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2000年7月に作成された記事

2000/07/30

2000・07・30 三都物語篇

 関西へ行って来た。

明石工場の門から研究所の建物まではいつも一汗かく。

今年初めてのセミの声を聞き、油蝉とクマ蝉の姿を確認出来た。

 

 人丸どのが車を持って帰ってから神戸へ行きましょうと言うので久しぶりにスープラに宗像くんと乗せて貰った。

高速道路を車間距離を余り取らずに走っても何の不安もない。

ロシナンテとはえらい違いやなあと思ううちグリーンスタジアム近くのお家に着き、奥方にビールを御馳走になった。

この奥方の関西弁(大阪弁?)がふうてんは好きで聞くといつも楽しくなる。

 

 神戸の夜はジャズクラブの(ソネ)でフィニッシュと決まっている。

いつものトリオにサラリーマンみたいなオッサンのアルトサックスだった。

2曲目くらいにボーカルのお姐さんが加わる。

ふうてんは、ああこの人、前にも聴いたなあとすぐ分かったのに人丸どのは初めてだと言う。

う~んうまい、とかベースとのデュエットには緊張感があったとかしきりに彼女の唄を人丸どのは褒める。

 

 ふうてんには彼女の歌よりも彼女の別嬪振りにまいったのではないかと思えた。

確かに綺麗な魅力的な歌い手だった。

 

 京都では彦さんの葛野研究所を訪ねた。

ちょっと時間があったので京都駅からタクシーで(京都国立博物館)へ寄った。

ふうてんは坂本竜馬のことをあまり知らないのだけど書には興味があった。

あやうく平安神宮近くの(京都近代美術館)へ行くところだったけど、フト不安に思い電話で確かめるとやはり違って三十三間堂の北側にあった。

行ってみるとあの当たりの広がりのある通りの印象がよみがえって来た。

 

 最近見つかった手紙をきっかけにした竜馬展だった。

書簡(有体に言うと手紙)が8通ほどあった。

どれも巻紙で想像よりも細い筆で書かれている。

いわゆる(書)の大家の大げさな書とは違って細い実用的な筆を使って決してふんだんには無かったであろう墨を付けて書いていることが歴然と分かる。

そういう手紙だから字もかなり小さい。

当たり前の話で相手が読めればええんやからね。

 

 その手紙はしかし大したものだった。

伸びやかで自然で柔らかで美しい。

上下左右の空間の感覚がよろしい。

桂小五郎の長い手紙も竜馬のと並べて展示されていたけど、こちらはちっとも美しくなかった。

文は人なり、書は人なり、ということを考えさせられた。

 

 葛野研究所では彦さんのお嬢ちゃんに会った。

東京のA社に就職が内定したとかで京都から江戸へ移るに当たっての心得を教授願いたいとの仰せであった。

このお嬢ちゃんは大昔彦さんのお家で何度か会っている。

何度目だったか泊めて貰って翌朝トーストが出た。

いつものような食べ方をしようとすると、オジさんそのバターの塗り方ちゃうよ、と言われた。

仕切りたがり屋のおしゃまな女の子だった。

そのお子が就職する年齢になった。

 

 京都ではホテルフジタに泊まって(めなみ)でハモを喰わねばならない。

今日は内定祝いやから任せといて、と彦さんが言う。

ふうてんは割り勘にしたかったのだけど、そやねその方がお祭みたいで楽しいねと任せることにした。

(めなみ)ではハモの切り落としと岩ガキを喰った。

大きな見事な岩ガキだった。

フランソワでコーヒーを飲み松葉でソバを平らげて彦さんと京阪三条で別れた。

 

 さて、暇やし蒸し暑いし足は自然と(京都弁を聴けるお店)へ向かった。

彦さんも(???)JOさんも何度か会った事のあるカナさんが今でも祇園の飲み屋にいるのである。

電話もしてなかったのだけど幸いカナさんはいた。

いつものようにウィスキーのストレートを飲むうちコーヒーを飲みたくなった。

出前でよかったら、というので近くの店から届けてもらう。

私もコーヒー好きなんです、とその飲み屋の若いママさんが言う。

錦市場の近くに住んでるんやけど近くにおいしいコーヒー屋があると言う。

挙げ句に、じゃあ明日そこでコーヒー飲みまひょか、という話になった。

 

 翌日、四条通りの(たち吉)で待ち合わせた。

ホテルフジタを出る時彼女に電話して10分後くらいにと約束した。

ふうてんはこの歳になってもネーチャンと初めて待ち合わせる時はドキドキする。

(本当に来るのかなあ?)と不安になるのである。

10分くらいたった。

来ない。

20分たった。

まだ来ない。

そういえば、と昔学生時代喫茶店で待ち続けてネーチャンがついに来なかったことなどを思い出す。

しゃあないなあ、カッコ悪いけど念のため電話してみるか、とカバンから電話機を出して掛けてみる。

・・・・・・。

どうも(たち吉)に着いたら電話してすぐ近くやさかい、という約束だったらしい。

3分ほどで彼女は現れた。

着いたら電話して、という最後のセリフを聞き逃したらしい。

ふうてんも耳が遠くなったようだ。

 

 錦市場の北側の彼女の行きつけの店でコーヒーを飲んで南側のイタリアンで夏野菜リゾットとペペロンチーノでビールと赤ワインと白ワインを飲んだ。

彼女はカナさんの娘さんなのである。

同じ京都弁でも古風な名残を留めているお母さんとモダンな娘っ子のそれとではやはり大分に違っていて面白い。

四条通りでタクシーを拾って別れたけど別れ際サッと握手を求めたところなども昔の京女には無かった風習だと思う。

 

追伸

 

 彦さんから、瘋癲老人日記というのは谷崎の小説の題名そのものやからアカンと言われた。

ふうてんも人真似のようでマジイなと前々から思っている。

気分としてはピッタリなんやけど著作権違反やなあとは思っていた。

何かエエ名前ないやろか。

国立日記と筑後川通信というのでメールをやり取りしている友だちはいる。

国立日記じゃちっとフラット過ぎるしなあ。

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2000/07/23

2000・07・23 In The Heat of The Night篇

   全く暑い。

繁さんからの帰り、夜の8時を過ぎているのに熱風に近い。

オープンカーは車の内と外というものがないのでそのまんま。

思わず(夜の大捜査線)のIn The Heat of The Nightというレイチャールズの主題曲が浮かんだ。

(嫁さん、そんな曲があったよなあ、あれ映画の題名でもあったような)

(ウン、そんな気がする)

(英語ってこういうドンピシャリの表現が出来るよなあ)

(単語の組み合わせだからかしらね)

 

 繁さんで久しぶりに会った山本夫人は京都からの帰りだったけど、京都では38℃だったと言う。

今週末にふうてんも京都を訪ねる予定だがちょっと気が重くなった。

 

 土曜日にロシナンテを診て貰いに国立技工(ぎこう)へ行く。

例のオイル漏れがひどくなったからである。

女好きのイタリア人みたいなちょび髭の兄貴の方はさすがに暑いのか事務所で裸になっていた。

(どうしました?)

(ちょっとオイル漏れがひどくなって・・・)

(ああアレはオイルパンのドレイン・コックのネジが限界なんですよ)

 

 弟君が、

(ちょっと増し締めしてみようかなあ、でもズルッといっちゃうと嫌だしなあ)

(こういうサイズのドレイン・コックはこの頃の車では少なくてベンツくらいでねえ。まずそれを探して後はネジを切り直してパッキンは・・・・)

 

 この技工さんで診て貰うと答えはすぐに出る。

すぐには出るのだけどロシナンテくらいの年齢になると、どこまで直すかでチョイスがいろいろある。

ボンネットを明けて我が主治医が、あと心配なところは・・・と何だか思い当たるフシがあるような表情で言う。

 

 (どっちが先か競争ですわ)

 

 そうちょび髭のお兄ちゃんに言ってロシナンテをユーターンさせて別れた。

 

追伸

 

 今夜のオールスター戦は人丸どののお膝元の神戸グリーンスタジアムである。

イチロー君が4安打も打ったので人丸どのビールが旨かったに違いない。

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2000/07/16

2000・07・16 梅雨が明けたような篇

 もう梅雨が明けそうですね、と繁さんが言った。

今日は本当に暑かった、とため息をついている。

客の前で(ため息)つく主人もないもんだ、と文春の豊田さんがクレームをつけるのだけど豊田さん巨人が調子いいもんだから顔がほころんでいる。

 

 先週は(ダーティ・ハリー)に驚き、久しぶりに吉本隆明を読んだ。

ダーティ・ハリーはもう何度も繰り返しみているけど、BS2でやるというので又しても見てしまう。

最近は横長の画面で両端がカットされない放映が多い。

それをこちらの横長テレビでズームして見るとそれなりに映画館のような雰囲気で見られるのである。

 

 1971年の作品だけど、監督ドン・シーゲル、主演クリント・イーストウッド、音楽ラロ・シフリン、撮影ブルース某とみんな40歳前後の働き盛りだった。

1時間45分くらいという長さがまずよろしい。

タイトル・バックの屋上プールの狙撃シーンからおしまいまで全く無駄がない。

全編ハードボイルド・タッチでそのピークはフットボール場での犯人とキャラハン刑事のやりとりに表されている。

ナイフで刺しマグナム銃で一発お見舞いした血だらけの犯人の脚をキャラハンがムギューと踏みつけて(監禁場所を白状しろ)と迫るシーンである。

 

 吉本隆明というのも一種(ハードボイルド)な作家かも知れない。

60年~70年の安保闘争を通じて当時の学生たちのカリスマの一人だったという。

ふうてんが彼の事を知ったのは書物を通じてだった。

最初はその硬質で難解な文体に抵抗を感じた。

こいつは小林秀雄より読みにくいなと思った。

(言語にとって美とは何か?)(擬制の終焉)(共同幻想論)(心的現象論序説)などなど。

 

 彼の作品に惹かれたのはその論が今まで聞いたことのないユニークで独自なものだったからだ。

知識ではなく知恵を感じさせられた。

大昔太宰治と会った事もあるらしいのだけど、君無精髭は剃れよと言われた、とそのことで太宰治を非常に尊敬してしまう。

ともかくふうてんはこの吉本隆明に(言語とは何か?)ということと(人間の関係性)について随分学んだ。

 

 人間には三つの関係しかない、なんてのも彼から聞いたように思う。

一つは自分自身との関係。

一つはペアの関係、つまり性的な関係。

一つは第三者を含めたつまり社会という関係。

 

 ダーティ・ハリーといい吉本隆明といい古いのばっかし、とフト悩むこともある。

しかし、と先週気付いたことがある。

じゃあレオナルド・ダビンチはどうなんだ?と。

あんな大昔の(最後の晩餐)や(モナリザ)を人々は見て感動するじゃないか。

バッハはどうなんだ?

漱石だってもう100年は前の人だぜ。

 

 古いものを好んで読んだり見たり聴いたりしてはいけない、とは言えないよな、と自分を納得させている。

芸術や哲学というのは古いか新しいかより(旬)というのがあるんじゃないかな。

例えばダビンチだってルネッサンスという中世の宗教の長い抑圧期からの変化の時に花咲いた一つのムーブメントだった。

第二次世界大戦後の20年程はやはりそういう時代だったのではないかと思う。

戦争期に抑圧されてため込んだエネルギーが一挙に解放された。

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2000/07/12

2000・07・12 17歳の少年へ篇

 ミレニアムという記念すべき世紀に日本では17歳が荒れている。

九州からバスジャックして一人包丁で殺したのがいたと思っていたら野球部の後輩をバットで殴り、ついでに母親を殺して自転車で北海道へ15日間で1000キロ走ったのがいる。

日本人の心の闇は深いと思わざるを得ない。

 

 これ程の滅多にない事件を目の当たりにすると、いくら酒と色(何の?)にふやけてしまった瘋癲老人の頭も少しは考えを巡らさずにはおられない。

特に岡山の少年が北海道を目指して自転車で走り続けたという話にはまいった。

何故北海道だったのか?

中学校の修学旅行で小樽、札幌で楽しい経験をしたからそこへもう一度行きたかった。

 

 ふうてんだって17歳の頃はあった。

楽しい記憶が(修学旅行)にしかなかったのか??

なんていうかわいそうな少年なんだろう。

野球部では(後輩)にいじめられていたという。

家ではお母さんにプレッシャーを掛けられていたという。

そんな奴はコンビニの弁当喰ってゲームボーイで楽しんで本屋でマンガを立ち読みして自転車で走り続けるしかないじゃないか。

 

 こいつのオヤジは何をしていたんだ。

 

 いえ、うちのオヤジは90歳で居候してますけどね。

トッツァンさすがにこの頃少し弱って来た。

どうも行く末の覚悟をしてきたらしい。

女房が言うには食事を減らして欲しいと言い始めたようだ。

この間困ったことに東京新聞に五木寛之が昔の年寄りは最後は食事を減らして体を枯れ木のようにして準備したもんだと書いていて、女房が言うにはそれをお父さんシッカリと読んでいる、と言うのである。

それが証拠にあれを減らしてくれこれを減らしてくれと言い始めている、とか。

 

 ふうてんはたまたま両親の死に付き合う巡り合わせになっている。

これは全くたまたまであって誰もがそうしなくてはならない、という種類の話ではなくて状況が許したからそうなっただけの話ではある。

しかしこんなことをやったお蔭で人間が死ぬるとはどういうことなのか、の一端を経験出来ているような気もする。

 

 バットで殴り殺すのも辛いかも知れない。

しかし出来るだけのことをして(ゆっくりと)死んで貰うのも辛いことなんだ。

バットで殴り殺したら後何が残るのだろう。

北海道へ自転車で走るしかないのか。

修学旅行の思い出を辿るしかないのか。

じゃあお前さんはどういう風に死ぬる積もりなんだ?

 

 ゆっくりと死んで貰うという経験で学ぶのは、死は次の世代の為に必要なんだということかも知れない。

同じ時代を生きた人に死んで貰いたくはない。

しかし次ぎなる世代にはその世代の(よしなしごと)がある。

ここに老人がいる。

ここに自分では何も出来ない赤子がいる。

両方の面倒は見られない。

じゃあ、という局面を大昔から動物は経験してきたはずだ。

 

 17歳の少年たちよ。

もう2、3年長く生きても良かったのだよ。

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2000/07/09

2000・07・09 君は東山魁夷を見たか篇

 金曜日台風3号が東京を直撃するというので真っ直ぐに帰宅した。

台風で家に閉じ込められるとなると何か面白い映画でもみたいな、と会社においてあったシェーンとかセブン・チャンス(バスター・キートン)とかのビデオテープを持って。

 

 先週は久しぶりに人丸どのとゆっくり話す事が出来た。

水曜日だったか例のニコタマの蕎麦屋で会った。

フレンチの店で美味しいワインでも、とふうてんは誘ったのだけど人丸どのはこのところフレンチとか懐石とかの気取った食物よりラーメンとか焼き肉とかの下賤な食い物の方がお好みのようで、いや昔からその癖はあるのだけどなんせ出世しちゃって年寄りとばかりメシを喰っているからどうしても高級なお店で食事をすることになり小汚いラーメン屋かなんかでキムチで一杯飲み、タンメンかなんかでお腹を満たす事に餓えているとお見受けした。

 

 それで目的通りニコタマの店でハルピン・キャベツで一杯やってニシン蕎麦で満腹した。

よせばいいのに、何故かその日は人丸どのがワインでもいきますか?と言う。

六本木のワイン・ガーデンはもう時間が過ぎているので代官山へ行った。

最近この店にフランス出身のソムリエみたいなのが居つくようになって、どうもふうてんはゾッとしないのだけど、この日も彼がいた。

 

 せっかく人丸どのがワインでも、と言ったのでそれなりの物をと思ってブルゴーニュのマコンという銘柄を選んだ。

これが外れだった。

試飲(?)の時ふうてんは、これは香りがなさ過ぎると言った。

その日はジェントルマンである人丸どのは文句言わなかったけど数日後の電話であいつは詐欺師とちゃいますか、高い鼻をテイスティング・グラスの中へ入れて(スパイシー)と言ったけど、スパイシーというのはワインでは褒め言葉なんやろか。

スパイシー言うたら日本語で言うと唐がらしの味となるはずや・・・・。

次回人丸どのをワインの店へ連れていく時は気いつけなアカンと思った。

 

 台風一過の今日日曜日国立は晴れて人通りが多かった。

繁さんから帰ってNHKの教育テレビで東山魁夷の番組を見た。

昭和46年、魁夷63歳の時に唐招提寺の障壁画に挑むとあった。

当時ふうてんは多摩ニュータウンで新婚生活を送り始めたばかりだった。

以来彼の画集は何冊も買ったしカレンダーも使ったし本も代表的なものは読んだ。

番組でのピークはやはり昭和20年8月の熊本での心象風景でしょうな。

戦車に爆弾を抱いて飛び込むみたいな部隊で死ぬための訓練ばかりやらされていたある日、熊本城跡から阿蘇山の外輪山の山並みを見て心打たれるんです。

死を覚悟していて初めて素直にその風景の美しさが心にしみこんだ・・・・。

 

 戦後彼は画家としての名声を得るのと並行して肉親を次々と失います。

結局天涯孤独の身となって、奥さんはいるのだけど子供には恵まれない。

現世でのあれやこれやではない画業の世界に全力投球出来た所以がここにもある、とふうてんは思う。

 

 もう4~5年前になるけど夏休み日本橋の高島屋かなんかで東山魁夷展があった。

それを見に行ってビックラこいたのは唐招提寺の障壁画が全部展示されていたことだった。

それはふうてんにとって得難い経験となった。

額縁に飾られた小さな絵がいかにも卑小なものに見えてくる。

壁画というのはその点でも普通の絵画とは違うのかも知れない。

東山魁夷の唐招提寺障壁画はまことに見事だった。

 

 近いものと言えば大昔京都の近代美術館かなんかで見た法隆寺金堂の壁画の再現(修復?)展だろうか。

これも額縁という小さな空間に閉じ込めれられない大きなものだった。

レオナルド・ダビンチの(最後の晩餐)なんて見てみたいような気もしてくる。

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2000/07/02

2000・07・02 エレキ・ペットを聴いた篇

 今年の梅雨はかなり本格的で土曜日が8週間連続して雨だったと言うから恐れ入る。

それでも今日は珍しく晴れているのでロシナンテの油漏れを見て貰いに(国立技工)さんへ行ってみようと思っている。

あのスケベェなイタリア人みたいにちょび髭を生やした兄弟は元気だろうか。

 

 夕べ新百合で近藤等則(としのり)というジャズトランペッターの演奏を聴いた。

諸兄はジャズプレーヤましてや日本のプレーヤのことは殆どご存じ無いと思う。

ふうてんも最近の人は殆ど知らないがこの男のことはテレビで見たりして気になっていた。

どうもふうてんと同じ愛媛県の出身でふうてんの大好きなマイルス・デイビスの崇拝者らしいのである。

 

 夕刻8時過ぎにふうてんのいる新百合のアーシスビル1Fのプライム・ローズという店でそのコンサートは始まった。

エレクトリック・トランペットというのは便利なもので一人でやれるんですな。

イフェクターみたいな箱とミキサーと安物のCDプレーヤとペダル2つとJBLのスピーカ1セット。

それっきりである。

 

 それでものすごい演奏を繰りひろげた。

JBLのスピーカは4425というモデルだったけど30センチのウーファーはかなりの迫力で彼の演奏を支えていた。

イフェクターは何枚かのボードが内蔵されており、今のデジタル時代だからデジタルのメモリがある風で何秒かのディレイを可能としていた。

何秒かのディレイという事は自分一人である程度の重奏が出来ることを意味する。

 

 小一時間のセッションが2回あって、酒を飲んだりお喋りをしたりする時間になった。

ファンの人たちとひとしきり時間を過ごすのを待ってふうてんも彼に話しかけた。

マイルス・デイビスの自伝を持っていたのでそれにサインをして貰うことから話は始まった。

 

 愛媛の今治(いまばり)出身ということは知っていた。

今治はふうてんのおふくろの出身地でもあるのである。

来島海峡の来島の向かい側の大三島出身であった。

驚いたのは京都の大学に通っていたらしくふうてんより二つ年下なのだけど、どうも百万遍当たりを同じ頃にウロウロしていたらしい。

工学部にはいって文学部に転じたそうだけど、軽音楽部だったので西部講堂のある西部構内の北側に彼のいる軽音楽部の部室、南側にふうてんのいた自動車部の部室があったことになる。

 

 彼は今オランダと日本半々の活動だと言う。

プライム・ローズのマスターによるとヨーロッパでは人気ナンバーワンのジャズマンの一人だそうで一回のコンサートで250万円は取れるそうな。

そんなコンサートをヨーロッパで年に10回くらいやっているとか。

 

 その彼に何故ヨーロッパなの?と聞いてみた。

アメリカ人は仕切りたがる。

パソコンもそうとちゃいますか。

アジア人はいがみ合い過ぎる。

日本人と朝鮮人だって仲良くやればいいのに何故かいがみ合う。

その点ヨーロッパだと仲良くやれるんです。

 

 7月の末にはMt.Fujiのジャズコンサート(川口湖畔)、来年6月には厳島での世界平和コンサート(ダライ・ラマ主催、ミックジャガーも出るそうな)などを予定しているので是非足を運ばれよ。

 

 オヤジさんもオジイさんも鍛冶屋だったという本田宗一郎みたいな男だった。

四国の田舎の中学の時ブラスバンドでトランペットを覚え、鍛冶屋の息子故大学は工学部の(精密機械)へ行ったもののペットへの愛着が強く独学で世界で通用するジャズマンになっちゃった。

 

 コンサートの夜自宅に帰ってInfoNavigatorで調べると184件ヒットした。

明日以降彼の書いた本やら出したCDやら演奏活動振りを調べてみよう。

久しぶりに故郷の話、学生時代の話、世界と日本の話、そんな話を現役バリバリの同世代のミュージシャンから聞く事が出来てこの蒸し暑い梅雨も、いささか閉塞ぎみの日常も一瞬どっかへ行ったようだった。

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