現金があるのではなかろうか、それを配当させるのがホリエモンの狙いではないか、というJOさんの説は、もしそれが真実なら、納得のいくストーリだと思った。

 もう一つJOさんと話していて、Blogにおける(コメント)の面白さの話になった。
ホームページと違ってBlogにはコメント欄があって不特定の人が勝手にコメントを返すことができる。
それをBlogの読者全員が見ることが出来る。
(ホームページだとメールで意見を返すことは出来るけど、そのメールはホームページの主催者にしか伝わらない)

 Blogは連歌ではなかろうか、と突然JOさんが言い出した。
コメントに対してさらにコメントを返す。
一種コメント・バトルのような様相を呈することもある。
逆にコメントを貰っても、そのコメントに一言も返さない人がいる。
 それはコメントを返す能力がないからだとJOさんは言う。
誰でも(コメント・バトル)に参加出来る訳ではないようだ。
ということは・・・何だか連歌の世界に似ているような。
連歌は(歌)を読めないと参加できませんわね。
Blogの(記事)が上の句で(コメント)が下の句、それがいろんな形で繋がり広がっていく。
というのがJOさんの言いたいことのようでしたな。

ホリエモンは(太陽の季節)だと鎌倉さん言い

 木曜日の山田塾はホリエモンの話題で盛り上がった。
山田先生はホリエモン支持派のようだった。
鎌倉さんは半々で、頭はいいけど性格は悪い、と余りお好きではないようだった。

 その鎌倉さんが、いわば(太陽の季節)のようなもんですよと言った。
これにはふうてんはビックリしたし納得するものがあった。
分かり易い、と思った。

 土曜日の朝日新聞に小さな記事が出ていた。
元首相の宮沢さんがホリエモンにエールを送っているのである。
記事によると、25日のTBSの収録で以下のように語った。
(気持ちには抵抗があるが、何とか頑張って一生懸命やんなさいと言ってやりたい)
(太陽の季節だって乱暴な小説だった。僕らの世代の道徳観は厳しいが、まだまだいろんなことをやれてもいいと若い人は思うんじゃないか)

 同じ(太陽の季節)を引っ張り出してホリエモンの意味を語っていたので面白かった。
ちなみに鎌倉さんは石原慎太郎の文体をかなり評価している、
ということを以前よく聴かされた。
ふうてんなどにはサッパリ伝わって来ない文体なのである。

 宮沢さんが(道徳観)という表現をしているのに感心する。
今度のライブドア騒動の本質をついていると思った。
宮沢さんは(道徳観)なんてのは時代と共に変わっていい、と言っているように思う。
スター・ウォーズの(ヨーダ)みたいなあの宮沢のおっちゃん、なかなかいいことを言いますねえ。

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2005・02・20 竹本住大夫公演篇

 国立劇場、小劇場で竹本住大夫の二月文楽公演(伊賀越道中双六)を見た。
予想していなかった人形の吉田玉男、吉田簑助が登場したのにはビックラこいた。
三味線の野澤錦糸も含めると今の最強メンバーではなかろうか。

 国立の隠宅から1時間のところに国立劇場はある。
時間を30分読み間違えてちょっと焦った。
 宅から国立(タクシー)
 国立から四谷(JR中央線)
 四谷から永田町(地下鉄南北線)
 永田町から半蔵門(地下鉄半蔵門線)

 小劇場は観客400人ほどの小さな劇場だった。
これでなくてはマイクを使わない文楽はやれない。
はいってみて驚いた。
何だか懐かしい雰囲気なのである。

400人のおふくろさん

 理由はすぐに分かった。
観客の大半、さよう90%以上はご婦人なのである。
それも(おふくろさん)と呼びたくなるような熟年のご婦人方で占められている。

 劇場での公演は演し物によって観客層に特徴がある。
例えばシネマコンプレックスの映画は若いカップル
が多い。
クラシック・コンサートは硬い職業の関係者が多い。
ジャズ・コンサートは老若男女、多様な人々である。
宝塚歌劇は、これはもう99%女性客ばかりである。
フラメンコ、特にパコ・デ・ルシアのコンサートは何故か(いい女)がやたらと多い。

 今回の文楽公演の客層は(おふくろさん)ばかりだった。
何故なのだろう?
みんな、どことなくユッタリした雰囲気なのである。
同じ竹本住大夫を聴きに来た連中なのに去年の夏の内子座の時とは少し違う。
内子座ではむしろ老若男女、家族連れあり、やや熟年多し、くらいな感じだった。

 ともかく若いカップルというのは一組もいなかった。
ふうてんだって、もう還暦に一息という老人である。
不思議なことに、おそらくコチラと同じような年齢のご婦人方なのだろうに、400人ほどのおふくろさんに囲まれたような安寧な幸せな気分に陥った。

至福の時

 舞台が始まった。
竹本住大夫の語りと野澤錦糸の三味線と吉田玉男の人形が前から3列目のカブリツキの席で味わえる。
小劇場は舞台からすぐ席なので本当のカブリツキ。
これ以上の幸せは望む方が無理なのである。

 小雪模様の中、どこへも寄らずに帰宅した。
女房が(久しぶりに旦那さんスッキリした顔をしている、たまには外に出た方がいいのかしら)とぬかしやがった。
(400人のおかあさんに囲まれてね)と説明する
のも面倒なので黙ってうなずいておいた。

 1週間おいて今週水曜日また同じ演目を見に行く。
今度は余裕を見て早く行きCDやら公演案内やらを買い、ついでに二階の食堂でビールでも飲んでから
望みたいと思っている。

新旧のシルクロード

 さっきまで新と旧のシルクロードを見ていたけど、喜多郎の音楽はやはり素晴らしかったと思う。
ヨーヨーマはチェロだからシルクロードには無理があるような気がする。
低音楽器だからして音が上へ上がっていかない。
音が上へ上がらないと広がりが生まれない。
 広がりが生まれないとシルクロードには相応しくない。
新シルクロードのディレクターの大いなるミステークやね。

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2月13日 メトロノーム篇

  どうもこの10年ほど週一回繁寿司へ行って、帰ってウィスキーを飲みながら老人日記を書くのが習慣になった。
繁寿司通いは国立へ来てから25年ほど続いていて、何時のころからか、これで一週間のリズムが出来ているのだなあと意識するようになった。

 今日昼間BS2で1956年制作の映画(十戒)をやっていたので、昼寝の時間なのに思わず最後まで見てしまった。
3時間45分という長尺ものは見るのも疲れるし録画するにもテープが3本もいるので迷惑この上ない。

モーゼが週一の休日を作った

 モーゼの出エジプト記がこの物語のテーマなので今のアラブでの問題の起源はどないなってんのやろ?という興味もあった。
驚いたのは当時エジプトのファラオ(王)がユダヤ人を奴隷として使っていたのだけどモーゼの時代、7日に1日は休日を与える、ということになったというくだり。

 安息日というんですか、労働のない1日を作ったわけですな、1週間に一回。
これは東洋にはなかったのではないかしら。
日本だと奉公人は盆と正月だけだったと聴きます。

 この(十戒)を見たあと繁寿司へ行って、そのまんまやないけ、と思いました。
モーゼのおかげで我々労働者は日曜日休めるのですね。
その1日で一週間のリズムが出来るわけです。
言ってみれば音楽における(メトロノーム)の役割を繁寿司はやってくれているのではないか、とね。

 ファラオ、王様たちはそのリズムをどのようにして作っていたのかなあ?という疑問も浮かびますがね。

人丸どのJOさんは?

 人丸どのはそのリズムを女房どのと仕事がとってくれているのではないかと想像させられます。
時々いただくメールで想像するのですが、週末奈良へ行った、とか週末夢千代日記の舞台を訪ねた、とかのシナリオはとても人丸どのが書いたとも思えません。
シナリオライターは女房どのではなかろうかと。

 もう一つ人丸どので特徴的なのは仕事がらみなのでしょうけど、三条小橋北の(めなみ)へ同僚が5時までに行かないと満員になるとソワソワしていた、とか和歌山からの帰り大阪南当たりでフト昔の街を見てみたくなったので歩いてみました、とか。
 仕事がらみなのだけど一呼吸置くといいますか、そういう形で緩急のリズムを作っている、と感じられます。

 JOさんはふうてんの記憶にある限りでは料理でしたね。
(休みの日はどうしてんの?)と聴くと料理をやる、と答えてました。
それも半端じゃなく土、日の家族の食事を殆ど自分で作る、というのだから驚きでした。
最近はラジコンに凝っているそうで休日はそれをやらないと落ち着けないようですね。
 料理とラジコンと両立出来ているのかどうかは、今のところ不明です。

 という風に皆さんそれぞれの(メトロノーム)をお持ちではないのでしょうか。
音楽用のメトロノームは家にも姉が使っていたのがありましたが、僕自身は2、3回使って嫌になりました。
だからピアノもギターも上手になれなかったのかなあ。

 メトロノーム、語源は知りませんが、リズムを刻んでくれるもの。
生きていく上で大切ですね。

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2月6日 立春のころ篇

 このところ東京では寒い日が続く。
地球温暖化て、どこへ行ったの?という感が強い。
関東の冬は晴ばかりで、太陽の光には恵まれている。
その代わり裏日本で雪を落した冷たい風が吹き抜ける。
いわゆる上州名物のカラッ風というやつ。
このカラッ風というやつが関東人の気性を少し荒っぽくしたのではないか、と瀬戸内気候で育った軟弱なふうてんには感じられる。

 今日もその冷たい冬風の中ロシナンテで繁寿司へ向かった。

節分と立春

 節分と言えば豆まき、豆まきといえば春の訪れ、くらいにしか意識していなかった。
ふうてんの中では(桃の節句)と殆ど混同されて記憶にあった。

 先週女房が(寒いのに立春だってね)と言った。
その翌日くらいにテレビで節分というのは冬と春の境目のことなんですね、なんて言っていた。
両方を合わせて、初めて節分=立春なのだ、と気付いた。

 Googleに聴くと節分というのは季節の分かれ目だからして春夏秋冬、年に4回あるという。
それがだんだんと春と秋だけになり、少なくとも日本では2月の立春のときだけに節分の行事即ち豆まきが残っている。

冬至と立春

 今の我々日本人は冬至とか夏至とかいうのは太陽の昇り降りでダイレクトに感じている。
ところが立春とか立秋とか言われると、寒いのにもう春?とか、まだ暑いのにもう秋?など直感と結びつかない言い方のように感じる。

 しかし季節というものを素直に考えると、実は極めて正確な表現なのではないか、とも思う。

 冬至は太陽の照る時間が一番短い日を指す。
その翌日から太陽は長くなり(始める)。
でもまだ(春)は来ない。
太陽の光が十分に射すようになって、地中の温度が少し戻ってきて、草花の芽を出す準備ができて来て、そろそろ外へ出よか、というのが(立春 春の始まり)なのですね。

 旧暦のことを太陰太陽歴とも言うらしいけど、太陽とお月さまの運行を昔の人は不思議なものとして必死で観察し、その規則性を何とか生活の便として取り入れようとしたのでしょうね。

旧暦の正月

 今は中国では春節、すなわち正月のころである。
日本にいて西洋や中国方面と付き合っていると仕事上不思議な体験をする。

 日本の正月休みは12月29日~1月3日というのが特に官公庁では一般的である。
アメリカだと12月25日のクリスマスを基点として前後数日というのが一般的である。
アメリカ人は1月1日は休まない。
 中国では?
これは旧正月の日付に基づくことになる。
だから毎年、日にちは一定していないけど2月初旬である。

 この違いが多少の悲喜劇を生むことがある。
例えば今の2月といえば日本では春モデルといって3月の卒業、入学セールに向けたマシンの量産立ち上げの時期である。
量産となるといろいろ問題が起きる。
今の時代、マシンの一部は必ず(中国製)である。
その部分に問題が起こった!!
連絡しようにもテキは(正月休み)でつかまらないのである。

新暦の正月

 日本では明治時代以降、歴としては太陽暦を使うようになっている。
歴の歴史はよく知らないので解説をする積もりはないけど、おかしいのは正月の行事がどうも我々日本人の季節感と合わないということである。

 新春おめでとうございます、と言う。
新春と言われても冬至のあと一週間くらいなのでどこにも春の気配はなく不思議な感じがする。
太陽の光は弱々しく、影は長く、春はどこにあるの?と聴きたくなる。

 正月を新春と言うのなら、旧暦に一歩譲らざるを得ない。

西と東の違い

 という風に、太陽暦を導入した西洋の文明は正確を期したのでしょうね。
逆に東洋の文明は季節感というのを重んじているのだと思う。
以前この老人日記に書いたけど西洋の中心地、イギリス、フランス、ドイツなどは北海道より緯度が北にあります。
宗谷岬より北にあるんです。

 ということは・・・太陽の光は弱々しいのですね。年中。
自然と共に楽しみ、自然と共に生きる、なんてことをしようにも、そんなお気楽さはないわけですな、環境が。

 服装に関して一番発達させたのはやはり西洋人や思います。
恥ずかしいけど我々日本人も(洋服)着てます。
例えば野郎のバヤイ、ワイシャツ、ネクタイ、背広、コートを着ます。
これが一番威力を発するのは(冬)ですね。
ズボンもそうかも知れません。
こんなもん夏場はまことに邪魔です。
全部汗を閉じ込めますからね。

 しかるに冬場となって寒風吹きすさぶ頃となると逆にこれほど安直に手短に(防寒)してくれる衣服はありません。
例えば日本の(着物)。
これ、寒い時は大変です。
腕やら足やら首筋やら全て(オープン)ですからね。
昔の日本人、寒い時は大変やった思います。

 コキントウさんはじめ、13億人の中国人だって(洋服)ですもんね。
ちなみに中国と日本とアメリカは同じ緯度帯にあります。
スペインとイタリアもね、前に老人日記に書きました。
ヨーロッパはこれらの国より(北)なんです。
(アメリカの白人たちはこの緯度と何の関係もありません)

 というようなことで、立春をすぎて、もうすぐ桜花やなと希望をふくらませつつある今日この頃です。

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1月30日 アラン・ケイのこと篇

 今日は女房の風邪がひどくなって繁寿司を休んだ。
繁寿司へ行かない日はハジケル気分になれず、この日記も湿りがちになる。
ハレとケという言い方がある。
一週間に一回の繁寿司はこの25年ほどずっとハレの気分にさせてくれた。
言うことのない魚介をつまみ、ビールと酒を飲んで親しいピープルと一時(いっとき)無駄話に耽る。
 繁寿司を出て、女房と分かれて喫茶店でシャンソンやらジャズやらを聴きながらコーヒーを飲む。
やがて買い物やらウィンドー・ショッピングやらを済ませた女房がはいってくる。
ロシナンテに一鞭くれて帰路につく。

 夕刻5時に家を出て、たいてい8時までには帰る。
この3時間がふうてんにとってはハレであり一週間のリズム・キーパーなのかもしれない。

ETV特集(京都賞)

 土曜日の教育テレビで京都賞の特集があった。
2004年(第20回)にアラン・ケイも選ばれたという。
アラン・ケイという人が出るよと風邪気味の女房に教えられて、録画しながら1時間半の番組を見た。

 京都賞というのがどういうものかよく知らない。
番組ではこの20年の間に賞した64人ほどの中から6人を選んでインタビューするという作りだった。
京都賞はノーベル賞が(独創性)を評価するのに対して(社会への貢献度)を評価するものであるとNHKのホームページでは解説している。

 アラン・ケイはどういう点が評価対象になったのだろうか?こういうマジメな番組はあまり見ないので、
普段使わない部分の脳細胞を使うことが要求され少し疲れたけど久しぶりに(知的興奮)に襲われたことも正直に告白しておく。

自動演奏ピアノを作ってはいけない

 ふうてんがパソコンの仕事に捲き込まれた1982年当時、あるパソコン雑誌に、こんなタイトルの記事があった。
 そのセリフを吐いていたのがアラン・ケイだった。
アラン・ケイ?
はて?どこのどなたさん?

 名前からするとフランス系のようである。
記事の内容は当時のふうてんには余り理解できなかった。
ただ名前のユニークさとコンピュータと音楽のことを語っていたので(アラン・ケイ)が印象に残った。
パソコンの生みの親の一人その後パソコンの仕事にのめり込むにつれ、ちょくちょく(アラン・ケイ)の名前に接するようになった。
やがてどういう仕事をしてきた男なのかということを知るようになった。

 ふうてんがパソコンに興味を覚えたのはLogoというプログラミング言語がきったけだったけど、そのLogoをたどっていく中でもアラン・ケイが登場した。
Logoを作ったシーモア・パパートもフランス系である。

 LogoをFMパソコンに移植する、というのが最初の仕事だったのだが同じころアップル・コンピュータ社が初代Macの試作機を同じソフトハウスに持ち込んでLogoの移植を始めていた。
そのMacのグラフィカルなユーザ・インターフェースのコンセプトはアラン・ケイのものだということも知った。

 ともかくパソコンに関してはハードについてもソフトについても常に(アラン・ケイ)がついて回るのであった。

アラン・ケイは演奏家でもある

 有名な伝説として彼は喰えない時代ジャズ・ギターでメシを食っていたという話がある。
どうもこれは本当らしい。
ある時記者のインタビューに答えてプログラミングと楽器の演奏は(手法)が同じなんですと答えている。

 これには傍証もあって我等が鎌倉大明神も同じで、バグのないプログラムを書く(手法)を体得された。
2年前裾野別邸で彼のギターを初めて聴いて本格的なのにビックラこいた。アラン・ケイの言うことを大明神は身を持って証明してくれた。

 NHKの教育テレビの番組でもアラン・ケイが自宅のパイプ・オルガンで演奏するシーンがチラッと出てくる。
何年か前に、やはり楽器はエレキよりアコースティックがいい、この頃私は自宅でコンサートを楽しんでいる、とのたもうていたのを知っていたけど、実際のその姿を映像で見ることが出来たのは貴重だった。

コンピュータはファンタジー増幅器?

 この番組で彼はパイプ・オルガンのキーボードに触りながらコンピュータも同じなんですよ、と言う。
オルガンが大きな音を出してくれるようにコンピュータは人の想像力の増幅器になって欲しい。

 この20年パソコンは容量や性能(速度)に関しては飛躍的に進化しました。しかし例えばテレビが見れるようになったとか、今までのメディアの置き換えにすぎない機能しか持てていないとも言えます。

 私はコンピュータの可能性はまだ十分に引き出されていないと考えます。
子供たちが学習出来る環境を用意するのは親の責任だと思うのです。私はコンピュータにその可能性を感じています。
時間はまだずいぶん掛かるかも知れません。
我々が生きている間に実現出来ることはほんの一部かも知れない。
 しかし、500年前、今のような時代がくると誰が想像したでしょう。希望を持って進んでいくことが大切だと私は考えたいのです。

ちょっと反省してしまった

 アラン・ケイのことを話し始めるとキリがないのでそろそろやめることにしよう。
 
しかしなんですなあ。
彼をはじめ(京都賞)受賞者の面々は長くやってますねえ。
20年、30年、いや半世紀もやり続けてうむ事を知らない、かに見えます。
この番組でその秘訣の一部をかいま見た思いがしましたな。
要は自分個人の一生、というサイクルでは連中考えていないようですな。

 確かに現役引退して(傘を張っている)身分ではある。
秋というよりも冬にさしかかっていることは確かである。
しかし、残り5年だからとか10年だからとか考えるのは余りにも儚い(はかない)。

 これまで自分を支えてきた行動原理があったはずです。
余命いくばくもなくなった、という意識が強すぎて、そのことをコロリと忘れていましたな。

 この番組見て、反省させられましたです。

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1月23日 たまにはフランス映画もいい篇

 1月も20日を過ぎると、こんなにも日差しが明るくなるのだろうか。
この数日妙に心が明るい(?)のでどうしたことだろうといぶかしく思っていたのだが、案外理由は簡単だった。
老人はどうしても太陽光線の具合に影響を受ける。

 日は長くなってきたのだけど大寒の頃だからして気温は低い。
今日は夕刻小雪がちらつき始めロシナンテを諦めてチャリで繁寿司へ出向く。
山口夫人と我々、客は三人。
ヨン様の韓流ドラマの話からはいってひとしきり映画の話に花が咲いた。

 映画といえば数日前女房の友達からジェラール・フィリップのビデオありませんかという注文があった。
リクエストに答える為にあれこれフランス映画を見直すことになった。
映画ファンでない人には退屈だろうけど今日は少し好きなフランス映画のことを話してみたい。

肉体の悪魔

 レイモン・ラディゲの小説がこの映画の原作である。
おそらく直訳だろうと想像しているけど題名がまことにすさまじいので恐れて近寄らない人が多いのかもしれない。

 この映画は1947年だとかでGoogleに聴くと、(17歳の高校生フランソワと年上の女性マルトの短くも激しい恋の行方。夭折の作家レイモン・ラディゲのあまりにも有名な原作を名匠クロード・オータン=ララが映画化。この一作でジェラールは世界中の女性の心をとらえ、映画史に残る不朽の名作とした。)とある。
 [ジェラール・フィリップ オフィシャル・サイトより]

 ジェラール・フィリップというフランスの俳優は36歳で死んだ。
フランスのジェームス・ディーンと言われるような存在だった。その彼の主演第三作目がこの作品である。

 ドラマは最初から最後まで予想外の展開をする。
その展開の一つ一つ、場面(画面)の一つ一つが映画ファンを自認していた当方にとって新鮮だった。
17歳のボクちんと21歳の婚約者のいる女の子の恋物語なのだけど、アチラの人はいざというとき、子供でもあり、大人なんですね。
 いわゆる(恋愛映画)というものを好まないふうてんなのだけど、ウンこれが恋愛なんだ、なんて気にさせてくれるお勧めの一本。

突然炎のごとく

 これは上の作品よりはかなり有名な映画ですわね。
フランソワーズ・トリュフォー監督、ジャンヌ・モロー主演。
1993年に録画したビデオを見ると(黒沢明が選ぶ世界の名画100本 第8弾)なんてある。黒沢明も好きな映画だったらしい。

 (ジュールとジム)というのが原作の題名である。
親友同士であるドイツ人のジュールとフランス人のジムが女王様であるジャンヌ・モロー扮するカトリーヌに、とことん引きずり回されるお話。
ヌーベルバーグの旗手の一人であるトリュフォーによってまたとない映像詩に仕上がった。

 男二人と女一人というのは絵になる。
女二人と男一人というのは絵にならない。
理由もなくふうてんにはそう感じられる。
その感じをこの映画は見事に映像化してくれていると見直すたびに思う。

 学生時代だったけど一番親しい友達に恋人が出来て同じ下宿にちょくちょく彼女が訪ねてくるようになった。
三人でよくいろんなところへ出かけた。
北山通りに新しいレストランが出来たので行ってみよう、今日は何とか部のダンス・パーティがあるので冷やかしてみよう、ちょっと三人で遠乗りしようか・・・・。
 ある夜、満月に近い日だったと思うけど、彼女を真ん中に三人で手をつないで散歩したことがある。
うららかな春の宵だった。
歩きながら、ここで俺は何をしているのだろう?彼女は友達の恋人ではないか?
しかしコレも悪くないなあ・・・とボンヤリいつまでも三人で歩いた。

死刑台のエレベータ

 ルイ・マル監督、ジャンヌ・モロー主演のこの映画もあまりにも有名である。
映画評論家でもないものが語るのは少しおこがましい。

 (太陽が一杯)でアラン・ドロンに対して旦那役を演じたモーリス・ロネがいい味を出している。
社長夫人役のジャンヌ・モローにそそのかされて社長を殺してしまいビルに残したロープを取り戻す為に乗ったエレベータが途中で電源を切られストップするところか
らサスペンスが始まる。

 役者もみんないいけど、音楽が凄い。
ジャズ・トランペッターのマイルス・デイビスが映画のラッシュ(未編集のフィルム)を見ながら即興で作り、演奏した音楽である。
ジャンヌ・モローが夫を殺したはずの恋人の姿を求めて夜のパリの街をさまよい歩くシーンに重なってマイルスの、悲しいようなむごいような痛切なトランペットが聴こえてくる。まるで二人の祈りのような。

 映像、音楽、人物のとらえ方などなどルイ・マルもヌーベルバーグの旗手として一時代を画した。
登場する車などにもふうてんは拍手喝采を送りたくなる。
一台はメーカは分からないけどスイッチ一つで屋根を開閉出来るオープンカー。
一台はベンツの300SLというドアがガルウィング式(左右に上に上げるように開く)の純粋スポーツカー。
この2台が高速道路でバトルするシーンをわざわざ写している。
映画というものは(見たいものを見せる)芸術様式である、という原点をルイ・マルという人は知っているな、と感心する。

舞踏会の手帳

 上3作と違ってこちらは古典的名作、巨匠ジュリアン・デュビビエの作品である。
デュビビエの手になる名作数々あれど日本ではやはり、(望郷 ペペルモコ)に止めを刺すでしょうね。
ジャンギャバンが手錠を掛けられたままナイフで自決するラストシーン。
我々映画のオールドファンには忘れられない一作です。
 この映画は夫をなくした妙齢のご婦人が何もかも捨てようと家を片付けていたとき一冊の(手帳)が出てくるところから始まります。
それは16歳のとき初めて出た舞踏会のときの(をとこ)はん達のリストなのですね。
 アチラでは16歳になると初めて舞踏会に出ることを許されるらしい。
純白のドレスに身を包んでドキドキ胸をときめかせながら望むわけです。

 そこでいろんな男性に出会います。
みんな(一生あなたを愛します)てなセリフを吐く。
(一生?)じゃあ訪ねてみよう、どないなってるのか。
ということでこのドラマはスタートするわけです。
 まあ、会う人会う人、不幸な(その後)の人生。
立身出世して子たちに恵まれて幸せ一杯、なんてのは一人もいやしません。
たいていは金に困って女房どのと修羅場を演じる、といった類。
それでも全員、君に会えたあのころを今でも夢に見るよ、本当に君は素晴らしかった、天使だった、なんて追従のセリフを忘れないのがフランス風でしょうか。

 リストも切れて、もはやこれまでと諦め掛けたとき、リストにはいっていないもう一方(ひとかた)いましたよね、なんて侍従風のが言います。
念のため、ということで意外と近いところにいるそこを訪ねると往年のボーイフレンドそっくりの僕ちんが港まで迎えに来ているのです。
(父は~年前になくなりました)
(あなたおいくつ?)
(16歳です)
それで夫人は引っ込み思案なボクを初めての舞踏会に連れ出します。
円環が閉じます。

主役は個人

 という風にフランス映画はあくまで個人が主役なんですな。
その人間があくまでも自分の個性を持って生きている。
非常に個人的な思いで行動する。
国家とか体制とか家族とか、確かにそれも大切なのだけど、もっと大切なのは一個人の生き方なのですね。

 そのことをみんなが分かっている。
自分勝手なもの同士の社会である、ということを理解しあっている。
教条主義の対極のような感じがします。
言われてみれば18世紀末にフランス革命なんてのがありましたね。
(市民)が(王宮)へ押しかけた、言いますからね。

 フランス映画を見るとそんなことも考えさせられます。

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1月16日 面白きこともなき世を篇

 朝日新聞の土曜版に(be)とかいってなかなか面白くて今日風の特集がある。
今回は高杉晋作の辞世の句といわれる例のセリフ、(面白きこともなき世を面白く)を扱っている。

 それによると元々は(面白きこともなき世に面白く)だったと書いている。
(世を)と(世に)の違いである。
高杉晋作の書いたものはもはや残っていなくて、伝聞でしかないけれど、もし(世に)だったとすると、少し遠慮が過ぎるような気もする。
逆に(世を)と言うと、少し厚かまし過ぎるのかもしれない。

 ふうてんがこのセリフを気に入って座右の銘にしていた心は(世を)と(世に)の中間当たりにあったのではなかろうかと、朝日新聞を読みながら考えさせられた。

ホー・チミン市は南か北か

 昨日はホストファミリー会でアリアさんとランちゃんが雪模様の寒い中、夕刻、我が家に集まった。

 今日はお母さんがベトナムに作ったタイ料理店のオープンの日です、とアリアさんが言う。
 ベトナム?タイ料理店?ベトナムのどこで?
と質問が集中した。
ええ、ホー・チミン市でベトナムの北の方です。
ウン?ホー・チミン市?北の方?
といくつかの疑問符がふうてんの頭に浮かんだ。

 ベトナム戦争の時代、南のサイゴンと北のハノイに両陣営は拠点を置いて対峙していた。
 ホー・チミンの拠点は勿論ハノイだった。
サイゴンが陥落してベトナム戦争は終わったのだけどそのサイゴンがホー・チミン市と名前が変わったことをまだ生まれていなかったアリアさんにはピンと来ないらしい。

 嫁さん、地図あった?
ということでガキの中学生時代の地図を取り出して、世界の地理と歴史の勉強会になった。
 世界地図を前に語り合うと、いやはや知らなかったことばかり。

細長い国ベトナム

 当たり前だけどサイゴンは南である。しかしハノイとサイゴンがこんなにも離れていることに地図を見ながらふうてんは驚いた。
 
 ハノイは北にあり中国に近い。
サイゴンは・・・・ここまでくるとユーラシア大陸というよりも南洋諸島に近い。
地図を皆で見ることによって、知らなかったなあと全員驚く。

 それにしても地図を見るとベトナム戦争の時はあんな細長いベトナムを巡る戦いだったからして隣のカンボジア、ラオス、近くのタイも巻き込まれざるを得なかったろうことがよく分かる。
 現にタイにはアメリカ軍の出撃基地があり、後々までベトナム人に恨まれたとアリアさんは言う。

アメリカ、日本、中国、イタリア、スペイン

 世界地図を見るとこれらの国々は同じ緯度圏にある。
フランス、ドイツ、イギリス、カナダはもう一つ北である。
ここでも全員、ひぇ~?と驚きの声を上げる。
フランス、イギリス、ドイツは北海道の宗谷岬よりも北にあるのであった。

 暖流があるからとか内陸部と海岸沿いでは違うよ、とかの声も聴こえたけれど、緯度が違うということは太陽の照り具合が違うということでもあって、それが精神にずいぶん影響を与えているのではなかろうか、
という点では意見が一致する。
(アリアさんが語学留学した夏のロンドンは11時まで明るかったと言う、その分冬は?)

 夏のバカンスで南へ行って太陽を浴びる、という風習はアメリカ、日本、中国、イタリア、スペインにはない。
 なるほどなあと、世界地図を見ながら全員納得してお茶やコーヒーで一休みする。

 その後ランちゃんの故郷である中国の話になる。
中国はあまりにも広大で、歴史があまりにも古くてみんなアレはどこだったっけコレはいつごろの話だったっけとボンヤリとした話になってくる。
 夕刻6時から10時までの4時間近く(世界地理)の勉強に耽ったのだった。

 これは高杉晋作の精神に学んでいることになるのだろうか?
(そんなんちゃうわ、という声が・・・)

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1月9日 スロー・ライフとか篇

 2005年、第一回目の繁寿司行きはさすがに震えた。
気温5度以下の晴れた日に屋根のない車、我がロシナンテで走る酔狂は、やめた方がいいのではなかろうかと思った。
ロシナンテには悪いけど。

 今日は山口夫人が文春の豊田さんと飲んでいるに違いないと思っていた。
行ってみると予想通りお二人がカウンターで飲んでいた。
これが正月なんだ、と、つい熱燗をいつもより多くおかわりしてしまった。

変わらぬことが愛でたいことだ

 このセリフを20年くらい前に聴いた。
ドイツ文学者の高橋義孝が朝日新聞の元旦特集に書いていた。
その時は、なんて年寄り臭い、と思いつつ、どういう意味なのか分からず、ずっと気になっていた。

 それから10年くらいたって少しずつその意味が分かるような気がするようになった。
変わらぬこと、となるものを持たないうちはこのセリフは成り立たない。
そしてその持てたものを保ちたい、永らえたいと考えないとこのセリフは出て来ない。

 やっぱり年寄り臭いセリフなのかもしれない。

スロー・ライフ

 ふうてんは一通も年賀状を書かない。
以前は正月も明けて、返事だけは出していたのだけどこの頃それもしなくなった。
年賀状は外務大臣に任せている。
 
 その我が外相への賀状で、スロー・ライフをお楽しみ下さいと書いてきたのが、ふうてんの目にとまった。
スロー・ライフ?
なんのこっちゃ?

 slowとは(ゆっくり)という意味のはずである。
slow life?
ゆっくりとした人生。
人生にゆっくりもあわただしくもあるものか。
なんのこっちゃ?

スロー・フライ

 その賀状のスロー・ライフという言葉からスロー・フライという言葉が連想された。
ジオデシックの栗田さんのホームページが確かそういう名前だったことを思い出した。

 同じラジコン飛行機をやっている人でJOさんがいる。
同じラジコンでも(より速く)を競うやり方もある。
同時に(より遅く)を競う方法もあるらしい。
ということをこの(slow fly)のホームページから学んだ。

スローだけでもねえ

 ふうてんは就職して会社勤めし始めたころ忘れられない体験をした。
電話をとって挨拶をするのは当時は新人の勤めだった。
ハイッ、~~です、と出来るだけ明るい声で答える。
一生懸命そう努めた積もりだった。

 ある日、何度目かの電話の相手から言われた。
(君、失語症と違いますか?)

 これはショックでしたね。
一応学校も出て、会社に就職して、まあいろんな人とも付き合ってきて、及ばずながらガールフレンドめいたのもいて、
大人になった積もりだったのに、(君、失語症?)

 攻められたら守らねばなりません。
ない智恵を絞りましたね。
よ~く考えて分かったのはコチラのしゃべりのテンポが遅い、遅すぎるのではないか、ということでしたな。

 ふうてんのネイティブ・ランゲージは伊予弁なのですね。
これがまことにテンポが遅い。
それがボヤボヤと関東に紛れ込んだ。
関東、江戸っ子、これはテンポが速い。
池波正太郎さんのしゃべりはビデオに残っていますが、ほとんど何をしゃべっているのか分からない。
一番遅いのが一番速いとこに紛れ込んだのですねえ。

クイック、クイック/スロー、スロー

 そういう(遅さ)で一敗地にまみれた当方は少し反省しました。
いくらなんでも俺のしゃべりは遅すぎるのではないか。
回りの人に迷惑なのではなかろうか。

 それで(早口)を練習するようになりました。
ちょうど日本では高度成長の真っ盛り。
イケイケドンドンの時代。
ゆっくりしゃべってたら置いて行かれる。
なら連中よか速ようしゃべったろやないか。

 幸いいろんな土地から来たピープルがいる会社だったので速いの遅いの、いろんな人と付き合うことが出来ました。
今は早口でも遅口(?)でもしゃべれます。
人間、特に野郎どもはどちらも必要なのですね。
短いクロックと長いクロックと。
彦さんの言うドッグ・イヤーみたいなクロックも必要だし、インドみたいな(500年変わりまへん)というような。

 彦さん、人丸どの、JOさん、(ダンス)習ったことあります?
クイック、クイック、スロー、スロー、ズンチャッチャ、ズンチャッチャ・・・・。

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1月3日 年末年始風景篇

 2004年から2005年へ。
0とか2とか小さい数字が多く、1999年などより軽い感じがして、だんだん数字が大きくなることが実感でき、21世紀初頭も数字的には悪くない。

 年末年始、何事もなく過ぎた。
山口瞳さんのお師匠さんだった高橋義孝が昔の朝日新聞の元旦特集に(変わらないことが愛でたいことだ)と書いていたことを奇妙にいつまでも覚えている。

 そういう意味では今年も(愛でたい)正月だったのかもしれない。

繁寿司の客、二人連れ

 2004年最後の日曜日、(Esola)でのハガキ絵展を冷やかしてから繁寿司へ行った。
 この(Esola)は山口さんちの近くにあり、喫茶店なのだけど主人が絵描きで小さな絵画展を時々やる。
山口さんの個展は何度も何度もあり随分楽しませて貰っている。

 そこでたまに(ハガキ絵展)というのをやる。
ハガキ大の絵の展覧会である。
今年の山口夫人の絵は色具合がまことに良く、感心して眺めていると店の奥から夫人が出てこられて話に付き合ってくれる。
 剣玉やら双六やらサイコロやらを扱った一枚が特に良くて、その絵の話にしばらく耽った。
残念ながら勿論(売約済)であった。

 この日は展覧会の打ち上げの日であったからして繁寿司に山口夫人は来ず、店に行くと客は誰もいなかった。
 しばらくすると声の大きな二人連れの客がはいって来た。
ふうてんはイヤな予感がした。

 年末の何かのセレモニー、イベントから帰りに寄った、という雰囲気だった。
7席しかないカウンターの真ん中に二人で座ろうとした。
(すみません、詰めて座ってくれますか)
と繁さんが、はじっこに座ってくれるように声を掛けた。
 やはり、とイヤな予感は膨らんだ。

(え~と、何かつまみに・・・サバがあるなあ、産地はどこ~っ?ノルウェ~産じゃないよね)

 ダメだよ、繁さん本気で怒るよ、そんなこと言ったら。

(それとアワビ、あれっ?コレ小さいからトコブシか、どこ産?)
繁さん、ムスーッとしている。
(それとシンコある、あれが美味いんだよ)
(シンコは今の季節じゃございません)
繁さん、やっと口を開いた。

ワサビ入り干瓢巻き

 それからも酒は何だアレは出来るか、コレはないかと問答が続いた。
やがて、二人連れの一人が手洗いへ立った時、繁さんが席へ来た。
(もう我慢できません・・・)
(まあここは抑えて抑えて・・・昔だったらとっくに追い出してましたねえ、繁さんもちょっとは大人になったのかなあ)
と10歳年上の彼をなだめる。

(僕は商大の出身でね、昔国立に住んでたんだ)
と、以前商科大学といっていた一橋大学出身を自慢する。
(一橋でしょう)
と繁さん、シラケ切りつつも一応客に調子を合わせる。

(嫁さん、彼はどういう職業だろうねえ、えらそう振ってネクタイ締めてるけど民間企業じゃないなあ)
(先生かしら?)
(いや先生じゃない、半官半民のほれ、外郭団体理事なんているじゃない、公団、公社、つまり官の関係の)
と今夜の主人公の職業を評定していた。

 やがて先に帰ろうとニギリ寿司一式を頼んだ。
運んできた繁さんの女房どのが小声で、
(すみません干瓢巻きにワサビを入れたそうです、よほど血がのぼっていたようで・・作り直しましょうか)
いやいいですよ、と言いつつ口に含んで・・飲み込むのに苦労した。

(嫁さん、家庭料理と一緒やね)
(何が?)
(女房が怒ると辛くなる、言うそうやで)

 ちなみに主人公の自己申告により(誰も聴かないのに)職業は公認会計士で事務所を経営しているという。
なるほど怖いもの知らずで非常識なはずだ。

新旧のシルクロード

 NHKの新シルクロードが始まった。
今年10回にわたり新旧を放映するという。
喜多郎とヨーヨー・マ、石坂浩二と松平定知(さだとも)。
25年の時を経てこの新旧の対決は見物である。
 2日の第一回目を見て今年の楽しみが増えた。
石坂ー松平対談で二人が口を揃えて絶賛していたけど、シルクロードの喜多郎の音楽は本当に素晴らしい。
 古い記憶を呼び覚まされるような・・・。

 シルクロードの拠点である楼蘭。
(不東、西へ)という人丸どのの言葉を思い出していた。

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