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2000年9月に作成された記事

2000/09/27

2000・09・27 おもろい男篇

 乱れるまま、積まれるままになっているふうてんの書棚から一冊の薄くて茶色に変色した文庫本が出て来たのでこの数日夢中になって読んでいる。

(まいど!横山です)という横山やすしの半生記である。

1981年8月15日初版、徳間文庫、とある。

そう言えば偶然の一致やけどこの本読んでた時に徳間はん死なはったんやて。

 

 ふうてんは喜劇人が好きなんですね。

硬派で眉間にしわ寄せてるタイプなのに何故喜劇が好きなのか?自問自答してきた。

喜劇というのはしんどい時にわらかしてくれる、そういう実感をまだ子供の時に体験したからかなあ、と多少は思い当たるフシもあるのだけど。

 

 そういう無意識の(笑い)に対する親近感、直観の時代があって、大学出てから後やったけど、意識して喜劇とは何か、笑いとは何かということを考えさせられた時代もあった。

そのお師匠さんの一人が小林信彦である。

彼は昔(中原弓彦)という名前で喜劇評論を書いていた。

ま、我が友(彦さん)と同じと言えば同じ名前ではある。

その中原弓彦からふうてんは(喜劇)に関するプロフェショナルな見方を学んだ。

衝撃的だったのは彼の(マルクス兄弟のおかしな世界)という本を読んだ時だった。

いま乱雑な我が書棚から取り出してみると(1972年12月25日、晶文社、1200円)とある。

1972年当時のふうてんの給料は~円で今の給料は?円やから当時の1200円は今の!円になるんちゃうやろか。

 

 この時学んだのは(スプラスティック)という言葉だった。

要は(喜劇)というのはそれに徹することが大切である、というのが中原弓彦説だった。

彼が何度も書いているけど何故日本の喜劇役者たちは最後には出世して真面目な役を演じるのだろう?演じねばならないのだろう?

それを切り口としてこの中原弓彦こと小林信彦は作家としての道を歩み始めたように思う。

 

 その彼が推奨する喜劇の世界の芸人たちがいる。

それはふうてんの言葉で括らせて貰うならば(おもろい男)ということになる。

案外おもろい人よ、とか結構おもろいよ、とかではない。

(おもろさで勝負したピープル)しかこの範疇にははいれない。

例えばチャップリンははいれない。

彼はおもろさで勝負した人ではないからである。

それよりもバスター・キートンだ、となる。

一番はマルクス兄弟だ、となる。

 

 その中原弓彦先生が日本の喜劇人に関しても何冊か書いている。

(日本の喜劇人)という総論の一冊から始まり、あとは藤山寛美、横山やすし、渥美清などの単行本が続く。

そういう彼の著作を追っ掛ける中で、ふうてんは自分なりに(おもろさ)ということについても学んだように思う。

 

 やっさん(横山やすし、と断るまでもないけど)の半生記を読んでいて一つ気付いたことがある。

やっさんは(今しかない男)だったのではないか。

一瞬、一瞬が勝負であって、昨日もなければ明日もない。

その彼の生き方こそが(お笑い、笑い)ということの本質と通じているのではないか。

昨日も明日もないからこそ、一時アハハとかワッハッハとか笑って人は寛げるのではなかろうか。

彼は文字通り昨日も明日もない生活をやったわけで、貯金もない将来展望もない、舞台に出た一瞬だけ輝いて、あとは全部その為にあるんや、だっとれ(黙ってね)。

で最後までつっぱった。

だから値打ちがあるんやろね。

 

 女房役のキー坊(西川きよし、と断るまでもないけど)は相方裏切って議員になってどないするんや。

中坊さん言うてはるやないの。

歴史の評価に耐えんならん、て。

 

 今しかない、ということに関してふうてんはちょっと思い出すことがある。

イタリアのフィデリコ・フェリーニの映画が好きなのだけど、彼の映画ではよくサーカスのピエロが登場する。

いろいろ見て、ふうてんはある年代になって考えた。

ピエロて自分の過去、現在、未来あるんやろか?

いつも同じ扮装してる。

そうやったんや、ピエロには時制がないんや。

今しかないんや。

そやし化粧せんならん。

 

・・・・・ん?

化粧?

白粉?

筒井どん、いつ先斗町へ連れて行ってくれるんや?

祇園でもええけど。

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2000/09/24

2000・09・24 シドニーオリンピック篇

 日曜の朝日新聞に吉本隆明が以下のようなことを書いていた。

巨人の優勝が確実となりひいき目に見ていた阪神の最下位が確定的になったところで、あっさり、シドニーのオリンピックの方に浮気眼を移してしまった。

・・・・。

 どうも私は無意識の部分でナショナリズムになってしまって、サッカーや女子のソフト ボールの試合でいつのまにか日本を応援していた。

 

 みなさんも思い当たるフシがありませぬか。

ふうてんも柔道とサッカーと女子マラソンはこの吉本先輩と同じような気持ちで見ていたようだ。

ヤワラちゃんが勝った時うちのガキが(有言実行)ということをいつ覚えたのかしらないけどすぐに口にしたと女房が驚いていた。

 

 サッカーにしても随分強くなりましたなあ。

世界でベスト8というのは大したもんで、日本人(昔の草食人種)はサッカーに向いていないとふうてんは思っていたのだけど、ミッション&ゴールがハッキリしていれば人間かなりやれるものなんだ、と考えさせられた。

 

 少なくともシドニーオリンピックに出ている選手たちは今の日本の政治、経済の世界にいる老人たちよりはマシだと思った。

政治、経済でも若い、意思を持ったピープルが輩出してこないとねえ。

それを育てるのは誰の役割か?って。

そやったなあ、(と回りをキョロキョロ見回して)、そやったねえ。

企業勤めしている人間は経済には責任あるなあ。

何千億円もの不良資産作って尻拭いは(税金)でお願い、というのだけは避けたいなあ。

 

 オリンピックというのはいろんなことを考えさせられますね。

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2000/09/20

2000・09・20 スコット・ラファロ篇

 諸氏の中でジャズが好きなお人は・・・人丸どのくらいかも知れない。

人丸どのと神戸でメシを喰うと最後は(ジャズクラブ ソネ)でライブを聴く、というのがこの数年の習わしになった。

 ふうてんは大学一年の頃からだけどジャズを聴くようになった。

まあジャズばかりでなくフラメンコも映画音楽もクラッシックも可能な限り聴いた。

あの情熱は何だったのだろう?

当時は5月頃に、きっと新入生目当てだったのではないかと思うけど大学構内で何故か中古レコードの大安売りが行われていたものだ。

 

 レコードは中学生の頃からなけなしの小遣い銭で買った方だったから無関心ではいられなかった。

それでそういう(市)が立つ度に、やはりなけなしの小遣い銭でいろんなレコードを買うハメになった。

まあクラシックは作曲者や曲名をある程度知っているからよしとしよう。

 

 問題はジャズでしたね。

曲名も演奏者もまるで分からない。

カタカナばかりだしね。

当時はディキシーランド、スウイング、モダンなどの分類すら知らなかった。

エリントン、カウントベーシー、ちっとも知らなかった。

知っていたのは映画で有名だったアートブレーキーくらい。

(危険な関係)のテーマ曲としてアーキブレーキーの曲は高校生の時から聴いていた。

 

 それで大学一年、18歳の夏休みくらいまでにいろいろ訳分からないままにジャズのそういう安売りのを買い込んで聴き始め、ついでに本も読んで研究を始めた。

日本の油井正一、ドイツのベーレントから多くの事を学びましたね。

結局今までもこのお二人の書物から学んだ事を超えることはないくらいにね。

 

 夏休み松山に帰ってジャズ喫茶に通う頃にはもういっちょ前にセロニアス・モンクのピアノはいいなんてお店のママさんと話せるくらいにはなっていた。

その夏休みに松山の銀天街というアーケードの中にあった中古レコード屋さんで買ったレコードの一つがビル・エバンスの(アンダー・カレント Under Current)だった。

ビル・エバンスという白人のピアニストとやはり白人のジム・ホールとのデュエットをベースとしたレコードだった。

そのレコードでマイ・ファニー・バレンタインのビル・エバンスのソロを聴いた時、ふうてんは背筋が寒くなった。

 

 ジャズというのは音楽演奏の中でも独特のスタイルを持った音楽形式であって、特にソロを即興演奏でやるところに最大の特徴がある。

後年ふうてんもいろんなジャンルの音楽を聴いてそういうのがジャズだけではないことを知るのだけど、このレコードのこの曲でのビル・エバンスの即興演奏には人を慄然とさせるものがありました。

 

 少し長いフレーズをソロでやり始めるのだけど、あるところでジャンプするんですね。

そのジャンプする瞬間は何度聴いても背筋が寒くなる。

以来もっと凄いのがあるはずだとジャズのあらゆる年代のあらゆる演奏を友だちと一緒に可能な限り漁りましたね、大学時代。

 

 最近このビルエバンスはやはり聴きなおすことが多い。

彼のソロのベストは?というとやはりふうてんが大学一年の時聴いた上記の曲なのだと思うけどトリオのコンビとしてスコットラファロという素晴らしいベーシストと組めた時期があった。

 

 このスコット・ラファロというのは白人でビル・エバンスと組んで、ふうてんの知る限りでは3枚のレコードを残している。

Portrait in Jazz

Waltz for Debby

Sunday at the Village Vanguard

の3枚である。

 

 スコット・ラファロのベースの特徴は(彼はギターのようにベースを弾く)と言われたことに全て表されていると思う。

伴奏楽器としてのジャズにおけるベースという存在に飽き足らずメロディラインまで頑張っちゃう。

サントリーのコマーシャルでいい味を出していたロン・カーターなんてのは(ベースはベースよ)とドッシリ構えて持ち場を守る事の中にアイデンティティを発揮した。

しかしラファロはそれでは我慢出来なかったのだろうとふうてんは思う。

 

 リズム、サウンドとしての低音部、は勿論引き受けながらビル・エバンストリオでのラファロはメロディラインでもエバンスと対等に勝負しようとするんですね。

そのことがエバンスにも刺激を与えて異様な緊張感がみなぎってくる。

あとはポール・モチアンというドラマーが二人の成り行きを見守るしかなくなる。

 

 このトリオのこの3枚をCDで改めて聞き直しているのだけど(何でレコード買って次ぎにCD買わんならんのやろ?)、この歳になるとこの3枚の録音された順番というものがハッキリと分かるんですね。

 

 1枚目のポートレイト・イン・ジャズでは明らかにビル・エバンスがリードしている。

彼のソロも精彩を放っている。

ラファロは受け身で兄貴をたてるのが精一杯。

 

 2枚目のワルツ・フォー・デビイでは、これが全く対等になる。

どちらが主役なのか全く分からない。

火花を散らすようなバトル、かつコラボレーションが展開される。

それをそそのかすようなポール・モチアンのドラムまで一瞬うわずって興奮したりする。

 

 3枚目のアト・ビレッジバンガードとなると、もうラファロが支配権を持っている。

従って全編ラファロペースになり何となく何かが足りなくなっている。

昔は分からなかったのだけど今聞き直すと物足りない。

(よく調べると上記下の2枚は同じ1961年6月25日の録音だった)

 

 このスコット・ラファロはこのトリオで凄い演奏を残してこれからという時に交通事故で死んじゃった。

上のビレッジバンガードでの録音の数日後だったとか。

24歳。

ジェームス・ディーンみたいに。

1961年というとふうてんは15歳だった。

冒頭で書いた中学校3年生頃に田舎松山の銀天街で500円/月の小遣いを握りしめて古レコード屋さんを漁ってベートーベンの(運命)やらを買って狂喜しつつチャリを漕いで帰っていた頃、アメリカではこんな凄い演奏を(飲み屋)でやっていたのね。

Village Vanguardは神戸のソネみたいな不倫カップルだらけの飲み屋なんです)

 

 ふうてんは思うのだけど同時代人というのは特別な意味を持つね。

同じ時代の空気を吸った、なんて云い方もあるよね。

文学、音楽、絵画、映画なんでもこちらが呼吸している時に敵も生きていて同じ空気を吸っていた、というアーティスト達にはふうてんは特別の思い入れがある。

 

 そういう意味では夏目漱石よりは池波正太郎さ。

ゴッホより棟方志功だし東山魁夷よ。

今はそういう名人達が彼岸へ渡っちゃってちょっと寂しいけど宇多田ヒカルなんてネーチャンも出てくるしね。

出来不出来はあるけど彼女の(音楽性)はちょっとしたもんだ。

一代ではなし得ない根深いものを感じるね。

 

 てなことで、モダンジャズの黄金期に一筋の光芒を放った(スコット・ラファロ)をよろしく。

 

 追伸

 

ルネッサンス後期の(ラファエロ)は画家です。

お間違え無き様。

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2000/09/17

2000・09・17 雷神篇

 この土日の雷は凄かった。

土曜日は朝の6時頃から夕刻7時過ぎ迄鳴り続け、落ち続けた。

12時間以上も雷が鳴り続けるというのは初めての経験だった。

家の回りでドシンッ、ドシッ、メリメリメリッと何度も何度も落ちた。

救急車なのか消防車なのかも2~3回出動していた。

 

 シドニー・オリンピックを見ていたら、やはり停電した。

以前、雷で衛星のアンテナのセンサーがやられたことがあるので、これでアンテナをやられたら当分シドニーの衛星放送は見れない、なんて心配する。

 

 昼間なのに真っ暗でゴロゴロピカッとやられ続けたら、昔の人はきっと不安だったに違いない。

あんまりしつこいので思わず現代に生きるふうてんも、こりゃあお天道さまの恨みだと真剣に思った瞬間があった。

雷雨が次々と襲ってくると何だか相手が意思を持っているように感じられる。

学校へも買い物にも飲み屋へも行けず一家そろって終日閉じ込められた。

 

 どうもまだ菅原道真の鎮魂は終わっていないようである。

道真が死んだ後京都には雷雨が降り続き藤原一族に次々と不幸が襲う。

日本初の(雷神)は道真のようで、それから~天神という神社が作られるようになったのだろうか。

そう言えば国立にも谷保天神(天満宮)という古いお宮がある。

繁さんはそこで結婚式をしたそうだし山口瞳さんの記念碑もある。

 

 まだまだ貢ぎ物が足りないようだ。

魂を鎮める奉納物が足りないようだ。

正直に告白するとまだ谷保天神にお参りに行っていない。

来年の元旦には行ったほうが良さそうだ。

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2000/09/15

2000・09・15 台風14号篇

 我々日本人にとって台風は一種の風物詩なのかもしれない。

ふうてんは四国の愛媛なので、言わば台風の通り道の一角で育った。

梅雨明けの月半ば~後半頃から第1号が来始めて、まあ20号以上は余り記憶にない。

 

 早い時期は大抵左(西)へ曲がって中国大陸に消える。

半ば頃日本を直撃するようになり秋風が吹き始めると右(東)へそれる。

秋になると偏西風が強まり太平洋の熱帯性高気圧が弱まるからだろう。

今も西の方に居すわっている14号のように左へ行きたいのか右へ行きたいのかわからない迷走台風は以前は極めて珍しかった。

やはり異常気象なのだろうか。

 

 季節がどうなろうと人間様も生きて行かなくてはならない。

毎日、今日はどういう苦難があってどういう得る事があるのだろう?と考えるようになってきた。

この歳になると毎日会社やら家庭やら何やらで必ず(問題事)が起る。

その日起らなくても解決すべき未解決の(問題事)を抱えて生活している。

朝起きてヒゲ剃ったりトイレ行ったり頭洗ったり歯磨いたりしているうちにジワジワとそういう問題に(対決)する勇気が湧いて来る。

 

 外着に着替えて女房に(行ってくるよ、今日は一品かな)などと言って家を出て歩き始めるといつも山城屋へ単身乗り込んだ梅安になったような気がしてこの世に怖いものはないんだ、一人で立ち向かう気力さえあれば、なんて一瞬まるで江戸時代の時代劇の主人公になったような気分になる。

 

 そのとっつぁんが電車に乗り会社に着き夕刻(凶り時 まがり時)を迎えていかに情けない姿、心情に陥るかはきかんといて欲しい。

例えば昨日は夕刻飲み屋のマスターに招待券を貰ったので代々木八幡の青年座で芝居に付き合わされた。

 昔人丸どのと大宮だったか宇都宮だったか飲み屋のネーチャンの芝居に付き合ったことがあったけど全く同じような芝居で1分で出たくなったけど席を立つと怒られそうな雰囲気なので何と2時間も我慢した。

入り口で(ビール売ってないの?)と聴くと(飲食禁止です)なんて答えたので近くのラーメン屋でギョーザとビールを注入しておいたのはせめてもの幸いだった。

 

 終わってヘトヘトに疲れて小田急に乗り下北沢で下りた。

筒井どんも一緒じゃないし今夜(木曜日)は樋口可南子の日でもないけど、いつものイタリアンの店へ行ってマスターを冷やかしペペロンチーノを喰おう。

それで東南アジアのどこかの国に来たような感じのする下北沢で降りて、我がイタリアン(めるか~と)に入ると樋口可南子がいた。

考えてみれば彼女もイタリアンでバイトしつつ(芝居)をしているのだった。

休みの前日なので曜日を変えて今日来て貰ったとマスターは言う。

その作戦は当たったようでふうてんがはいった頃から間もなく店は一杯になった。

 

 ふうてんは白と赤のグラスワインでペペロンチーノを平らげ、う~ん樋口可南子と言うよりも(和製ジャンヌ・モロー)かも知れんなあと考えつつ早々に(めるか~と)を辞した。

ジャンヌ・モローはふうてんが最高に好きな女優なのである。

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2000/09/11

2000・09・11 秋風の季節なのに篇

 太陽はあきらかに傾いてきているのにこの温度、湿度はたまらない。

どうも日本列島は本格的に(亜熱帯)の地域になってきたようだ。

亜熱帯の地域で(物を考えろ)と言われてもそれは難しい。

それは歴史が証明してますわね。

 

 今日は久しぶりに土、日と何もせずに十分に睡眠をとって夕刻ロシナンテで繁寿司へ出向いた。

毎週の行事なのだけど毎週こちらの体調やら精神状態やらが違うので、同じ結果が得られると安心は出来ないのである。

土、日と全く何もせず寝っころがっていたおかげで今日は上(じょう)の部だった。

 

 何が上だったかと言うと、酒や肴を美味しく感じ、いつものピープルと会話が楽しめ気持ちが明日に向かっていた。

もと文藝春秋の編集長だった豊田さんも来ていて10月に京都で向田邦子展があるので機会があれば是非、とパンフレットを貰った。

10月末頃には今年も(松茸の土瓶蒸し)を彦さんと喰えるのだろうか。

山口瞳さんは異常とも思えるくらい向田邦子のことを書いている。

それは私を怒らそうと思って言っているのね、と山口夫人に言われてしまった。

 

 帰って(知ってるつもり)という日本テレビの番組で辻静雄を見た。

大阪阿倍野の(辻調理師専門学校)を作った男である。

彼の名前は開高健から知った。

番組でもやはり最後に開高健との対談番組の映像が出て来ましたね。

 

 辻静雄の(ワインの本)はふうてんにとっては座右の銘となっている。

この本を読んで初めてフランスへ行ってみたいと思うようになった。

フランスには東西南北いたるところにワイナリがあるので、どうも時間が掛かりそうだということも分かって来て、現役を引退してから、と決める事もこの本のおかげで決心出来た。

開高健も辻静雄も昭和一桁生まれで申し合わせたように同じ頃60歳くらいで死んだ。

 

 ワインと言えば先週末にJOさんに六本木のワインガーデンに付き合って貰った。

ナパとオーストラリアのカベルネソービニオンを飲んだ。

やっぱりナパの方が数等上でしたね。

もう一本ブルゴーニュの美味しそうなボトルが目についたので飲もうと思ったのだけど(次回にしようよ)とたしなめられて諦めた。

 

 これはピノ・ノワールだけど美味しそうだった。

マスターに小声で値段を聴いたのだけど、こちらの懐具合は気にせず、じゃ次回用に取っておきますよ、なんて言いつつラベルに何か書いていたようだ。

しばらくはこの店でワイン修行をしようと決めている。

ワインなんて複雑怪奇な世界はやはり(案内人)が必要だと思うのでね。

 

 秋風とも言えないけどそれでも朝夕、フッと涼しい風が吹くようになった。

暑さで惚けていた脳味噌の野郎が少し働き始めたと感じるのはふうてんだけだろうか。

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2000/09/02

2000・09・02 異邦人再び篇

 週末に多摩ニュータウンのCSK情報教育センターへ行って来た。

多摩ニュータウンの永山団地地区にあり、ふうてんが1971年の新婚当時親しんだ場所である。

都合8年も多摩ニュータウンにいたけど、isolatedな感じが嫌で国立へ逃げ出した。

 

 そのCSKの教育センターの中にある7Fのサロンからの眺めは素晴らしい。

ふうてんの住んでいる西多摩地区が一望出来るし丹沢山系の向こうに富士山すら姿を現していた。

でもなあ、とふうてんはそこに住んだ30年近い前の事を思い出していた。

あの時も関東や会社仕事に馴染めず(異邦人)だった。

30年後、やっぱり(異邦人)ちゃうやろか?

と。

 

 じゃあ京都時代はどないやったんや?

う~ん、やっぱ(異邦人やろね。

じゃあ生まれ故郷の四国の愛媛の伊予にいた時はどうお?

う~ん、嫌やったね、その閉塞感が。

子供の頃向かいの山の向こうは(海)に違いないと憧れていたもんね。

それが(海)でないことを知った当たりからふうてんの(喪失感)は始まったのかなあ。

その山から太陽が登って瀬戸内海に沈んでいたのよ。

 瀬戸内海の向こうはどうなってんだろう?には不思議と興味を覚えなかった。

西国浄土でもあるんやろ、と思わされていたのかなあ。

でもお日さんの出る山の向こうはどうなっているのか?は誰も教えてくれなんだ。

海やろな、とかネーチャンがウロウロしていて華やいだ場所やろな、とか子供心に想像は膨らむばかりやった。

 

 ツー事は即ち伊予にいても(異邦人)してたんとちゃうやろか。

CSKの教育センターの7Fから多摩の丘陵地帯を望見しつつ、やっぱ54過ぎても俺は(異邦人)なんや。

会社の連中とも合わん。

自分の邦を作る力もない。

フランスからアフリカやらアラブに行って、(何かちゃう)、と狂ったカフカみたよなもんや。

 

  しかし(異邦人)というのはよう出来た言葉やね。

疎外感というものの実感がよく表されているように思う。

フランスにはアルチュール・ランボーなんてのもいたなあ。

20歳代で詩作をやめてアフリカの荒野で商人になっちゃった奴。

ふうてんのお師匠さんである谷崎翁に言うと笑われるやろね。

砂漠の砂より明石の鯛の炙ったのが旨いよ、と。

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